さよなら感情、よろしくホームレス

雨七

さよなら感情、よろしくホームレス

家賃、四万円弱。夏の熱気も冬の寒風も一切遮るつもりのない薄い壁。

そんな安アパートが私の寝床で、社会に出てからもう五年以上の付き合いになる。


どう夢を叶えるか、なんて絵空事を追うエネルギーは散消して、

どう生き繋ごうか、そんなことに思考を回される。


そんな底辺のコンビニバイトが私。

これ以上どうしようもない存在なんてどこにも居ない、なんて思い込んでいた思い込みの強い女が私だ。


もっとも、そんな思い込みは今ではとっくに消え失せている。

私なんかより余程どうしようもない存在なんて、視野を広げてみれば意外と見つかるものだった。


バイト先のコンビニ傍、高速道路の高架下。

名前も知らない植え込みの中で暮らす女、チクモに会ったのは十二月の夜だった。



◇1


「おつゃっした」


何百回目のセリフを誰に向けるでもなく口にしながらコンビニを出る。

手にはビニール袋、中には廃棄弁当と「9」という数字を誇らしげに掲げた缶チューハイ。

迷うことなく缶チューハイのプルタブを開け、歩きながら一口。

毎週金曜の仕事上がりの習慣だ。


「……っ、はぁ」


アルコールを流し込み、一息。

そんな一動作の間に傍の車道ではごう、ごうと風を切って名前も知らない車が走り去る。

カーウィンドウの向こう側、車内にいる人間の顔はどれもこれも溌剌としているように見え、ちくりと胸の奥が刺されるような感覚を覚える。


耐え切れず、もう一口。


「さっぶいなぁ」


冷え切ったチューハイの温度も相まって、首筋がぞくりと震える。

今夜はロクに酔えそうもない。こんな日はさっさと帰って薄い布団に包まって寝付くに限る。

早く帰ろうと足を早め、チューハイを飲むペースも上げ、視線を前に向け直そうとした、その一瞬だった。


「ん……ん?」


車道と車道の間。高速道路を支えるコンクリート柱が等間隔で並ぶ、その間。

華やかさの欠片もない植え込み群の中に、何か違和感があった。


思わず立ち止まり、じっと植え込みを凝視する。

しばらく見ていると、どうも不自然に葉が揺れている。

野良犬か、野良猫か。はたまた狸か別の動物か。

上手く撮影できればそこそこfavだのRTを稼げるんじゃないか、というぼんやりとした考えが浮かんだが、


「え、あっ……え?」


植え込みからぴょこりと顔を出したのは、人間の顔だった。

暗くてよく見えないが、女のような顔。

その女の顔はそのままきょろきょろと辺りを見回し、すぐにがさりと植え込みに潜り直した。


その一連の動きを、ぽかんとただ見つめていた。

ホームレス? あんなとこで住んでるの? 一人で?

