第17話 完勝
このクリシュナを相手に奮闘しなければならないエキドナル王弟シュライザルドが少し気の毒に思えた。
そのシュライザルド来襲の報が届いたのは、三日後のことだった。バクラルに駆け込んできた見張りの報告に、クリシュナ軍はすばやく決められていた配置についた。外にいた者を全員迎え入れてから門を閉じ、一般民はみな家に入った。
シュライザルド軍は三十と少ない。強行軍に耐えられる精鋭だけなのかもしれない。そしてその数だということは、クリシュナ軍の動きにまったく気付いていないということの証でもあった。
また、アイステリア国内の攻めてもよい町へ戦力を割いたという側面もある。シュライザルドは自分ならこの数でバクラルを落とすことができると自負しているに違いない。
レキサムの和約から今日で十一日目である。レキサムの平原からバクラルまでは急いで一日の行軍距離なので、シュライザルドは約定の履行を確認するための睨み合いを終えてからここまで進軍してきた計算になる。
始めからクリシュナはこうなることを狙って、ホラズム軍を期限ぎりぎりまでレキサムの平原の陣に止めておいたのだろう。シュライザルドもまた、ラテ軍が平原に現れたら約定を破り、アイステリア軍を挟み撃ちにするつもりだったに違いない。その欲をクリシュナに見抜かれていたから、今、こういう状況になっている。
味方だけでなく、敵将の気性、考え方、能力までクリシュナは作戦に組み込んでいた。逆にシュライザルドはクリシュナを若造と見下して、正しい判断ができていない。つまり、クリシュナを甘く見ているのだ。
バクラルに迫ったシュライザルド軍は、全軍を南門の前に集結させた。シュライザルドが前に出てきた。
「開門せよ! エキドナルへの帰順を示せ! アイステリアとの戦いは終わった。今なら、裏切りの罪は許そう! 開門せよ! さもないと、バクラルは滅びるだろう!」
威圧感のある、大きな声だ。この迫力はクリシュナにはない。しかし、クリシュナの頭脳がシュライザルドにはなかった。
見張りの高櫓へと、バクラルの代表者がのぼった。
「我々は、アイステリアの支配下に入ることを決定した! 王弟殿下にはそのように王都へ伝えていただきたい!」
こちらも負けじと言い放った。そして、アイステリアの旗が掲げられる。
「ふざけるな! そのようなことが認められると思っているのか!」
「レキサムの和約はこの町にも知らされている! アイステリアへの帰属を明らかにした今、エキドナルがこの町を攻めるのは約定違反! 王都へと戻るがよい!」
驚きでシュライザルドは絶句した。しかしそれはほんのわずかな間で、すぐに立ち直り、全軍に突撃を指示した。もう少し冷静さを取り戻していたら、この町がレキサムの和約について知っているということの意味を考えていたはずだが、怒りが冷静さをどこかに消し去っていたようだ。
「約定違反だ! エキドナルの王家は、今後、どの国、どの町からも信用を得られぬと覚えておけ!」
バクラルの代表者が叫ぶ。
「ほざけ! 町が滅んだ後、首と胴が離れてから好きなように言い広めるがよい!」
シュライザルドはそう応じた。
突撃したエキドナル兵が町の外壁に達し、そのままのぼり始めた。
そこで弓射隊が外壁の上に立ち、矢を放った。さらに、門を開いてガゼル率いる二つの部隊が、エキドナル兵に剣を抜くひまも与えずに襲いかかった。
シュライザルドは、今度は本当に絶句したのである。
エキドナル兵はほとんど抵抗らしい抵抗もできなかった。
クリシュナが双子をともなって、シュライザルドの前に立った。残酷なほどに、二人の顔には勝者と敗者の明らかな差が見て取れた。運気の光のようなものが見えたとしたら、クリシュナは眩しくてみることができず、シュライザルドは暗すぎて見ることができなかっただろう。
「約定を破った上に、敗れ去る。南北にある互いの王都で、あなたのような名将に似合わない喜劇が上演されないことを祈ります。もっとも、私の国の劇場は十年前から封鎖されたままなのですが」
エキドナル兵を討ち果たしたクリシュナ軍が、シュライザルドを包囲した。そしてそのままクリシュナの指示を待つ。ただ一言を発するだけで、クリシュナはシュライザルドの命を奪うことができる立場に立っていた。
「なぜ」
