第12話:とある少女の過去

 少女には親がいなかった。けれども食事処で給仕として雇ってもらえたから、飢え死にするようなことはなかった。食事処が休みの日には摘んだ野花を売って小金を稼いだ。

 生活は苦しかったが、敬虔なエイゾル教徒であった両親に倣ってできるだけ神殿に足を運んでいた。

 ありがたいご神体に参拝するのに金がかかったから、毎日はできなかったけれど、参拝できない日は家で熱心に祈っていた。

 そうやって日々を過ごしていた少女に声をかける聖職者がいた。赤い髪をした神父だった。

「熱心な信者である君には特別、無料で参拝させてあげよう」と、その神父が受付を担当している時間帯でなら、金を払わず祭壇へと入れてくれた。少女は喜んで、毎日ご神体に参拝するようになった。

 食事処でへとへとになるまで働いてから、けれど少女は毎日参拝に神殿を訪れた。両親が熱心に信仰していた神は、少女にとっても神聖なものだった。

 熱心に通っていると神父が「文字を教えてやろう」と言ってくれたので、少女はこれにも喜んで肯いた。文字の読み書きができればもっと給金の良い仕事に就けるかもしれないからだ。

 教えてもらった文字を少女は暇さえあれば宙になぞったり、地面に書いたりした。本も読めるようになるかもしれない、と少女は毎日が楽しかった。

 その日も少女は仕事帰りに神殿を訪れ、ご神体に参拝した。

 神様ありがとうございます。おかげでほんの少しだけれど読み書きができるようになりました。

 熱心に机に向かう少女に、神父も熱心に教えていた。

 だが、その日はいつもは向かいに座る神父が少女の隣に腰を下ろしてきた。距離がひどく近い。違和感を覚えたがこちらのほうが教えやすいのかもしれない、と極力気にしないよう努めた。


「ほら、この文字はこう伸ばすんだ」


 はい、神父様。

 なぜだか肩を抱かれたけれど、気持ち悪かったけれど、嫌な臭いがしたけれど、少女は我慢して文字を教えられたとおりになぞっていった。

 やさしいけれど、体にまとわりつくような声を出して指導する神父は、身を固くする少女の腿に手をすべらせた。文字を書く手が止まる。何が起こっているのか、少女は理解したくなかった。


 がらん。がらん。がらん。


 大きな鐘の音がした。閉殿を知らせる音だ。

 少女は急いで神父からその身を離した。密かに息を吐いて手早く机の上を片付ける。これで帰れると思うと安心感が押し寄せてきた。

 今日はありがとうございました、と少女は神殿を足早に出ていった。

 気持ち悪くて、気持ち悪くて、気持ち悪くて、家に帰りつくなり濡れ雑巾で神父に障られた場所を肌が赤くなるまでこすったけれど、気持ち悪さはなかなかぬぐえなかった。

 少女はそれからしばらく神殿に行けなくなった。

 また神父に体を触られると思うと行く気になどならなかった。しばらくは食事処に、花売りに、繕い物に、と忙しくすごした。

 いつもは仕事のあとにしていた参拝を仕事の前に行くようになった。時間外らしくあの神父は見かけなったので、参拝料を払わなくてはならなかったが、これが普通なのだ。また気持ちの悪い思いをするくらいなら料金を払ったほうがマシに決まっている。