想像していた以上の珍しい存在とのエンカウントに、むくむくと好奇心が湧き上がる。


「……よっし」


普段以上にアルコールの回るペースが早かったのもあるかもしれない。

残り少なくなっていた缶を放り捨て、私は車の流れが止まった隙に高架下に向けて駆け出した。



◇2


二十七年生きてきたが、高速道路の高架下に足を踏み入れるというのは初めての体験だった。

遠目に見ればただの植え込みだったが、近くで見るとタバコの吸殻から紙コップ、果ては濡れたエロ本とありとあらゆるゴミが散らばっている。

思わず顔をしかめて入り込むのを躊躇したが、こみ上げる好奇心がそんなネガティブ感情を後から塗りつぶした。


「お邪魔します」


反射的に口にして、そんな言葉を発したのが学生時代以来だったことに気づいて鼻で笑う。

そしてがさり、と植え込みに腕を突っ込んだ。


「っ」


枝がちくりと手に刺さる。子供の頃にしか感じたことのない感触。

汚い、厭わしいなんて思いより、この行為自体の楽しさが上回る。

無理やり両手で植え込みを押し広げ、わずかに空いたスペースに身体をねじ込む。


髪を、顔を、身体を腕を脚を、全身をまんべんなく葉と枝が引っ掻く。

本当に久しぶりにこんなことしてるな、いい歳した大人なのに。

自嘲しながらずんずんと潜り込み、やがて先行する手が植え込みから脱出する。

そして続けて視界が拡がった。


「わ……あ」


中は思った以上に綺麗に整っていた。

四方を植え込みで囲まれた長方形の空間は、一面が雑草で覆われていたが然程でもない長さのおかげで芝生のような状態で。

真上の高速道路からコンクリート越しに注ぐ、オレンジ色の常夜灯が非日常的な雰囲気を醸し出していたが、不思議とそんな空間は居心地良く感じた。


ほう、と息を吐く。ふわりと白い煙が上がり、すぐに霧消する。

少しの間だけ、この空間の不思議で静謐な空気に呑まれていた。少しの間だけ。

というのも、すぐにがさりと向こうの植え込みが揺れ、


「あ……あーっ!!」


先ほど見た女が姿を現したからで。


「どっ、どろぼう!」

「え、わ、あ、ええっ!?」


突然の泥棒呼ばわりに面食らっている間に、女は私に向かって走り出す。

そこかしこが飛び跳ねた黒い長髪。ほつれて汚れたコート。

そして、全体的に整った顔立ちと幼い印象を受ける目。

所々に見られる、ステレオタイプなホームレスとはかけ離れた特徴に困惑する私に向かって女は駆け、そして飛び込んだ。


「う゛っ」


お腹の良いところに頭が刺さる。

遅れてくる重みに負け、雑草のカーペットに仰向けに倒れる。

そんな身体の上にのしりと跨り、女は私を見下ろした。――怯えたような表情で。


「な、な……何しに来たんですか。どろぼうが盗むものなんてここには……」

「……」


相当、勘違いされているようだった。


「ごめん、あのね……勝手に入った私が悪かったのもあるんだけどさ」


女はこくりと頷く。


「泥棒とかじゃなくって。ただ、単純に貴女のことを見て、その、興味が湧いただけで」


弁明にしてはあまりにもお粗末で、だけど嘘偽りない理由。

疑いの念が透けて見える幼い瞳を見、内心で肩を竦めた。


「あー……あ、そうだ」


ふっと思いつく。倒れた拍子に手から離れ、傍に落ちたビニール袋を指さした。


「お近づきの印に……あれ」

