第五章 弾丸ジェットボーイ

     1

「違う、こうやってかわすんだよ」


 やまたかしは両の握り拳を合わせたまま、腰をかがめて、すっすっと素早く左右に身体を振った。


「こう?」


 妹のゆうが、兄貴の仕草を真似してみる。


「そうそう! それそれ。ま、そんな感じ。違うけど」


 母親が朝食を作り終えるのを待つ間、裕子はお手伝いをするわけでもなく、兄とボクシングごっこに興じている。

 兄のたかしは茨城の大学に通っており、そこでボクシング部に入っているのだ。

 ボクシングは中学の頃からやっているのでそれなりに強いらしいが、裕子の前では優しく、そして時折大ボケをかます、良い兄貴である。


 現在、朝の七時半。

 平日ならば眠くて眠くて仕方ないといった時間帯だが、休日朝の裕子はいつも元気いっぱいだ。

 今日のような特別な日でなくとも。  


 ここはとり駅近くにある、小さな分譲マンション。


 最上階である四階の3LDKに、山野一家は暮らしている。


 父はこの近辺が地元で、実家がここから徒歩数分のところにある。

 仕事の関係で、裕子が生まれるずっと前から横浜暮らしだったのだが、四年前、千葉県ちよう事務所に転勤になったのを幸いに、実家近くにマンション購入したのである。


「ご飯よ」


 ダイニングで、母がテーブルに食器を並べている。


 すでに父が食卓について、新聞を広げている。

 父も今日は仕事が休みで、本来ならまだ布団に入っているところであるが、裕子たち兄妹の騒々しさに叩き起こされて、すっかり目が覚めてしまったのだ。


「うわーい♪」


 孝と裕子は、ドドドとけたたましい足音を立てて走ってくると、飛び跳ねるようにして食卓についた。


「ドタバタすんじゃないの! 分譲でも下に聞こえるんだからね」

「気をつけますー」


 孝は、小さく頭を下げた。


「お、スクランブルエッグだ。やった!」


 裕子は、まったく聞いていない。


 母は無言で、裕子の頭をステンレスのお盆で殴った。


「いってえ」


 もう。そもそも目の前に食事の並んだ空腹時のわたしに、他人の話を聞けという方が無理な話でしょお。

 と、小声で呟く裕子である。


 裕子は人一倍食欲旺盛で、消化も速くすぐ空腹になるのだ。

 それにともなって、というべきかなんというべきか、胃袋も非常に頑丈。試したことはないものの、平日早朝寝起きの、眠くて死にそうな状態であろうとも、脂身たっぷりのカツ丼を何杯でも平気でおかわり出来る自信があるくらいだ。


「ほらお父さんも。行儀悪い姿勢で新聞読んでないで、しまってください」


 片足あぐらかいて新聞を読んでいる父に、母が注意する。


「イヤですー」

「お父さん!」

「……はい」


 しょんぼりしたような表情で父は、新聞をテレビ台横のマガジンラックに入れると、あらためて姿勢をただして座り直した。


「お父さんさあ」


 裕子はテーブルに両肘付いて、身を前に乗り出す。


「前からいおうと思ってたけど、とりあえず一回だけはむかってみるっての、やめた方がいいよ。勝てるわけない。女はね、強いんだから」


 父は完全に黙ってしまった。

 裕子たちの賑やかな姿に、羽目をはずすことの憧れを覚えときたま実践しようとするものの、眼鏡をかけた中年サラリーマンのイメージ通りで根が寡黙で真面目な人間なのだ。


「じゃ、裕子も彼女が出来たら大変だな」


 と、兄の孝がからかった。


「そうそう。尻にしかれちゃってね~、ってなんでやねん! なんであたしに彼女が出来るんじゃ! 彼氏でしょうが。……しかもスラッと長身の、笑顔が素敵な、ちょっと日に焼けてて、笑うと歯が白い。でも今はね、部活が恋人なのよ」


 乙女モードに入っている裕子の姿に、ふーん、と味噌汁をすする孝。


『言い訳が出来てよかったな』


 孝と裕子の混線合唱。


 二人は少し見つめあった後、どちらからともなく笑い出した。


 裕子にとって、今日はその恋人との、特別な日なのだ。

 関サル。

 関東高校生フットサル大会の、千葉県大会地区予選が行われるのである。


 去年は、珍しいことに体調を崩してダウンしてしまい、せめて応援だけでもと会場に同行した。と、そのような立場だったし、まだ実力もなく試合で使ってもらえるかも分からなかったし、だからそれほどの緊張はなかった。

 その時の結果は、地区予選二回戦敗退。

 残念には思うものの、さして悔しさは感じなかった。どこか他人事だったのだ。


 今年はどうだろうか。

 自分は欠かせない主力であり、なんといっても部長なのだ。チームを率いる立場なのだ。


 いまはまったく緊張していないが……いや、しているのだろうか。だからこんな、意味もなく楽しい気分になっているのだろうか。自分の弱さを、隠すために。


 分からないけど、でも、そうならそれはそれで構わない。


「裕子、遅刻しないようにしなさいよ」


 母があらためて注意する。


「分かってる。八時二十分にサジと駅で待ち合わせ。だから余裕だよ」

「とかいってて、この間も練習試合の時、一本乗り遅れたっていってたじゃない。サジちゃんに悪いでしょ。サジちゃんだけじゃない、部員全員に迷惑かかるんだからね。普段の学校ならあんた一人が先生に殴ららればいいだけだけど」

「くどくどくどくど、今度は大丈夫だってえ、もお。ごちそうさまあ」


 娘は日々成長しているんだぞ。いつまでも子供じゃないんだ。


「歯、ちゃんと磨くのよ」

「分かってるってばぁ!」


 すっかり忘れてた。


     2

 JRなり駅からバスで二十分、周囲ぐるりを果てなく取り囲む田園風景。

 そのような中に成田市立さんようだい中央公園はあり、その広い敷地内にある第一体育館が、いま目指している場所である。


 バスの正面ガラス越しに先ほどから遠くに見えていた体育館の屋根が、だんだんと、近く、大きくなってきた。


 関東高校生フットサル大会千葉県地区予選、わらみなみ高校は去年と同様、ここが試合会場なのである。


 去年の予選は最初からトーナメント方式で、三戦全勝の一チームのみが千葉県決勝大会に進むことが出来たのだが、今年は、四チーム総当りのリーグ戦形式だ。

 決勝大会へ進出出来るのは一チームのみという点では去年と同様だが、勝ち点式であるため戦略上の違いというものは少なからずあるだろう。


 千葉県内での参加希望校が去年よりも増えたため、エリアが細分化されて予選会場が増えた。


 運がよいと考えるべきか、おかげで優勝候補であるひがしと地区予選では当たらずに済む。

 去年は、我孫子東はシード校として予選は免除されていたものの、本来ならば同じ地区だったから。今年は地区違いで、我孫子東高校の会場は柏市になったのだ。


 去年、この成田会場で熾烈な激戦を行ったいん西ざいおろし高校とながれやまはとがや高校であるが、こちらもまたそれぞれ会場が分かれることになった。


 印西木下はこの成田会場で行われ、流山はとがやは柏会場だ。


 流山はとがやとしては、印西木下への雪辱の機会を失ってしまったわけだが、しかし優勝候補の我孫子東と対戦するわけだから、これに勝てば実質、印西木下への雪辱も果たせると考えていいだろう。我孫子東を破ることの出来る高校など、そうはないのだから。


