閑話その1 御厨美冬の昔話

将棋は嫌いだ。

アタシは将棋に全てを賭けていたのに、将棋は答えてくれなかったから。


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 若葉の頃の話。


「美冬ちゃん! 髪染めたんだ! 銀色で格好いいね!」

「どーもっす」

「ところで将棋部に入らない?」

「いいっすよ」

「でもでも、将棋ってすっごく面白くって、美冬ちゃんは頭も良いしきっと向いてると……あれ? 今入るって言ったの?」

「入らなくていいんすか?」

「本当に!? やったあ! 部室に行こう! すぐ行こう!」

「ちょっ、引っ張らないで! 布留川!」


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 人によって認識の違いというものがある。Aという事象に対して、ある者はAはXだったと言い、またある者はAはYだったと言う。Zだったと主張する者もいるだろう。

 将棋部においても同様の現象が起こることがある。

 アタシ、御厨美冬を将棋部に勧誘したのは誰なのかという問題。

 布留川は自分だと思っていて、それは全く正しい。阿僧祇さんは佐々良先輩だと思っていて、それもまた正解である。佐々良先輩は肇ちゃんだと思っていて、それは流石に間違いな気がするけど、本人は真剣にそう信じている。

 ぶっちゃけ別に誰でもどうでもいいのだけど、仮に部員それぞれの認識がどれも事実であるのなら、随分質の悪い連中に巻き付かれたものだと思ったりもする。


 これも若葉の頃の話。

 アタシは初めて例会を休んだ。ただ休んだだけではない。仮病を使ってサボタージュした。

 明確な理由は思い出せない。つらつらと言語化できるようなものではなかったのかもしれない。だけどその当時アタシが考えていた色々なこと……高校進学による環境の変化とか、伸び悩んでいる成績とか棋力とか、一向に捗らない研究とか、いつまでたっても勝負所で日和りそうになったり、あるいは勝負すべきでないところでムキになったりする自分のしょうもなさとか、奨励会を去ることになった先輩のこととか、そういった諸々をひっくるめて思ったのだ。

 ダルいなぁと。

 それでまあ、普段なら将棋を指している時間帯に、アタシは街をぶらつくことにした。後から考えると例会をサボったことなんかより、一番の間違いはこれだったかもしれない。ただし、これは来たるべき時が来ただけで、それがたまたまその日だったというだけの話でもある。

 単純な話なのだ。

 街に出ました。

 時間はあります。お金もいくらか持ってます。

 さてどうする?

 アタシは分からなかった。

 こういう時、普通の高校生というやつはどうするのだろう? どうしているのだろう?

 街には色々な人達が歩いている。大人も子供も、アタシと同年代の学生達も、皆どこかに向かって歩いている。

 ではアタシはどこに行けばいいのだろう。

 まるで何も思いつかない。

 急に迷子になってしまったような気分だった。

 よく見知った場所を歩いているつもりだったのに、不意にまるで知らないところに立っていることに気づいたかのような、そんな感じ。

 実際のところ、そうなのだ。

 アタシはこういう時にどうするものなのかまるで分からないことに、ほんの数分前までまるで自覚がなかった。

 友達はいない。遊びも知らない。流行の曲の一つも歌えない。

 アタシにあるのはただ一つ、将棋だけだ。

 その将棋を今日はサボった。

 だって指したくなかったから。そういう日だってあるでしょ。

 たまには羽根を伸ばして……しかしやることがない。

 アタシから将棋を除けば、こんなにも空っぽだったのか。

 そしてその、今のアタシのほとんどを満たしている将棋だって、正直……。

 寒気がしたのを覚えている。

 奨励会には年齢制限の規定がある。満二十一歳の誕生日までに初段、満二十六歳の誕生日を含むリーグ終了までに四段になれなかった場合は退会となる。

 厳しいようだが、プロになれる見込みがなければなるべく若いうちに違う道を探せるようにという優しさでもある。

 規定の年齢、二十六歳までまだ十年以上はある。

 だけど。

 アタシはもう、手遅れなのではないだろうか?


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 適当に入った美容室で髪を染めてみた。

 目立たないような大人しい色にしようかとも思ったけど、どうせやるならと思って銀髪にしてやった。

 普段大人しい奴が思いきるとろくなことをしないらしい。

「あー……」

 似合うか似合わないかでいうと、とても似合っていた。

 ある意味、ではあるけれど。

 生まれつきの目つきの鋭さも相まって、どこからどう見ても不良である。

 即座に戻そうかとも思ったけど、それはそれで癪だ。

 将棋から離れてみたアタシが最初にやってみたことなのだ。容易く失敗だったとは認めたくない。

 考え方を変えよう。

 これはこれで分かりやすくていいかもしれない。

 こうこう、こういう理由で何もかも嫌になりました、なんてアタシ自身にも整理して言語化できる気がしない。こうして銀髪で、ついでにピアスでもつけていれば、アタシが下手くそな説明をしなくても最低限の主張は伝わるだろう。