「?」



◇3


「中身がぜんぶ揃ってるやつ見るの、はじめてです!」


「どうぞ」と手振りすると、彼女はぱぁっと目を輝かせてコンビニ弁当の包装をばりばりと破り始めた。

そんな無邪気な様子に、思わずこちらの表情まで緩む。


「あ、ほら。箸もあるよ」

「あー……はは。久しぶりすぎて。使えるかな」


恥ずかしげに微笑み、おずおずと彼女は箸に手を伸ばす。

ぱきりと音を立てて割り、「こんなだったかな」と呟きながら箸を手に。

ぎこちない動作で冷めたハンバーグに箸を突き立て、口に運んだ。


「んん~~~!」


箸を握ったままの手で、彼女はぺちぺちと腿を叩く。

こんなに喜んでもらえるなら廃棄弁当も本望だろう。

少なくとも、暗い部屋で死んだ顔のアラサー女に食われるよりは余程マシな筈だ。


「あ……すみません、一人で勝手に盛り上がっちゃって」

「いいっていいって。好きに食べていいよ。ええっと……ゴメン、名前聞いてもいい?」

「ひふもでふ」


秒でエビフライを頬張った口で回答された。


「なんて?」

「ひふふぉ……んぐっ。……チクモです、チクモ」

「チクモね。私は鳥乃。朝倉鳥乃……よろしくね」

「トリノさんですね。ごはん、ありがとうございます」


ぺこり、とチクモが頭を下げる。

その振る舞いがホームレスのイメージと比べて誠実で幼すぎることを皮切りに、

私の中でどんどんと聞きたいことが浮上する。その好奇心を満足させるため、私は質問タイムに突入することに決めた。


「チクモ、いくつなの?」

「ええと……十七ですね」

「十七!?」


背格好からして少なくとも成人はしているものだと思い込んでいた。

私より頭一つ、二つ分は高い身長。これで十七というのは衝撃が強い。


「……で、その十七のチクモは……」

「すごい表情ですけど大丈夫ですか…?」

「チクモは! ここに住んでるの!?」

「です。もともと住んでた施設が無くなっちゃって」

「施設?」


こくりと頷き、チクモはたどたどしい言葉選びながらも説明してくれた。

要は、住んでいた孤児院が潰れて寄る辺が無くなったらしい。

住むところも食べるものもなく、かと言って公園などは既住のホームレスが怖い。

そうして彷徨った結果、この高速道路の高架下に至ったのだという。


「こんなところ、実際生活できてるの?」

「なんとかなりますよ。雨は真上の道路が止めてくれますし、風も周りのおかげでそれほど寒くないです」


なるほどと頷く。確かに見方によっては天井と壁付きの好環境だ。


「それにごはんも。食べ残しですけれど、結構いろんな人が捨てていくんですよね」

「あー……そういやマクドとか、ドライブスルー系めちゃあるしね、この辺」


とはいえ、ラクに生きられてるわけではないんですけどね。

そう言ってたははと笑うチクモの顔をじっと見つめる。

その整った顔を、愛嬌にあふれた表情を。


(……これのどこがホームレスなんだ)


好奇心が満ちると共に、新たな感情が湧き始めていた。

住む家が無い。そんな状況にも関わらず、チクモは私なんかよりずっと“生きて”いた。


結局のところ、好奇心なんてものは「自分よりどうしようもない存在を見て安心したい」なんていう欲の表れだった。

そんな気持ちで見に来たにも関わらず、出くわしたのはこんな女。


(ああ、そうか)