 雪辱の機会ということであれば、わらみなみにも与えられている。

 去年の二回戦で、印西木下になす術なく敗れ去ったからだ。


 印西木下は確かに難敵だ。

 しかし今年の予選は佐原南にとって、トータルで考えるならば相当に対戦相手に恵まれているかも知れない。

 やまゆうは、そう思っている。

 もちろん油断するつもりは毛頭ないが、柏会場と比較すれば楽なはずだ。楽というか、予選突破の可能性は高い。


 印西木下は堅守が売りのチームで、崩すのは難しいだろう。

 だが、去年直接対決した経験と今年あらたに収集した情報とで、対策はしっかりと講じてあるつもりだ。


 他の二校、なりどうおか高校とほくおうかんがくえん高校だが、どちらも今年初参加。北央館学園高校などは、まだ部の創設二年目と聞く。

 だからきっと弱いだろう、などという根拠はまったくないし、ろくに情報がないというのが逆に不安なところでもある。

 しかし、相手を意識するあまり無駄な緊張感に悩まされることがない、ということもまた確かであろう。


 むら前部長が、フットサルを通じたある親友から聞いた下馬評では、やはり印西木下が固いところとのこと。

 でも、去年の大会でばらふじを破った佐原南もそれなりに評価は高いとのことだ。


 中でもゆうの知名度は相当に高く、それ故、かなり警戒され、研究されているらしい。

 スタミナに難ありという弱点も知られているし、かなり激しいマークも受けるだろう。


 もう一人、攻撃のキーマンがいないと厳しいのでは。

 梨乃の親友は、梨乃にそういったそうである。


 それを聞かされた裕子は、確かにごもっともなことですと思ったが、いわれずとも前々から気になっていたところだ。


 裕子自身はキーマンとなるようなタイプではない。

 単なる切込み隊長であり、かく乱役。そう自己分析している。


 候補は一人、いる。


 しかし彼女はまだ、目覚めていないのだ。


     3

 公園前の停留所にバスが到着した。


 わらみなみの生徒たちは、次々とバスを降りていく。


 全員、黒いジャージ姿だ。

 背中には、「県立佐原南高等学校」と銀の刺繍。みなそれぞれ、大きなスポーツバッグを持っている。


 乗客が一気に降りて軽くなったバスは、軽快なエンジン音を上げて去っていった。


「サジ、なんかフラフラしてない?」


 会場への道を歩きながら、しのは心配そうにゆうの顔を覗き込んだ。


「大丈夫。なんともないから」

「ならいいけど」


 歩き続ける。

 敷地内の曲がりくねった道を何分か歩いて、佐原南高校女子フットサル部員たちは競技場へと着いた。


     4

 裕子は、大きな観音開きのガラス戸を開いた。


 しん、と静かであった。


 人はいるものの、フットサルコート二面分、と会場があまりに広い。十人や二十人程度では少なすぎて、空気は寂しく反響するばかりである。


 何故これほど少ないのかというと、関係者しかいないからであるが、プロスポーツでもなければ優勝決定戦でもないし、中高校の競技大会はいつもこんなものである。

 甲子園や冬の国立が、特別なのだ。


 佐原南の部員たちは、壁際にバッグを下ろすと、ジャージを脱いでユニフォーム姿になった。


 ユニフォームは、シャツもパンツも、ソックスも、濃い青色だ。


 裕子の指示のもと、彼女たちは二列縦隊を作り、アップを開始した。


 体育館内、壁際を軽いペースで二周。


 続いて、動的ストレッチ。

 歩きながら腕を回し、足を振り上げ、腰を捻り、肩、足首、膝、股関節、腰、首、を試合に向けて念入りにストレッチしていく。

 足を回すように振り上げては前に進み、なんだか、踊っているようにも見える。裕子が部長になってから取り入れた、ブラジル体操という有名なウォーミングアップの方法だ。


 先頭の裕子は、後ろを振り返った。

 すぐ目についたのが、ゆうの姿であった。


 いつものことながら、佐治ケ江優の関節は異様に固い。集団の中で、ひと際目立つ。

 ろくに身体を捻ることが出来ないし、足も高く上げられない。

 それなのに、試合の時になると軟体動物のようにくにゃくにゃとして見えるのは、何故だろう。

 ハイレベルなプレーの連続に思わず錯覚させられてしまうだけなのか、さもなければ本番になると何故か突然に身体が柔らかくなるのか。


 さて、ストレッチも終わり、続いてボールを使ってのウォーミングアップに移った。


「しっかり準備しとけよ。今日は全員に出るチャンスあんだからな!」


 裕子は手を叩きながら、声を張り上げた。


 今日の試合スケジュールは過酷だ。

 ぶっ続けに三試合が行われ、しかも間には三十分から一時間程度の休憩時間しかない。


 勝ち抜くための鍵は、いかに体力温存しながら戦うかだ。


 しかし印西木下は手を抜いて勝てる相手ではないし、他の二校にしても能力未知数であるためなんともいえないところだ。

 何度でも選手交代が出来るのがフットサルのルールなのだから、それを活用して手探りで様子を見ていくしかないだろう。


「では第一戦を開始します! 選手の方は準備をお願いしまあす!」


 大会運営係の一人である黒いスーツ姿の中年女性が、体育館中に響くような大きな声を出した。


 これから、各校総当り三試合、二つのコート使って同時に二試合づつ行われる。


 裕子は佐原南の全員を集め、円陣を組んだ。


 ゆっくりと息を吸い、そして叫んだ。


「佐原南、勝つぞ!」


「おう!」


「三戦三勝!」


「おう!」


「全魂全走!」


「おう!」


「燃えろ、青い弾丸!」


 最後の一言に、二年生たちは一瞬の躊躇、苦笑いの後、威勢よく、「おう!」と応えたが、一年生たちは、「はあ」とか「お、おう?」などとちぐはぐであった。


 円陣解除後、かじはなが裕子に尋ねた。


「先輩、なんです最後の?」

「勝つためのおまじない」


 裕子はむふふと笑った。


 梨乃先輩から聞いた話では、かつての先輩は、試合前にこの言葉を唱えて、千葉県決勝大会の準決勝まで進んだことがあるという。


 とはいえ、それはまだ参加校が少なかった頃の話だ。


 実際、木村梨乃前部長も去年この言葉を叫んでみたものの、地区予選一勝が精一杯だったし。


 と、まあ、そんなことはどうでもよくて、単に裕子はこの言葉を叫んでみたかっただけなのであった。


「よし、いくぞ~! 待ってろやまくはり!」


 裕子は右手を天に突き上げた。


 幕張、千葉県決勝大会の会場である。


     5

 やはり上手い。さすがサジだ。


 いつも練習でよく見ているはずなのに、公式戦で改めてゆうの技を目にすると、本当に驚きのあまり硬直してしまう。見とれてしまう。


 美しいプレーというわけではない。ただひたすらに、上手なのだ。


 おっと、感心している場合ではない。やまゆうは相手の脇を抜けて、前へと抜けた。


 佐治ケ江優から、柔らかいパスが来た。


 裕子は左足の内側で受けると、そのままスムーズにドリブルに入った。


 佐治ケ江が一人いるだけで、チームの全員がテクニシャンに見える。受けやすい位置に、受けやすい配球をしてくれるからだ。


 裕子は再び佐治ケ江へとパス。


 二人に取り囲まれて、無理せずベッキの真砂まさごしげへと戻した。

 後方から、組み立て直しだ。


 ただいま、第一試合の途中である。

 佐原南の対戦相手は、県立なりどうおか高校。この市民体育館から、徒歩数分の距離にある高校だ。


 現在、前半八分。両校とも、まだ得点は生まれていない。


 試合時間は十五分ハーフ、計三十分で行われる。

 去年は二十分ハーフであったが、試合間隔が詰まっていることもあり、変更されたのだ。

 東京で行われる、関東の頂点を決める最後の一戦のみが二十分ハーフで行われる。


 実際に当たってみて分かったことであるが、成田不動岡には特筆すべき能力を持った選手はいない。

 ただ、主将のおかあさを中心に、粘り強い守備を見せるチームだ。フットサルでは当たり前の考え方である、「全員攻撃、全員守備」これを、過剰なまでに徹底して行っている。


 ただ守るだけではなく、そこからどう得点するかについてもかなり練習をしているようで、時折見せる鋭いカウンターには、この八分間で何度かひやっとさせられている。

 自分たちが個人技に劣ることなど百も承知で、それ故に戦い方が徹底しているのだろう。

 とにかく約束事をしっかり決めておくことで、個人のセンスに任せるシーンをなるべく作らないようにしているのだ。


 と、それが、山野裕子の抱いた相手への感想であった。


 ガンガンと攻めれば、意外にあっさりと点が取れるかも知れない。しかしいまは、そうしたい気持ちを必死にこらえている。


 要は、一点差でも勝てばいいのだ。

 もちろん最終的には得失点差勝負になるかも知れないが、いま相手をみくびって、強引に点を取りにいく必要もない。


 攻め急いでカウンターで失点しても勿体ない。

 先ほどだって危ないシーンを作られ、ゴレイロたけあきらの果敢な飛び出しでなんとか難を逃れたシーンがあった。もちろん晶の判断が素早く的確だったこともあるが、運も良かったのだ。

 まずは、じっくりだ。


 成田不動岡のフォーメーションは、ボックス型である。


 対する佐原南のフォーメーションは、むら前部長時代を踏襲してダイヤモンド型だ。

 山野裕子がピヴォ、つまり最前線の選手として身体を張る。

 アラ、つまり両サイドだが、右アラが佐治ケ江優、左アラがしの

 最後列であるベッキは真砂茂美。

 そしてゴレイロは武田晶。


 成田不動岡はすでに二人、選手交代を行っている。


 対する佐原南はまだ一人も交代はしていない。二年生だけで構成されたスターティングメンバーのままだ。


 全体としては佐原南が押し気味ではあるものの、相手の必死な頑張りもあって、なかなかゴールに結びつかない状況だ。


 だが、前半終了間際、ようやくスコアが動く。


 成田不動岡の左サイドを破った佐治ケ江が、ゴールラインぎりぎりから、ゴール前へと速いボールを転がした。


 ゴール前の裕子は、シュートを打つふりをしてスルー。

 後方から走り込んで来ていた篠亜由美が右足を振りぬき、ボールを豪快にゴールネットの中に叩き込んだ。


 成田不動岡のゴレイロは、裕子のシュートに心身構えたものの、直後のスルーに混乱して、ブロックの体勢を作ることすら出来なかった。


 佐原南の先制弾に、ベンチのきぬがさはるかじはなが歓喜の声を上げた。

 ピッチ上でも、亜由美と裕子がハイタッチをしている。


「サジ、さすが絶妙のアシスト!」


 裕子は佐治ケ江に近寄り、背中を叩いた。


 成田不動岡のキックで試合再開したが、それから程なくして、審判の長い笛が鳴った。


 前半戦終了。

 佐原南の一点リードで、折り返しだ。


 裕子は後半戦に向け指示を出した。


 指示は単純明快。しっかり守って、相手のカウンターに注意。チャンスがあれば追加点も狙っていこう。


     6

 後半戦開始。


 佐原南に、選手交代。

 ゆうは、審判に許可を申請した。


 一般的なフットサルルールでは、許可など得ずとも、インプレー中に勝手に交代して構わない。

 しかし、この大会のローカルルールにおいては、地区予選までは、審判に許可を得なければならないのだ。

 初心者に毛の生えた程度の審判員があまりに多く、通常ルールのままだと交代時間など正確な記録が残せなくなったり、大事なファールを見落とす可能性などが出てくるためだ。


 ゆう アウト いくやまさと イン


 やまゆう アウト きぬがさはる イン


 佐治ケ江の交代は、戦術云々というよりは単純なスタミナ対策。一点リードしているし、前部長の築き上げた守備は多少メンバーが変わろうとも崩されるものではないからだ。


 裕子自身が抜けたのは、外から冷静に状況分析をしたいと思ったから。体力だけなら、何試合ぶっ続けだろうと平気な自信があるが。


 さとを入れたのは、ただ単に試してみたかったから。

 リードしていることと、対戦相手を考えると、いまが試す絶好の機会だと思ったらから。


 冒険には違いないが。


 さて、その冒険の結果であるが、

 果たして裕子が予想していた通りになった。


 先日行なったひがしとの練習試合、結局、あの時となんら変わらね状況に陥ったのである。


 里子には前への意識しかない。

 自分が点を取ることしか考えていない。

 相手を個人技でかわすことしか考えていない。

 自分がナンバーワンになることしか考えていない。

 つまり、足元の技術は優秀かも知れないが、「集団競技においてのナンバーワンとはなにか」を考える能力においては、悲しいまでに無能者だったのである。


 ほんっと、去年のあたしと同じくらいバカかもなあ。


 裕子の胸の中に、なんともいえないおかしみが込み上げて来ていた。なんとも里子が可愛いらしく思えて来た。


 里子が入ったことにより、佐原南に乱れが生じてしまっていた。役に立っていないだけならば、一人少ないとでも思えばよいが、里子の存在は明らかに一人少ないという以上の損害をチームにもたらしていた。


