第六章 初めてうなぎを食べました

      1

「え、なんでなんで? ゴールこの線でしょ」


 木の枝で地面を引っ掻いて作った線を、なしもとさきは指さした。


「違うって、これはさっきのラインだろ。修正したっていったじゃん」


 と、シンゴ君がいう。

 小学生の男の子だ。


「うわあ、そうか。って、じゃあ消せよ、もう」


 咲は靴の裏で地面をこすり、線を消していく。


 ここは川河川敷にある、小さな児童公園。咲の自宅の、すぐ近くだ。


 咲は現在、ブランコや滑り台がひしめき合っているこの狭い敷地の真ん中で、近所の男の子たちと遊んでいるところである。


 ゴールネットの代わりに地面に線を引いただけの、簡単なサッカー遊びだ。


 人数の関係上、ゴールキーパー無し。


 遠目からシュートばかり狙う雑な展開にならないよう、ペナルティエリアの中からサイドネットの内側にボールを当てないと得点にならないルールだ。


 全員で五人。

 三対二だ。

 咲以外は小学生なので、もちろん彼女は二人の側。自分が本気でやるか多少の手を抜くかでバランスを取れば良い。

 とはいうものの、咲はドリブルなど足でボールを扱うのが大の苦手で、もしかしたら本気でやっても小学生たちと変わらないレベルかも知れないのだが。


 フットサル部ではゴレイロをやっているせいもあるが、それにしたってある程度は足元の技術も必要であると、承知はしている。サッカーとは違って、ペナルティエリアを出ての果敢な攻め上がりも、ゴレイロには求められるからだ。

 ならばもっともっと足元の練習をすればいいのだが、しかし、一人どうしても追い抜きたいジャガイモみたいな顔のゴレイロの先輩がいて、ついキャッチやセーブの練習ばかりを熱心にやってしまう。

 みんなでボールを蹴る全体練習を、いつも適当にしてしまう。

 だから全然技術が伸びない。


 と、咲がなんともギクシャクとした滑稽なドリブルを子供たちに披露してしまうのは、そのような理由があるのだ。別に楽しませようとしているわけではないのだ。


 だが滑稽ながらまぐれも手伝い、やけっぱちのフェイントで相手の子をかわすことに成功した。

 そしてもう一人をシンゴ君とのワンツーで突破すると、最後にボールを横に蹴って転がし、ネット横面へのゴールを決めたのである。


「やったあああ!」


 飛び上がって子供のように喜ぶ咲であるが、次の瞬間、高まったテンションが絶対零度にまで下がっていた。


 公園の入り口にジャガイモ顔の先輩、たけあきらが立っており、こちらをじーっと見ていたのだ。


 二人、目が合った。

 合ってしまった。


 晶は咲の視線、つまり気付かれたことに気付いたようであるが、まったく表情を変えることなく平然とこちらを見ている。

 ジーンズにジャンパーという格好で、ボールネットを肩に担いでいる。


 自主練かなにかの帰り、なんだろうけど、でも……

 なんだよ、なんでここに晶先輩がいんだよ……


「よし、さきねえ、頑張ってもう一点取ろうぜ!」


 シンゴ君が、咲の背中をバンと叩いた。


 無理……咲姉、頑張れない……


 果たしてそれからの咲は、まさに蛇に睨まれた蛙。歯車の錆びたロボット人形よろしくまともに動けなくなり、相手にゴール量産を許して、あっさりと逆転負けしてしまったのだった。


     2

 疲れたから誰かの家でテレビゲームでもやろうかという話になり、子供たちは梨本咲と別れて、公園から姿を消した。


 武田晶は、まだ公園の入り口に立っている。


 周囲に誰もおらず、この空間は二人きりになった。


 咲は、晶の方へと歩き出した。


「なんでいるの」


 咲は、ちょっと恥ずかしそうな顔で尋ねた。


「家近いし。帰り道。黙って去るのも、他人行儀かなと思って」

「面白いと思って見てたんじゃないですか?」

「ま、それもある」


 確かに面白かっただろうな。

 学校では決して見られないような、もの凄いはしゃぎっぷりだっただろうからな、あたし。


「あの子たちと遊んでいる時は、あたし、いつもあんなですよ。一番見られたくないのに見られちゃったけど」


 咲はベンチに腰を降ろした。


「あたし子供だから、自分がどんなふうに見られているとか、自分がどんなキャラなのかとか、そんなことばっかり気にしちゃうんですよね。これでいいぞと思っているわけじゃないのに、不本意な自分のキャラを崩せなくて勝手にモヤモヤ抱えちゃって。ま、といっても、いろんな顔があるわけじゃありません。さっきの子たち以外には、先輩のよく知っている梨本咲ですから、だからそっちが本当の自分ってことなんでしょうね。ハナみたく、もっとふにゃーっとしていた方が楽かな、とも思うし、晶先輩のように鉄仮面みたくなった方が楽かな、とも思うし。って、あれ、なんか支離滅裂なことばかりいっちゃってんな」


 間がもたず無意識にべらべら喋ってしまったわけだが、もともとは無口キャラなので、どう喋っていいものかよく分からず、わけが分からなくなってしまったのだ。


「好きにすればいいじゃん、そんなの。たぶん、どっちも本当の咲だよ。あたしだって表情見せないだの冷たいだの、色々いわれるけど、ただ自分が楽なようにしているだけで、だから泣くときゃ泣くし、笑うときは笑うよ。こんなふうに」