私よりずっと酷い状況にあるのに、私よりずっと生き生きとした様子。

この女が許せないんだ。私よりどん底に落ちていてほしいんだ。

――妬んでいるんだ、と。心に滲み始めたヘドロのような感情にようやく気づいて、私は下唇を小さく噛んだ。


「トリノさん?」

「……ねぇ、チクモ」

「はい?」


きょとんとした顔をこちらに向けるチクモに、私は穏やかに微笑んだ。


「チクモ、もっと生活をラクにしたいと思わない?」


この女を、私が滅茶苦茶にしてやりたい。

そんな欲を皮一枚で隠すような微笑みだった。



◇4


翌朝、土曜日から活動を開始した。


「はいどうもー! ホームレス系ゆーちゅーば?の、クモちゃんですー!」


こちらに向けて愛くるしく手を振るチクモに安物のビデオカメラのレンズを向ける。


「初めて動画を出すんですけどもね、はいっ。今回はー……じゃかじゃかじゃか、これっ!」


チクモを動画投稿者としてデビューさせる。ホームレスとしての面を強調した動画投稿者として。

顔が良い女で、ホームレスという社会的弱者。良かれ悪しかれ、反響を生みやすい要素の塊だ。

どう転んでもバズるし、結果どんな悪意に晒されるか……悪いルートはいくらでも想像できる。


「ホームレスの主食! これをみなさんに紹介していきます、ぱちぱちぱちー!」


要は、チクモをネットの悪意に晒す。

直接手を出すことだけは恐れた、そんな私の選んだ最大限の選択だった。


「次はこれっ、ハンバーガー屋さんの紙袋! これはもうね、期待度高まりますよね。スーパーレアです!」


ころころと表情を変えながら、楽しそうに話すチクモの顔をレンズ越しに見つめる。

ちくりと心が痛んだような気がして、思わず首を振る。


「……ということで、お金が無くてもゴミを漁るとね。意外となんとかなるんですねー」


バズればお金にならないこともないし、一応、嘘じゃないし。


「……以上、ホームレスの食事回でした! 教訓は『最後の手段は草とゴミ』! みんな、覚えておこうね~!」


ばいばーい、とチクモが手を振り始めたのを見て、雑念を振り払う。

カメラを止め、私はチクモに向けてにっと笑ってみせた。


「お疲れ様、チクモ」

「ありがとうございます、トリノさん。……あの」

「うん?」


おずおずと、チクモは私に問いかける。


「とても楽しいんですが……どうしてこんなに良くしてくれるんですか?」

「深く考えてなんてないよ。チクモを見てると楽しいだけ」


「楽しい」というのだけは本当。

動機はどうあれ、働いて食べて寝る以外のことをするのは久しぶりだった。


「ふへへ……」

「ふへへて」

「いえ、すみません。私も、こうしてトリノさんと一緒に居てお話するの……楽しいなって」

「……そう」

「はい!」


屈託の無い、満面の笑顔を向けられる。

悪意の欠片も無い表情を直視できず、私はふいと視線を逸らした。


「トリノさん?」

「……ほら、動画一本だけじゃどうしようもないでしょ。まだまだ撮り溜めしておかなきゃ」

「! は、はいっ!」


  *****


「どもども、クモちゃんですよー! 今日はですね、なんと! ホームレス生活初の、銭湯! 来ちゃいました!」


「匂いとかちょっとありますし、追い出されないか心配ではあるんですけどね……あはは」


「それじゃ、早速入店してみましょう!」


「いやぁ、良かったです……あったかいお湯を浴びるの、もうどれくらいぶりでしょう……」


「え? 脱衣所から出さえしなければもう一度入れるんですか?」


「……もうここに住みたい…!」


  *****


「みんな、こんくもー♪ 今日の動画はー、じゃんっ。炊き出しレビューです!」


「みんな知ってました? ホームレス支援の炊き出しって地域によってメニューや味が全然違うんですよ」


「ふっふっふ、知らなかったでしょ? 今日はね、この都内の炊き出しを回れる限り回ってレビューしてみたいと思います!」


「というわけで早速歩きますよー! トリ……か、カメラさんもしっかり付いてきてくださいね!」


  *****


「こんくもー♪ 今日はですねー、ふっふっふ……なんと! 初の室内スタートですよ」


「最近仲良くなった方のご好意でですね! お泊りさせてもらうことになりまして!」