 相手にカウンター以外の有効な攻め手がないため、しげを中心とする守備陣はしっかりと守れていたが。


 後半八分、佐原南、選手交代。


 生山里子 アウト 山野裕子 イン


 真砂まさごしげ アウト づき イン


 里子を引っ込めた。

 これ以上チームをかき回されてしまったら、さすがに持ちこたえられるか不安だったからだ。


 茂美を下げたのは、体力の問題。茂美も裕子には劣るものの相当にスタミナのある方であるが、あと二試合もあるのだし、少し休ませてあげたいと思ったらのだ。


 茂美の代わりにベッキに入ったのは、裕子である。裕子は通常、ピヴォかアラだが、経験の少なさは気力と体力でカバーだ。


 そして、ピヴォの位置に入ったのが葉月だ。


「里子、いいな、葉月のことよく見てるんだぞ」


 裕子はピッチの中から、ベンチに下がった里子を指さし叫んだ。


「なにを見てりゃいいのか具体的に教えてくれませんか。あたし、バカなんで」


 ベンチで片あぐら、その膝の上に頬を乗せ、すっかりぶすくれた表情の里子である。

 なにも出来なかったこと、すぐ交代させられたことが悔しくてならないのだろう。


「自分で考えろ!」


 裕子は怒鳴りつけた。


 ちょっとだけ間をおくと、にっと笑みを浮かべ、


「葉月の背中が眩しすぎるなら、あたしの背中を見な」

「どっちも別に眩しくなんかないですよ! でもそういうなら、見てあげますよ」


 里子は床についていた方の足も引き上げ、ベンチの上で完全にあぐらをかいた姿勢になった。


「よしやるぞーーっ!」


 とにかくこうして裕子は、慣れぬベッキを務めることになったのである。


 フットサルの守備は全員での守備。

 守備を免除されているポジションなどは存在しない。

 前で守備するのがピヴォ、後ろで守備するのがベッキ、というだけの話しだ。

 とはいうものの、やはりFPで守備の要はベッキである。失点に直結するポジションであるため、相当な集中力や忍耐力を必要とされる。


 裕子の性格を考えると、まったく対照的な役割にも思える。


 しかし、意外というべきか、裕子はベッキというポジションをそつなくこなしていた。


 カバーリング。コーチング。攻め上がり。状況を冷静に判断してのロングフィード。


 先日、真砂茂美講師の授業をしの通訳を介し、ともはらりんと一緒に受けたのだが、その成果が出たようだ。


 だがそれも付け焼刃であったか、相手のピヴォとアラの連係で抜かれそうになったところ、ピヴォからボールを奪おうとして足を引っ掛けて倒してしまった。


 審判の笛が鳴った。


 裕子にイエローカードが出された。


 なりどうおかに、絶好の位置でのFKを与えてしまうことになった。


 裕子は手を差し出して、自分が倒してしまった選手を引っ張り起こした。


「王子、無駄なファール貰ってんじゃないよ!」


 ゴレイロたけあきらの罵声が飛んだ。


「ごめん。FK防いでね、よろしく」


 裕子は晶に向かって、軽く敬礼の仕草を取った。

 ほんとお気楽な奴め、とでも思ったか、晶は普段以上に厳しい顔になっている。裕子のひょうきんな仕草に、苦笑が生じるのをこらえているだけかも知れないが。


 FKは主将のおかあさが蹴るようだ。


 佐原南のFP四人は、壁を作った。


 笛が鳴った。


 岡田浅海は短く助走すると、ボールを蹴った。

 緊張からなのか、蹴り損ねであった。勢いはよいものの、ゴールネット前を真っ直ぐ超えていく。


 しかし……ボールは壁を高くしようとジャンプした山野裕子の頭に当たってしまい、真上へと跳ね上がった。

 鋭い放物線を描いて、佐原南ゴールへと向かって落ちていく。


 少し前に出すぎていた晶は、慌てて後退しながら高く跳躍、両手でボールを弾いた。


 そのクリアボールを成田不動岡の選手に拾われてしまったが、処理を誤ってサイドラインを割り、佐原南のキックインになった。


 一難を乗り越えた佐原南である。


「王子、頭に当てんなら、しっかり跳ね返せよな! 危ないな、もう」

「お前なら取れるだろ、いちいちうるせえ!」


 と、怒鳴る裕子であったが、内心は戦々恐々。


 やべ、里子にしめしつかねえ……


 ぼりぼりと尻をかいた。

 ちらり里子の視線を確認しようとしたが、怖くて出来なかった。

 なんか睨んでそうで。


 佐原南のキックインだ。

 蹴ったのは、衣笠春奈だ。

 亜由美が動きながら受けようとするが、しかし相手に突き飛ばされ、受け損ねてしまう。完全にファールであるが、微妙な角度で両審判から見えなかったのか、笛は吹かれなかった。


 ボールを奪った成田不動岡のピヴォこうめぐみは、ちょんとボールを蹴り出してドリブルに入ろうとしたが、山野裕子に行動を読まれており、真横からボールをかっさらわれた。


 裕子は、前線で張っているピヴォの葉月へと長いパスを送った。


 葉月はマークを振り切り、戻りながら受けた。

 すかさず前へと振り向いて、そのままシュート、と見せかけて真横へとボールをころり。


 後方から走って来ていた衣笠春奈が、ボールを受け取ってそのままドリブル。そして今度こそシュートだ。


 ゴレイロかめは、必死のブロックを見せる。

 ボールは爪先に当たって、宙高くに浮き上がった。


 落ちてくるボールをキャッチしようと、ゴレイロは構えた。


 キャッチした瞬間、衣笠春奈が跳躍してゴレイロに身体をぶつけながら、ボールに頭を叩き付けていた。


 春奈とゴレイロ亀田恵理は衝突。二人の身体はもつれ、絡み合い、ボールごとゴールネットの中に倒れこんでいた。


 佐原南の二点目か。


 いや、春奈のファールが取られ、ゴールは認められなかった。


「春奈、ナイスファイト! 葉月もその調子!」


 裕子は激しく手を叩いて、チームの雰囲気を盛り上げていく。


 でも、自分なんかが盛り上げるまでもなく、佐原南はいいプレーを見せてくれている。


 衣笠春奈は、知的さと熱さの混じった、怪我も怖れぬ果敢な姿を見せてくれたし。


 葉月も、決して技術の高い選手ではないが、自身それを理解して、身の丈にあった堅実なプレーで、とにかく献身的にチームのために尽くしてくれている。

 普段の性格の通りに、プレーもおとなしいのが残念だが、しかし一年生の中では一番計算が出来る選手だ。

 もう少し、自ら仕掛けることもして欲しいが、技術的というより、性格的に難しいのだろう。今年の一年生は一部の例外を除いておっとり型が多いし、仕方がないところだ。


 そして時間は流れ、試合は危なげなく進み、

 タイムアップを告げる笛が鳴った。


 佐原南高校、1-0で勝利だ。


     7

 やはりうち以上に守備がかたいぞ。

 まだ試合開始から二分とたっていないというのに、もうゆうはそう実感していた。苦戦を覚悟していた。


 第二戦、いん西ざいおろし高校との対戦だ。


 去年の関サル地区予選で一度戦っている相手で、その時には、佐原南が0-3で敗れている。


 その時の敗因は明確であった。

 わらみなみは初戦から選手の人数がまるで足りておらず、第一試合終了時点で疲弊しきっていたこと。


 また、その試合での退場や怪我で、はまむしひさむらなつフサエ、ゆうが出られず、薄い層がさらに薄くなってしまったこと。


 そしてなによりも、印西木下の守備がかたすぎたのだ。


 去年とは選手の半数が入れ代わっているが、チームカラーは健在なようで、とにかく寄せが早い。マンマークが執拗なまでに徹底している。「それらはすべて守備のため。守備をやり抜いた先に、得点がある」と、自分たちでもそう公言しているくらいなのだから。


 ある一瞬の判断において、攻守の選択を迫られるならば、全員即決で守を選ぶだろう。戦術だけでなく、意識付けの根底部分から徹底されているのだ。


 佐原南のスターティングメンバーは、先きほどなりどうおかと戦った第一戦のそれとほとんど同じだ。


 ピヴォがゆう

 左アラが一年生のともはらりん、右アラがやまゆう

 ベッキが真砂まさごしげ

 そしてゴレイロがたけあきら


 左アラの友原鈴だけが、第一戦と異なるところだ。


 裕子は中央の少し下がった位置で茂美からのパスを受けると、相手が寄せてくる前にすぐさま佐治ケ江へパスを出し、そのまま相手の脇を抜けて駆け上がった。「ここでサジからのリターンだ」、と練習の通りにボールを受けようとしたのだが、しかしリターンが来る気配が一向にない。


 振り返ると、佐治ケ江は二人の相手に取り囲まれて、苦戦していた。


 フェイントでタイミングをずらし、ボールを軽く浮かせ、なんとか包囲をかわした佐治ケ江は、ようやく裕子へとパスを出した。


 なんであのタイミングで、二人に囲まれるんだ。と、いぶかしげな表情の裕子。

 確かに、普段の佐治ケ江ならば、相手が寄るよりも先にボールを捌いているか、囲まれたってすぐに抜いている。


「サジ、ぼけっとしてんな!」


 後方から武田晶の声が飛ぶ。

 やはり、佐治ケ江の様子がおかしいと思っているのは、裕子だけではないようだ。


 あらためて注意して見ると、集中力がないばかりか、動きのひとつひとつが妙にぎこちない。

 しかしそれは裕子が最高の佐治ケ江を知っているからであり、ボールを持てばやはり上手い。二人掛かりでも、簡単には取られない。


 印西木下の選手たちは、やはりというべきか相当に佐治ケ江を警戒しているようだ。


 FPが四人しかいないフットサルで常に一人を複数人でマークするわけにはいかないが、しかし、いつでも数人がかりで佐治ケ江を取り囲むことが出来るように巧みにポジション取りをしている。


 佐治ケ江も無理はせず、なるべくボールを持ちすぎないよう、出しどころさえあればパスするようにしている。嫌な奪われ方をしないように、リスクを極力避けているようだ。


 以前、裕子は佐治ケ江から相談を受けたことがある。佐治ケ江がボールをもつと仲間が信頼して、状況を考えずにとにかく上がってしまい、それがどうにもわずらわしい、と。


 それが悪い面ばかりではないし、実際、佐治ケ江はそう簡単に奪われない。


 だから裕子は、「分かった、なんとかする」とはいっているものの、あまり深くは考えていなかった。佐治ケ江を出さなければ、しっかり守備的に戦えるのだから、そういうベンチワークで調整すればいいと思っている。


 佐治ケ江のその悩みは結局、ほとんど彼女自身のメンタルから来るものだと思っているし。


 しかしそれは、佐治ケ江本人からすれば、冗談ではない理屈であろう。

 変なところでボールを奪われでもしたら、たちまち失点の危機である。慎重にやろうと思うのも無理ないことであろう。


 しかしながら、前部長むらの言葉でないが攻めもまた守備、佐治ケ江は相手の隙を見逃さず、勝負に出た。

 印西木下のベッキあんどうあやがボール処理を誤りもたついているところ、素早く詰め寄りボールを奪取した。


 そのままドリブルで駆け上がった佐治ケ江は、飛び込んできたアラをすっとかわし、シュートを放った。


 しかし角度なく、ボールはサイドネットを揺らしただけだった。


 両者無得点のまま、前半終了の笛が鳴った。


     8

「サジ、なんか顔色悪いように見えるんだけど、大丈夫?」


 武田晶は相変わらずの仏頂面ではあるが、佐治ケ江のことを本心から心配しているようであった。


「別になんでもないよ。いつも通りだから」

「いや、晶のいう通り、やっぱりなんかおかしいって。今日に限らず、最近さ。印西木下にだけは、ほとんどフル近く出てもらいたかったんだけど、誰かと交代させようか?」


 裕子は、佐治ケ江のおでこに自分のおでこをくっつけた。


「熱はないようだな」

「大丈夫、なんともないから。このままやらせて」

「分かった。でも、交代させた方がいいと思ったら、すぐ交代させっからな」


 裕子は、佐治ケ江の両肩に手を置いた。


「ありがとう」

 佐治ケ江は小さや声で礼をいうと、裕子と肩を並べてピッチから出た。


 これから十分間のハーフタイムである。


 衣笠春奈と山野裕子が代わるがわる口を開き、後半戦へのプランを選手たちに落とし込んでいった。


     9

 しかしゲームは、そのプランとはなんの関係もないところで動くこととなった。


 後半開始早々に得点が動いたのであるが、先制点をあげたのは堅守の印西木下ではなく、佐原南であった。


 ゴロイロである武田晶が、パワープレーで飛び出したところから生まれたものだ。


 本来、パワープレーはこのような場面でやるものではない。

 点差は均衡しておりまだ時間もあり、無理に点を取りにいく必要がないからだ。


 だがそれ故にその行動は、まさに相手の意表を突くものだった。

 物理的に一人多いというだけでなく、印西木下の心理を乱すことにも成功、さらに運が手助けをしてくれ、茂美 → 晶 → 亜由美 → 裕子 → 佐治ケ江 → 晶 → 茂美、とショートパスが見事に繋がって、最後に茂美のシュートがゴレイロの手を弾いてゴールネットに突き刺さったのである。


