第六話 『不帰の砂漠イルカルラ』 その129


 初対面のアルノア伯爵は、こちらを見た……ドゥーニア姫を隠すように、オレとガンダラが盾になったよ。猟兵たちは周囲を警戒している。敵の将軍が現れた。あまりにも無防備にな。一秒あれば、殺せるが―――だからこそ、罠ではないかと疑ってしまっていたよ。


「……貴様が、アルノア伯爵だな」


 ドゥーニア姫は狂人に話しかける。物おじしない女性で良かったよ。おそらく、世の中の大半の女性は、この濃い化粧で……女装した半裸で血まみれの中年男などを見ると、目を背けて言葉の一つも交わしたくないと思うだろう。


 アルノアは、その狂気に見開かれた目玉を、大きくパチクリさせていた。もはや彼の壊れた心では、状況を上手く飲み込めないのさ。少なくとも、しばらくの時間を状況の把握に要した。


 伯爵殿の首が傾き、瞬き一つしやがらない見開かれた瞳はオレとガンダラの影にいる砂漠の戦姫を見つめているな。無言が続く……かと思った瞬間に、そのしわがれた声が始まる。前歯が四つも欠けた歯を見せつけるように口を開き、狂気は言葉を放つ。


「……貴様は……アレだったか……そうだ、アレだな、ドゥーニア姫だあっ!!あはははは!!あははははは!!ドゥーニア姫が、来たかあああああああ!!」


「……く、狂っているっ」


 ナックスの診断は正しい。彼が精神病理に精通した男でなかったとしてもな。ナックスもしばらく病んでいたが、伯爵殿に比べれば、全くもって軽症だったよ。


 狂気は何故だか嬉しそうに前歯の折れた歯列を見せつけながら、周囲を大げさな動作で見まわしつつ、この世から先ほど立ち去った者たちを呼びつける。


「おおおいい!!来てくれえええ!!ドゥーニア姫めが、私のところに、ノコノコと矢って来たぞおおおおお!!殺してくれえええ!!殺してくれないかああ!!この娘のせいで、狭間の穢れた、クソみたいな女のせいで、私は破滅したんだぞおおおおおい!!!」


 痛々しいまでの無様を見せつけながら、アルノア伯爵は自分に仕える忠実な騎士どもを呼んだ。だが、死者は来ない。この生者しかいない悲惨な現実には、幸か不幸か参加することは叶わない。


「どーしたあ!?アルフォンスううううう!!ミハエルううううう!!ジュドー!!カイエール!!……どーして、出て来ないのだあ!?」


「うふふ。もう、狂人の演技をしても、癒されませんわよ。アルノア伯爵。現実を把握しているのですから、狂気に逃げようとするのは、おやめなさいな」


 ……サーカス・アーティストの分析なのか、それともただの直感なのか。狂人には厳しいかもしれない言葉をレイチェル・ミルラは使う。


「……ひひひひひひひひひひひひひひひ!!」


 狂人にしかオレには見えない男は、前歯が欠けた笑顔で不気味に笑う。狂っているようにしか見えないがな……対応に少しばかり困るが、そろそろ殺すか?……ドゥーニア姫に左肩を動かして合図する。いつでも君のために鋼を振るうと伝えたつもりだ。


 ドゥーニア姫が決断を下すよりも前に、前歯の欠けた男はしゃべった。


「……私は、死なんぞおお」


「……貴様、レイチェル殿が言う通りに、正気、なのか?」


「正気?ひひひひひひ!!どうだったかなあ、私は、もう、すっかりなーにも無くなってしまったからなあ!!騎士たちは!?この砂と石ころだらけではあるが、私が太守として就任する土地は、どこだああ!?どいつもこいつも、お前たちが、奪ったんだああっ!!」


「状況を認識していますな。完全に発狂しているというわけでも、ないのでしょう」


「イエス。その男、狂気は半分。半分は、正気であります」


「……『メルカ・コルン』の知識としても、そ、そんな印象を受けます、兄さん!!この人物は……何かを企んでいる可能性があると思います」


「時間稼ぎか……」


「ふむ。ソルジェ……いや、ドゥーニア姫に問うべきか。殺すべきだぞ、この男を、一刻も早く」


 猟兵たちの勘が、アルノアにイヤな予感を覚えていやがるのさ。そうだろうな、オレもコイツを斬るべきだと直感が疼いているんだよ。


「……人質にして帝国から金を巻き上げるなどという器用な交渉はするつもりはない。アルノアよ、貴様は、この場所で死んでもらおう」


 ドゥーニア姫が歩き出そうとするから、オレとガンダラは肩を合わせて壁となる。


「なんだ?」


「貴方は彼に近づくべきではありません。彼は、何かを企んでいます」


「……ちっ。私が直々にあの腐れ首を斬り落としてやろうと思ったんだが……ソルジェ・ストラウス。そなたが斬ってくれるか?」


「了解だ。あの男は、狂っているのか、演技なのかは分からんが……常に君だけをにらみつけている」


「ずーっと目が合うからな。私が恨まれているのだろう」


「自重すべきですな」


「……わかったよ、軍師殿。ナックスも、そんなシワシワな顔をして私を見るな」


「は、はい……では、サー・ストラウス。あの男を、斬ってください」


「心得た」


 ゆっくりと歩く。警戒しながらな。そして、竜太刀を抜いた。アルノアは殺気も殺意も隠していないオレが近づいているのに、完全に無視していやがる。演技ならば、いい根性しているじゃないか。評価を変えてやる。凡庸ではない。かなり、狂った男だ。


 ……さてと、殺す直前に。一言だけぶつけてみるか。


「『イージュ・マカエル』の祭祀に興味があったのか」


 石像みたいに動かなかった男の首が、不気味な高速度でこちらをにらみつけてくる。憎しみ、興味、あるいは……共感?


 歯のない男は笑う。


 オレの腰裏に下げた道具袋が、その瞬間にバタバタと暴れやがったよ。反応している。アルノアにか?……あるいは、アルノアが行った、古王朝のカルトの祭祀に呼ばれた何かだろうか―――直感は確信に化けながら、腕を動かす力と化けた。


 竜太刀を振り抜いた。


 断頭の一撃は、アルノアの大して太くもない中年の首を斬り落とす。血が宙を汚し、この勝利の感覚を冒涜するみたいな笑顔を、転がる首は浮かべていた。いや……。


「ひひひひひひひひひひひ!!死ななああい!!私は、古き神々と、契約したんだああ!!」


 転がる首は元気に宣言する。健全さや健康とは程遠い形ではあるが、アルノアは未だに死亡してはいなかった―――背筋に、感覚が生まれる。戦場なんかに長年居続けたせいで獲得してしまった感覚が、行動を促した。


「全身、走れ!!ここから撤退するぞ!!」


 根拠のない直感に過ぎないものだったが……それでも、そいつは未来をある程度は完全に予測していた。『攻撃』が始まる、アルノアの首と胴体から広がった血が……砂地を走り抜けて、赤く燃えるような紋章を描いていた。




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