第32話 後宮からの手紙



 その日、家に戻ると、母が私を待っていた。


「ああ、タルカ。遅いよ、もう。待ってたんだよ」


「何か、あったのか」


 母は慌てていたが、説明は分かり易かった。


 後宮で、手紙を届けるように頼まれたのだという。それも急いでもらいたい、ということだった。母が預かってきた羊皮紙は丸められて、紐で閉じられていた。開こうと思えば、簡単に開くことができるが、これを渡した人は母が文字を読めないことを知っていたのだろう。


 普通、一般人は文字が読めない。私の住んでいた村では、私以外に文字を読める者はいなかった。そんなものは生きていく上で不必要だからだ。しかし、私は、たまたま文字を読むことができた。子どもの頃に、あの絵師から教わったからである。


「ブラルドという人に届けてほしいと、オクセーナさまに頼まれたんだよ」


「ブラルド、ああ」


 オクセーナはケーナスの娘で、ブラルドはケーナスの甥だった。ケーナスに代わって、軍務官になる予定だ。これは、とんでもない内容の手紙なのかもしれない。


「どこに届ければいいんだい?」


「母さん、これは私が届けよう。ひょっとすると、重要なものかもしれない」


「そうかい。そうしてくれ」


 私はそう言って母から羊皮紙を受け取り、ブラルドの所ではなく、すぐに王宮に向かった。そして、密かにクリシュナと会った。


 クリシュナはその手紙を読んで、少し微笑んだ。


「どうしましょうか」


「いや、これはケーナスの甥に届けてやるといい」


「構わないのですか?」


「問題ない」


 そう言われたので、私はケーナスの甥、ブラルドのところへ急いだ。ブラルドはまさに、クリシュナの呼び出しに応じて、王宮に向かおうとしているところだった。十官として出仕を求められているのだから、当然と言えば当然だった。


 直接話したことはなかったが、私のことをブラルドは知っていた。それくらい、王都で私は有名になっているらしい。


「急いでいるんだが、少しだけでいいかな」


 ブラルドは親切そうな男だった。


「こちらも急用ですから」


「よし、聞こう」


「後宮で働く母が、オクセーナさまからあなたへの手紙を預かってきました。母は、あなたのことをよく知らないので、私が代わりに届けに来たんです」


「オクセーナから、手紙? まさか!」


 ブラルドは笑った。


「ここに」


「そう言われても、困るな。しかし、何故だろう」


 私はブラルドに羊皮紙を手渡した。ブラルドは何度も首を傾げている。「実は、僕は字が読めないんだよ。手紙をもらっても、どうしようもないんだ」


 まさか、と思ったが、ブラルドが私を騙しているような様子は微塵もなかった。しかし、それではオクセーナはいったいどういうつもりで手紙を書いたのだろうか。


 私はふとクリシュナの微笑みを思い出した。問題ない、とクリシュナは言ったのだ。あれは、どういう意味だろうか。


「字を読める知り合いに頼まれてはいかがですか」


「そうしたいけど、今は時間がないから。そうだ、君、字は読めないのかい?」


 ブラルドは親切なだけでなく、愚かな男のようだった。私は偶然にも文字の読み書きが少しできるが、普通なら庶民の中に文字の読み書きができる者などいるはずがない。ブラルドのような十官の血につらなる者でさえ、文字の読み書きができない場合が多い。この質問は、的外れとしか言いようがない。


 それに、重要な内容に間違いないこの手紙を、まったくの部外者で、しかも、自分の叔父を監禁した王から寵を受けている私に読ませようとするなんて信じられないことだ。


 だが、嘘のない男だとは思った。純粋な男なのだ。


「読むことはできますが、私が読んでもいいのですか?」


 頭の中で、クリシュナの問題ないという一言がぐるぐると回っていた。


「ああ、構わないよ」


 ブラルドがそう言ったので、私は羊皮紙を受け取って、開いた。


『父が捕らわれたということですが、心配は無用です。あなたは、父の代わりを命じられるはずですが、それは断るようにしなさい。理由は何か考えて。困ったら、この手紙を届けた人に相談しなさい。オクセーナより』


 この手紙を届けた人に相談せよ? それはいったいどういう意味なのか。私は少し考え込んだ。


「オクセーナは何を書いてる?」


 ブラルドに声をかけられて我に返り、私は書いてあることをそのまま読み伝えた。そして、もう一度色々と考えた。オクセーナはいったいどういうつもりなのだろうか。


「あれ、困ったな。そう言われても、陛下にもう呼び出されてるから。どうしようか」


「いえ、私に尋ねられても…」


「君に相談しろって、書いてあったんだよね」


「ああ、そう言われれば、そうでしたね」


 私に相談する?


 まさか?


 いや、この手紙を届けた人に相談しなさい、確かにそう書いてある。


 オクセーナという后は、私がこの手紙を届けることを予想していたのだろうか。いや、もしそうだとしたら、この手紙がクリシュナの目に入ることも予想できるはずだ。


「どうしたらいいかな」


 ブラルドは私をまっすぐに見つめている。オクセーナからの手紙というのは、彼にとって、絶対的なものなのだろう。ブラルドはオクセーナに絶大な信頼を寄せているようだ。


 私の母に手紙を預ければ母が私に相談することも。私を通じてクリシュナが読むことも。手紙を私がブラルド届けることも。素直なブラルドが私に相談するだろうことも。その全てがオクセーナの予想通りなのだとしたら。オクセーナの狙いは、自分が書いた手紙をクリシュナが読むことなのではないか。しかし、そうすることにどんな意味があるのだろうか。


 私には分からなかった。


 オクセーナは才女として有名だが、クリシュナはおそらくその上をいく存在だろう。そのクリシュナがこれを読んで問題ないと言ったのだ。


 そこまで考えて、私は一人で微笑んだ。クリシュナが問題ないと言ったのだ。そう、そうだった。それなら、何の心配もいらない。私が不安を感じる必要はないのだ。


「十官への着任は固辞されるように。理由は、そうですね、この頃あまり体調が良くない、というのはどうですか」


「元気そのものなんだけど。他にないかな」


「なら、字が読めないから、というのはどうですか」


 ブラルドが怒るかもしれない、と思いながらも、私はそう言った。しかし、ブラルドは怒るどころか、なるほど、と笑った。


「君が来てくれて、助かったよ」












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