第三話 『白い氷河の悪しき神』 その15
姫騎士殿の海賊船『ヒュッケバイン号』は、黒く染められた帆に風を受けて、素晴らしい速度で冷たい海を走って行く。怠惰な豚にも見えていた海賊どもも、この海の上では素早く動いていたよ。
オレはその秘密を幾つか知っている。オレは操舵輪を握るフレイヤ・マルデルに、この高速海賊船が持つスピードについての分析結果を語ってみるよ。海は、とてもヒマだからね。
「この船の帆には、君が刻んだ『風』の祝福が踊っているな」
「ええ。よく気がつきましたね。さすがは、ストラウスさまです」
「眼帯の下にある竜の眼が、色々な真実を見せてくれるのでな」
『ヒュッケバイン号』の高速は、この黒い帆にかけられた魔術に依存しているのさ。『風』の祝福のおかげで、この帆からは風が抜けにくい。風を完璧に捕らえるからこそ、風の速度に近づけるというわけた。
そして、さらに言えば……。
「船底にも『風』の刻印があるのか?」
「はい。『ヒュッケバイン号』は、船体のあちこちに、速度と共に軽さを帯びる。そんな祝福を刻んでいるのです。もちろん、ありますよ、船底にも!」
「それゆえに、ここまでのスピードか」
「はい、この子は……『ヒュッケバイン号』は、きっと、この海で最も速く風に乗って走ります」
「最速の船か……いい響きだ!」
男心をグッと鷲づかみにされるよ。たしかに、ジーンくんの船と、ターミー船長の船は遅れている。良かったよ、もしもジーンくんの船に乗っていれば、この優越感は味わえなかった。
それどころか、リエルあたりにヘタレの船になど乗ったことを叱られていたかもしれない。
くくく、最速の船、『ヒュッケバイン号』。海賊の技巧と、姫騎士の魔術に支えられている最速の船!!いいねえ、それだけで、酒を呑みたくなるほどだ。
「しかし……よく君の船が燃え残っていたな」
帝国の兵士たちからは、最優先で火を放たれそうなものだがな……。
「他の船よりも『ヒュッケバイン号』にかけられた祝福の力は大きいですから。『炎』は『風』に踊らされてしまうものです」
「つまり、それが放火にも耐える力となったか」
「おそらく。それに、皆が私の船を優先して火災から救ってくれました。そちらの方が、大きい事実だと思うのです。この子が無事だったのは、皆のおかげ。感謝しても、しきれません」
「……なるほど。君たちらしくて、いい物語だと思うよ」
『ヒュッケバイン号』はフレイヤ・マルデルの海賊船。彼女の黒髪のように美しいこの船は、『ブラック・バート』たちの象徴でもある。海賊たちは、最優先でこの船を守ったのだろうな。
では、幸運だったのはターミー船長か。他の船に比べて、炎に焼かれなかったから、フレイヤ・マルデルの護衛が出来ている……しかし、ずいぶんと遅れ始めているな。
「ターミー船長の船は、調子が悪いのか?」
「はい。彼の船も、放火されたダメージがある。応急処置で間に合わせていますから」
「併走しなくていいのか?沈没したりはしないだろうか……」
「大丈夫です。彼らは一流の海賊たち。私たちの手助けがなくとも、必ずやついて来ます。ターミー自身からも、旅立つ前に、そう告げられています」
信頼関係が厚いようだ。
ターミーは、あのトーポ杯にも参加していたな。もしかして、彼は商品である『女神像』を、この『ヒュッケバイン号』に捧げたかったのか?……それとも、彼自身の船の先端に付けてみたかったのか。
訊くのは野暮だろう。どちらにせよ、彼は『女神像』を欲して、オレに殴られたりもした。ふむ。時間があり過ぎる船旅というのは、困りものだ。
「ターミーは、どんな男だ?」
あまり興味の無い質問さえも口からこぼれてしまう。
「一言でいえば……いいヒトですよ!」
彼女は、たくさんのヒトを『いいヒト』と呼びそうだな。育ちがいいというか、心が清すぎるというかね。
「それでは、よく分からんよ」
