第一話 『イラーヴァの森の魔獣たち』 その13


 ―――シアン・ヴァティは音と気配も魔力も消して、森の気配と融合して進むのだ。


 森を走ると、その肉が、その血が……彼女の記憶の扉を開いていくよ。


 そうだ、この原初の森林でシアン・ヴァティは形作られた。


 音を消して走る術、怪物たちの殺意を気取る耳、殺すための剣術。




 ―――この森林が、彼女に全てを与えてくれたのさ。


 強さも、性格も、価値観も、生きるために必要な全てを。


 そうだった、始まりさえも、この森林が与えてくれている……。


 シアン・ヴァティの、始まりも……。




 ―――27年前、ハイランドの王族は激しい内戦に明け暮れていた。


 その内戦から落ち延びるように、北の台地から一人の妊婦が逃げてきた。


 大いなるヴァールナを下り、原初の森林を西へと向かって逃げていく……。


 序列の低い王族の娘だった、『虎』である騎士団長との間に出来た子を宿していた。




 ―――殺し合いばかりの『須弥山』を嫌い、赤子の命を守るために北を脱出したのさ。


 川の流れが母体に祟ったのか、予定よりも早く陣痛が来てしまう……。


 危険を承知で、その一行は船を浅瀬に停泊させた……。


 難産になった、王族の娘についてきた医者は、判断を迫られる。




 ―――母体か、胎児か……選ぶとすれば、どちらだろうか?


 選択の重さに耐えかねて、医者は胎児の両親に訊く。


 『虎』である父親は、その問いに答えを出せなかった、戦士でも迷うことはある。


 王族の娘は、迷いなく決断する……お腹を切って、赤ちゃんを出して。




 ―――月明かりの下で、麻酔もなく。


 彼女の腹は切られていった、彼女は、泣きも叫びもしなかった。


 『虎』である父親は、ただただ不安でしかたがなかった。


 熱されたナイフが、妊婦のふくらんだ腹を切り裂いて―――。




 ―――血に染まった新たな命が、そのとき産まれた……。


 己の命の生誕を、赤子は歌うように叫んだ。


 母親は、勝利を感じて笑みを浮かべ。


 父親は……『敵』に気がついていた。




 ―――船を出せ、早く!!


 それだけ言って、『虎』は浅瀬に身を躍らせる!!


 双刀を抜き放ち、『敵』を睨みつけるのだ。


 牙を剥き、その黒く邪悪な『敵』へと挑んだ!!





 ―――『虎』のなかでも最強と謳われた男は、夜の浅瀬で『敵』と戦う!!


 善戦はした……善戦はしたはずだが……その漆黒の『敵』は手足を失っても諦めない。


 『虎』でも知らぬ魔獣であった……黒い体、琥珀色の瞳、長い尻尾、そして緋色の『紋章』が身に浮かぶ。


 そのとき、『虎』は、『それ』が何であるかを悟っていた。




 ―――殺せる存在ではない、殺してはならない……殺せば……無垢な命に取り憑く!!


 そうだよ、それこそが……『悪鬼獣シャイターン』の『呪い』さ。


 絶対禁忌の邪術に呼ばれた、その悪魔、今ここで殺せば、その魂が取り憑くのは……?


 産まれたばかりの、『虎』の赤子だった。




 ―――殺すことを躊躇えば、無敵の『虎』の刃さえも鈍った……。


 再生を始めているシャイターンに、『虎』はトドメを刺すことが出来なかった。


 全身を復元したシャイターンは、死の恨みに強化された肉体を用いて『虎』を襲う。


 『虎』は戦いをつづけた、その終わりの無い死闘に……『虎』の命は削られていく。




 ―――やがて、シャイターンは『虎』を食い殺していた。


 勝つことを選べなかった戦いは、そうして終わる。


 シャイターンは浅瀬を走り、逃げる船へと追いついていた。


 そこにいたのは、王族の娘だけだった。




 ―――まだ、腹を縫い終わっていなかったが……フーレンの姫は刀を構える!