 そういうと晶は、にーっと笑顔を作って見せた。

 見慣れぬ表情であったことと、それがあまりに奇妙な顔だったので、咲は込み上げてくるおかしさを腹の中で押さえておくことが出来ず、ぶっと吹き出してしまった。

 そして、声をあげて笑い始めた。


「先輩のそんな顔、はじめて見た!」

「そっちだって。咲のそういう顔、はじめてだよ。変な笑い顔」


 晶も、作り顔ではなく本当に笑いはじめていた。

 咲の顔を指さして。片手でお腹を押さえながら。


「どっちがですか! なんですかその面白い顔は。分かった、変顔を見られたくないから、だからいつもむっつりとしてるんだ!」

「失礼なこというな!」


 二人とも、もうお腹が痛くて痛くて限界だというのに、お互いを見ては吹き出してしまい、いつまでも笑いを止めることが出来なかった。


     3

 どう考えても、ぶつかって来たのはなかれいのほうだった。


「邪魔だよ。つうか、ぶつかってくんじゃねえよ。ボケ」


 なのにジロリ睨まれて、づきはうつむいたまま、


「ご、ごめん、なさい」


 頭を下げ、謝った。

 中野麗子は、ぷいと前を向き直ると、仲良しのてらと歩いていく。


「あいつ声小さくて、なにいってんのか分かんねえよな」

「どんくさいし、ほんと名前の通りクズだよ」

「うまくねーよ、それ」


 二人は大声で笑っている。


 葉月は、小さくため息をついた。


 いつものことだ。気にしてたらやっていられない。


 教室後ろにある自分のロッカーからバッグを取り出すと、教室を出て、女子更衣室へと向かった。

 三時限目は体育の授業。今日は校庭で、百メートル走の計測をするらしい。


 陸上競技ってあまり好きじゃないけど、フットサルのスタミナつけるにはいいのかな。と、好きじゃないなりに前向きに考える葉月である。


 白シャツ青パンツの体操着に着替えると、バッグの中からハンカチを取り出そうとし、入っていないことに気付いた。


 そうだ、洗濯したことをすっかり忘れてた。

 通学カバンにも入れてあるから、そっちのを持っていこう。


 と、葉月は教室へと引き返し始めた。

 自分の教室へ戻ると、ドアが少し開いており、そこから女子の話し声が聞こえてきた。

 誰かまだ残っている者がいるようだ。


「……ずくね? さすがにさ」


 寺田美奈の声であった。

 ドアの隙間から覗き見ると、中野麗子と寺田美奈の姿。二人とも、まだ制服姿のままだ。


「あいつ調子に乗ってっからさ、これくらいなんてことないって」


 中野麗子は奇声のような甲高い笑い声をあげながら、誰かの机の中に手を入れている。

 確か、いなの席だ。


「あのバカ、ちょっとはおとなしくなりゃいいんだ」

「退学になっちゃったりして」

「それ受けるんだけど!」


 中野さんたち……なに、やっているんだろう。


 葉月は胸に手を当てた。

 心臓の鼓動が速くなっている。

 息が、苦しくなってきた。


「ミナ、早く着替えないと、ノッチンにまた怒られるよ」

「最近あいつ、うるさいからな」


 二人が稲田恵里子の机から離れ、こちらへと向かってくる。


 葉月は、びくりと肩を震わせると、慌ててドアから離れた。

 足音を殺しながら、足早に立ち去った。


 どうしよう。


 ゴクリと唾を飲む音を、もしかしたら聞かれてしまったかも知れない。


     4

 遅れて校庭にやってきた中野麗子と寺田美奈は、特段変わった様子もなく普通に体育の授業を受けていた。

 その前に、ノッチンのお小言を三分ほど食らったが。


 普通でないのは、葉月の方だった。


 心臓がドキドキ、頭はグルグル。

 まったく授業に集中出来ず、百メートル走の計測結果は惨憺たる有様だった。

 体育の成績を付けるためのテストも兼ねているというのに。


     5

 体育の授業も終わり、直後の休み時間のことである。


「あたしの財布がない!」


 中野麗子は大声を張り上げた。


「え、よく探しなよ。カバンの中は?」


 自分の机の中に両手を突っ込んでがさごそ探っている中野麗子は、寺田美奈の言葉に、今度はロッカーに入れてあるカバンを取り出し、開いた。


「ないよ。畜生、誰かに盗られたんだ」

「誰に?」

「知るわけないでしょ! あ、ひょっとしたら」


 教室内は男女ともに静まり返り、みな、二人の会話に耳を澄ませていた。

 中野麗子はカバンをしまうと、稲田恵里子の席へと向かった。


「あんたじゃないの?」


 そういうと、稲田恵里子のことを睨んだ。


「はあ? なにいってんの、バカじゃないの」


 稲田恵里子は、中野麗子のことを睨み返した。


「最近生意気だったじゃんか。あたしの悪口ばかりいってきて。だから財布盗んだんだろ」

「悪口って、そっちが突っかかってくるからでしょ。ふざけたこといってんなよ」

「とにかく、一番怪しいんだから、調べさせてよね」

「見てみりゃいいじゃん」


 稲田恵里子は、身を後ろに引いて、中野麗子が机の中に手を入れた。


 それを傍から見ている九頭葉月の心臓は、どくんどくんと大きな鼓動をはじめていた。


 さっきの、そういうことだったんだ。

 財布、出てくるに決まっている。

 だって……


「ほら! 見つけた、あたしの財布! こいつ、泥棒だ!」


 中野麗子は叫び、赤い財布を頭上にかざした。


「盗るわけないでしょ! どうせ、あんたが自分で入れたんでしょ!」


 稲田恵里子は机をどんと叩いた。


 葉月は両手で左胸をおさえた。

 呼吸が荒くなってきた。

 息が苦しい。

 座っているのに、視界がぐるぐると回って倒れそう。


 でも、

 でも……


 葉月は、気が付くと立ち上がっていた。

