第4話 夜襲
「いよいよレソトを解放する」
そう言った青年の周囲で、うお、と小さなうめきが広がった。
私は唖然とした。
その発言、その意味に驚きはしなかったが、それを発した人物が青年であることに驚いた。
それはこの一団の指揮をとるものの言葉ではないか。
「レソトのエキドナル兵を討ち、レソトを解放すればナント地方からエキドナル兵はいなくなる。まずはそこが始まりだ」
青年の声は淡々としていたが意思の力を感じた。「今夜、夜襲をしかける。絵を見てもらいたい」
私は少し身を引いた。
全員が私の絵に注目している。
また描きたいという興奮があふれ出てきた。私の絵がこれだけの人に見つめられているなんて。今まで、何度も何度も絵を描いたことはあった。しかし、これほどの人数に私の絵を見てもらったことはなかった。私の絵を男たちが真剣に見つめている姿をこの興奮した心情のまま描きたかった。
他人に自分の絵を見てもらうことがこれほどの幸せだとは思っていなかった。
「西の陣に食庫が配されている。ガゼルは一隊を率いてここに伏せ、東の陣から争音が響き、敵が東へ動いたら、水瓶を割り、食糧を奪え。戦闘はないと思うが注意は怠るな」
「了解しました」
「殺すことより生きることが先である。食庫をうばうことは敵兵の殲滅に等しい」
「はい」
ガゼルと呼ばれた屈強な武人は一礼した。
「二隊、三隊は私の指揮下に入る。二隊は南陣の小さな幕舎が見えるこのくぼ地に伏せよ。南陣の兵が動いたら物音を立てずに後ろをつけ、三笛の合図で後方から攻めよ。三隊は私とともに東陣に入り大音を立てて暴れ、それから二隊とともに南陣の兵をはさむ」
男たちがじっと青年を見つめ、うなずいた。
「槍をもつ者が前衛をつとめ、剣をもつ者は敵に止めを刺すように。それと、各隊から一人ずつ人を選び、ロナーの指揮下へ。ロナーはあとで私のところへ来てくれ。それ以外の者は食事と仮眠をとり、そののちここへ集まるように」
「北陣の敵兵はどうします」
「北陣の兵とは争わぬように。夜襲では南陣を討ち果たし、明日の昼に北陣を攻め、レソトとの交渉に入る。他に疑問点は」
全員が青年に注目していた。
「ないならよい。いいか、エクラでも、オーハでも、ノルスクでも勝った。今までで最大の敵だが、もちろんここでも勝つ。では、解散せよ」
私は青年に呼ばれ、その後に従った。
双子がついて来た。
歩きながら青年は口を開いた。
「もうじき陽が落ちる。戦いが始まるが、どの部隊に入りたいか」
私は首を振った。
「戦いに加わるつもりはない」
青年は不意をつかれたような顔をした。
「あの絵を見た時、誰よりも戦意が高いと思ったが、そうではないのか」
「私は戦う術を知らない。絵は描くが、剣や槍は持たない。それだけのこと」
「これは見誤ったな。しかし、軍機を知る者となった今、そうですかと帰すわけにはいかない。戦わぬでもよいが、従軍せよ。それは今回限りでいい。この戦いが終われば解放しよう」
私の意見を聞くつもりはないような断定の口調だった。もちろん、逃げようとすれば命はないだろう。しかしこの一団に悪意はなく、何か高みを目指す気概があるので、逃げ出すつもりはなかった。だからといって、逃げないからここにいてもいいか、と言っても信用されるはずがない。結論は一つだった。
夜襲は大成功だった。兵糧を奪い、南陣の敵兵を殲滅した。しかも味方の犠牲はなかった。
正規軍と蜂起軍だからといってそれほどの力の差はなかった。圧勝したということは、こちらの方が力は上なのかもしれない。考えてみると、正規兵といっても、元は農夫などの一般民であり、戦いにそれほど通じているわけでもない。
私は初めて、戦場を見た。といっても夜襲なので、ほとんどのものがはっきりとは見えなかったのだが、全身で戦いの場というものを感じた。
私は指揮をとる青年のすぐ近くにいた。
暗闇の中、東の陣に侵入し、背を向けている見張りを双子が斬った。
木柵は町に向けて立てられていたから、外側から攻めた我々を遮るものはなかった。外から攻められるということを想定していなかったのだろう。