「イエエエエエイ!」


 山野裕子は、ゴールを決めた真砂茂美のもとに走り寄ると、両の手のひらを上下に叩き合った。


 次いで踵を返して武田晶のもとへと走り、駆け抜けながらラリアットをぶちかました。


 晶はたまらず、派手に吹っ飛ばされて後ろへごろり転がった。


「てめえ、勝手なことやってんじゃねえよ!」


 裕子は、どんと床を踏み鳴らした。


「点取れたんだから、いいじゃん」

「ま、そうだけどさあ。……でもこの後が怖いよな、去年のこと思うと」


 裕子は手を伸ばして、晶を引っ張り起こしてやった。


「出てなかったくせに」

「しょうがないじゃんか」


 裕子は珍しくも体調不良で、去年の関サル予選には出ていないのである。怪我人多数といった層の薄さから、参加さえ出来ていれば相当に出場機会があっただろうが、悔やんでも詮ないことである。


 出ていないといっても、会場には同行し、試合はしっかり見た。


 印西木下の試合を、二回も。


 ながれやまはとがや高校との試合と、それと自分たち佐原南高校との試合だ。


 裕子のいっていた「去年のこと」というのは、印西木下と流山はとがやとの対戦のことだ。


 攻撃の流山はとがやと、守備の印西木下という対称的な二校の対戦は、流山はとがやが先制して均衡を破った。


 しかしその後に、印西木下は豹変。

 なりふり構わぬかのような怒涛の攻めに出て、あっという間の四得点で逆転勝利したのだ。

 そのような試合を間近で見てしまっただけに、怖かったのである。

 印西木下の爆発力が。


 果たして、裕子の予感は的中した。


 ほどなくして、印西木下の第二の顔が出た。

 守備をかなぐり捨てたかのように、勢いよく、ゴレイロ以外の全員が攻め上がるようになったのである。


 この対策については充分に打ち合わせ、練習をしたつもりではいたが、想像を遥かに上回る激しさに佐原南は防戦一方になっていた。


 相手のワンツーに、ベッキの茂美が突破される。


 シュートを打たれたが、運よくサイドネットに助けられた。


 佐原南にとっては、耐える時間であった。


 ただ守っているだけでなく、早くペースを取り戻さないと、失点は必至だ。


 裕子は、暴風雨のような激しい攻撃に身を晒され必死に耐えながらも、じっくりと相手を分析していた。


 印西木下は、ただがむしゃらに上がってきているわけではないようだ。きちんと統率されている。こういう練習もしているということか。

 しかしピンチはチャンス。統率されていようがいまいが、前がかりになるということは、こちらの得点も生まれやすいということだ。

 それに、統率されているように感じるということは、行動に規則性があるということ。それを読めればこちらのペースに、いやせめてイーブンに出来るはずだ。

 イーブンにさえもっていければ、リードしているのはこちらだし、相手の焦りをついて試合を有利に運べるはずだ。


 などと考えながらも必死に食らいつく裕子であるが、ひらりかわされシュートを打たれてしまう。


 ゴレイロの晶がパンチングで弾いた。


 落下するボールに印西木下のピヴォが走り寄るが、それより先に、晶が飛び出し、自らのパンチングの落下ボールを遠くに蹴飛ばした。


 大きくクリアしたボールであるが、印西木下の最後列に拾われてしまう。


 その一瞬後には、印西木下は全体で攻め上がり、大津波のように佐原南を飲み込んでいた。


 一人一人の技術は格別に高いとはいえなくても、戦術だけでここまでチームとして迫力のある攻撃が出来るものなのか。

 山野裕子は、素直に凄いと思っていた。


 でも、だからって、いや、だからこそ気迫で負けられない!


 と思う裕子であるが、しかしフットサルはチームスポーツ。裕子だけでどうにかなるものでないし、個人競技以上に不規則な事態の発生しやすい競技である。

 つまりは不測の事態がまた起きたわけであるが、今度はなにかというと、

 相手のドリブルの少し大きくなったところを篠亜由美が見逃さずに素早く走り寄り、クリアしようとしたのだが、慌てて蹴り損ねてしまい、ころり転がったボールを印西木下の主将であるかおりに拾われて、抜け出されてしまったのだ。


 ゴレイロの武田晶との一対一。

 主将の尾野香は、迷わず蹴り足を振り抜いていた。


 思い切りの良いシュートは、枠を完全に捉えている。


 しかし、見事なシュートならば決まるというものではない。フットサルにはゴールを守る、ゴレイロという存在がいるからである。


 佐原南のゴレイロ、武田晶は素晴らしい反射神経を見せ、両手でパンチングし、シュートを跳ね返していた。


 ボールは床に落ち、小さくバウンドした。


 印西木下のピヴォがねじ込もうと駆け寄って来るが、紙一重の差で佐治ケ江優が先にボールを拾った。


 その瞬間には、ピヴォが佐治ケ江に襲い掛かり、さらに次の瞬間には主将の尾野香が加勢していた。


 この通り、佐治ケ江へのマークは異常なまでに厳しかった。


 印西木下にとっては、こちらは敵陣であり、ミスが簡単に失点に繋がるものではなく、そこまでガツガツと当たっていく必要はないはずだ。それがここまで執拗にマークをするのは、やはり佐治ケ江にボールを持たせると何をされるか分からない、という不安があるからであろう。


 実際、彼女らのその不安は数秒後に現実のものとなった。


 それは、次のように。


 佐治ケ江は二人に押し潰されて、三人もつれあうように倒れた。


 印西木下のファール、審判は笛を口にくわえたが、吹くのを躊躇した。なぜなら……


 もみあう三人の中からボールが飛び出してきた。

 佐治ケ江が倒れながらもボールを爪先で浮かせ、逆の足で大きく蹴り出したのだ。


 綺麗な虹の弾道、山野裕子だけがそれを予測していたかのように反応していた。追い掛け、右足を前に伸ばして爪先でボールを受けると、そのままドリブルに入った。


 そう、ファールを受けた側が直後にチャンスを得たといういわゆるアドバンテージに、審判は笛を吹くのを控えたのだ。


 ドリブルで駆け上がる裕子。

 地平線の遥か向こうにポツンと相手ゴレイロがいるだけの、完全に独走状態、無人の野だ。

 裕子は猿のような、なんとも不格好な走り方であるが、とにかく速い、速い。まさに青い弾丸といった様子で、後を追う印西木下の誰も、追い付くことが出来ないばかりか、むしろ引き離されていく。


 一瞬でトップスピードに乗る能力は佐治ケ江に負けるが、単純な足の速さならば裕子の方が遥かに速い。


 相手ゴレイロはゴールネットにべったり張り付くようにし、突進してくる裕子に構えている。

 なんとかシュートをブロックして、戻ってきた味方に拾わせたいのだろう。


 裕子の目の前に、ゴールが近づいて来た。

 ほとんどトップスピードのまま、ドリブルをゴールの方向へと微調整。ゴレイロまでの距離、五メートル。

 ドリブルを小さくしたその瞬間にシュートを放っていた。


 爆音があがった。


 シュートは枠を捉えていたが、しかし正直すぎた。ゴレイロは見切り、片手で弾いた。

 いや……弾かれたのはゴレイロの腕だった。


 ボールは大砲のような破壊力で障害物をぶち抜くと、そのままゴールネットに突き刺さったのである。


「うおっしゃ!」


 裕子はしゃがんで、右拳を床に叩きつけるゴールパフォーマンス。


 佐原南 2-0 印西木下


 これで二点差だ。


 裕子は佐治ケ江の元へ走り寄った。


「いいボールくれたよ。ありがとう」


 鉄壁の印西木下相手にまさかの二点先行という、この出来すぎの結果に、裕子は自然こぼれてしまう笑みを引き締めた。


 印西木下の選手たちが悔しがっている。


 サジ対策は充分したんだろうけど、そっちの不運は、去年、サジと戦えなかったことだね。と、裕子は心の中で呟いていた。


 佐治ケ江は、直前の試合で負った肩の負傷により、二回戦は欠場している。だから印西木下の選手たちは、佐治ケ江が要注意人物であることは知っていても、その凄さを肌で感じたことがないのだ。


 佐原南としては、このまま逃げ切ることが出来れば、勝ち点で首位だ。三試合しかないのだから、決勝大会行きに向けて一番有利な立場になれる。


 予想外ともいえる二点のビハインドを負った印西木下は、先ほどからの怒涛の攻めに加え、ついにゴレイロまでが攻撃参加してきた。


 裕子は、相手が自暴自棄になったとは思っていない。

 充分に計画の練られた「やけくそ攻撃」であること、身に染みて分かっていたし、それにゴレイロの攻撃参加はフットサルでは珍しいことではない。むしろ、どうしても得点したい場合には、行うのが普通だ。


 残り時間十一分。印西木下は、意地でも引き分けに持ち込むつもりだろう。引き分けになれば、印西木下と佐原南はともに一勝一分けの勝ち点四。そうなれば印西木下が佐原南を得失点差で二点上回る計算になるからだ。