「……あ、違いますよ。私とおんなじ、女性の方ですから! そーいうのは大丈夫です、ごあんしん!」


「というわけで『ホームレスがお布団で寝てみた』って感じで、今回はね! 行ってみましょう!」


「カメラさん、寝付くまでよろしくお願いしますねっ」


「……ふふ。なんだか人に見られながら寝るのってどきどきしますね」


「すぅーっ。……布団の匂い。人の匂い。…ふふ。匂いがする……」


「え、えっ? 『これはボツにする』……って、ええーっ!? なんでですか、トリノさん!」



◇5


「あっれ、トリノ先輩。めちゃ眠そうっすね」


レジで生あくびをしていたところに声を掛けられる。

私は慌ててあくびを噛み殺し、品出しをしていた金髪の高校生に肩を竦めてみせた。


「あれすか、昨晩は彼氏さんと……とか」

「あはは……ま、そんなとこ」

「マジすか! かーっ、いいなぁ。オトナの女って感じ、めちゃカッケェっす!」


素直に信じ込んでしまう彼を前に、少しだけ申し訳なさを感じてしまう。

実際には彼氏じゃなく女だし、しかもホームレス。

とはいえ、いたいけな思春期の男の子にそんなことを包み隠さず話せるわけもなかった。


「やっぱあれすか、同棲とかしてるんすか?」

「同棲、ね」

「あ、その感じだとまだっぽっすかね」


チクモと一緒に過ごすのは、確かに楽しい。

いろんなことを動画のネタという体裁で提案したが、「同じ部屋で住もう」という提案だけは未だにしていなかった。


私の介入もあり、チクモは日に日にホームレスからかけ離れた部分が増えていく。

投稿する動画もそこそこ成功してしまい、生まれた金はこれまでのチクモの生活水準をぐっと引き上げてしまっていた。


現状、私が持っているアドバンテージは「家」と「身分」があることだけ。

数少ない優越感を削り分けるほどの寛容さは私には無かった。


「あー……まぁ、ほら。色々あるっすよね。オトナ、大変っすもんね」

「知ったふうな口を聞くよな、後輩クンはさ」

「ミキモトっす! いい加減名前覚えてくださいよぉ!」


はいはい、と適当にあしらい店外に視線を遣る。

ガラスの向こうではざあざあと音を立てて雨が降り続けていた。


「今日一日は止まないみたいっすよ、雨」

「そっか」


こんな雨の日、そして深夜。

客も殆ど来ないコンビニはただただ物寂しい。

エンドレスに続く店内放送が無駄に明るい声色で新商品の宣伝を繰り返す。


「……あー、あの。トリノ先輩は、その、趣味とか」

「趣味?」

「あ、いや、あのっすね? 自分、最近動画サイトにハマってて」

「ふーん」

「ほら、この人とか知ってます?」


静かな空気に耐え切れない陽キャの習性か、後輩が無理やり話題を作り始める。

尻のポケットからスマートフォンを取り出す後輩を「仕事中だろ」と諌めようとし、


「クモちゃんってホームレスのYouTuberなんすけど」


盛大にむせた。


「ちょ、先輩だいじょうぶっすか」

「げっほ、げほ……あ、うん、ごめん……いや、知らないけど」

「この子めちゃ面白いんすよ。ホームレスって設定で動画出してるんすけど」


あぁ、なるほど。

「設定」ってことで受け止められているのか。


「まともに考えて、こんな可愛い子がホームレスとか有り得ねっすよね」

「あー、はは。うん、そうな」

「この回とかやべーんすよ、食べられる草の見分け方講座とか。やべー」


知人の話を好意100パーセントで話されるのは照れくささしかない。

適当に聞き流しながら、視線を努めて外に向ける。


黒い空から雨は変わらず降り続け、色とりどりの車がヘッドライトを鮮やかに輝かせ走り続ける。

話を聞き流しながらぼうっと眺めていると、一台の車がぴたりと停まった。


「…?」


停まる場所がおかしい。

普通、停車するなら歩道脇だ。そうではなく、正反対の岸に停めている。


「でも最近、ちょっと心配なんすよね。変なファンとか付いちゃってて」

「……変なファン?」

「そうなんすよ。ほら、クモちゃん可愛いじゃないっすか。なんかやべーオッサンとか変態とかいて」


車は一向に動く様子がない。ハザードランプを点滅させ、停車したまま。


「なんか特定班とか? そういうやべーのも湧いてて」


さっと血が引き始める。平衡感覚が無くなり、地面が揺れているように感じる。