 中野麗子と目が合った。

 葉月は、ちょっと口を開いたが、すぐ閉ざしてしまった。うつむいてしまった。


 中野麗子がゆっくりと、葉月へと近寄って来た。

 胸倉を、強く掴まれ、引き寄せられた。

 すぐ眼前に、中野麗子の顔が迫っていた。


「なに? クズちゃん」


 中野麗子は、薄い笑みを浮かべた。


「あ、あ、あの、あの、あ、あたし……」

「だから、なんだってんだよ。あのあのばっかり、知能障害なの? お前」

「あたし、入れるとこ見てた!」


 葉月は金切り声のような、裏返った声で絶叫していた。


「ささ、さっき……さっきの、きゅ休憩時間、中野さんと、寺田さんが……」

「嘘ついてんじゃねえよ!」

「嘘じゃない!」


 葉月は、視界がふっと消失するのを感じた。振り回されて、床に叩きつけられていたのだ。

 激しい痛みが襲った。

 叩きつけられたばかりでなく、お腹を爪先で蹴られたのだ。

 込み上げる嘔吐感に口を押さえる葉月。

 涙目になり、身体を丸めた。

 が、とからだを踏み付けられた。


「ふーん。だから、体育の授業に遅れて来たのかあ」


 稲田恵里子が、頬杖をついてニヤニヤと笑っている。


「なにいってんだよ。人の財布盗んどいて!」


 中野麗子は、稲田恵里子に掴みかかった。

 が、自分へと浴びせられるクラス全員の視線に気付くと、ゆっくりと手を下ろした。


「はいはい、そうですよ。あたしが自分で入れただけでーす。まったく、ちょっとした冗談に決まってんじゃん。稲田が最近生意気だから、ちょっと懲らしめてやろうとからかっただけだよ。……ジロジロ見てんじゃねえよ、文句あんのかてめえら!」


 中野麗子は近くの子の机を蹴飛ばすと、大股に歩いて教室を出ていってしまった。寺田美奈も、慌てて後を追った。


「やること小学生か、あいつら」


 稲田恵里子は苦笑した。そして、九頭葉月の方を見た。

 葉月は上体を起こしてはいるが、まだ痛そうにお腹をおさえている。


「余計なことしないでよね」


 稲田恵里子は葉月の前に立った。

 葉月はなんといっていいのか分からず、黙っている。


「ま、でもありがと。九頭さん、勇気あるね」


 手を差し出した。


「そんなことない」


 本当に勇気があるなら、なんであんな死にそうなくらいにドキドキするものか。

 勇気なんか、ない。


 でも、それはそれとして、稲田恵里子の言葉が、葉月にはちょっとだけ心地よかった。

 葉月は、差し出されたその手を掴んだ。力強く、引っ張り起こされた。


「とはいえ、しばらくは、あいつらに狙われるかもねえ。共同戦線張ろ。なんかあったら助けあおうよ」


 稲田恵里子は笑みを見せた。


 葉月はなんと返せば良いか分からず、黙ったままうつむいていた。


     6

「ほら、いわんこっちゃない」


 これはきぬがさひでの、娘への口癖のようなものだ。

 なにかにつけて「いわんこっちゃない」、いわれ続けている身としては、いい加減辟易としてくるというものだ。


 でも、あまり勉強せずにテストが案の定の結果になった時などには、特になにもいわれない。

 夜更かしした翌日に体調を崩したり、風邪が治ってすぐ登校してぶり返したり、あくまで健康上の問題に関してだけ。その点だけは、一貫している。

 しかし、どうであれ鬱陶しいことになんの変わりもない。


 確かに幼い頃は身体が弱かったから、仕方ないのかも知れない。生まれた時だって、あまりに貧弱で半年ももたないかも知れないなどといわれていたらしいし。


 でも、もう充分に普通の生活を送れるのに。

 これまで軽い運動すら禁止されていたから、その分、普通以上に活発に動き回りたいのに。

 そうした娘の気持ちを、まったく分かってくれていないんだからなあ。


     7

 きぬがさはるは、山口県の生まれ。


 小学三年生の頃に、父親の転勤のため静岡に移り住んだ。


 そしてまた、父親の転勤でこの千葉へと越して来た。

 ちょうど一年前、高校一年二学期のことだ。


 なんとか父親を説得して、転校と同時に運動部へ入る許可を貰った。

 快諾ではない。

 娘があまりにしつこいので渋々認めた、という格好だ。

 というわけでフットサル部に入ったのであるが、実はフットサルという競技を知ったのは、その数日前であった。


 テレビのスポーツニュース番組で、たまたまあるフットサル選手を特集しており、それで初めてそのような競技が存在することを知ったのだ。


 運動するのなら、こういうのが面白そうだな。

 小さなコートの中で、わいわいとやれて。

 屋内で雨の心配いらないから、その点はお父さんも安心だしな。

 でも、こんな名前も聞いたことないマイナーなスポーツ、高校の部活なんかじゃあるわけないか。

 ま、なかったらなかったで、バスケでもハンドボールでも、なんでもいいんだけどね。


 と、特にフットサルへのこだわりはなかった。知ったばかりなので、当然というば当然だが。


 わらみなみ高校への転入手続きを終えて、校内を部活動見学で歩き回っている時のことである、


「あれ、体育館でサッカーやってるよ。でも、なんか違う……これってもしかして、フットサル?」


 思わず独り言を呟いていた。


 なんだ、普通にあるんだ、フットサル部って。

 ビーチバレー部なんてあるのか知らないけど、そんな感じに特殊なものだとばかり思っていたのに。もっとマイナーなスポーツだと思っていたのに。


 普通にあるものだなあと思った春奈であるが、実際のところ、これはまったくの偶然というものであり、フットサル部のない学校の方が圧倒的に多いということはあとから知った。最初の想像通りマイナースポーツだったのだ。


