第16話 うつつのぬくもり
「どうした、友瀬? そこは教科書を使った説明の方が伝わりやすいだろう」
勉強後の授業練習中、案の定、先生にそうツッコまれてしまった。
「そ、そうなんですけど……その……」
それでも出し渋っている僕の様子に、由加里先生は怪訝そうな顔を向ける。
「なにをしている? 早くしたまえ」
「は、はい……」
これ以上は誤魔化せない。
覚悟を決めて本当のことを打ち明けようかと思ったとき、
「おい、まさか……」
先に先生の方が気付いたようで、剣呑な表情に変わった。
「友瀬、教科書をここに出せ」
低い声で、静かにそう告げられる。
これ以上隠し通すのは無理だと観念して、僕は濡れてシワだらけになった教科書を取り出して、テーブルの上に置いた。
それを見て、由加里先生が目を細めた。
「非道いな、これは……」
怒りの込められた声色で先生が呟いた。
「やられたのはこれだけか?」
「いえ、その……あとは、ジャージとか、です」
「やったのは……同じ相手か」
「たぶん……帰り際に気付いたので」
眞白さんの様子は気になったが、たぶん関係ないだろう。彼女はこんなことができる人じゃないと思う。
しばし考え込むように教科書を見つめてから、先生は意を決したように顔を上げると、
「なあ、友瀬。やはりこの件は私から――」
「大丈夫ですッ」
先生の言葉を遮って叫ぶ。
「僕は、大丈夫ですから……」
「友瀬」
「僕は変わるって……変わって、見返してやるんだって、決めたんです。そのために、こうして先生に迷惑を掛けてまで合宿をしてもらってるんです」
「迷惑なんてことはないさ」
「ありがとうございます。だから僕は、この合宿をがんばるって決めたんです」
僕はまっすぐに先生を見つめる。
「先生がくれたこのチャンスを、絶対に無駄にはしたくないんです」
先生は表情を崩さないまま、押し黙る。それから一度目を伏せて、
「……わかった」
小さく頷いた。
その反応は少し意外だと思った。先生なら、僕の決意をもっと褒めてくれるかと思ったからだ。学校や車で、頭をがしっとしてくれたときのように。
「今夜はここまでにしよう。風呂入ってこい」
「先生、電気消していいですか」
今夜も僕は勉強、先生は仕事を切り上げ、寝室に向かう。並んでる先生のベッドと僕の敷き布団は、相変わらず距離が近い。
「その前に、こちらに来て、少し隣に座りたまえ」
そう言って、先生はベッドの縁に座って隣をぽんぽんと叩く。
「先生? どうしたんですか、急に」
「話しておきたいことがある。早く座れ」
とりあえず、言われたとおり隣に腰を下ろす。ベッドが僅かに軋む。
「先生、話というのは……」
「先程の話で、君の決意はよく分かった。生徒の主張を、私は尊重したいと思う」
「はい。ありがとうございます」
先生の香りが届く距離に座っているので、少し緊張する。
同じシャンプーを借りている筈なのに、なぜか僕とは違ってすごいいい匂いに感じた。
「しかし、だ」
真剣な声色で、先生は僕に向き直る。その表情は、少し強張っているようだった。
「君に我慢を強いるようなことは容認できない」
「我慢を強いる、ですか」
「ああ。私の提案が、君に助けを求めることを我慢させてしまっているのなら、これ以上合宿を続けることはできない」
「えッ!? なっ、なんでですかッ」
突然の申し出に驚いて、僕は思わず詰め寄っていた。
「君の決意は疑わない。だが、そのために、本来苦しむ必要のないことに苦しみ、手を伸ばすべきところで躊躇してしまっている。それは絶対に生徒にさせてはならないことであり、引いては私の提案が間違っていたということだ」
「そんなこと……僕は本当に何とも思ってないんです! 僕はこの合宿を頑張りたいと―――」
「けど君はッ―――」
いつになく強い声で、先生は僕の言葉を遮る。
そして、優しげな瞳で僕を見つめて、僕が痛まないようにそっと傷口に触れた。
「けど君は、泣いていただろう」
言葉が、僕を貫いた。
「ずっと苦しかったんだろう。誰にも助けを求められなかったのだろう。けど、言ったはずだ。これからは私が君の味方になると」
先生の穏やかな声が、孤独に慣れていた僕の冷めた心を温めていく。
僕の中ではもう、由加里先生に対する恐くて厳しい先生というレッテルはとっくに消え去っていた。
「なあ、友瀬。誰かに弱さを見せることに馴れていないなら、せめてこの家にいるときだけは、私を頼ってくれないか」
「先生……僕は……」
「苦しいときに苦しいと言えなくなったら、人は必ず壊れてしまう。私は君に、そうなってほしくないんだ」
嘘偽りのない言葉たち。
絶対に裏切らないと、信じさせてくれる人。
そんな人が身近にいてくれる幸運。
どこかでそれを、夢幻だと思っていたのかもしれない。
「先生。僕は、迷惑じゃないですか? 先生の負担になってませんか? 僕は……弱いですか」
震えた声でそう呟く僕を、由加里先生がそっと抱き寄せてくる。
僕の顔が先生の柔らかな胸に埋められる。少し力強く抱きしめるところが、先生らしいと思った。
「生徒が教師に遠慮するな、と言ってもすぐに切り替えることはできないだろう。だからせめて、私には遠慮せずに頼ってほしいのだ」
柔らかくて、いい匂いがして、温かい。
この優しさに溺れてしまえば、僕はもう、二度とこの温もりから抜け出せない自信があった。この温もりが喪われたら、僕はもう、二度と立ち上がれない自信も。
けど同じくらい、由加里先生は絶対に僕を助けてくれるって自信もあった。絶対に見捨てたりしないって、思わせてくれる。
この温もりは、決して夢なんかじゃないって思わせてくれる。
「先生……ありがとう、ございます」
「礼などいらん。分かればいい」
小さく笑って、由加里先生はより強く僕を抱きしめる。
本当に、この先生はカッコいいな。
だからせめて、これだけは言わせてください。
「先生がいてくれて、本当によかったです」
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