音痴の合唱

@ns_ky_20151225

音痴の合唱

 すみません、と声をかけてきたのは老婦人だった。栄京デパートへはどう行けばいいんでしょうか?

 ここは翼デパートですよ、と返事をする。私はそこの仕入れ担当と打ち合わせを終え、次の取引先に向かうため地下鉄口を探していた所だった。とにかく地下階に行けばいいだろうと思っていた。

 しかし、本当に困った顔をして行き先を探している母ほどの年齢の人に素っ気なくはできなかった。それが競合店であっても。


 一緒に行きましょう、地上階まで降りれば何とかなるでしょう。


 そして、何とかなった。地上階には様々な場所への案内が記された大きな表示がある。みな手元のスマートフォンと見比べたり指差したりしながら調べていた。

 栄京デパートに一番近い出口の表示もあった。競合店であってもきちんと記されていた。あちらもそうしているだろう。

 床には表示から線が伸びている。私はそれに沿って歩き、老婦人をその出口まで送り届けた。そこを出ると建物が見える。さすがにもう迷わないだろうとそこで別れた。老婦人は何度も頭を下げながらそちらへ歩いていった。

 また店内に戻り、ちょっと見回してエスカレーターを見つけたので地下に降りる。また表示を探し、乗るべき地下鉄につながっている出口から出た。


 駅に向かう途中や構内では道を探す人々同士が地図やスマートフォン等を見せ合いながら話をしている。地図やガイドブックはくるくると回されていた。

 私も人に尋ね、教えられながらやっと地下鉄に乗った。しかし、三回確かめたはずなのに逆方向だったのであわてて降り、戻り方向に乗り直した。


 席に落ち着き、取引先に遅刻のメールを送った。道に迷いました、と必ず許される理由を書く。私もこの言い訳を使われると怒れない。今どき時間通り相手先に着くなどほとんどない。それは誰もがよく分かっていた。


 地下鉄に揺られながら資料を開き、何でこうなったのかな、と考えてやめた。私なんかよりはるかに頭のいい人々が考えても原因すら分からず、対処療法すらできないのに。

 新種のウィルスか新たな進化か天文現象か。それとも呪いか

 理由は検討もつかないが、現象ははっきりしていた。人類は方向音痴になった。ある者は脳内の方向感覚を司る部位の働きが極端に衰えた。ある者は定位を行う器官と脳の連携がほとんど取れなくなった。私は神経系に障害が発生し、位置に関する情報の伝達がおかしい。場所や方向を伝える信号だけがノイズだらけになったようなものだと説明された。


 あちらでは済まなそうに頭を下げる若者がいて、こちらにはにこやかに礼を言う中年がいた。

 どこかに行こうとして尋ねないでたどり着く事は無理だ。地図はあるが症状の現れ方によっては読めない。逆に地図は読めても現実の空間に当てはめられない人もいる。私はあっちがこっちになり、こっちがあっちになる。はっきりした目印がないと区別がつきにくい。

 方向音痴と言っても、どういう方向音痴かは様々なのでお互いに補い合いながら確認するしかない。


 黙ったまま他人の事など知ったことかという態度は取れなくなった。助けてもらわなければ目的地にすら到着できない。

 人々は赤の他人であってもよく話すようになったし、困った表情で立ち尽くす人が放って置かれる事はなくなった。

 道案内や表示の類は増え、国が音頭を取って表記の統一も進んでいた。いずれ近いうちに国際的なガイドラインもできるだろう。


 迷うのは困るが、それが当たり前になると仕事の仕方も変わった。どうしても出向かなくてはならない場合以外はネットが役に立つ。出向いて迷うと時間の無駄だが、その分は他で効率よく業務を進められるよう工夫する。コンピュータとインターネットがあって良かったと思う。


 あの、すみません、と隣の席の人が画面を差し出してきた。ここへ行くにはこの電車でいいんですよね。私は分からないと謝って首を振る。多分、と思うが今乗り間違えたばかりだ。

 すると、前に立っていた人が覗き込んできて教えてくれる。その人も私も礼を言い、三人で微笑んだ。


 また資料に目を落とし、書き込みをする。文字変換をするとき、候補に『方向音痴』と現れた。偶然だが今の状況そのものだ。


 しかし、と、私は思う。


 皆が音痴でも、合唱はできるんだ。


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