ようやく、シュライザルドが口を開いた。先ほどの、あの覇気のある叫びが、まるで夢だったかのような、弱々しい声だった。「そなたがここにいるのだ」
「バクラルはエキドナルからの独立を宣言していた町です。私は、三つ目から五つ目までの約定を、文字通り、忠実に守っただけですが」
「一つ目の約定に反したのではないか」
「殿下は一つ目の約定をお忘れのようですね。欲が聡明な殿下を惑わせたのではありませんか」
「昨日平原を発った我が軍より先にこの町へ来ているということが約定違反の証であろう」
「一つ、両軍とも十日以内にこの平原から兵を引く」
クリシュナは高らかと約定の一つ目を叫んだ。「我が軍は、間違いなく、十日以内にレキサムの平原から兵を引いております。ご自身でそれを確認してから、ここへ向かったのでしょう。
和約の日から、兵を引く日が二日目だろうと三日目だろうと、たとえ九日目だったとしても、十一日目以降に兵を引かない限り、十日以内という約定に違反しておりません。
そちらが十日目までに動かなかったからといって、我々のような一部隊が先に動いてはならないということではない。
ラテ軍との挟み撃ちを期待して待つうちに、約定の内容を誤解したようですね」
「ラテ軍をどうした?」
「会談で申し上げた通りです。ジェバ山の山道で別働隊は全滅、本道で本隊も全滅です。おまけに、大量の武具や食糧を遠慮なく頂戴しましたが?」
シュライザルドは閉口した。少し足が震えている。立ち尽くしているこの王弟も、兵たちと強行軍をともにしてきたのだ。当然のこととして、この戦自慢の王弟は、バクラルの占領しか想像していなかったに違いない。
それが、目の前で、信じられないような結末を迎えていたのである。やり場のない怒りが湧いてきてもおかしくないはずだが、そうはならなかった。ただ、脱力して倒れそうな体を懸命に支えているだけだった。
「四つ、その町がどちらかの国への帰属を表明したら軍を引く」
クリシュナは続けて、四つ目の約定を言葉にした。「バクラルは我が国への帰属を宣言したにもかかわらず、殿下は突撃を命じた。これが約定違反でなくて何なのです」
シュライザルドの気丈さは、感嘆に値するものだった。肉体的にも、精神的にも、この王弟がもはや限界にあることは明らかだったが、それでも立ったまま耐えていた。勝者としてなら、精神が肉体を支えることも容易いことだっただろうに。
「この約定違反は殿下に貸しとして一つ預けておきましょう。
それと、今、私が握っている殿下の命も、二つ目の貸しとして、ぜひ覚えておいていただきたい。
そして三つ目の貸しがあります。そちらの弱気な王太子どのがエスタールのある商人から毒を買い求めていたことです。ウィレーナという商人です。この事実はあなたなら、必ず利用できるはず。これが三つ目の貸しです。
その上で忠告させていただきますが、我が国の領内へ向かっている殿下の将兵が、殿下と同じ約定違反をする前に急いで呼び戻し、北の王都へ進軍なさることをお勧めします。
我が国で独立を宣言していた三つの町はもうすぐその宣言を取り消すことでしょう。
ああ、言い忘れておりましたが、ウルハにはすでにアイステリアの旗が何本も立てられ、私の片腕でもある指揮官が四十の兵で守りを固めておりますのでご注意を。
二、三十の兵をもう差し向けた後だというなら、全滅を覚悟しておいて下さい」
クリシュナは感情を込めずに淡々とそこまで言い切った。そして手で合図し、シュライザルドの包囲を解かせた。
「若きアイステリア王よ」
そう言ったシュライザルドは、大きく息を吸い込んだ。そして、少し間を置いてから、また口を開いた。「私と私の国は、もう二度と、そなたを見誤り、侮る愚行を繰り返さないと、今ここで、我らの神に誓うとしよう」
その言葉に、ほんのわずかだが、クリシュナが微笑んだ。「では殿下、次にお会いする時は、陛下とお呼びできますように」
そして、エキドナル軍は、アイステリア国内から、さらにエキドナル国内のガーバ地方から、完全に撤退したのである。
後に、シュライザルドはエキドナルの王位につく。王となったシュライザルドがアイステリアを攻めることはなかった。クリシュナを怖れたからだろう。
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