 この学校のフットサル部も、何年か前に同好会から部に昇格したばかりとのことだ。

 サッカー部が現在廃部になってしまって存在していないため、この佐原南高校は、サッカー部はないがフットサル部はあるという珍しい高校なのだ。


 と、これらは案内してくれた教頭先生から聞いた話だ。


 そんな珍しい競技の部活が、ここにある。

 運命かも。

 数日前にテレビで知ったのも。

 去年の春から、お母さんに頼んで、お父さんに内緒でこっそりジョギングやストレッチ、筋トレなどの体力作りをしてきたのは、このためだったのかも知れない。

 この部に、決めた。

 この部で、最後まで頑張り抜いてやる。


 と、そのような経緯で、春奈はフットサル部に入部することになったのである。

 父親の承諾を得るために一悶着あり、簡単にはいかなかったが。


     8

 成り行きはともかく、親公認で運動をはじめて、もう一年にもなるというのに、いまだに父親のいるところで柔軟体操などしようものならすぐに、「そんな激しい運動しちゃダメだろ!」なんだからなあ。


 本当に、あの人のいう通りにしてたら、かえって不健康になってしまう。


 そうしたらますます、いつまでも親から自立が出来なくなってしまうじゃないか。

 突き放せ、とまではいわないけど、もう少し分かって欲しいものだ。

 自立したい娘の気持ちを。


 さて、今日は日曜日である。


 部活もなく、朝からお昼までずっと勉強をしていた。


 さすがにお尻が痛くなってきたので、一休みすることにした。


 春奈が両親と暮らしているのは、分譲タイプのマンション三階である。

 そこを賃貸しているのだ。


 居間にいくと、父、英樹がテレビを見ている。

 ゴルフ中継だ。

 さして興味も知識もないくせに、他に面白い番組がないと、よくゴルフ番組をつけている。

 父の仕事は土日は完全休日なので、つまらない番組を観ているくらいならどこかに遊びにでもいけばいいのに。

 と思う春奈だが、でもいっても決して聞かないだろう。

 春奈のことが心配で心配で、なるべくそばで様子を見ていたいからだ。

 それはもう本人も公言していること。春奈がクラスの友達と遊びにいこうとした先に、ついてこようとしたこともあるくらいだ。


 春奈は大きく伸びをし、腰に手を当てて捻ってみた。

 父親から見えるところで、あえて、わざと。


「そんな運動しちゃダメだろ、弱いんだから」


 やっぱりいわれたよ。

 ほんとにもう。


「伸びしただけだよ。勉強してずっと座ってたんだから。お父さんのいう通りにしてたら、ガチガチに身体がこっちゃうよ」

「ごめん。でも春奈は弱いんだから、お父さんの心配する気持ちも分かってくれよな」

「弱くなんかないよ! 部活で試合にだって出ているし。ほとんどフル出場したことだってあるんだから」


 春奈は最近、弱いという言葉に過剰に反応する。

 いまもそれをいわれて、ちょっとカチンときてしまったのだ。


「それだって本当は心配なんだよ。なにかあったらどうしようかと」

「なにかあったらそん時はそん時。気にしてたら、なんにも出来ない。家の外にも出られない」

「その時はその時だなんて、そんな無責任なこと。自分ひとりで生きてんじゃないんだぞ」

「無責任って、そっくりそのまま返すよ。あたしはお父さんの人形じゃないんだよ!」


 怪我しないよう閉じ込めて置くのが親の責任だとでも思っているのか。

 子の成長阻止、こんな無責任な育て方があるか。

 こんな親、一発レッドだ。


 春奈はなにやらわめく父の反論も聞かず、自分の部屋に戻ってしまった。


 部屋で、ベッドに横になった。


 天井を見上げながら、はあっとため息をついた。


 また、喧嘩してしまった。


 つくづく自分が嫌になる。


 身体の弱かった自分を、両親がどんな思いで育ててきたか、よく分かっているつもりだったのに。


     9

 夜、電話をかけた。


 相手は、高校の先輩であるむらである。

 春奈の抱えているこの父親との問題について、事情を知っているのは梨乃先輩だけだからだ。


 悩み相談や、東京に遊びにいく用件などで、何度かかけたことがあるが、今回、実に久しぶりの電話だった。


 悩みを話すには話したものの、結局、結論は出なかった。


 でも、梨乃先輩は丁寧に話を聞いてくれ、色々と考えてくれた。

 実際の行動への提案よりも、心の在り方について多くアドバイスしてくれ、それが春奈にはなるほどと思うものばかりであり、おかげでとても気分が楽になった。


 春奈は居間へと向かった。


 相変わらず、父がテレビを見ている。

 ゴルフ番組を、つまらなそうに。


「お父さん」


 目が合った。


 春奈は笑みを見せた。


「さっきは、ごめんね」


 ちょっと度が過ぎているとはいえ、自分を愛してくれているのだ。まずはそのこと、感謝しないと。


 父、英樹はきまり悪そうに首をすくませ頭をかいた。


「お父さんこそごめんな。さっき、お母さんの職場に電話かけて相談したら、お母さんにも怒られちゃったよ。春奈がいうのも、もっともだって」

「そんな。自分のこと思ってるから色々いってくれるんだ、って、本当はとても感謝しているんだよ」


 あんなにモヤモヤイライラ怒り悩んだというのに、こんなにあっさりと自分のこれまでの気持ちを肯定されてしまうと、春奈の方こそ拍子抜けである。


「今度、その部活の、試合を観にいってもいいかな」

「心配だから?」

「違うよ。頑張ってるところ、強くなったところ、見てみたいから」

「そういうことなら、いつでも来てよ」

「でも本当は、ちょっとだけ、心配してるけど」


 二人は笑った。


     10

 ともはらりんは、よく学校帰りに一人で練習をする。


