第12話
さて、今日は金曜日。すなわち料理研究部の活動日である。
「今日も来るの?」
美香夏さんが荷物をまとめながらぽつりと言う。
「はい。それに、部長さんと顧問さんのサインも貰っておきたいところですね」
「ああ。もう、決めたんだ」
バッグを肩に回して立ち上がる。ボクも自分の椅子を机に納める。
「はい。よろしくお願いしますね」
「ん。でも、部長はいいと思うけど、二皆先生は一日じゃ捕まらないと思う」
「二皆先生……」
聞き覚えのない名前だった。少なくとも、ボクたちのクラスの授業は担当していないはずだ。てっきり家庭科の千駒先生がやっているものかと思っていたのだけど、考えてみたらあのかたは非常勤なんだっけ。
「三年の化学の先生。なんだけど、いつもどこにいるのかわからないって評判」
「職員室か、化学準備室か、くらいじゃないんですか?」
「ううん。探しても探しても、学校のどこにもいないって」
「二皆先生は幽霊か何かなんですか?」
まるっきり怪談の調子だけど。
「まあ、実際はどこかにはいるんだろうけど。とにかく、その気になって探して一週間で見つかればいいほうだと思っ……」
「幽霊じゃないですよぉ……」
「ひっ!?」
万年氷床の底から響いてきたみたいな声に思わず肩が震え、くるりと身体を音源のほうに向けていた。かろうじて腰の後ろのナイフに手をかけるまでは我慢できた。
そこには、本当に幽霊かと見まがうほど顔色の悪い、やせぎすの男性が立っている。薄汚れた白衣がまた雰囲気を増長するのなんのって。
「こんにちはぁ……君が萩原さんか……探してたけど……君のほうも僕に用事があるみたいですね……」
「あ、え、はい。二皆先生ですか? ボク、料理研究部に入部したくて」
「あぁ、いいですよ……僕のサインがいるんですよね……紙を、こちらへ……」
おずおずと用紙を差し出すと、受け取った二皆先生は油の切れたロボットみたいな動きでぎくしゃくと腕を曲げ、どこからか取り出してきたバインダーの上でサインを済ませる。
「うん、これでいいですね……部活、楽しんでくださいね……僕はあまり顔を出しませんから、部長さんたちの指示にはよく従うようにね……」
「ありがとうございます。ところで、ボクを探してたっていうのは?」
「あぁ……それ……ただ、転入生なんて教師生活で初めてだったから、どんなものかと少し気になっただけ……会えただけでもう十分ですよ……杞憂杞憂……そんじゃ……」
ふらふらと心配になる足取りで二皆先生の背中は廊下を遠ざかっていき、階段のところでかくんと折れて見えなくなった。ボクは呑み込みそびれていた生唾をようやく嚥下する。
「ほ、本当に幽霊みたいなかたでしたね」
「まあ、そうね……でも、会えてよかったね。向こうから来てくれるなんて、なかなかないことだよ」
「あはは……調理室、行きましょうか」
さて、そんな一幕を経て、ボクたちは調理室に向かったのだった。
がらりと扉を横にスライドすると、入ってすぐ近くにいた澪さんが笑顔で迎えてくれる。
「お、今日も来てくれたんか」
「はい。ボク、ここに入部することに決めました」
「おぉーそらめでたいなぁ。手巻き寿司でもお赤飯でも作りたいとこやけど、今日のメニュー鯖の味噌煮なんよなぁ。再来週あたり、期待しとってや」
「い、いえ、お気遣いなく。それで、申請書にサインをいただけたらと」
「おっけー……っておお!? 二皆先生のサイン、もう貰っとるんや……珍し」
あ、やっぱそういう扱いなんですね。
「はい、これで完璧や。改めてよろしゅうな、萩原ちゃん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
固く握手を交わしたのもつかの間。澪さんはぱっと部員の皆さんのほうに向き直り、いなせな声を上げる。
「さあて皆ァ! この度、いま話題の美少女転校生こと、萩原優さんが、我らが料研に入部してくれはるようなりました。仲良うしたってなー」
「二年、萩原優です。皆さん、よろしくお願いします」
うん、さすがに教室で一回経験があるからね。もう乗り遅れないぞ。
「えー! カワイー!」
誰が発した声だろうか、その声を御旗に女の子たちがわらわらと僕の前に集まってくる。あれ、デジャヴ。
「萩原さん、この間も来てくれてたよね?」
「萩原先輩の髪、すっごいさらつや……」
「え、えっと……」
無数の手に弄ばれながら、なんとかボク側からは触れないように手をよけつつ、どうしたものかと思案する。
澪さんが止めてくれるのではなかろうかという一縷の希望は空しく潰え、というか澪さんまで頭撫でてこないでください!