 増やした仕事のおかげで買えた古本をつっかえながらも読めるようになって、それで少女は十分幸せだった。

 朝の清々しい空気の中でご神体に祈りを捧げる。どうかこの幸せが永く続きますように。

 祈り終えて仕事に向かおうとした少女の腕を男が掴んだ。あの神父だった。


「やあカミラ。最近は朝に参拝していたんだね」


 仕事がありますので、と少女は神父の手を振りほどいた。

 少女の他にも朝早く参拝していた信者の目が神父に向かう。人の好さそうな、聖職者然とした表情を神父は浮かべていた。


「またおいでなさい。まだ文字を全部覚えていないだろう?」


 あとじさりする少女に神父は殊更やさしそうな顔を向ける。


「今度来たら魔術も教えてあげよう」


 魔術。

 その言葉に反応した少女に神父は上機嫌に距離を縮め、少女にだけ聞こえる音量で言った。


「もう二度とあんなまねはしないと神に誓おう」


 本当だろうか。

 探るような視線をむけっれた神父は朗らかにうなずく。


「神父の私が神との誓いを破る訳ないだろう? 待っているよ。必ず来なさい」


 少女は考えた。

 文字は全部覚えたい。魔術を覚えれば生活が楽になる。

 あの神父は怖い。行きたくない。

 けれど、神様に誓ったのだから、大丈夫、と少女は神に感謝を捧げた。

 そして少女は文字と魔術を教わるようになった。本当に体には触ってこなかったから、少女は安心して神殿に通えた。

 子ども向けの絵本だけれど、なんとかつっかえずに読めるようになった。魔術も生活に役立てるくらい使えるようになった。

 少女は神に感謝を捧げ、神父にも礼を言った。


「私も非常に喜ばしいよ。それで、料金なんだが」


 神父の言葉に少女はえ、と吐息のように声をもらした。お金ですか、と震えながら言葉をしぼり出す。喉がカラカラに乾いていた。


「ああ。当たり前だろう? 無料タダで私の教えが受けられると思っていたのか? ははは、君は考えが足りないおっとりしているなあ」


 いくらですか、と青褪める少女に神父は笑いかけた。いやらしい笑みだった。


「君にそんな金がないことはよく知っているさ、カミラ」


 だから、と神父に首筋をなでられた。寒気がした。吐き気がした。


「金で払えなんて、そんな無体は言わないさ」



 天井の模様を数える。傷や、染みや、色を数える。それらを数えてしまったらまた最初から。それがいやになったら見える範囲の調度品を数えた。

 少女は、自分はなんて愚か者なんだろうとひどく惨めさを感じていた。気持ち悪さしかない。吐き気が止まらない。いっそ狂って何もかもわからなくなってしまえばいいのに。体は絶えず痛みと嫌悪を訴え続けていた。