 だから佐原南としては、追いつかれることだけは絶対に避けたい。


 裕子は指示を出し、フォーメーションをボックスに変更させた。


 前が佐治ケ江と友原鈴、後が山野裕子と真砂茂美。


 茂美の守備負担分散のための布陣変更だ。

 去年、木村前部長が使った手である。


 しかし裕子が、いきなり抜かれてしまう。

 相手の連係に崩されたのではなく、印西木下のピヴォはしとの一対一の勝負に負けて、突破を許してしまったのだ。


 橋田由紀はドリブルで一気にゴールへと迫っていく。この後の、シュートまでの展開はもちろん考えていたのだろうが、一瞬の驚きから、完全に狂わされることになった。

 佐原南ゴレイロの武田晶が、猛然と飛び出したのだ。

 まだゴールとの距離があるのに飛び出してくるとは思いもせず、それが判断の遅れに繋がったのだろう。


 ほんの一瞬の隙、晶にはそれで充分だった。橋田由紀にぴったりと密着していた。


 橋田由紀は抜こうとするが、晶は文字通りに張り付いて突破を許さない。


 真砂茂美がゴール前にカバーに入ったことを確認すると、晶は勝負に出た。

 わざと隙を作って相手を誘導し、ボールを奪った。


「王子!」


 すぐさま裕子へとパスを出した。


 裕子は右足の裏で踏みつけるように受け、


「サジ!」


 前線の佐治ケ江目掛けて浮き球のロングパスを出した。


 相手は相当に前がかりになっている。

 このパスが通れば絶好の追加点のチャンスだ。

 三点目をとれれば、この試合は決まる。


 だが……


 佐治ケ江は立ちつくしたまま、ぴくりとも動かなかった。


 裕子の蹴ったボールは、そのままゴールラインを割った。


「サジ……」


     10

 裕子は声をかけるが、しかし佐治ケ江は背を向けたまま、まったく動く気配がない。


「サジ! どうした?」


 裕子は不安な面持ちで、早足で近寄っていく。


「おい、サジ。サジってば、聞いてんのか、こら」


 裕子は佐治ケ江の正面に立った。


 佐治ケ江はいったいどこを見ているのか、うつろな表情を浮かべていた。


 裕子は必死に呼びかけるが、いくら呼び掛けようとも、まったく反応はなかった。


 突然、がくっと力が抜けたように、佐治ケ江は両膝をついた。


 続いて、両手をついた。


「サジ?」


 佐治ケ江の呼吸が荒く、乱れていた。

 いや、乱れているどころではない。ひゅうひゅうと音がなるばかりで、まともに呼吸が出来ていないようであった。


 右手で、胸を押さえた。

 苦しそうに、顔を歪めている。


「どうしたんですか?」


 二人の審判員が、佐治ケ江の元へ早足で寄って来た。


「露骨な時間稼ぎですよ! 遅延行為です!」


 印西木下の主将、尾野香が猛烈に抗議する。


「時計は止めているから」


 第二審判の男性は、ピッチの外にいるタイムキーパーを指さした。フットサルはサッカーとは違いプレイングタイム制、プレーオンの間だけ時間が進行するのだ。


 尾野香にとっては、時計を止めているからいいとか、そういう問題ではないのだろう。きっと、相手のペースにまんまと乗せられているようで、それが我慢ならないのだ。


 だが、尾野香の顔から怒りの色が消えていく。

 佐治ケ江優の苦しそうな表情が、演技に思えなくなってきたからであろう。


 佐治ケ江は、ごろりと仰向けになった。

 うつろな視線を天井へ向けたまま、ぜいぜいと苦しそうに喘いでいる。


「サジ! 大丈夫? 医者! 病院! サジ、診てもらわないと!」


 裕子は、すっかりうろたえてしまっていた。


 審判の指示で、数人の係員が担架を運んで来た。佐治ケ江の身体を担架へと乗せる。


「サジ! しっかり! サジ!」

「王子、落ち着いて。試合中なんだ。みんなを動揺させちゃってどうすんだよ」


 武田晶は、裕子の両肩に手を置き、なだめた。


「試合なんかどうでもいいんだよ! サジが!」

「王子!」


 晶の突然の怒鳴り声に、裕子ははっと我に返った。


「……試合、どうでもよくなんかないよ。試合のことも、サジのことも、どっちも、どうでもよくなんかない。……この場を王子に抜けられちゃ困るし、あたしが付き添いで病院いってくるよ。副部長だし」

「あたしもいく」

「ダメ! 副部長命令!」


 泣きそうな表情でおろおろとしている裕子であったが、晶にぴしゃりといわれるとそれきり黙ってしまった。


 晶は大会係員に、自分が病院に同行する旨を伝えると、続いてなしもとさきに声をかけた。


「任せたよ、ゴレイロ。信じてっから」

「そんな、急にいわれたって」

「いつもの、無駄に強気なとこはどうした?」


 咲の肩をぽんと叩いた。


「やりゃいいんでしょう!」

「そ。思い切りやりゃあいいんだよ」

「偉そうに」


 むくれた顔をそむける咲。


 晶はもう一度、咲の肩を叩くと、担架で運ばれていく佐治ケ江を追い掛ける。


「じゃ、あたしいくから。王子、よろしく頼むよ!」


 こうして佐治ケ江優と武田晶の二人は、会場から姿を消した。


「みんな、ごめん。試合どうでもいいなんていっちゃって」


 裕子は部員たちに頭を下げた。


「サジが倒れたんで、なんだか頭ん中が分かんなくなっちゃって。おろおろしちゃって。あたし、どうかしてた。部長失格だ」

「謝らなくていいよ。親友ならそうなるの当然だし、気にすることないってば」


 衣笠春奈はそういうと、にっこりと微笑んだ。


「そうそう。あたしが部長でサジの親友だったら、もっと取り乱してたって。茂美が倒れたらと思うと、ゾッとするもん」


 と寒そうに自分の肩を抱いてみせるのは篠亜由美だ。


 裕子は目にうっすら浮いた涙を、指で拭った。


「ありがとう。……よし、絶対に勝とうぜ。この試合も、次の試合も。必ず決勝大会に進んでさ、そこでサジと一緒に戦おう」


     11

 試合再開。


 佐原南のメンバーであが、佐治ケ江優に代わって生山里子が入った。


 そしてゴレイロは、先ほどの話通り武田晶に代わって梨本咲だ。


 佐原南側の状況は大きく変化した。


 対する印西木下側には、まったく変化はない。次々に人が人を追い越して、ボールが人を、人がボールを追い越して、攻め上がっていくフットサルを継続している。

 二点のビハインドを追うために。

 佐治ケ江優という脅威がいなくなった分、その勢いはより増したといっていい。

 選手交代を上手に利用して、とにかく走る。

 相手がボールを持てば迷いなく激しいプレッシャー、自らがボールを持てばなんの迷いもなくただ前へ。

 佐原南の脆いところ脆いところを、容赦なく執拗に攻め続ける。

 ゴレイロを含めたチーム総動員で、まさに大津波のごとく攻め上がり続ける。


 印西木下の立場としては、この試合を落とすと自力での決勝大会進出が出来なくなる。

 第三戦で勝利し、なおかつ佐原南が敗れてくれなければならないからだ。


 しかしこの試合、勝てないまでも追いつけさえすれば、一転して得失点差で有利な立場になる。


 佐原南は佐治ケ江優がいなくなった以上、攻撃力は大幅ダウンするだろう。次の試合、自分たちはただ勝つだけでいいのだから。


 だからこそ、印西木下は全員が全員、凄まじい執念を見せ、攻め続けた。


 交代で入った佐原南ゴレイロの梨本咲は、ゴールにべったりと張り付いて、試合の様子を窺っている。

 心なしか、顔が青ざめているようにも見えるが、そうだとしても不思議はないだろう。


 いきなりこんな大事な場面で出場することになってしまったのだ。

 プレッシャーから、味方の選手が小さく、相手選手が大きく見えても不思議でない。

 相手の方が一人二人多く見えても不思議でない。


 攻撃参加、守備の飛び出し、セオリー無視でただゴール前に張り付いている。

 理論の上ではとっくに学んで理解しているはずのゴレイロのプレーであるが、緊張から、それどころではないのだろう。

 とにかく点を与えないこと慣れない変な飛び出しはかえって危険だから、と割り切ってプレーしているのならばともかく、ただ単に頭が真っ白なだけ。

 そう見えたものだから、


「咲、リラックス!」


 裕子は叫んでいた。

 それで咲の中にある不安や緊張や重圧を追い払えるとは思っていなかったけれど。


 咲に安心感を与えられるプレー、出来ているだろうか。

 のびのびプレー出来れば、咲だって、それなりの実力はついているはずなんだから。


 ……つうか、あたしが一番ヘタだ!


 少しは成長したと思っていたけど、ここ最近の中で、今日が一番ヘタだ。


 なんか地に足がつかない感じ。


 佐原南の部員の中で、いや、参加している全校部員の中で、いま、きっと一番あたしがヘタだ。


 まだまったく、疲れてなどいない。


 急造ベッキだからとか、そんなことも関係ない。


 きっと、サジだ。


 サジのことが気になって、それであたし、地に足が付かない状態になっちゃっているんだ。


 と、理由が分かったところで、さりとてどうにもならず。

 今度は、印西木下のピヴォであるながの単純なフェイントにあっさりと引っかかり、抜かれてしまった。


 慌てて背中を追う裕子。


 まだ少しゴールまで距離はあるが、長戸恵理は寄せられる前に思い切り右足を振り抜いた。

 強烈なシュートだ。


 咲は反応し、横に移動しながら身体全体でボールを受けた。

 胸に抱え込もうとしたのかも知れないが、しかしボールは腕の間からこぼれて床に落ちた。


 長戸恵理が逃さず詰め寄ってきたが、咲は倒れ込むようにボールに飛びついて、なんとかゴールを死守した。


「咲、ありがと。助かった」


 と、裕子は笑みを見せた。


 次に裕子は、審判に選手交代を申し出た。


 山野裕子 アウト 篠亜由美 イン


 自ら退いた理由だが、佐治ケ江のことが気がかりで、まったく試合に集中出来ていなかったからだ。


 裕子は手短に指示を与え、亜由美はアラとして入り、そこからスライドしてともはらりんがベッキを務めることになった。


 りんは、裕子同様に器用とはいえないタイプだが、裕子同様に体力がある。


 とにかく走り回って、相手に食らい付いてくれればいい。

 ちょっと守備が不安だけど、あたしがいるよりは遥かにマシだ。なんとか試合終了まで持ちこたえてくれ……


 と願う裕子であるが、しかしその願いは届かなかった。


 佐原南の守備が崩壊してしまったのである。


 鈴の投入は関係ない。原因は、前線にあった。 


 理由はただひとつ。


 里子は里子だった、ということである。


 生山里子は、今年の春に佐原南フットサル部に入部するまでサッカーもフットサルも経験したことがなかった。

 しかし元の運動神経や、吸収する能力が格段に高く、見る見るうちの急成長。里子のボール扱いを目の当たりにした人間が、その経験日数の少なさを知ったならば、まず驚きを隠すことが出来ないだろう。


 技術だけならば、既に山野裕子を抜いているといって過言ではない。


 しかし、性格というか、集団競技における考え方に問題があり、そこが彼女の欠点であった。


 ボールを持った瞬間に、もう敵も味方もなくなってしまう。前しか見ない。相手を抜くことしか考えない。


 ボールを扱う技術がいくら高くても、単調では対応されてしまうだけだ。


 本人も、そのことに気付いてはいるのではないか。


 裕子はそう思っている。


 しかし、ならばどうすればいいのか、それが分からないのだ。


 だから、余計にガムシャラになる。


 少ない点を競うのがフットサルであり、一点には重みがある。その一点を自分か量産してやれば、とにかくゴールを決めてやれば、結果さえ出せば、自分がどんなであろうと、文句をいわれる筋合いはない、と。