「たしかに、そうですね。ターミーは、元々、私の母の護衛を務めていた騎士でした」
「ほう。どこかやさしさと知性を感じさせたのは、本職の護衛だからかな」
馬術もなかなかに上手かったな。騎士としての経験がさせたのかね。
「きっと、そうだと思います。あと、子煩悩ですよ」
「妻子がいるのか」
「……いいえ。レベッカは帝国との戦いに巻き込まれて、お亡くなりに」
「レベッカ、つまり彼の妻か」
「はい。胸に矢が刺さっていました。ターミーには、三人の子供たちが残りました。アドル、クイント、セリーヌ。みんな、とても、いい子に育っています」
戦乱の半島にあふれる悲劇の一つか。ターミー船長。妻帯者のオレには、君の身に起こった悲劇の痛みが想像がつくよ。耐えがたい苦しみだっただろう。オレならば、自害も考えるかもしれない。
だが、家族の……子供たちの存在が、君の人生がそこで終わることを認めなかったのか。いい父親であれ、オレはそれだけを君に望むよ。
「ストラウスさまには、お子様はまだおられないのですか?」
子供好きの姫騎士さまが、そんなことを口にする。
「ふむ。まだだ。その内には出来ると思うがね。人間族と亜人種のあいだでは、人間同士の場合よりも妊娠の確率が低いそうだ」
「そうですか。お子様が生まれたら、どんな名前をつけたいですか?」
「……まだ、考えたこともないね」
「ウフフ。でも、遠くない『未来』かもしれません。考えておいた方が、よいかもしれませんよ?ストラウスさまには、三人も奥様がおられるのですから」
「たしかにね。一般的な家庭よりも、三倍の名付けを考えなくちゃならない。そうだ、君の方はどうなんだ?」
「え?私が、何ですか?」
「君だって、子供を産める。女だからな。自分が産む子供の、名前を考えたことはないのか?」
「そうですね。カッコいい名前がいいとは思いますが……具体的には、ないです!」
「結婚に、興味はないのか?」
「いつか出来たら幸せなことだと思いますが、恋人もいない私には縁がなさそうです」
これをチャンスだと考えろと、ジーンくんに知らせてやるべきかな。
そうすると、ヘタレは安心して重たい腰がさらに重くなってしまうかもしれん。教えないのが得策だろう。オレは、ジーンくんの恋を……ちょっとは応援したいのかな。
この鋭いのか鈍感なのか、よく分からないお姫さまに、愛する女のために竜の背から飛び降りた男の物語を伝えてやりたくもなる。
おせっかいすぎるかもしれん。
たかが傭兵だ。流れ者に過ぎない立場だ。このお姫さまは、アリューバ半島の政治的な継承者になるかもしれないお方だ。悪い虫に過ぎない、ジーン・ウォーカーなんぞと、くっつけたところで得はない。
そうだよ。ザクロアの大商人とか、ルードの貴族さまとか。このアリューバ半島を支えてくれるであろう人物を、彼女の旦那に推薦すべきだな。オレは、クラリス陛下の傭兵で、『自由同盟』の結束を望む立場のはずだぞ?
あんなヘタレを、フレイヤの旦那に推薦することは……あまりに愚かしい。ジーンと彼女を結婚させたところで、この半島に資することは少ない。半島の外との勢力に結びつきの強い、財力、政治力に秀でた男たちに比べたら、あのヘタレはあまりにも低価値だ。
だがよ。
だが……。
オレは分かっちまっている。
フレイヤを権力の象徴としてしか見ない男たちは、きっとゼファーの背から、彼女のために飛び降りることは出来ないんだよ。
でもな。このオレよりも、竜騎士よりも早く、より高い場所から、あのヘタレなはずの男は跳んだよ。ただただ、フレイヤ・マルデルが愛しいからという理由でな。フレイヤの名前を叫びながら、空へと跳んだ。
そいつをね、知っているんだ。
オレとゼファーだけが知っているのさ……ああ、まるで、義務のように思えてしまう。
フレイヤ・マルデルのために、命を省みない男の名前を知っている。それを伝えてやることは、ジーンを友だと感じている、オレの義務なのではないのだろうか?