 ……来なさい、シャイターン!!


 私の夫を喰らったその牙で、私のことも喰らってみせろ!!


 シャイターンは血に濡れた赤い口を歪ませて、歓喜のままに彼女をも喰らう。




 ―――王族の血肉の味に歓喜しながら、牙の間にはさまった肉の線維を爪で取る。


 星空の下で、殺戮と食事を楽しんだシャイターンは……尻尾を振って、森へと戻った。


 両親の命を犠牲にして、新たな命は生きていた。


 母親の機転で、ヴァールナ川の支流の一つに、流されていた。




 ―――賭けだったが、勝利のための根拠はあったんだ。


 原初の森林は、『頂点』たちがいるときだけは、弱者が逃げ去るのさ……。


 その秘密を王族の娘は知っていた、だから、シャイターンがいるということは?


 他の魔獣たちは、絶対に現れたりしないのさ……。




 ―――こうして、産まれたばかりの赤子は、血塗られたまま川を流れていき……。


 盗賊たちの隠れ家へと、流れついた。


 子供を森で亡くしたばかりの盗賊の長は、その赤ん坊を、娘の生まれ変わりだと信じ。


 その娘に、『シアン・ヴァティ』の名をつける……。




 ―――森の伝説、それが嘘か真か知らないが……私の出自など、知ったことではない。


 私は『虎』だ、『虎』たちの女の中で最強、『虎姫』だ。


 求めるのは、ただただ『強さ』、それのみのこと―――。


 他の一切は、余分なことである。




 ―――子供の頃と同じようだ、兄たちと共に、無言のまま森を駆けた時と同じこと。


 無言にして、無音。


 最小限の動きで、最大限の成果を出すために。


 それを目指すことで、兄たちに追いつこうとしていた子供の頃と同じだった。




 ―――子供の頃と違うのは?敗北を知り、その誇りをさらに磨いたこと。


 折れぬ曲がらぬ気高さが、研がれた鋼の光を帯びる。


 未熟さは消えて、強さの高みへと駆け上った肉体がそこにあった。


 伸びきった手足は、力と速さを彼女に与え、より完成された『虎』へと至らせる。




 ―――剣士としての技巧は増えた、戦士としての頑強さも増した。


 暗殺者の術をも極め、狩人の知恵を貪欲に蓄えて来た。


 多くの命を奪い、医者並みに生命の急所を学び取る。


 鋼を打ち、自らの動きのためだけに、その刀の曲がりを創造したのさ……。




 ―――己が見た限界を、幾度も超えた。


 現実で、殺し、夢の中で、殺し。


 血を流し、血を浴びて、魂を赤く染めたのさ。


 今の彼女は未熟を消し去り、純粋なまでの『死』の化身……真なる『虎』だよ。




 ―――無音の疾走は原初の森を貫いて、かつての敗北の地にたどり着く。


 三人の兄たちと挑み……結局は打ち負かされた、その土地だ。


 今度は、あのときよりも五倍は強い『虎姫』がここにいる。


 そして……『虎姫』よりも強い『魔王』も連れて来てやったぞ?




 ―――難民のためのルート作り?今の彼女には、その作戦目的さえも頭にはない。


 そうだ、それこそがフーレンたちの上級戦士、『虎』の本質。


 求めるのは戦いであり、その他のことは、些細なことに過ぎぬのだ!!


 原初の森が……開ける。




 ―――ああ、『狩猟王イラーヴァ』よ、私は還ってきたぞ、お前の狩猟場に!!


 森の王と、貴様の闘争本能を比べるためだけに『作られた』、この呪われた土地に!!


 我が兄の命をひとつ、預けたままであったなあ!!


 返してもらうぞ、イラーヴァよ!!




 ―――兄の仇討ちとは言わん、あの戦いは、ただの試練だ。


 殺された兄と、守れなかった私たちだけが、ただただ悪いぞ。


 だが、返してもらおうか、『虎』の誇りを。


 負けたままでは、せっかく、生きている歓びが、半減してしまうからな?




