第四話 『ザシュガン砦の攻防』 その63
闇に融けるように時間が過ぎるのを待つ―――そう長い時間は必要ではなかった。
気配と足音の主は、すぐにこのフロアにやって来る……鍵穴から外を覗きながら、このアルノア伯爵の部屋より先に進まないかを警戒する。
ここを過ぎ去れば、オレは行動を開始しなければならないからだ。
……足音は、やはり軽い。
鋼をもってはいないのかもしれない。
魔力も多くない人物だ……戦闘要員ではないのだろう。
足音がゆっくりと近づいて来る……そして、鍵穴の向こう側を、一人の若いメイドが通り過ぎていったよ……。
舌打ちする。
彼女は、バスケットを持っていた。
おそらくは見張りの兵士たちへの差し入れといったところだろう。あの長いハシゴをロングスカートで登ることはないとは思うが、大きな若い声で叫ぶかもしれないな。
そうなれば、気がつくだろう。
無言という事実に、違和感を覚えるはずだ。そうなれば誰かに報告をするかもしれん。アルノアに元から仕えている騎士団と、新参者の若い兵士たちは仲が良くないようだからな……失態があれば、報告しろと言われている可能性もある。
……作戦のデザインとは異なる。そいつは、良くないことだった。オレはゆっくりと扉を開いて、廊下へと踊り出る。無音のまま歩き、金色の長い髪が魅力的な若い娘の後を追いかけた。
……非戦闘員を攻撃することは、良くないことだが、今回はしょうがない。オレは睡眠の毒薬をハンカチに含ませた。そして、言葉を使うんだ。
「ちょっといいかな?」
「え?」
メイドが立ち止まった瞬間に、オレは彼女が振り返るよりも早く襲いかかっていた。睡眠薬の含ませたハンカチを使う。左腕でメイドの体を絡め取り、右手で睡眠薬を染みこませたハンカチを、彼女の鼻と口に押し当てていた。
「ふぐ!?」
「……あばれなくていい。変なことをするつもりもない。ちょっとだけ、眠っていてくれれば、それでいいんだ」
可能な限りやさしげな声を、蛮族の喉から出してみる。
オレの言葉などで、彼女が安心することなんて無かったとは思うが……10秒もすれば、彼女の意識は夢の世界へと堕ちていった。
ぐったりと脱力する彼女が、そのまま床に倒れたりしないように、オレは彼女を支える。騎士道に生きる男とすれば、女性に毒を盛るなんて、良くない行いだってことは理解しているよ。
……眠れるメイドの腕が持っていたバスケットが、ゆっくりと廊下の床石に触れていた。カチャリと、皿が鳴る小さな音が聞こえたよ…………彼女は、やさしい娘なのかもしれないな。
温かいスープも、運んで来てくれていたようだ。バスケットからは、挽いたトウモロコシが持つ、あのやさしげな甘い香りが漂っていた。
「……兵士たちが寒さに凍えないように、温かいスープの差し入れか。君は……彼らが居眠りしていたとしても、意地悪な騎士どもに密告したりするようなことは、しなかっただろうな」
敬意を払うべきやさしい乙女なのかもしれない―――あるいは、オレが痛めつけた若者たちのどちらかに、恋心でも抱いていたとか……。
若い男女だ。そういうことだって、あるよな。
……もしも、そんな小さなロマンスが砂漠の真ん中で起きていたとすれば、彼女の恋心が注がれている男が、矢に射殺された方でなければ良いのだがな……そう考えるのは、オレのエゴかもしれん。
オレは脱力した乙女を両腕で抱えると、廊下をしばらく歩いたよ。ハシゴのある場所さ、そのハシゴの近くに、彼女を寝かせておくことにする……意識は、しばらくは戻らない。明日の朝までは、頬を叩かれても眠り続けるだろう。
『風』の呪毒を含んだ睡眠薬だ。別に後遺症はない。不眠症の人物に対しては、薬草医が処方してくれる秘薬の一つだ―――まあ、濃度は十倍ぐらいはあるが、体に毒を残すことはないさ。