 場所は決まっている。

 佐原駅に向かう途中にある、小さな児童公園だ。


 わざわざ学校以外の場所で一人で練習をするのは、他人に見られたくないから。

 下手だというのを、知られたくないからだ。


 リフティング、ドリブル、パス、フェイント、基本の基本は、だいたい出来ているのではないかと自分では思っている。

 しかし、部の同輩が色々な技を覚えていっているというのに、自分は基本止まり。日数が経過すればするほど、みんなとの距離が離されていくようで、気ばかり焦る。


 やはり自分には、フットサルは向いていないのだろうか。センスがないのだろうか。


 などと考えていたせいではないだろうが、腿で蹴り上げたボールが、変な方向に飛んでしまった。

 慌てて足を伸ばして甲に当てるが、それもまた予期せぬ方向に。

 咄嗟に両手を伸ばしてボールをキャッチ。


 ふう。

 安堵のため息を吐いた。

 と、その時である。



「あれ、やっぱりりんじゃんか」

「わーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」


 背後からの声に心底驚いて、絶叫してしまっていた。


 恐る恐る振り返ると、そこにははまむしひさが立っており、しかめっ面で耳を押さえていた。

 同じ高校の三年生で、先日フットサル部を引退した先輩だ。


 彼女も学校帰りのようで、わらみなみ高校の制服姿である。


「すっごい驚き方だね、あたしの方がびっくりしたよ。なに、ここでよく練習してんの?」

「はい。……あの、このことは、みんなには是非ご内密に」


 秘密練習しててその程度か、などと笑われたくない。


「了解了解。隠れて練習したい気持ちはよく分かる」

「ありがとうございます」

「礼いわれる程のことじゃない。家で椅子に座ってる時なんかも、裸足でボール踏んでコロコロ転がしてるといいよ。感覚というのは、無意識に訴えるから感覚なんだ。とにかく身体に覚えさせないと」

「はあ」

「そういや、あたしもこの公園でよく練習したな」

「え、先輩もですか?」

けいと、三人でさ。入部したばかりでボール蹴らせてもらえなかったから、ここでこっそりとね。もう二年以上も前になるんだな。……ま、コツコツやれば絶対に上達すっから。梨乃なんて、最初はてんでなっちゃいなかったけど、見違えるほどに成長したからね」

「はい、見てて本当に凄かったです。梨乃先輩も、久樹先輩も。あたしには、どんなに練習しても絶対に真似出来ない」

「なんで真似する必要があんのさ。あたしはあたし、梨乃は梨乃で、鈴は鈴だろ」

「それはそうですけど」


 鈴は天然パーマのチリチリ頭を掻き回した。


「……今度はフットサル部を辞めようと思ってるでしょ」


 先輩に唐突にいわれて、鈴の胸はどんと高鳴った。


「まだ、そこまでの気持ちは。でも、あたしにはやっぱり向いてないのかなあと思って。みんながどんどん上手になっていくから、なんかあたしだけ、取り残されているみたいで」


 鈴は暗い表情を作った。


 中学時代、色々な部に入っては退部していること、みんなには知られている。

 だから久樹先輩に限らず誰もが、「どうせまた退部するんだろう。逃げ出すんだろう」と思っているに違いない。

 まだそのつもりはないけど、でもどうせそうなるんだろうな、と他人事のように考えている自分もいた。


「もちろん辞めるのもいいと思うけど、本人の自由だし」

「やっぱりそう思います? 向いてないって」

「いや、あたしは全然。というか、そんな判断つけられるくらいに、なにかに打ち込んだことあるの? 多分ね、向いてるの向いてないのってのが分かるより前に、自分で諦めちゃっているだけなんだよ。たかが半年一年程度で」

「それは確かにそうなんですけど。辛いんですよ、自分が劣ってるって思っている中で練習することが」

「いいこと教えてあげるよ。ひとつさ、これは得意っての、作ってみな。誰にも負けないなんて、そこまでじゃなくてもいいから。これ、どんなスポーツにも通用する考えだと思うよ。あれもこれもって欲張るからいけないんだよ。鈴ってさ、本屋で勉強の参考書選んでいる時は、これで頭よくなるぞってワクワクして買い込んで、結局まったく開かずに埃かぶっちゃうってタイプだろ」

「はい」


 なんで分かる?

 一昨日、まさにそのようなことをやってしまったばかりだ。


「あたしだってさ、戦術眼じゃ梨乃の足元にも及ばないし、単純なボールコントロールの技術もこれまたサジの足元にも及ばない。体力は結構自信あるけど、でも、王子のあの底なしにゃてんでかなわない。亜由美のように、全体を明るく盛り上げていく能力もない。でも絶対に点を取ってやるぞって気持ちと、ゴールへの嗅覚にはそこそこ自信あってさ、じゃ、逆に考えると、梨乃たちにかなわないってところが、浜虫久樹というプレーヤーの個性になってんだなあって思うんだ。十年以上やってるからどんな些細なことでも負けるのはすっごく悔しかったけど、でも最近になって、そう思えるようになってきた」

「はあ、なるほどです。劣るところも個性って、参考になります。……でもそれやっぱり、なにかの能力に秀でたところのある人の言い分ですよ。得意なことのある、自分に自信がある人の言い分ですよ」

「だから、なんでもいいから作りゃいいじゃん。得意なの」

「無理ですよ」


 能力のある人は、本当に、能力のない人の気持ちが分からないんだからなあ。


「よし、じゃあちょっと練習してみようか」


 久樹は足を伸ばすと、鈴の足元にあったボールを引き寄せた。


「そんじゃ、これやってみる? ボール持って、こう直進して、ここでぐるっと右回りしつつ、相手の懐に飛び込んで、腕押し上げて肩入れちゃう感じで、こう。十時の方向に、さっと抜け出る」