 ゴレイロを抜かしてたった四人しかいないのがフットサル、その一人がその様子では、真剣勝負の場でどのような結果が待っているか想像する必要もないというものだろう。


 バランスを取るべく投入された篠亜由美であるが、好き勝手に動く里子のフォローのために行動がかなり制限されてしまっていた。


 里子は里子で、猪突猛進すぎて簡単に対応されてしまっており、前線の二人は印西木下にとって単なる置石のような存在になってしまっていた。


 全員守備、つまり前線がファーストディフェンダーとなるのがフットサルであるが、現在の佐原南にそれが出来るはずもなかった。


 これまでチームワークで大津波を何度も食い止めていた佐原南だったが、防波堤の一部破損はあっという間に完全決壊という結果をもたらした。


 勝機ありと見たか、印西木下は一気に攻勢をかけるべくFP四人全員が駆け上がった。


 佐原南は相手のパス回しに冷静な守備をさせてもらえず、なす術なく突破されてゆく。

 幾重の堤防が、次々と破壊されてゆく。


 主将の尾野香が、佐原南の守備陣を完全突破して抜け出すと、シュートを打った。


 ゴレイロの梨本咲は反応出来ず、腰をかすめるようにゴールネットが揺れた。


 佐原南 2-1 印西木下


 咲は悔しそうに地団駄を踏んだ。


 一点を返した印西木下。

 得点を決めた尾野香はまったく喜びの色は見せず、むしろ怒りの形相で、早くリスタートさせるべく自分のポジションへと駆け戻った。

 まだリードされている状態であり、自分が得点したからといって喜べるはずもないのだろう。


「咲、気にすんな。まだリードしてるんだ。もう時間ないし、みんな、前目から守備して!」


 ピッチの外から、山野裕子は手を叩き、声を張り上げた。


 試合時間は、残り三分。

 三分しかないと考えるべきか、

 三分もあると考えるべきか。


 どうであれ佐原南は、裕子の指示もむなしくその後も全体がちぐはぐなままであった。

 一向に修正が出来ず、相手の猛攻を運と気力だけで食い止めている状況が続いた。


 里子を、づきに代えるか。


 そんな考えが、裕子の脳裏をよぎる。

 葉月ならば、上手でないなりに上手く前線でキープしてくれるだろうし、なによりチームワークは格段に向上する。


 でも……この試合に勝ちたいだけなら、それが最善だろうけど、勝利の瞬間にピッチにいる喜びを、里子にも教えてあげたい。

 周りを囲む仲間たちの表情から、勝利はみんなで勝ち取るものなんだということを感じてもらいたい。


 生山里子という個性ある非凡な能力を育てたいというのもあるが、それはほんの一要素。

 裕子は単に、里子のような人間が好きなのだ。

 そんな里子と思う存分にフットサルをやってみたいし、もっともっとフットサルを好きになって欲しい。

 だから。


 そのような裕子の気持ちであるが、この試合結果に関していえば、完全に裏目に出ることになってしまった。


 なんとか個人技でキープしようとしていた里子だが、パスを出せるところで出さず、結局ボールを奪われ、そこからの流れでまた尾野香にゴールを許してしまったのである。


 ここではじめて印西木下の選手たちは喜びを爆発させ、抱き合い、肩を叩き合った。


 佐原南は、二点差を守り切ることが出来ず、追い付かれた。


 それから十数秒後、試合終了の笛が鳴った。


 佐原南の選手たちは全員、呆然と立ち尽くしていた。


 ゴレイロの梨本咲は、ゆっくりと腰を下ろすと、ゆっくりと後ろに倒れた。

 大の字になり、無骨な骨組みの天井を見上げると、ず、と鼻をすすった。


     12

勝点 得点 失点 得失点

印西木下 4 5 2 3 

佐原南 4 3 2 1

成田不動岡 3 5 1 4

北央館学園 0 0 7 ‐7


 二戦終了時点での戦績表である。


 現在、三校に決勝大会進出の可能性が残されている。


 佐原南の選手たちは、体育館の端に集まり、輪になって床に腰を降ろしている。

 輪の中央に立っているのは、やまゆうだ。


「みんな、ごめん。あたし、やっぱりダメで、試合、上の空になっちゃって。もっと、バンバン点取るつもりでいたんだけど、ガツガツ守るつもりでいたんだけど。なんか、自分で自分が分からなくなくなっちゃって。部長がこんなんでどうする、って自分でも情けなくなる。ほんと、ごめん」


 裕子は頭を下げた。


「実際のところ、あたしが防ぎ切れなくて失点したんだっていうのに、そんな潔く頭下げられたりすると、かえって落ち込むんですけど」


 なしもとさきは床の上にあぐらかいて、ふて腐れた表情。飲み物の入ったボトルを右手へ左手へ、意味もなくいったり来たりさせている。


「いや、咲はよくやってる。何度も助けられた。あたしのミスから奪われたのだって、しっかり防いでくれたし」


 特に裕子は咲を庇ったつもりもない。

 高いボールを難なくキャッチしたり、あきらに出来ない方法で何度もチームを助けてくれたし。


 裕子たちのやりとりを傍らで聞いていたいくやまさとは、不意に立ち上がると、近くのボールをわざわざ拾い上げてから、思い切り床に叩き付けた。


「あのう、二人とも、そんな本質はぐらかすこといってないで……正直に、里子が入ってグチャグチャになった、っていえばいいじゃん!」

「そんなこと誰も」


 かじはなが咄嗟に親友を庇おうと口を開くが、その声に裕子が被せる。


「思ってるよ。……こいつ、やっぱりムチャクチャにしやがったって。……でも里子、凄い能力持ってるし、いや、だから活躍しろってことではなくて、あたしは、そんな凄い個人技を持ってる里子が、全然フットサルを楽しんでないのが癪なんだよ。本当の楽しさ、面白さを知ってもらいたい。だから、試合に出した。ピッチ上で、印西木下に勝って、みんなで掴んだ勝利を味わって欲しかったから、だから、試合に出した」


 しんとなった中、二呼吸ほど置くと、裕子は続けた。


「……あたしたちのやってるのって、たかが高校の部活じゃんか。プロスポーツでもなんでもない、高校の部活じゃんか。楽しいって思わなかったら、面白いって思わなかったら、意味ないじゃん。勝手な言い草かも知れないけど、あたしが部長になったからには、全員にそういうことを分かってもらいたいと思ってる」

「あたしには無理ですね」


 里子はさらりといった。


「なにもしないで決め付けてんじゃねえよ、ドアホ! いっぺんくらい騙されてみりゃいいだろが!」

やまさんて方、いますか?」


 体育館の事務員らしい老人が近づいて来た。


「はい。わたしですけど」


 裕子は手を上げた。

 事務員は、持っていた電話の子機を裕子に手渡した。


「はい、山野です。……ああ、なんだ」


 電話の相手が誰なのか分かると、裕子は不安そうな表情になったが、それはすぐに安堵の笑みに変わった。


 通話を終えると、お礼をいいながら子機を事務員に返した。


あきらから。サジ、大丈夫だって。いま病院で横になってるけど、意識はしっかりしてる。緊張のあまり、過呼吸になったんだろうって」


 それを聞いて、みんなの顔にも安堵の色が浮かんだ。


「今日は、もう試合は無理だけど。いま、サジのお母さんが病院に向かってるってさ。落ち着いたら、お母さんと一緒に家に帰ると思う」


 病院に付き添った晶からの報告に、とりあえずほっとした裕子ではあるが、あらたなる不安が脳裏をよぎっていた。


 あれは、単なる緊張なんかじゃない。

 たぶん、パニック障害とかいうのが出たんだ。


 以前、本人から聞いたことがある。

 広島に住んでいた頃、いじめを受けていたことが原因で、嘔吐したり過呼吸になったりと、苦しんだということを。


 なんでもないのに、いきなり不安な気分になって、脈や呼吸がどんどん早くなってきて、思考がまったく回らなくなって、という状態になることが頻繁に起こって、酷い時には道で気を失って倒れてしまったこともあるらしい。


 これは、春の合宿の時に、こっそりと裕子に打ち明けてくれたことだ。


 広島を遠く離れたおかげか、高校生になって自分が成長したおかげかは分からないけれども、もう大丈夫だといっていた。

 その症状が再発しているということは、サジ、まさか……


「王子先輩、どうしたんですか?」


 梶尾花香の顔面ドアップ。

 ぼーっとする裕子の顔を、心配そうに覗き込んでいた。


「なんでもないよ。どうもしやしない」

「なんか渋い顔してましたよ。サジ先輩無事だったってのにぃ」

「渋い顔にもなるってば。次の試合のこと考えてたんだよ。印西木下、多分勝つだろうから、こっちは大量得点で得失点を大きく稼がないとならないからな。いやあ、ほんと困っちゃうね」


 そういうと裕子はガハハと笑った。


 豪快なその笑顔が直後、豪快に硬直した。


「あの、あたしを試合に出してください」


 おずおずと弱々しい、この言葉によって。


     13

 みんながいくやまさとの発する言葉に、これほどまでに驚いたことがあっただろうか。


 試合に出せというオーラはいつも発しているが、それはなんともピリピリとトゲのあるもので、自負心自尊心の満ち溢れるもので、このように懇願するものではなかった。


 それが何故、いまになって?


