第40話 サプライズ

七月下旬。終業式。

僕は高校生活初めての夏休みを迎えた。



「友瀬。来週からのことなんだがな」


程好くお腹も空いてきた夕暮れ時。

帰り道の車の中で、由加里先生が切り出してくる。僕は内容を察して、先んじて答えた。


「合宿ですよね? 頑張ってきてください、先生」

「ああ、知っていたか。それで、私が合宿に行っている間なんだが、君はどうする?」


つまり、その間一度自宅に帰るか、一人でも合宿を続けるか、という話だろう。

僕は即答した。


「合宿を続けたいです!」


それ以外、考えられなかった。

隣で運転しながら、由加里先生がフッと笑った気がした。


「そうか。私としても助かるよ。その、なんだ……君がいないと、たぶん部屋が目も当てられない状態になってしまうと思うからな」


ちょっと恥ずかしそうに言う由加里先生。可愛い。


「大丈夫です! 任せてください」

「ありがとう。いつもすまないな」

「いえ!……ん? あれ?」


手前で曲がるはずだった交差点を直進し、車がいつもと違う道を走る。僕が不思議に思って由加里先生を見ると、彼女は何かを企んでいるような笑みを浮かべていた。


「先生? どこか寄って行くんですか」

「そうだな。ところで友瀬、腹は減ってるか?」

「え? ええ、まあ。それなりに」


いつもなら、このまま帰ってすぐに夕飯の準備だからね。


「そうか。ならよかった」

「なにがです?」

「ちょっとな。まあ、着いてからのお楽しみだ」


なんだろう? もしかして夕飯まで我慢できないから、買い食いする気なのかな?

そんなことを思いながら揺れる車に身を任せていると、


「着いたぞ」


由加里先生は三台くらいの小さな駐車場に入り、車を停める。


「ここは……」


やって来たのは、一見すると普通のお洒落な一軒家のようだが、よく見るとレストランと書かれた看板が垂れ下がっていた。


「ここには前に一度、知人の薦めで来たことがあってな。料理が美味しかったのを覚えている。さあ、入ろう」


促されるまま、僕は店に入る。カランカランと扉に掛かっていた鈴が鳴り、聞きつけたエプロン姿の中年女性の店員がやって来た。


「いらっしゃいませ」

「19時から予約している立花ですが」


予約?