冷たい海を見続けている姫騎士を見た。彼女は微笑んでいるよ。死地に向かうこの時さえ。
死をも受け入れている彼女の気高い人生を……共に歩むべき男は、政治力や財力などで決めるべきか?
乱世だ、彼女が窮地に陥ることもあるだろう。
もしも、そんなとき……どうにもならず、死ぬしかなくなったとき。そんな日が来たとしても、絶対に彼女の側から逃げ出さない男こそが、フレイヤ・マルデルを愛する資格を持つ男なのではないだろうか。
それが出来る男は、ザクロアの商人でもない。ルードの貴族でもないだろう。馬の骨にしか過ぎない、ただのヘタレな海賊だけな気がするんだよね。
「……フレイヤ」
「なんですか、ストラウスさま」
「君は……愛情が持つ価値は、黄金や、権力よりも尊いものだと思うか?」
「はい。その絆だけは、きっと、私を裏切らない。もし、裏切ったとしても……愛のためなら、私は許せると思います」
また、どこか不思議な言葉をオレの耳に届けてくるよ。それは君のことを守りたくて、『ブラック・バート』を売った、あの哀れな海賊のことかい?それとも、他の愛についてのことだろうか。
彼女の心と言葉は、ガルーナの野蛮人には難解だ。だから、もっと具体的な言葉を選ぶとしよう。
「人生の最期の日に……君は、誰と一緒にいたい?」
「……そうですねえ。出来れば、たくさんの方と一緒にいたいかもしれません。『ブラック・バート』の皆にも、お別れを言いたいですし。それに……」
「……それに?」
発言を促すように放たれた、オレの不躾な言葉は彼女の耳に届いたのか。よく分からない。フレイヤは自分の死を想像しているこの瞬間でさえも、微笑みを浮かべている。でも、それは殉教者のような覚悟の笑顔ではない。
おだやかな微笑みの中にも、未練を感じるよ。君はさみしそうな笑顔をしているように見えるのだ。どこを向いている。空か、海か?いいや……君は、瞳を閉じた。そして、強がるように笑うのさ。その言葉と共に。
「……ジーンにも、お別れを言いたいですよ。彼は、私の幼なじみですから!」
「……そうか」
なあ、ヘタレのジーンよ。
喜べ。
オレはね、色々と考え込んじゃったけど。今、決めちまった。細かいコトは考えねえ。オレは、君の恋が叶うことを応援してやろうと思うよ。だから、お前、ちょっとココに来い。
ゼファーでお前を連れに行くから、この子に今すぐ告白してみろ。失敗しても、しつこく食い下がれ。ヘタレ野郎の貴様が、何百回告白しそこなったか知らないが……その何割かを、これから彼女に繰り返してぶつけちまえ。
そうしたら。
そうしたらよ、ヘタレなお前の言葉でも、彼女に届いてしまうんじゃないかと、オレは思っているんだけどね。
「さて……ちょっくら、オレはジーンくんを拉致って来よう」
「え?ストラウスさま、私は今日、死ぬのですか?」
「ちがうよ。ただ、ちょっと、オレにはすべきことが―――ッ!?」
そうだ。
すべきことが出来ようとしている。
ゼファーがその成長した長い首を持ち上げていた。マストの上にいる見張りの海賊が持つ船乗りの瞳よりも、竜の魔力に輝く眼の方が、はるかに遠くを見通せるのだから。魔眼を通じて、オレも、それを見たぞ、ゼファー!!
『……『どーじぇ』ッ!!おおきくて、うごく、こおりがいるよッッ!!』
なんとも心当たりがある言葉だったよ。知っているさ、夏場以外は、やって来るんだったよな。北海の果てから……『ゼルアガ』の眷属どもがッ!!
「……『霜の巨人』。ガルディーナの島に向かうこのルートならば、必ずや遭遇すると考えていました。ですが、こんなにも早くに……っ」
「……フン。それならば、いいさ。ガラに合わないボランティアよりも、ビジネスに従事するとしよう」
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