 はやく終われはやく終われ早く終われはやく終われ。

 少女はそれだけを願っていた。

 その日を境に少女は神殿には行かなくなった。

 働いて働いて働いて、とにかく金を稼いだ。

 あの神父に会うのは嫌だったので、いない時間に受付の神父に文字と魔術の受講料を聞いた。今の少女には目もくらむような大金だった。

 ご神体に祈りを捧げる。

 受講料を払いきるまで参拝に来れません。必ず払いきってまた参拝に来ますから、どうかその間見守っていてください。

 祈りを終えた少女はあの神父に見つからないよう素早く神殿を後にしようとした。


「やあカミラ。まだ支払いは終わっていないよ?」


 少女は絶望しきった顔で、自分の腕を掴んだ男を見上げた。やはりあの神父だった。

 神父の私室だという部屋に連れ込まれ、長椅子に引き倒される。

 金は働いて必ず返す、放してくれ、と訴えても無駄だった。


「うるさい。黙れ」


 顔を殴られて、少女は抵抗をやめた。これ以上殴られて働けなくなれば生活ができなくなる。

 神様。神様。神様。たすけてください、かみさま。

 神からの助けはなかった。

 何度か神父に言われるがまま“支払い”をしに行った。その度に死にたくなった。

 季節が何度か巡って、彼女が十六の年になったある日の支払いに、釣りだ、と銅貨が投げ渡された。ようやく終わったのだ、と少女は安堵の涙を流した。

 終わりではなかった。

 腹に子どもが宿っていた。

 少女は狼狽して、怖くて、どうしたらいいかまるでわからなくて、けっきょく神父を訪ねるしかなかった。

 神父は嫌そうな顔をしたあと静かに笑って、「それが私の子であるはずがないだろう。汚らわしい」と言った。

 血の気の引いた少女に神父は銀貨を投げつけた。


「いいな、お前は私に会った事など無い。そう神に誓え」


 誓わなければどうなるかわかっているだろうな、と神父は笑う。まるで獣だった。

 ああ、自分はまた間違えたのだ。頼る人間を間違えた。

 少女はそんな自分が情けなくて、惨めで、哀れで、どうしようもなくて、泣いた。泣きながら銀貨を拾い、誓った。


「私は神父様にお会いしたことなどありません。神に誓います」


 少女はやがて母になり、娘と共に日々を暮らした。

 自分とは違う赤い色の髪に複雑な思いをいだきながら、母は子を慈しんだ。

 神殿にはもう二度と近付かなかったし、神に祈るのもやめた。神に祈らなくても娘はすくすくと成長した。

 このまま幸せに生きていけたら、という母の願いは叶わなかった。

 この世に生を受けてからたった四年で娘は御空へと旅立ってしまった。

 母子二人でなんとか暮らしてきたのだから、当然蓄えなどあるはずもなく、高価な薬が買えずに娘は死んだ。

 もちろん個人の墓など立てられるはずもなく、共同墓地に葬るしかなかった。それでも葬れただけ幸せなのだから、と母は自分を慰めるしかなかった。


 その日はイゾルデの命日で、カミラは共同墓地に花を持って行った。カミラ以外にも花を添える人間は大勢いた。あのころ、流行り病で命を落とした人間が多かったからだ。

 共同墓地からの帰りにカミラは子どもを拾った。

 見たことのない、きれいな長い黒髪と、黒い瞳から涙をあふれさせている、かわいらしい子どもだった。


「あら~、どうしたの、そんなにないて~。かわいいお顔が台無しよ~? ほら笑って笑って~」


 怖がらせないように、と笑顔で話しかけたカミラに子どもはさらに泣いた。


「×××××、××××××!」

「あらあら、どうしましょう。なにを言ってるのかぜんぜんわからないわ~」


 泣いてる様子がまるで赤子のようだったから、カミラは思わずその子どもを抱きしめた。


「よしよし、泣かないで~。いい子、いい子」

「×××? ×××……。イイコ、イイコ」

「もう言葉がわかるのね~。すごいわ~。いい子、いい子」

「イイコイイコ……。イイコイイコ……」


 落ち着かせた子どもを家に連れ帰って、カミラの生活は色を取り戻した。

 子どもと身振り手振りで会話をするのは楽しかった。子どもの名前がミコトだとわかったときは、お互いに用もないのに名前を呼びあった。おかあさん、とカミラを呼んで、慕ってくれるのが泣きたいほど嬉しかった。

 ニュシェム国に移住してからもそれは変わらなかった。

 ちょっと素敵だな、と思える殿方ひとと出かけることもあって、むしろより幸せを感じていた。

 メルーベ国からわざわざあの神父だった司教おとこが来て、自分を知っているだろう? と言われてもカミラには困惑しかなかった。

 カミラはもうエイゾル教徒ではないけれど、それでも神を嫌いになった訳ではないし、神に誓ったあの時は間違いなくエイゾル教徒だったのだから、神への誓いを破るなんてとんでもないことだ。

 だから会ったことなどありません、と答えた。誓った通りに答えただけだというのに、司教のほうが困惑していた。どうしてだろう。

 ミコトが消えていったギルドの出入り口を見る。

 お弁当も食べずにメルーベ国へ司教を送り届けに行ってしまったのだという。

 カミラはしょんぼりと肩を落とした。


「あの、どなたかよろしければでいいんですが、ミィちゃんの分を食べてくださる方はいますか……」

「はいっ」

「はいはいはい!」

「俺が!」

「あたしが!」

「いや、オレが!」


 次々に挙げられる手にカミラは笑った。ミコトが帰ってきたらとびきりの御馳走を作ろう、と。

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