 ―――さあて、ソルジェ・ストラウスよ?


 見ているな?あの竜の業に取り憑かれた金色の瞳で?


 見届けてくれ、このシアン・ヴァティの『生き様』をな!!


 我は、『虎姫』!!この森が産んだ、最強のフーレン……『虎』だッッ!!




 ―――シアンの放った名乗りが帯びた闘志に反応し、大地が揺れていく……っ。


 そうさ、ソルジェの賢しい眼は、今日も予想を的中させたよ。


 あの『池』は、『ギラア・バトゥ』たちの『巣穴』だったのさ!!


 大地が揺れて、『ギラア・バトゥ』たちが踏み固めた『イラーヴァの森』が動く!!




 ―――魚の群れを求めて、海から天へと衝き上がる鯨のように……。


 黒い影が大きな池の水面を、破裂させながら曇り空へと突き抜けていく!!


 丘の上にいるソルジェたちは、驚愕を禁じ得ない。


 想像よりも、大きかったよ、その『岩山』はね?




 ―――泥を吸い上げ、喰らうことで確保した土壌の金属たち……。


 この『森林そのもの』を喰らうことで成し遂げた、その成長。


 鎧のように金属が宿るその鋼の表皮は、漆黒で、その肉体は山のようだ。


 その醜く歪んだ、圧倒的な巨体……ッッ!!ソルジェは、喜んでいたね!!




 ―――頭頂の高さにして……17メートル。


 岩にも見える金属表皮に、全身を包んだ、その歪んだ巨体。


 象にも似ているし、長く大きな鼻はあるが……その先には枝分かれする角があった。


 象のように牙があるが、それは鉄塔のように長く、歪で、苔むしている。




 ―――ああ、『ギラア・バトゥ』よ……確かに象よりも、大いなる山のようだ。


 ヒトの生み出す軍勢に見飽きて来ている、シアン・ヴァティ。


 彼女の魂に潜む『虎』が、歓喜の熱を解き放つ!!


 帰還を喜んでいるのさ、彼女の本能が!!




 ―――これぞ、私の故郷の光景だッッ!!


 池より上がったその魔象の、大きく太い首が動く。


 生きた年月によりすっかりと色あせた白い眼球で、彼は『虎』を見た。


 『ギラア・バトゥ』は記憶を失うことはない、賢く危険なモンスターの王だ。




 ―――その『虎』を見て、思い出すのさ。


 何度も何度も、仲間を殺していった、黒い『虎』の一族を。


 山賊・ヴァティ一家の、狂暴なる『虎』たちの姿をね?


 魔象が唸るよ、報復の宣言が、ちいさく強い『虎』へとスコールのように降り注ぐ。




 ―――BAAAOOOOOOOOOOOOOOOOOOHHHHHNNNNNッッ!!


 原初の森林の木々たちが、その怒りの歌に揺さぶられていく。


 居留守を決め込んでいた鳥たちも、王者の歌に怯えて、曇天の空へと逃げた!!


 ソルジェは、呼応する、魂を昂ぶらせるのさ!!




 ―――負けてられるか!!魔王の気高い誇りが、そう叫ぶ。


 だから?もちろん、彼は曇天をにらみつけ、天へと歌声を放つのだ!!


 歌ええええええッ!!ゼファーぁああああああああああああああああああああッッ!!


 GAAHHHOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOHHHHHHHHッッ!!




 ―――怪獣たちの歌の渦のなかで、シアン・ヴァティは『長』の命令を感じ取る。


 まったく、傲慢な男だな……負けるな、殺せだと?そんなことは知っている。


 ……だが、『長』よ、『虎姫』に命じることが出来るのは、お前だけの特権だ。


 いいだろう、捧げてやる、この獲物を殺し、お前の『虎』の力を示してやろう。




 『虎』が笑う……抜き放った双刀の牙に、誇りを捧げ……シアン・ヴァティが走った!!


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る