「立花様ですね? お待ちしておりました。どうぞこちらへ」


女性店員は丁寧に頭を下げた後、僕達を席に案内してくれた。

店内は6席ほどの小さな店で、全体的にダークブラウンの木材で装飾された落ち着いた雰囲気のレストランだった。俗に言う隠れ家的なヤツだろうか。


よく分かっていないまま案内され、席に座る。


「本日はご来店いただきまして、ありがとうございます。本日の内容は、ご予約の際に承りましたコース料理でお間違いないでしょうか」

「はい。それでお願いします」

「かしこまりました。すぐにお飲み物をお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」


そう言って、店員さんは厨房に戻っていく。


「先生、これはいったい……?」

「いや、なに。そういえば、君のお祝いをしていなかったな、と思ってな」

「お祝い、ですか?」

「そうだ。君の試験結果は見た。素晴らしい結果だった。その祝いだ」

「先生……そんな」


言いかけたところで、店員さんが飲み物を持ってやって来た。


「お待たせ致しました」


グラスに注がれたのは、透明な薄い飴色の炭酸水。先生も同じ物だった。アルコール抜きのシャンパンだろうか。

由加里先生はグラスを手に取り、僕を待った。慌てて手に取り、続く。


「それじゃあ……」


僕がグラスを持ったことを確認し、先生が自分のグラスを近づける。

キンッと鳴り響く硝子の音。


「乾杯、だな」


飲み口が小さく、細長いグラスを、由加里先生は慣れた所作で呷る。とても上品で、色気があった。

僕も一口含む。りんごの味に似ていて、甘かった。美味しい。


「友瀬」


改まった声で呼ばれ、僕はそっとグラスを置き、由加里先生に向き直る。

彼女はとても優しげな、温かな笑みを僕に向けて、穏やかに告げた。


「よく、がんばったな」


心臓が大きく跳ねた。

たぶん、前までの僕だったらここで泣いてしまっていただろう。

けど今は、嬉しさと、愛しさが勝って、何かが胸の奥で暴れ回っていた。

危なかった。

ここが人目のある店内じゃなくて、二人きりの部屋の中とかだったら、自分を抑えられなかったかもしれない。


「ありがとう、ございます」

「礼を言うのは私の方さ」

「え? どうしてですか」


僕が訊ねると、先生は再度シャンパンを呷り、グラスの中で音を立てる気泡を見つめながら微笑んだ。


「私の指導で生徒が成果を残すことほど嬉しいものはない。教師冥利に尽きる思いだ」

「それなら僕の方が感謝することはたくさんで……ここまでしてもらうのは申し訳ないですって」

「そう言うな。実はな、生徒と一緒にこうして食事に行ってみたかったんだ」

「え?」


それは意外な理由。


「けど、知っての通り私は生徒達からは恐がられてしまっているからな。それ自体は生徒を想えばこそだから後悔はないのだが、他の先生方が少し羨ましくてな」


いや、由加里先生を慕っている生徒はいっぱいいますよ? 先生が誘ったら、たぶん女子とか涙を流して喜ぶんじゃないかな。


「それに、君にはいつも家事諸々助かっている。それも含めての、お祝いだ。……さ、料理がきたようだ」


並べられた料理は、前菜からメインまで随所にシェフのこだわりが垣間見え、先生の言っていた通りどれもとても美味しかった。


はじめ、食器の扱いなどに慣れてなくて緊張したけど、先生の美しい所作を見て真似した。

本当に美味しくて、食べる手が止まらなかった。

途中、口許にソースがついてしまい、それを由加里先生が笑って教えてくれた。その笑顔にまたドキッとさせられた。


「そうだ、先生? ここには前に来たことがあるって言ってたけど、そのときもお祝いかなにかだったんですか?」


彼氏とのデートで、とか言われたらどうしよう。死ねる。

すると、由加里先生はなにかを思い出したのか、苦い表情になる。


「ああ。まゆ……じゃなくて、三村先生とな」


あのぽわんってイメージをした、英語の三村まゆ美先生か。


「仲いいんですか?」

「大学が一緒で、同期なんだよ」


へぇ。知らなかった。


「なんでも、当時の彼氏と記念日に予約していたらしいんだが、直前で別れたみたいでな。それで代わりにお呼ばれしたわけだ。そこまでは、まあよかったんだが、結局最後まで延々と愚痴を聞かされる羽目になったんだよ」


額を押さえ、呆れたように言う由加里先生。

え? 三村先生ってそんなキャラなの?


「あいつは昔から男と付き合っても長続きしなくてな。すぐ別れてはヤケ酒に付き合わされるんだ」


ああ……あの可愛らしくて癒やし系で評判の三村先生のイメージがどんどん崩れていく。他の人には黙っておこう。


それより、せっかく気になる話題が出てきたから、勇気を出して少し踏み込んでみよう。


「先生は……えと、そういう話はないんですか? その、彼氏、とか」


いるって言われたら、たぶん立ち直れないな、僕。


「私は、その手のことは全くだな。三村先生のように可愛らしい女でもないし、こんな性格の所為か、近づく者さえいなかったよ」


それを聞いて、僕は胸を撫で下ろす。

けどよくよく考えれば、そんな相手がいたら僕を家に入れたり、ましてや泊めたりなんてしないか。


それにしても、なんで皆、由加里先生のことを恐がるんだろう。こんなにも優しい先生なのに。


けど、僕はそれを誰かに教えたいとは思わなかった。

言えば、話し掛けてくる生徒も増えて、先生の言っていた望みも叶うかもしれない。それでも僕は、僕だけが本当の由加里先生の姿を独占していたかった。


ごめんね、先生。


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