 あとは、どうしよう。髪も染めたし、もう本屋でいいか。

 そんなことを考えて店から出た時、

「ねえ、ちょっといいかな?」

 と、誰かが言っているのが聞こえた。アタシに言っているとは思わなかったのでそのまま通り過ぎようとしたら、今度は後ろから軽く肩を叩かれた。

「え?」

「そう、あなた」

 長い黒髪の、如何にも優等生然とした娘だった。アタシより背が高くて、普通に美人。同じ制服を着ているけれど、雰囲気から上級生らしいことが分かる。

 どうも店の外でアタシを出待ちしていたらしい。

「何か用っすか?」

 我ながら声を掛けづらい外見になったと思っていたばかりだったのに、いきなり出鼻をくじかれた感がある。

「えっと、いきなり話しかけられてびっくりしたよね。私は佐々良沙羅、あなたと同じ学校の二年生で」

「そーっすか」

「待って待って!」

 スルーしようとしたが、食い下がられる。何なんだ一体。

「私、将棋部の部長をしていて、今部員を募集中でね」

「は?」

 まさかここで部員の勧誘? この先輩はTPOという言葉を知っているだろうか。

「アタシは部活に入るつもりはないっすよ」

「え、でも校則でこの学校は何かの部活動に入らないといけないんだよ?」

 そうなのか。知らなかった。

「将棋、指せるでしょ?」

「一応は……」

 何で知ってるんだ。怖いぞこの人。

 アタシの内心を余所に、先輩は嬉しげに微笑むと両手をぽんと合わせた。

「じゃあぴったりだ。将棋は好きだよね?」

「いや、嫌いっすけど」

 自分でも驚くほど滑らかに返事が出た。

 そうか、アタシは将棋が嫌いなのか。

「あれ、そうなの?」

 佐々良先輩が目を丸くする。

「もううんざりなんすよ。盤も駒も見たくない。もう将棋なんて二度と指したくない。将棋なんて始めたからアタシは、こんなつまらない人間になっちゃったんすよ。他のことは何もやらなかったのに、普通の子達がやってる普通のことをアタシはやらずにやって来たのに、その将棋も中途半端な才能しかなくて」

「…………」

「だからもう将棋はいいんすよ。そういうのは本当の天才達でやってればいい。アタシはもういい。元から向いてなかった。アタシは将棋を指すべき人間じゃなかったんだ」

 言う必要のないことを言っているなと途中から思った。何の事情も知らない先輩にこんなことを言っても何が何やらだろう。つまりこれはただの八つ当たりだ。

「そういうことっすよ。分かったっすか」

 もういいだろう。髪を染めたのに、結局何もかも喋らされてしまった。

「うん。分かったよ」

 最後まで聞き終えて、佐々良先輩は穏やかな声でそう言った。

「じゃあ、指さなくていいから将棋部に入ろう!」

「はああ?」

 なんかもう、意味不明だこの人。

「うーん、何て言ったらいいのかな」

 流石におかしなことを言っている自覚はあるらしく、佐々良先輩は苦笑した。

「多分ね。あなたみたいな人のために私達はこの学校に将棋部を作るんだと思うの。だから一度来て欲しい。将棋部は文化部棟の奥にあるから、ね?」

 自分の言いたいことだけ一方的に言って、佐々良先輩は「じゃあね」と言って去って行った。

 残されたアタシは本当に、嵐に遭ったような気分だった。


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「~♪」

 珍しく沙羅が鼻歌を歌っていた。余程機嫌が良いらしい。

「何か良いことあったのか?」

「うん。部員がもう一人増えそうなの」

「へえ」

 それは確かに朗報だ。将棋部が部活動として認められ、部費を頂戴するのには五人の部員が必要なのだが、今はボクと沙羅と布留川の三人しかいない。四人目の追加は大きい。

「沙羅が勧誘したのか?」

「ううん、肇ちゃんがやったんだよ?」

「ボク?」

 手当たり次第に勧誘しまくったのは確かだが、実際に入ってきたのは布留川みりん一人だけで、他に手応えがあった生徒はいない。

「ほら、肇ちゃんが将棋部の宣伝ポスター作ったでしょ」

「あー、作ったな……」

 あまり良い思い出ではない。何故なら宣伝ポスターとしては失敗作だからだ。

 ポスターを作る時、詰将棋でも載せておけばいいかと思って沙羅が以前に作った詰将棋をポスターに貼り付けた。

 駒の少ない、五手詰めの簡単な詰将棋だ。

 ……と、思ったら五手詰は罠で作意は三十九手詰でした!

 んなもん解けるか!

 そんな詰将棋をポスターに載せてしまっては初心者近寄るべからずと言わんばかりである。みんなボクみたいに五手詰と勘違いしてくれたらいいんだけど。あーあ。

「あれ解いてる子がいたんだよ」

「マジ?」――

 マジマジ、と沙羅が頷く。

「終わったら声を掛けようと思ってたんだけど、すぐいなくなっちゃって。そしたら昨日美容院でなんとその子を見かけて」

「勧誘したのか」

 学外で新入部員勧誘という発想はなかった。この幼馴染みはTPOという言葉を知っているだろうか。

「あの詰将棋を真剣に解こうとするくらいだから、将棋好きなんだろうな」

「ううん、嫌いって言ってたよ?」

「マジか」

 駄目じゃん。しかし沙羅は何度も部室のドアを確認して、誰かが来るのを今や遅しと待っている。

 将棋嫌いが将棋部に入るものなのだろうか?

 だろうか? じゃないわ。入るわけないわ。

 だけど沙羅の瞳はやけにキラキラしていて水を差すのも憚られた。そんな沙羅を見ていると不思議と将棋嫌いが将棋部の一員になりそうな気がしてくる。

 やがて部室のドアが勢いよく開く。

「こんにちは!」

 そこにはすっかり元気になった布留川みりんがいて。

「……っす」

 銀髪の少女が隣にいた。

 なんで銀髪? 校則的に大丈夫なのか?

 将棋部の四人目にして幽霊一号御厨美冬は、こうして将棋部に入部したのだった。

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