 と、みなが疑問に思うのも不思議ではないだろう。


「ピヴォじゃなくていいです。どこでもやります。独りよがりなプレーしてたら、叱ってください」

「え、おい、急にどうしたんだよ。熱でも出たか」


 裕子は、里子の顔を覗き込んだ。


 誰だって不安になるだろう。里子にこんなことをいわれたならば。

 親友のかじはなですら、あんぐりと開けた口を閉じることを忘れてしまっているくらいなのだから。


「ま、騙されてみたくなったんですよ」


 里子は、照れたように薄く笑った。


「かっこつけちゃって」

「うるさいな。というか、予選突破しないと、サジ先輩、見られないじゃないですか! ガチの試合からじゃないと、サジ先輩の本当の技術を盗めないじゃないですか! それだけですよ」


 と、里子は顔を赤らめてつっけんどんに怒鳴った。


 でも実は、

 本当は……

 そんな理由からではなかった。


 里子は、部長が自分のことやたらと気にかけていることには、気付いていた。前々から。


 実におせっかいで、うざったいと思っていた。


 フットサル部をあっさり辞められたらみっともない、自分の立場がない。どうせ、そんなところだろう、と。


 しかし、この大会の中で感じた、山野裕子のに対する清く優しい思い……山野裕子という人間を信じてもいいと、ちょっぴり思うようになった。

 思うようになった途端、これまでの自分の言動の数々が恥ずかしくて、全身が痒くてたまらなくなってしまったのだ。


 裕子は、にっ、となんともいえない笑みを浮かべた。


「よし、じゃあ、里子には右アラやってもらう。変なプレーしてたら、ケツを蹴飛ばすからな。もしくはカンチョの刑」

「分かりました!」

「疲れなんかを考えて、最初のメンバーは大きく変えるから。フォーメーションはいつものダイヤモンドに戻す。ピヴォはづき。右アラが里子ちゃんで、左が花香。ベッキはりんだ。もちろん、ゴレイロはさき

「一年生ばかりじゃないですか!」


 花香は思わず、不安と驚きの混ざったような声を上げていた。


「一年だからって、それがなんだよ。あたしより、経験半年の里子の方が遥かに技術あるぞ!」

「威張っていうことじゃないと思うなあ」


 しのの顔に、苦笑が浮かんでいる。


「いいんだよ。まあとにかく次の試合、絶対に勝とう。勝って、まくはりにいこうぜ」


 裕子は立ち上がった。


 他の部員たちも続き、肩を組み、円陣を作った。


 彼女たちの叫び声が、会場中に響き渡った。


     14

 なんなんだ、あたしは。

 こんな不器用だったのか。


 酷いな、これは。


 相手を抜こうとするプレー以外、なんにも出来ないじゃないか。


 チームプレー、なんにも出来ないじゃないか。


 能力はあるけどやる気がないだけ、などと本気で思っていた過去の自分を締め殺してやりたい。

 タイムマシンがあったら、本当に過去の自分殺しにいってるよ。

 それほど、いま、恥ずかしい気持ちだ。


 いくやまさとの、心の声である。


 自分自分だった時にはなにも見えていなかったのに、一歩退いたらまあ自分の酷いところばかり見えてくる見えてくる。


 でも、いや、だからこそ、ちゃんとやらないと。


 入部したばかりの初心者みたいなものだからな。わたしは。


 里子は、りんからのパスを受けた。


 ボール受けたら、すぐさま空いてる味方にパス、と……って、誰に、どう出せばいいんだ。


 あたふたして、つい適当にボールを蹴ってしまい、相手にプレゼントしてしまった。


「里子、てめえコラ!」


 やまゆうの怒声が飛ぶ。


 いちいち怒鳴んなくたって分かってんだよ!

 一番の新入部員なんだぞ。

 などともいっていられないか。出してくれとお願いしたのは、わたしなんだ。

 でも、どうすればいいんだ。

 チームプレーなんて。


 同じ屋根の下、隣のコートで審判の長い笛が響いた。

 ちらり里子が視線を向けると、印西木下の選手たちが肩を抱き合って喜んでいる。


 どうやら隣では、先制して欲しくない方のチームが先制してしまったようだ。


 それに引き換え佐原南はまだ無得点。

 それどころか、全体がギクシャクとしていて、まだチームと呼ぶには程遠い状態だった。


 一年生ばかりで、ゲームを落ち着かせたりコントロールする人物がいないということと、生山里子がみんなの足を引っ張っているのだ。


 里子に対して誰からも不満の声が上がることがなかったのは、これまでの里子と決定的に違うことを、みなが感じていたからであった。


 自分の欠点を正直に認識し、必死に学ぼうとしている。

 そう。里子は敵と味方、双方のプレーに触れて、いま急速に成長していたのである。


 現在佐原南が対戦しているのは、ほくおうかんがくえん高等学校フットサル部である。

 同好会から部に昇格したばかりとのことで、まだ部員数も少なく、全員で八名しかいない。

 ゴレイロが一人、FPが七人だ。


 個々の能力、全体的な戦術の浸透度、お世辞にも高いとはいえない。


 佐原南の実力からすれば、楽に勝てるはずの相手。

 だが前述したような佐原南側の理由と、三戦全敗は避けたい北央館学園側の意地とで、試合は非常に拮抗したものになっていた。


 まだチームには程遠いとはいえ、それでも個人技で上回る佐原南が押し気味ではあったが、北央館学園も必死な粘りを見せ、佐原南に自由なボール回しは許さなかった。


 北央館学園のベッキぎしが前線へとパスを出したが、里子は軌道上に素早く駆け込み、ボールをインターセプトした。


「ハナ!」


 左サイドのかじはなへとパスを出した。


 花香は前方へ走りながら、ほとんど速度を落とさずにボールを受けて、そのままドリブルに入っていた。

 花香のトラップ技術自体は並であるが、それが上手に見えてしまうほどに見事なパスだったのだ。


 出来た……


 半分偶然とはいえ、パス……出来た。


 ……うまく繋がると、気持ちいいもんだな。


 花香のドリブルする姿を見ながら、里子はしみじみとそう感じていた。

 いままでは相手のボールをカットしたら、自分で持ち込んでシュートということしか頭になかったから。


 いかん、うっとり花香なんかのドリブルを眺めてる場合じゃない。と、里子は慌てたように前方へ走り出した。


 相手のベッキ根岸奈美江が、花香の前に立ちはだかった。


 花香は、迷わずピヴォのづきへとパスを出した。


 葉月にもマークが密着していたが、すっと下がって巧みにマークを外してボールを受けた。相手ゴールに背を向けたままボールキープ、素早く首を左右に振り周囲の状況を確認する。

 サイドを走る里子へと、葉月はパスを出した。


 里子はボールを受け取ると、なおもサイドを駆け上がっていく。


 はあ、ピヴォ当てって、そうやんのか。

 上手だなあ、葉月は。

 技術ないくせになんて思っていた自分が恥ずかしいよ。

 と、葉月を褒めるのはあと。今度はわたしの番だ。


 里子はゴールライン際から、ゴール前へとマイナスのボールを転がした。


 軌道上で葉月がシュート体勢に入るが、しかし、そのボールをスルーした。


 シュートを打ったのは、梶尾花香だった。


 上手にインサイドで合わせたボールは、するすると床を転がり、ゴールネット左下へと吸い込まれた。

 いや、

 その直前に、北央館学園ゴレイロのなえが、自分の足に当てて弾いていた。


 ボールは真上、腰の高さほどに跳ね上がった。


 ねじ込もうと、九頭葉月が詰め寄るが、間一髪、谷野早苗はキックで大きくクリアをした。


 クリアボールは北央館学園の根岸奈美江がヘディングし、さらに遠くへと送った。


 佐原南ベッキのともはらりんがそのボールを追うが、落下地点の目測を誤ってしまい、足に収めるのにもたついている間に、ピヴォのよしもとにボールを掻っ攫われてしまった。


 しかし次の瞬間、ボールは弾かれ、宙高く舞い上がっていた。


 佐原南ゴレイロの梨本咲が走り寄り、スライディングでボールを蹴飛ばしたのだ。


 ナイスプレー!

 心の中で褒める里子。


 好判断、確かにそういえる良い飛び出しであったが、

 だが……


 その弾き上げたボールは、前方どころかむしろ逆方向、佐原南ゴールへと落下していった。

 小さくバウンドすると、ゴールへと入ってしまったのである。


 佐原南、失点だ。


 誰が予想し得ただろうかという形で、相手に先制点を与えることになってしまった。


 やっちゃったよ、

 あいつ……


 たらり、里子の額から頬へ大粒の汗が伝い落ちた。


 北央館学園の選手たちは手を取り合い、肩を抱き合って喜んでいる。それはそうだろう。もう決勝大会進出の望みはなくても、いや、望みがなくなったからこそ、せめて一勝はしたい。そして、三試合目にしてついに初得点、そして先制点を奪ったのだから。


「ごめん」


 怒っているような、悲しいような、梨本咲は複雑な表情でうつむいている。


 不意に咲の、その表情が変わった。

 両肩をいきなり強く掴まれて、びっくりしたように目を見開いて顔を上げていた。


「絶対、点取るから! あたしたち、絶対に点取るからっ!」


 誰だよ、咲にやたら暑苦しく叫んでる奴はさあ。


 と、里子は、胸の中でぶつぶついっていたが、次の瞬間、驚愕に目を見開いていた。

 咲の肩を掴んで暑苦しい叫び声を張り上げているのは、なんと自分自身だったのだ。


 あ、あ、あたしなにをいってんだあ?


 びっくりしているのは、咲と里子だけではなかった。

 他のみんなも呆然とした表情で、これまで見たことのない里子を、見つめていた。


 里子は途端に恥ずかしくなったように、しゅんと肩を縮めた。

 と、その時である。


「はい、切り替え切り替え! いまの失点は事故! みんなよくやってる。里子のいう通り、こっちが点を取ればいい!」


 山野裕子はピッチの外で一人笑顔。手を叩いて、選手たちが落ち込むことがないよう励ました。


 試合が再開されたが、しかし裕子の声かけもむなしく、その後も佐原南の状態は相変わらずだった。


 一秒、また一秒と、前半の残り時間が少なくなっていく。


 焦りから、全員のプレーが雑になっていく。


 点を取る、と宣言した里子も、一人でどうすることも出来ず、かといってチームプレーに関しても一番の未熟者であり、相変わらず孤立してしまっていた。


 読みが当たってなんとかインターセプトしたはいいが……

 どこに出しゃいいんだ。


 と、パスコースを探しているうちに、北央館学園のざわにボールを奪われてしまった。


 ああ、また取られた。

 やっぱり向かないのかな、こういう集団競技って、あたし。

 結局、全然変わってないもんな。

 あんな、かっこつけたこといっておいてさあ。

 ……って、バカかあたしは!

 みっともない。いまさら、なに泣き言いってんだよ。

 変わってないもんなあ、じゃないだろ! 変えるんだ!

 王子先輩のバカだって、以前はチームプレーがさっぱりだったという話じゃないか。でもいまは、出来るじゃないか。

 バカ王子に出来て、あたしに出来ないはずはない!