いよいよあっぷあっぷしてきたところで、突然一方の手の動きがぴたりと止まり、そのままさざ波のように勢いが引いていく。
「そ、そんじゃ、これからよろしくね。何でも聞いてね。それじゃ!」
「え、あ、はい。よろしくお願いします」
どうしたんだろう、急に。ずいぶん冷や汗な感じの表情をしていらっしゃったけれども、と、どうもその答えはボクの背後にあったらしい。
深い深いため息に振り返ると、美香夏さんが眉間を指先で揉んでいるところだった。ああ、なんとなく察する。美香夏さんが睨みでもしたのだろう。
「愛想振りまいてばっかりだからこういうとき困るんじゃない」
「あはは。でも、美香夏さんほど無愛想なのも駄目だと思いますけど」
「次は助けないからね」
「ありがとうございます。美香夏さん」
「……ん。ほら、調理の用意して。私は器具を持ってくるから、そっちは前から材料持ってきて」
「わかりました」
とはいったものの、班ごとに用意されていた材料はサバとしょうがだけだった。あとの調味料はみそも含めて自分たちで計量するようだ。
うーん、しかし持ち寄りではないところに地味にすごい財力を感じる。まあ、僕の感性は小学生のかていか止まりだから、案外中高生の調理実習はそうでもないのかも……いや、やっぱここが特殊なんだろうな。
小皿に調味料の類を量ってボクたちの机に帰還する。
「お待たせしました」
「ん」
「全然待っとらんー」
「あ、今日は澪さんもいらっしゃるんですね」
「新入部員ちゃんをかわいがらなと思ってな」
「はは、ありがとうございます……」
ボクはもうこの学校にいる限りこういう運命なんだろうか?
「大丈夫。包丁は私の手にある」
いざとなったら刺すって意味?
「はいそこー。刃物でふざけるのはあきません。誰に花嫁修業つけてもろてるか忘れてしまったのか?」
「私の包丁捌きも師を越えるときってこと」
「包丁捌き言うんは料理の腕の話やろ!」
「あはは。美香夏さんにも友達はいたんですね。ちょっと安心しました」
「聞いてる? 私いま包丁持ってるけど」
いやまあ、ボクはたとえ切りかかってきたとしてもふつうに制圧できますけど。エージェントなんで。
「まあ、友達っていうか、腐れ縁だけど」
「嫌やわそんな不細工な呼びかた。ウチらな、中学も一緒なんよ」
「へえ。中学生のころの美香夏さんって、どんなだったんですか?」
「そらもう、モテモテやったよ。いまも見た目は超絶美人やけど、むかしは性格までピカイチやったもん。しょーもない告白にまる一日かけて断り文句悩んだりしてな」
「いらない事を喋らないで。下ろすよ」
より本気っぽくて怖い。
「ま、美香夏ちゃんをいじめるのはこのへんにして、ぼちぼち始めるとしますかね」
澪さんがサバのパッケージを剥がしているのを横目に、ボクは黒板に書き出されたレシピに目を通すのだった。
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