「ほら、ファンサイトの書き込みとか……うーわ、今日もあるよ」


差し出されたスマホの画面に視線を落とす。

「犯」「殺」といった漢字が踊る怪文。あの車はまだ動かない。


「あの……先輩?」


植え込みが揺れている。あの晩、私がチクモを見つけた晩も同じように揺れていた。

あの日は期待感に胸を高鳴らせていた。

今は、ひどく取り返しのつかないことが起こる予感に胸が高鳴っている。


「先輩? どうしました?」

「ん……あぁ、いや。ごめん、ただの気のせい」


ただの気のせいだ、と自分に言い聞かせる。

そしてさらに言い聞かせる。


『万一、気のせいじゃなかったとしても』

『それこそ、初めから期待していたことでしょ?』

『チクモを台無しにしたかったんじゃない』


大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。

正しい。まったくもって正しい。

当初の狙いが実現しようとしているだけで、何もおかしな話ではない。


――それなのに、理性ではなく心が警鐘を鳴らし続けている。

――トリノさん、トリノさん、と。間の抜けた明るい声が聞こえてしまう。


「……気のせい、なんだけど」


もう一度、大きく息を吐いた。

これは落ち着かせるためでも何でもない、ただの大きなため息。

初志貫徹もできない、自分の愚かさへの呆れのため息。


「ごめん、ちょっと任す」


一歩、踏み出す。その一歩を踏み出せば、あとの足運びは軽かった。


「え、ちょっ、先輩!?」


後輩の声を聞き流し、私は店外へ飛び出した。



◇6


雨に打たれながら、真っ直ぐに道路に突っ込む。

他の車が走り来ることなど一顧だにせず、停まっている不審車に向かって真っ直ぐに。


スモークされて中の様子が見えない窓だったが、どうやら中に人が居たらしく、

駆け寄る私に気づくと即座にエンジンを鳴らして発車させてしまった。


予感が高まった。

植え込みに腕を突っ込み、乱雑にかき分けて中に入る。

水しぶきが跳ね、濡れた髪が頬に張り付く。

枝を除け、折り、そしてチクモの住処に入り込む。


「…っ!」


オレンジの常夜灯が照らす中、人だかりがあった。

3,4人の男が何かを囲んでいる。何かを。


「……ぁ、あ゛ぁ゛ぁ゛ーっ!! あ゛ーーーーーぁ゛ぁ゛!!」


言葉になっていない声だった。

何を言えば良いかなんて分からず、ただただ叫ぶ。

こちらに気づいた男たちは慌てて向かいの植え込みに潜り逃げてしまった。

残されたものに目が行く。雑草の上に倒れている人間に。


「……チクモ」


震える脚で歩み寄る。

近づくにつれ、チクモの状態が分かり始める。


仰向けで、大の字に倒れていた。

小学生がふざけて書いたような大の字。

払いの代わりにハネにした脚の二画がWを描いている。


服が無い。

傍に無造作に破り捨てられたそれは一週間前、古着屋で二人分買い揃えたものだった。


右の眼窩に何かが刺さっている。

中指ほどの長さのそれは先端が燃えており、白い煙を上げて時折チクモの目に灰を落とす。

タバコだった。


「っ!」


悪意の塊のようなタバコを即座に引き抜くと粘液が糸を引いた。

引き抜くとともにう゛っと呻き声がして、チクモの身体が揺れた。


「チクモ!」


左目がぱちりと開く。


「……あれえ……トリノさん……?」


今日、おしごとじゃなかったでしたっけ。

ぼんやりとした声でチクモが話す。


「仕事とかどうでもいいでしょ。いま救急車呼ぶから」

「きゅーきゅうしゃ……あ、はは。はじめて乗るやつです。どーがの、ネタに、なりますねぇ」

「…っ!」


チクモの両頬を手でつかみ、片方だけ残った瞳を真っ直ぐに見つめる。

今まで向き合うこともしなかった、無垢な瞳。


「そういうの、もうどうでもいい。要らないの。動画も、何も」

「……そっかぁ」

「アンタさえ、居ればいいの。チクモ、分かる?」


今ようやく、はじめて。妬みも嫉みも悪意もない、まっさらな感情だけで貴女に向き合っているの。


「動画がもう要らないっていうのは、さみしいですけど……でも、えへへ。うれしいです、ねぇ。そんなこと、言ってもらえるのは」


げぽ、とチクモが小さく咳き込む。