「ルーレットじゃないですか。そんなのあたし、実戦で使えない」

「やるだけなら、たいした技じゃない。やり込んでないから使えないんだよ。じゃ、別に実戦でなくていいよ、ここで、いまの技であたしを抜いてみな」

「無理です」

「もう。やる前から分かんないだろ。チャンス二十回やるよ」

「じゃ、ちょっとやってみますよ」


 こんなんで、自信なんかつくのかなあ。

 ただ格の違いを見せつけられて、ますます落ち込むだけの気がするなあ。


 仕方なく、鈴はボールを足元に置いた。


 ちょんと蹴り、久樹のすぐ前で止めると、ぎこちなく足踏みして回転する。

 と、肩が久樹の胸にぶつかってしまった。


「回り方、なんかギクシャクしてんな」


 そういうと、久樹は簡単にボールを奪い取っていた。


「練習でもやってないし、こんなの」

「ま、いいや。はい、あと十九回」


 鈴は、久樹からボールを返して貰うと、もう一度チャレンジした。


 だが、また失敗。


「違う。こうステップ踏んで、ここでこっちの足を、こうだって。さ、もう一回」


 久樹はボールを返した。


「違う違う。だから、ここで、ステップ踏んで、こう。こっちに抜けるのかと思わせないと、意味がないだろ」


 ボールを返す。


「違う違う」

「久樹先輩、これ、練習して、意味があるんですか? ますます、自信を、なくしていくだけなんですけど」

「意味があるかないかは自分で考えな」


 チャレンジは続き、十九回目である。


 久樹は、目の前の鈴の背中が奇麗にすっと消えたことに、調子を狂わされてよろけてしまった。


 そんな久樹のわきを、鈴はすっと抜けた。

 ついに、成功である。


「そう、いまの! いいよ! 完璧じゃん!」


 嬉しそうな久樹の顔や言葉に、鈴は思わずにっと笑みをこぼしていた。


「なんだか、とても気持ちよかったなあ、抜けた瞬間。でも、手を抜いたでしょ、先輩」

「あたしが勝負ごとで、そんなことするわけないだろ」

「あれ、練習じゃなくて勝負だったんですか?」

「どっちでもいいんじゃない。もしもさ、フットサル辞めるにしても、いま感じたっていう気持ちよさ、それだけは忘れるなよ。そうすれば、どんなスポーツだって楽しめると思うから。じゃ、あたしもういくわ。景子との待ち合わせに遅れちまう」


 浜虫久樹はベンチに置いたバッグを取ると、走り去っていった。


 残された鈴は、しばらくぼーっと突っ立っていたが、やがてまたボールを蹴りはじめた。


「こう直進して、ここで、ぐるっと、こう……あれ、違うな。ここで、こうして、右足の内側でボールを覆うようにして、ぐるっ。よしよし、いまのいい感じ!」


 鈴は久樹の前で十九回行なったことを、一人で何度も反復練習。


 いつしか日も暮れて、すっかり夜になっていた。


 街灯が地面に作り出す、友原鈴の影法師。


 ちょっとぎこちなくはあったけれども、それでもくるくると回る姿は、まるで妖精のようだった。


     10

 暖房があまり効いておらず、少々肌寒いが、それがかえってちょうどいい。おかげで頭がはっきりしている。


 三年前にわらみなみ高校を受験したときは、暖房があまりに効きすぎて、暑がりな自分には緊張と相まって脳が茹で上がるような思いだったからな。

 もしかしたら、そのおかげで高校に合格したのかも知れないけど。

 この試験と同様にマークシートで、よく分からず適当に解答した問題がかなりあったから。


 むらは、また一問、鉛筆でマークシートの解答欄を塗り潰した。


 ここはたくよう大学校舎の一室。

 大学入試のための模擬試験を受けているところである。


 以前は自分のことをバカのおちこぼれだと思っていたし、実際に通信簿の評価も低かったし、中間期末テストはいつも赤点ぎりぎりという有様だった。

 それがまさか、こんなレベルの高い大学を目指すことになるとは。

 感慨もひとしおである。


 今回は模試だが、二ヶ月後、ここで今度は本番だ。


 まあ、受験するだけなら誰でも出来る。合格しなければ、話にならない。

 ならないけど、でも、梨乃には合格する自信がある。あんなに勉強を頑張ったのだから。

 今日の試験も、これまでのところ、分からなかった問題がほとんどない。自信を持って解答欄を塗り潰している。

 合っているのかどうかも自信のなかった高校受験の時とは、雲泥の差だ。


 と、いきなり鉛筆の芯が折れた。


 不吉な……


 梨乃は、折れた先端を呆然と見詰めた。

 いやいや、油断をせずに気を引き締めていけという戒めの啓示、むしろ吉兆。と、良い方へ自己暗示。


 自己暗示侮るなかれ、万物全般、決定づけるは我が脳なり。


 そう心に呟くと、替えの鉛筆を取り出して、試験を続けた。


 その後も、順調に解答欄を埋めてゆく。

 すでに終了した世界史Bと英語、そしていまやっている現代文、と解答に自信はあるが、まだ試験は半分残っている。どんな結果が出るのかは、まだ分からない。

 ……でもたぶん、大丈夫だ。

 そうなればもっと、自分に自信がつく。


 ここまでたどり着くことが出来たのって、間違いなくけいのおかげだな。

 受験が終わったら、なんかお礼をしなきゃ。


 あぜけいは、梨乃の親友である。彼女から効率の良い勉強方法を教えてもらって、それから梨乃の成績は劇的に向上したのだ。


 景子も受験生だ。

 来月、まだ十一月だが、早速どこかの大学入試を受けると聞いている。


 なお、もう一人の親友であるはまむしひさは、進学はしないらしい。


 静岡県にあるサッカーチームから誘いの声がかかっており、そこでサッカーをするといっていた。


 勝利給くらいしかお金は貰えないし、それも打ち上げでなくなってしまうお小遣い程度の額だから、現地でアルバイトをすることになるか、運がよければクラブの親会社で契約社員として雇ってもらえるかも知れないとのことだ。


 Jリーガーやプロ野球選手などと違って女子サッカーじゃ生活は厳しいだろうけど、そんな遠いとこから声がかかるなんて、本当に凄いことだよな。

 と、梨乃は素直に感心する。


 佐原南高校女子フットサル部は、以前からの方針でサッカーにも対応出来るような練習を多く取り入れている。ドリブルやリフティング、ハイボール処理、浮き球のクロスなど。梨乃が部長になったあとも、それを踏襲して、サッカー用五号球を使った練習メニューを試したこともある。

