第92話:バルタザール、医師を目指す
ラシェにて。
いつものようにクリームたっぷりのココアを飲むバルタザールさんにぽつりと聞かれた。
「人界で医者になるにはどうしてるんだろう。知ってる?」
わからなかったので、すなおに首をふっておいた。
「さあ。やっぱり弟子入りするんでしょうか」
「そっか。うーん……」
バルタザールさんはなんだかむずかしい顔でココアを飲む。珍しい。
ココアを飲むときは
「いつだって何者にも邪魔されないで甘さを楽しむんだ」
ってへにょへにょの顔で言ってたのに。人界での医者のなりかたがそんなに気になるんだろうか。
うーん。そういえば……。
「あ、でも、エルトシカの隣に医術? 学問? に特化した国があるってオルフェオから聞いたことがあるような気が……。ラシェで取れる
「確認してみてくれ!」
わたしの言葉を聞いてバルタザールさんの瞳がいつになく輝いた。耳もシャキーンとのびた。
あの、
「さあ、はやく! なんなら連絡蝶を貸すから!」
「わかりましたから落ち着いてください」
バルタザールさんへの手紙を書いてる間中、ずっとわたしの背後をうろうろしているバルタザールさんはとてもうっとおしかった。
「もしかしてリチェッカ=デチオーネって国かな? その国なら俺も聞いたことがあるぞー」
「返事がくるまでおとなしくしてくださいよ?」
「わかってるさ」
バルタザールさんのウキウキソワソワはオルフェオからの返事が届いてからも続いた。もう少し落ちつかないと、そのうちしっぽがちぎれますよ。
「ほら、はやく! 読んで読んで!」
幼児か。
オルフェオから届いた手紙の封を開ける時点でこれだった。と、いいますかバルタザールさんも人界人語を読めるでしょうに。
「ほらやっぱり! リチェッカ=デチオーネだった!」
「はいはい。ヨカッタデスネー」
手紙にはバルタザールさんの知りたかった答えのほかにもいろいろと書き添えられていた。
リチェッカ=デチオーネ学術国は、まだ魔界との交流が少ない人界の中では比較的取引の多い国で、医術だけではなく、魔術や天術、科学と呼ばれる新しい学問も研究されている学術国家であるらしい。
国というより自治帯という扱いで、魔界に近いエルトシカ隣に一か所と、天界に近い地域にも一か所、それからルデイア公国のイレニティア近くにも一か所、活動場所を設けているらしい。……王都で見たかなあ?
学問だけやっていて国が立ちゆくものなのだろうか。トッキョというものでお金は稼いでいるようだけれど。
最終的にわたしから奪い取った手紙をバルタザールさんがすみずみまで読みこんで、大きくうなずいた。
「よし。勉強しに行く」
「ちょっと待ってください」
ココアのヒゲを自慢するときよりもキリッとしていた。本気度が高い。
「止めてくれるな。魔界一の医者に俺はなる」
「ちょっと待てって言ってるでしょうがこのユキオオカミ」
いつもは氷より冷えてる頭の持ち主のくせに、一回ゆだると止まらないなこの人。
幸い、冷水をあびせるまえに落ちついてくれた。よかったよかった。
「自分が抱えてる仕事を思い出してください」
「……あ」
「今だって手いっぱいあれこれやってるんですから、そのうえ留学するのはむりですって」
「うーん」
「魔王軍顧問が留学するってのいうのも問題があるでしょうし」
「それは、まあ」
「バルタザールさんの代わりがつとまる人がいるんですか? 少し仕事をふりわけた部下のみなさんがひいこら言ってるって聞いてるんですけど。というか実際にひいこら言ってるのを聞いたんですけど」
「……いないね」
「そうでしょう? あと、わたしの護衛っていう名目でラシェにいられることを忘れないでくださいね」
「……それもそうか。君に言われるとは」
どういう意味ですか。いえ、説明してくれなくてもいいです。
ちびちびぺろぺろとココアを飲みすすめながら、バルタザールさんはこわくないほうの唸り声をあげて考えこむ。
ちくちくマントを刺しゅうしながらしばらくその唸りを聞いていた。
「じゃあウドに行かせよう。生物学に興味あるって言ってたし」
「医術と生物学ってびみょうにちがいませんか」
「大丈夫大丈夫。ウドはけっこう耳も目も良いし、鼻もそれなりに利く。血を見るのも平気だし、体も丈夫で、怪我にも強い。人界語もけっこう覚えてきてる」
「血は平気でしょうねえ……。うーん、見るからに肉食! ってことはありませんか。人界人を相手にするなら見た目も必要になってくると思いますけど」
そう。残念ながら、どんなに心のやさしい魔界人でも見た目が怖ければ怖がられてしまうのだ。魔王さまのように。うう、悲劇。
「ああ、それも大丈夫。最近肉食を止めたらしい。血生臭さはまったくないよ」
「見た目の話をしてたんですけど、それはそれでだいじょぶじゃないですね」
「そうなのか?」
「体に必要なものはたいてい美味しく感じるものなんです。だから食もすすむわけです」
「ほうほう」
悲しいかな、不要なものも美味しく感じてしまったりもするんだけれど。
「なので、急に食事の好みが変わったのなら、体調に変化があったか、精神的なもののせいか、ってことがあるんです。だからウドさんも体か心になにかしらあったのかもしれません」
「なるほど」
バルタザールさんが思案顔であごをなでる。
ちなみにヴィーカが寝こんだときはよくそうなった。たとえばふだんは苦いとさけていた食べ物をおいしく感じたりとか。わたしは疲れているときにはレモンを多めにたらしてもレモン水が美味しく感じた。
「体を壊していないかきちんと見てあげてくださいね」
「わかった。留意しておく」
それからリチェッカ=デチオーネとやりとりをして、ウドさんの留学が決まった。ウドさん以外にも募集で志願してきたイーヴォさんとエルマさんも留学することになっている。
リチェッカ=デチオーネは魔界から魔鉱石の輸入量を増やし隊らしく、ずいぶん協力的だったようだ。魔界に建てる予定の学問所の建設にも協力を申し出てくれて、年が明けたらさっそく下見に来るそうだ。教師も派遣してくれる話しも出ているとか。しかも志願者が続出しているらしい。
……なんだかバルタザールさんとよく似た研究狂いがたくさん集まりそう。
バルタザールさんといえば上機嫌でリチェッカ=デチオーネとのやりとりをしている。
「イレニティアの近くにリチェッカ=デチオーネ最大の学問所があるんだって。向こうでは学園って言うらしいんだけど、すごく研究機材が充実してるんだってさ。いいなあ、一回くらい見学に行ってみたいなあ」
チラチラと見られても今回ばかりは空気を読むわけにはいかなかった。
だって、行ったら最後、そこに永住しそうなんだもん。
「そうなんですかー。すごいですねー」
「……一回くらい見てみたいなー」
「ウドさんたちに頼んで魔術具を持ち歩いて見せてもらいましょーか」
「………直に見たいなー」
「あきらめてくださいねー」
「………」
けっきょくバルタザールさんがリチェッカ=デチオーネに足を踏み入れたのは、この話をしてからからずっとあとの、魔王軍顧問を引退してからのことだった。
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