赤黒い血が口の端から垂れるのを目にし、私は慌ててスマートフォンで119をダイヤルした。


「あのね、チクモ。一応言っておくけどね」

「けぷっ……なんでしょう」

「……死んだりしないでよ。やっとアンタに向き合えたのに、こんなところで死なれたら本当にどうしようもないでしょ」

「あー、はは。まぁ、ぜんしょ、します」



◇7


それから。


結論だけ言えば、チクモは無事ではあった。

右目は潰れ、両脚は骨がぐしゃぐしゃにされていて再起不能。そんな状態でも命が助かったのなら無事というべきなのだと思う。


犯行グループはあれから数日で全員が逮捕。

今回の事件を計画した主犯格は実は女だった、というのはそれなりにワイドショーを賑わせていたらしい。


そんな中、私が困ったことといえば、


「チクモさん、ですね」

「はい」

「漢字ではどのように? それと苗字は?」


医者とのやりとりだった。


「あ、え、と……。…千の雲と書いて、チクモです。苗字は」

「苗字は?」

「……あの、私と同じです。朝倉。朝倉千雲」

「失礼しました。ご家族だったんですね」

「……まぁ、そんなところで……」


こんなぎこちないやりとりの末、チクモは新たなパーソナリティを得ることとなった。

すなわち、


「ええと、整理させてくださいね。トリノさん。孤児院育ちっていうのは同じ」

「そう」

「でも、私のお父さんのお母さんのお姉さんの娘さんがトリノさんのお母さんということになって」

「うん」

「私の家族が軒並み居なくなったから、遠縁のトリノさんが引き取ることになったと」

「そういうこと」

「よくそんなホラ話通りましたね!?」


珍しいチクモの大声に苦笑いする。

「笑い事じゃないですよ」と口を尖らせて、チクモは病室のベッドに上半身を倒れ込ませた。


「実際のとこ、だいぶ怪しまれてるとは思うよ」

「そりゃそうですよねぇ」

「でもそれ以上に、アンタの容態がマジでヤバかったんだ」

「ですねぇ……もう動画投稿は懲り懲りだよー、と」

「その口調は全然懲りてないでしょ」

「あはは。分かります?」


からからとチクモは笑い、そのまま視線を私から天井に向けた。


「こう言うとトリノさん怒るかもしれないんですが」

「たぶん怒るけど言ってみて」

「実はですね。『こうなって良かった』って気持ちが、ほんの少しだけあったりするんです」

「はぁ?」


怒るというより、呆気に取られた。

「こうなって」というのはチクモの今の状態を指しているのか。


「私、気づいてたんです。トリノさんが私を見る目、時々すっごく悪い目になってたの」


さも何でもないことかのように、チクモはあっさりと説明する。


「私、トリノさんのこと大好きになってたんです。でも、トリノさんは私のどこかを嫌っているように見えて」

「……そう」

「結局何を嫌われていたのかは分かりませんでしたけど。でも、今のトリノさんが私のことを嫌っていないのはよく分かりますから」


だから、とチクモは続ける。


「こうなって良かったです、うん。……トリノさん、大好きです。大好きですよ」

「……アンタさ」


眉間の辺りを指でゆっくり揉みほぐしてから、私はチクモに尋ねた。


「今まで気づいてなかったけど。性格、実は悪いでしょ」

「いまさらですねー」


私はずっと前から知ってたのに、とチクモは悪戯っぽく微笑む。

つられて笑って、私はチクモの手をとった。


「チクモ。退院したら私と同棲してくれる?」

「はい、喜んで。私をこんな風にした責任、とってくださいね?」


いかにもすぎるやり取りに、二人でくすくすと笑い合った。

「それではさっそくトリノさん、私売店でおやつを買いたいです」と芝居ががった口調のチクモを抱え、よいしょと車椅子に運ぶ。


だらりと力なくぶら下がる脚を目にすれば、これまでのどす黒い粘ついた感情が湧くことはもうない。

結局最後まで手のひらの上で転がされたなぁ、この悪女め。

心中で毒づいたタイミングで、車椅子に座ったチクモがこちらを無邪気に見上げ、見つめ返す。


読心術まで持ってるんじゃないだろうな、この女。

そんな馬鹿げた思いつきを鼻で笑い捨て、私は車椅子を押し始めた。



《終》

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