 もしも、そうした練習のおかげで久樹がサッカーにすぐ溶け込めて活躍してくれるのなら、こんな嬉しいことはない。


 本当は、いつかフットサルに戻って来て欲しいなと思うけど、彼女の人生、決めるのは彼女だ。とことん、頑張って欲しい。


 よし、解答欄、全部埋めたぞ。

 あとは、見直すだけだ。


 腕時計で時間を確認。まだ十分近く残っている。

 梨乃は持ち上げた手を、そのまま胸ポケットへと当てた。


 ポケットの中には去年、彼氏(当時はまだ付き合っていなかったが)から貰った四つ葉のクローバーの押し花が入っている。


 彼氏は、いま別の大学で模試を受けているはずだ。


 お互い、絶対、合格しようね。


 そう心の中で呟くと、梨乃は答案の見直しを始めた。


     11

 いくやまさとは突然、だはははは~と大声を上げて笑い始めた。


 すぐ横で、マグロとカツオとどっちのお刺身がよいか考えていたかじはなは、親友のいきなりの笑い声に飛び上がって驚いた。


「ちょっと、なによ里子。王子先輩のキャラが移ったんじゃないの? 意味なく笑わないでよ、恥ずかしいなあ」


 ほらあ、やっぱり他のお客さんが、ちらちらとこっちを見ているよ。やだな、もう。

 だははじゃないよ、変な笑い方して。


「いや、これ見てたらさあ」


 と、里子が指さしたのは、刺身用のタコの足。


 花香は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、次の瞬間には、ぶっと吹き出していた。


あきら先輩だぁ! 晶先輩の足のお刺身だ!」

「先輩、こんな姿になっちゃって可哀想に」


 ほんとくだらないと思いつつも、なんだかおかしくて、堪えきれなくて、いつまでも爆笑を続ける二人であった。


 佐原南女子フットサル部員の間でジャガイモといえば武田晶であるが、タコも武田晶なのである。

 何故かというと、なんのことはなく、晶が無意識にタコみたく唇を突き出していることがよくあって、本人はまったく気付いておらず。それを部員は、こっそりとからかい、こっそりと楽しんでいるのである。


 今日の朝練の後、なしもとさきが、「晶先輩、前々から気になってたんですけど、先輩がよくやってるこの顔、なんなんですか?」と、ついに本人の目の前でタコみたいに口を突き出しながら尋ねてしまったのであるが、「そんな顔したことないよ!」と、晶はやっぱり自覚なく茹でダコように顔を真っ赤に怒っていた。


「いやいや、よくやってるよね」

「あれさあ、本当に自覚ないのかなあ」

「多分ね。あの怒り方からすると」

「タコなのかジャガイモなのか、魚介なのか野菜なのか、はっきりして欲しいよねえ」

「どちらかといえばジャガイモ、いや……」


 二人はあらためて刺身用タコに視線をやると、またぶっと吹き出した。


「もう里子やめてよ! お腹痛くて限界なんだから」

「じゃ、早くお刺身買っちゃいなよ」

「うーん。お刺身はとりあえず保留。他、見てみよう」

「笑い損かよ!」

「ただで笑えたんだから、笑い得でしょうが」


 二人がバカなことをいい合いながら何をしているのかというと、地元スーパーで花香が夕食のための買出しをしているのだ。里子は、その付き合いだ。


 カートに乗せたカゴには、まだ何も入っていない。


「今日は月に一度の贅沢デーだから、かえってなにを買うか迷っちゃって決まんないよ」


 ぼやく花香。


「またいってる。だから、好きなの買えばいいじゃん」

「それが難しいのだ。……里子も、うちに来て一緒に食べてく?」

「いいよ。その分贅沢しなって」

「弟たち喜ぶのにな。遊びに来るなら、そのかわりによさそうな物を選んでもらおうと思ったのに」

「そんなことしなくても、選ぶの手伝うって。お、これいいんじゃない? 十月三十日 本日丑の日 国産ウナギ大特売」


 里子は宣伝文句を読み上げた。


「普通ウナギって、夏の丑の日だよね。夏バテ云々って、売るわけだから。でもパス。あたし、ウナギ嫌い」


 というか食べたことない。

 生きてる時のウナギの見た目が気持ち悪くて、どうしても食べられない。

 先輩は、スタミナがつくし、ネバネバのある食べ物は走り回るスポーツの膝関節保護にいいんだよなんてよくいってたけど……でも……


けいちゃんたち、ウナギ食べたいなんてこの前いってたよね」

「よく覚えてんね里子」


 夏のある日。

 里子が花香のアパートに遊びに来た帰りに、みんなで散歩していた時である。

 弁当屋の前で丑の日のウナギ弁当を宣伝しており、弟たちはそれに非常に興味を持ち、食べたい食べたいと駄々をこねていたことがあったのだ。


「とにかくパス。なんか他のにしよ」


 あんなネバネバヌルヌルのグログロなの、誰が食べるか。


     12

 テーブルの上に並ぶ丼四つ。

 ほかほかご飯の上に乗っかっているのは、ウナギであった。


「やったー」


 弟たちがみな、両手をあげて喜んでいる。


 それほどのものか、ウナギなんかが。


 さっぱり理解出来ない。


 花香のこれまでの人生、ウナギを食ることの出来る機会は何度かあった。

 お母さんが早く仕事から上がれた日に、ウナギでも買っていこうかという電話を受けたり、先ほど説明した弁当屋の件であったり。


 しかしウナギという存在がなんとも生理的に嫌で、ことごとく逃げてきた。


 のらりくらり冷静にかわしているように見えるかも知れないが、内心、百メートル全力疾走で、必死で逃げていた。


 それが今日、結局買ってしまったのは、弟たちに喜んでもらいたいと思えばこそだ。


 弟たちだけに買ってあげればいいかな、とも最初は思っていたが、普段から弟たちには好き嫌いをするなと厳しくいっているくせに、姉弟で一番の年長者である自分だけ好き嫌いして逃げるわけにはいかない。