……もしかしたら恋でもしているやさしいメイドと、あまい香りを漂わせるバスケットをそこに置き去りにして、オレは再びアルノア伯爵の部屋に戻っていた。
時間が、また少しだけ失われていたな。
だが、問題はない。
魔眼を使うことで、闇のなかでも探索することは可能だ。
貴族趣味に彩られた室内を、眼帯を外した左眼で観察していく。
探すべきは、書類が保管されていそうな場所……あるいは、出しっ放しにしておきそうな場所か。
アルノア伯爵の部屋は整然としている。部屋の清掃係が片付けたのか、あるいは彼自身の手で整頓されているのかは、ちょっと判断がつかない。
「……どこにあると思う、アーレス?」
賢き古竜に訊いてみた。
頭のなかで、古びた声がささやくのさ。
―――そのようなこと、我が知るはずもなかろう。盗人の真似事など、我の興味の範囲外だからな。
……そういうのさ。でも、戦士ってのは、こういう時には盗人のマネをしておくべきじゃあるんだよ。アルノア伯爵が、『ラクタパクシャ』を結成していた証拠……そういう悪事を記した書類があれば、悪事に報いを受けさせることも可能になるかもしれん。
アルノアとメイウェイを衝突させることもいいが……皇帝ユアンダートに近しい人物のスキャンダルには、政治的な意味もある。
アルノアの不名誉があれば、ユアンダートの政敵は、それを利用しようと動く。あるいは『自由同盟』がその真実を広めることで、反・帝国の機運を高めることにも使える資料となるわけだ。
……具体的な使い方は、賢い人物たちに任せるとして。
使えるかもしれないアイテムは、手に入れておくべきだな……ここで見張り、アルノア伯爵の部下が処分をしに来るのを待つというのも手ではあるし、鍵をぶっ壊して、この部屋に侵入することが出来なくしておくのも手だが……。
見つけられるのならば、見つけておきたい。
猟兵の技巧を保つための練習でもあるが、オレ個人としての、ちょっとした挑戦でもある。
まあ、実のところ、アーレスの魔眼のおかげで、この暗闇に満ちた部屋のなかで候補は見つけてある。推理力を使う前に……技巧を使うべきものがあるのさ。
それに近づいていく。
そいつは金庫だ。大きな金庫ではない。せいぜい、宝石類ぐらいしか入らない大きさをしている。金のインゴットとか、金貨の束を入れておくには、ちょっと小さいかもな。
だが……執務用の机からは、そう離れてはおらず……このサイズなら、羊皮紙のスクロールなら、幾つか押し込めるだろう。
「安直かな?……仕事用の机の近くの棚に置かれた、小型の金庫。こんなものの中に、傭兵との取引を記した書類があると考えるコトは……?」
アーレスにバカにされるかもしれない。真に大切なものならば、持ち歩け。そういう言葉を使うような考え方を持っている竜だったから。
オレは金庫の鍵穴に、ピッキングツールを差し込み、今度は5秒で開けてみせた。悪い仕掛けじゃないが……帝国人が好む種類のシリーズだ。ヤツらの都にでもあるのかな、同じ工房で作られたと思しき金庫で、何度も見かけている品だ。
同じ工房で作られたアイテムには、どうしても職人たちの哲学が宿ってしまう。似た仕掛けなら、攻略するのも容易いということだよ。
あっさりと開いた金庫の奥には……書類があった。丸められた羊皮紙。こういうスクロールを、傭兵は好む。雨や土に汚れても、羊皮紙は溶けてしまうことはない。そして、貴族が使うよりも安価な品というところもいいな。
……小さな規模の商人も使うかもしれない、安げな羊皮紙のスクロール……オレは、それが金庫のなかに何本かあることに期待を抱いていた。
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