幕舎に入り、横になって寝ている兵を次々に討ち、さらに幕舎に火を放った。
青年の指示は短く、鋭く、的確だった。
そのまま移動はせずに大きな声で騒ぎ立てていると、南北から火が走ってきた。
南陣と北陣の兵だ。
火の動きを見ながら青年は、ぴー、ぴー、ぴー、と笛を鳴らした。
南からこちらへ向かっていた火が止まった。
青年の合図で、全員が走り、背を向けていた敵兵に槍が突き立てられた。さらに後ろから続いた者が剣を振るう。北からの火が東の陣で少し動きを止めた。
青年は退却を指示し、一団は南へ走った。
再び火が動き出した頃には、一団は敵陣から遠く離れた丘の上に集結し、暗闇の中で息をひそめていた。
私は全身の神経が戦場の空気を読み取っているような錯覚に陥っていた。
陣を動く火を見ているだけで、敵陣の混乱の深さが分かる気がした。
やがて火は分散し、東西南北の四ヶ所に分かれた。
それを確認すると、青年は軽くうなずいて合図を出した。一団は夜襲前にいた東ではなく、西へと移動した。そこにガゼルたちが三台の荷車を止めて待っていた。
「ご無事で?」
「そっちはどうか?」
「はい。指示通りに」
「よし。では一隊と二隊から交代で三人ずつ見張りに立ち、あとの者は体を休めること。三隊は朝まで完全に休息し、朝一番に戦闘態勢で待機せよ。火は一切使うな」
青年が私を振り返った。いや、そのような気がした。暗闇でよく見えない。
「タルカ、怪我はないか」
「ない」
「そうか。君には、感謝している。あの絵がなければこれほどうまくはいかなかっただろう」
私には意味が分からなかった。青年の作戦は完璧で、失敗は何もなかった。戦果も最高の結果だと言えた。絵はそれほど役に立った気がしない。
どういう意味か尋ねようとしたが、青年はそのまま歩いていった。
私のそばにはガゼルが残った。ガゼルは私の肩を軽くたたいた。
「小休止だが、戦闘継続中だ。陽がのぼれば新たな指示がある。それまではゆっくり休め」
「戦闘継続中?」
「そう。戦いはまだ続いている。クリシュナさまは、レソトを解放すると言った。まだエキドナル兵は残っている。だから戦闘継続中だ」
クリシュナさま、と呼んだ。ガゼルは青年に仕えているらしい。勇ましい武人だが、思っていたよりもずっと気さくな男のようだ。
「昼に撃破すると言っていたが」
「ああ、間違いなくそうなる。あの方の指揮は素晴らしい。この夜襲も抜け落ちはない」
「絵が役に立った、と言われたが、そうなのか?」
「知りたいなら教えてやるが、明日、戦いが終わった後にしてくれ。もう休めよ」
ガゼルも青年が消えた方向に歩いていった。
私は腰をおろし、さらに仰向けに寝転がった。
全身の血が激流となって洪水を起こしそうなくらい興奮していた。
とても眠れそうにない。
星がたくさん見えた。ここは林や森ではない。朝になればエキドナル軍に発見されるのではないか。いや、かなりレソトから離れているのかもしれない。
絵は、いったいどういう役に立ったのだろう。
士気を高めた、いやそんなことをしなくても士気は始めから高かったのだ。
敵の様子が分かりやすく説明できた。
それはそうだ。言葉だけよりも分かりやすいし、伝わりやすいが、青年は絵がなければこれほどうまくはいかないと言った。説明だけのことではないかもしれない。
母はいつも、絵がいったい何の役に立つというのかと口にしていた。しかし、青年は役に立ったと言ってくれた。心臓の音が大きくなった。作戦会議でたくさんの人に絵を見てもらった時に感じた幸せとはまた違う。ゆっくりと全身が温まるような感激があった。
私の絵は役に立った。
あらためてそのことを確認してみると心が揺れた。
言い表せない満足感に私は包まれていた。
なんというありがたい言葉だったのだろう。
幼き日々に母から受け続けた呪詛は、この日、昇華し、霧散した。
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