 そう思い、覚悟を決めたのである。


 が、しかし、このなんともいえないグロテスクさはなんだ。

 おろして、切って、焼いて、蒸して、料理になっているというのに、何故なおも、こんなにグロテスクなんだ。


 どうして、弟たちは平気なんだ。

 どうして、この見た目にたじろがないんだ。


 自分は、にょろにょろヌルヌルのあの姿を知っているから、なおさらそう見えてしまうのだろうか。


 きっと弟に限らず、いまどきの子はウナギがどんな生き物かなんて知らないんだろうな。知るにしても、知るよりも先に蒲焼きを食べてるんだろうな、みんな。


 先にあんな姿を知っちゃったら、とても食べられないよ、こんなの。


 ほんとに食べないといけないの? こんなの。


 やだなあもう。

 ひらげんないのバカ。

 余計なことしないでよ。


「いただきまーす!」


 四人で食事開始のご挨拶。

 花香だけ元気ない。


「おいしい」

「ほんとだ」


 買ってきた物をレンジで温めただけだが、喜んでもらえたようで、とりあえずよかった。


 死刑執行を待つ罪人が、遺した家族の幸せに遠く目を細めるような光景であろうか。

 いや、そんな美しいものではない。単に自分の感じる恐怖から逃げるべく、意識を逸らしているだけだ。


 そんなことでどうする、とは思うけど。じゃあどうすればいいんだ。


 しかしほんと、みんなよく食べられるなあ。


 けいりようたける、みんな幼い子供で、胃袋も相応なはずなのに、信じられないような食欲で、みるみるうちに丼のご飯が減っていく。


 花香は、ちょっとお吸い物に口をつけただけ。ウナギには全然手をつけていない。


 やっぱり、だめだ。

 弟たちに食べてもらおうかな。

 残しておいて、弟たちの明日のご飯にしよう。

 うん、そうしよう。

 誰も損しない。得のみだ。


「お姉ちゃん、食べないの?」

「美味しいよ」

「え、え、あ、あの……」


 まったく、どんな味覚してるのやら。

 こんなの美味しいわけないでしょ。食べたことないけどさ。

 いや、もしかしたら美味しいのかも知れないけど、でもあたしには無理。

 口に入れた瞬間に吐く。

 絶対吐くかは、分からないけど、きっと五分と五分。いや、八分と二分。どっちがどっちかは、語るまでもなく。


 テーブルの上に、箸を置いた。


 絶対に食べない、という決心をしたからだ。


 だというのに、食べないというのに、額からどっと汗が出てきた。

 大量の。

 明日で十月も終了だというのに。

 どくどくだらだらと、汗が止まらない。


 花香には、理由は分かっていた。


 食べないと決心した、と自分を騙そうとしているだけで、実際、決心など出来ていなかったからである。


 こんなんでいいのか、という自分と、こんなんでいいでしょ、という自分とが、相変わらず戦い続けていたのである。


 ご飯の上のウナギへと、視線を落とす。


 ため息。


 という自分の情けない態度に、またため息。


 こんな自分の姿を見て、弟たちが食べ物のえり好みばかりするようになったらどうしよう、とため息。


 いやいや、ウナギ嫌いってのがバレなきゃいいだけじゃんか。「そんな美味しいなら、お姉ちゃんの分も食べていいよ」そういえばいいだけ、簡単なことじゃないか。優しいお姉ちゃんにもなれて、一石二鳥だ!


 でもやっぱり……それは、ズルイよなあ。

 人間として。

 自分は好き嫌いのない振りして、嫌いな物をひとに食べさせて、ひとには好き嫌いしちゃダメなんて。


 わたしがわたしのことを嫌いになっちゃうよ。

 人に嘘はつけても、自分には嘘はつけないからな。

 弟たちに最低最悪な嘘をついたまま、ずっと一緒に暮らしていくなんて、耐えられない。


 やっぱり、逃げちゃダメなんだよ。


 といってもなあ。よりによって、なんだってこんなグロテスクな……


 でも、

 でも……


 別に良いお姉ちゃんなんかにならなくていいけど、嘘の平気な、自分の都合だけのお姉ちゃんには、なりたくない。


 よし!


 花香は再び丼と箸を手に取った。

 箸でウナギの身を少しつまみ取った。


 心臓が、どきどきしてきた。


 だけどここで躊躇したら、また惑星軌道の公転周期で最低なお姉ちゃんが姿を表す。そうなる前に……


 いくぞ。

 やるぞ。

 やるぞ!

 梶尾花香、全魂全走!


 箸先につまんだものを、一気に口の中に放り込んでいた。


 目をぎゅっと閉じて、口の中のに入れたものを噛んだ。


 早く、早く咀嚼してしまいたい。飲み込んで、お吸い物で口内を清めたい。

 と、急ぐが、やがて不思議そうな表情で、目を開いていた。


 ごく、と嚥下した。


 しばらく自分の手の中にある丼を見つめていたが、やがてまた箸を伸ばした。


 今度はもうちょっと大きな塊を、下のご飯ごと、口の中に入れた。


 ゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。


 丼を、静かにテーブルの上に置いた。


 十秒間ほど身動きひとつしなかった花香であるが、突然、勢いよく立ち上がると、狭い部屋の中を走り出した。


 小走りで、隣の四畳半へと駆け込むと、たたんで隅に置いてある布団の上に「きゃほー!」と甲高い声で叫びながら、でんぐり返しで転がり飛び込んだ。


 立ち上がると、もう一回、布団の上をでんぐり返し。


 弟たちも入ってきて、一人で遊んでてズルイとばかりに、自分たちもでんぐり返しをはじめた。


 四人の子供たちは、下の住民から苦情がくるまで、いつまでもはしゃぎ続けていた。

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