 里子はきっとした表情で振り返ると、野沢香奈の背中を追って、猛然と走り出した。


 ベッキのともはらりんと挟み込むようにして、ボールを奪い取っていた。


 里子は、右サイドを真っ直ぐドリブルで駆け上がっていく。

 これまでの彼女ならば、自分だけで強引に相手ゴールまでドリブルすることばかり考えていた。そして、結局どこかで奪われていた。


 それではダメなのだ。

 だってこれは、フットサルなのだから。

 まず個、ではなく、チームの中でこそ個が生きる。それがフットサルなのだから。

 木村前部長がくどいほどいっていた言葉だ。実力のない者が虚勢を張るための言かと思っていたが、それは違うのだ。


 ベッキの根岸奈美江が、サイドをドリブルする里子へと地響きたてて迫る。


 里子は抜こうとする素振りを見せつつ、鈴にヒールパスで戻し、そのまま根岸奈美江の横を通り抜けた。


 判断に戸惑う根岸奈美江の頭上をボールが通り越し、里子はそれを受けて、再びドリブルに入った。


 浮き球を使って、縦のワンツーだ。


 鈴の実力を考えて、狙ったのではなく蹴り損ねからの偶然かも知れないが、しかし事実は一つ。

 佐原南が、芸術的に見事な連係プレーで、北央館学園を突破したということであった。


「葉月!」


 里子は叫んでいた。


 呼応するように、九頭葉月はマークをかわしゴールに向かって走り出した。


 里子は、サッカーのセンタリングのようにゴール前へと山なりのボールを送った。ゴールとの間に、北央館学園の選手の姿があったからだ。


 精度狙い通りに、ボールは相手選手の頭上を飛び越えた。


 葉月は落下地点へと駆け寄りながら、タイミングをうまく合わせて右足を振り抜いた。


 北央館学園ゴレイロのなえは、目の前で放たれたシュートにぴくりと反応したものの、その時すでにボールは脇を抜けて、ゴールネットに突き刺さっていた。


 ネットに勢いを吸収されたボールは、床に落ちて小さくバウンドした。


 こうして佐原南は九頭葉月のゴールにより、試合を振り出しに戻したのである。


「葉月、やったね。里子もナイスアシスト! 里子、よくなってきたよ!」


 山野裕子の叫びに里子は、点が入ったこと、追い付いたことを理解した。

 理解がじわじわと実感へ繋がっていく。


 得点。

 それは、自分のアシストによるもの……


 あたしの、アシスト。

 ……得点。

 葉月。チームが……


 なんだ、この感じ。

 この身体の奥から沸き上がってくる、ぞわぞわとしたもの。

 なに、この感覚は。

 自分が得点を決めたわけじゃないのに。決めたのは葉月なのに。

 なんだか凄く、

 気持ち……いい。


 里子は、うつむいて表情を隠したまま、大股で葉月の方へと歩き出した。


 葉月は、花香と鈴に背中や肩を叩かれ首を締められ手荒い祝福を受けていたが、里子が近寄ってくる足音に気付いたようで、顔を上げた。


 見つめ合う二人。

 里子と、葉月。


「葉月、ナイスシュート!」


 里子は突然そう叫ぶと、葉月の小さな身体を強く抱きしめていた。


 うわ、なんなんだ、あたし。

 青春ドラマじゃあるまいし、くさいことして。

 こんなの、あたしじゃない、あたしじゃない!


「里子が、いいボールを上げてくれたから」

「ひとがわけ分かんなくなって妙な精神状態になってるって時に、地味に淡々と喋りやがって!」


 里子は葉月の頭を抱え込むと、もう片方の手で髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回した。

 嫌がろうがなんだろうが知ったことか。葉月は今日、髪がグシャグシャになる運命だったのだ。


 アシストだなんて日陰仕事、自分でシュートを決める自信のない奴がこだわることだ、などと思っていたのに、この前練習試合でゴール決めたときよりも、ずっとずっと気持ちがよかった。

 それじゃあ、みんなの連係で崩して得点なんてしたら、どれだけ面白いのだろう。

 そういう練習、まったく真面目に取り組んでこなかったからな。こんど教えてもらおう。

 王子先輩の、してやったりみたいなニンマリ顔を見るのはシャクだけど、どうでもいいや、そんなこと。


「里子!」


 すでにゲームはリスタートしており、鈴から長いパスが来た。

 里子は右足の内側で受け、ドリブル動作に入った。


 葉月が相手のマークを外して移動しているのが見える。


 なんだか、周囲が見えるようになってきた。

 よし、それじゃ……


 葉月へとパスを出し、そのまま駆け上がる。


 相手を背負った葉月は溜めを作り、里子へと戻した。


 北央館学園ゴール前で、里子とゴレイロの一対一だ。


 迷わずシュートを放っていたが、クロスバーに嫌われてしまう。


 跳ね返ったボールを、葉月が頭で押し込もうと飛び込んだが、枠の上へと大きく外れた。


「まだまだ! どんどん攻めるよ!」


 と、里子が叫んだ瞬間、前半終了を告げる笛が鳴った。


 みなピッチを出て、山野裕子を中心に輪を作った。

 後半戦に向けての作戦会議だ。


「後半戦は、大きくメンバーを入れ代えるから。左アラが亜由美で、右があたし、ベッキは茂美、ゴレイロは咲」

「ピヴォは?」


 篠亜由美が尋ねた。


「里子」

「せっかくアラに慣れてきたのに……」


 里子は不満そうな表情でそういった。

 もともとピヴォの選手だというのに、おかしな話ではあるが。

 つまりは、彼女はもっともっとアシストを決めたかったのである。


 ハーフタイムも終わり、北央館学園のキックオフで、後半戦が始まった。


     15

 ゆうの指示に従って、次々と交代ゾーンから、選手交代をしていく。


 前半戦ではFP全員が一年生だったが、今度は、さと以外の全員が二年生になった。


 里子はちょっとだけ不安に感じていた。

 アラは、なんとなくやりかたを掴みかけて来ていたけど、ピヴォなんてどうすればいいんだろう、と。


 葉月のプレーをずっと見ていたけど、あんなこと、すぐやれなんていわれても、出来ないよ。


 チームプレーというものを考えれば考えるほど、わけが分からなくなってくる。


 それだけ、いままで自分のことしか考えていなかったのだ。


 いや、いまだってあたしはあたしだ。

 自分のことしか考えちゃいない。


 でも、だからこそ、しっかりしたチームプレーというのをやってみたい。

 みんなのチームワークで勝つということを、味わってみたい。

 それがいま、自分のことしか考えていないあたしがやってみたいと思っていることなんだから。


 北央館学園は、前半に比べて前がかりになって攻め込んでくるようになった。

 敗退が決まっているからこそ、「一勝」という土産を、どうしても持ち帰りたいのだろう。


 主将のやまえいがスピードに乗ったドリブルで上がってくる。


 ベッキの真砂まさごしげは、受けに回らずむしろ前進し、器用にボールを奪い取った。

 素早く篠亜由美へと送る。


 篠亜由美は、ワンタッチではたいて里子へパス。


 スムーズな流れでボールを受けたはいいが、しかし里子は困ってしまった。


 いわゆるピヴォ当てという形でボールを受けたのだ、ということまでは分かる。しかしこの後、どうすればいいんだ。


 敵のゴールに背を向ける格好で、右足の裏で軽くボールを踏んでいる里子。

 右サイドを駆け上がる山野裕子の姿が見えた。


 ええと、あっちはさっきまであたしがいたポジションで、いまあたしがいるのが葉月のいた場所で……


 思考混乱の最中、しかし無意識に足は動き、裕子へとパスを出していた。


 無意識に身体は動き、前を向き、走り出していた。

 ゴール前へと、飛び込んでいた。


 裕子からの、グラウンダーのボールがゴール前へと送られてきた。

 里子は合わせようと足を振り上げたが、しかしその前に、ゴレイロにクリアされてしまった。


 クリアボールは茂美が競り勝って拾うと、強く蹴り、里子へと送った。


 ボールを受けた里子は、攻め残っている裕子へとパスを出していた。


 裕子は斜めから切り込むようにゴールへと向かうと、シュートを放った。

 しかし枠を捉えることは出来ず、ボールはバーの遥か上を飛んでいった。


「ごめん里子。せっかくいいパス出してくれたのに」


 裕子は苦笑し、頭をかいた。


 里子は、無言であった。

 無言で、立ち尽くしていた。

 よく見ると、指先が、全身が、ぶるぶると震えていた。

 そう、里子は感動と興奮のあまり、身体を動かすことも忘れて硬直してしまっていたのである。


 ああ。

 そうか。

 ……そうなんだ。

 こういうふうにやればいいんだ。

 あたし、分かってたんだ。

 とっくに、理解していることだったんだ。

 あとはただ、チームのために、って思えばいいだけだったんだ。

 簡単なことだったんだ。

 ほんとバカだな、あたし。

 王子先輩以上のバカなんて、日本にはいないと思っていたけど、いたよ、こんなところに。


 試合は続く。

 北央館学園ゴレイロなえのゴールクリアランス、主将の山田栄美が受けた。


 山田栄美からピヴォ吉本美緒へのパスを、裕子が鋭い読みでインターセプト。そして、里子へ送る。


 里子はポストプレーで、北央館学園ベッキの根岸奈美江を背負いながら、叫んだ。


「亜由美先輩!」


 左サイドを駆け上がってくる篠亜由美へとパス、と見せてパスは出さずにターン。

 予想通りバランスを崩している根岸奈美江をかわし、力強くシュートを放った。

 ボールは枠を捉えていたが、しかしゴレイロ谷野早苗の腕に当たって跳ね上がった。


 跳ね上がったその瞬間には、飛び込んだ山野裕子がボールに頭を叩きつけていた。


 谷野早苗は反応出来なかった。


 はっと目を見開いた瞬間には、ボールは山野裕子の身体ごと、ゴールネットの中へと入っていた。


「逆転っ、ホームラン!」


 裕子は立ち上がると、右腕を高く突き上げた。


     16

 がくりとうなだれている、北央館学園の選手たち。


「ごめん、おいしいとこ貰っちゃったね」


 ゆうは、さとの肩を叩いた。


「いえ、決めてくれて、ありがとうございました」


 里子は、現在の素直な気持ちを口に出し、その口を軽く歪めた。


「王子、ナイスシューッ!」

「里子の頑張りからだよーっ!」


 春奈と花香の叫び声だ。


 その声をかき消すかのように、隣のコートもどっと騒がしくなった。

 どうやらいん西ざいおろしが、なりどうおかを突き放すゴールを決めたようだ。

 向こうがこのままの点差の場合、わらみなみはあと二点取らないと、得失点差で一位になれないことになる。

 さらに向こうが追加点を上げたら、あと三点……


 でも、きっといける。

 根拠はまったくないが、里子はそう確信していた。


「王子先輩、あたしが邪魔だったら、容赦なく外してくださいよね。勝つことが最優先なんですから」

「くだらねーこといってんじゃねえよ」


 裕子は里子の頭部を両手で掴むと、不意におでこに頭突きをかました。


「いたあ! なにすんですか、もう!」


 本当に行動の読めない先輩だな!

 あたしがなにか悪いこといったかよ!

 この石頭!


 むっとした顔の里子であったが、なんだか急におかしさがこみ上げてきて、つい声を上げて笑ってしまった。


 試合再開。

 北央館学園は、先ほどまでと変わって前がかりには攻めてこなくなった。

 ボールを回してじっくりと隙をうかがう戦い方になった。


 勝ちたいのならば、のんびりボール回ししている時間はないはず。パワープレーでもなんでもやって、ガムシャラに点を取りにいかないとならないはず。

 どうやら彼女たちは、引き分け狙いに意識を切り替えたようだ。

 佐原南の堅実な守備からなんとか一点を狙って、せめて勝点一を得ようと。

 点は運任せ、とにかく失点のリスクを減らそうと。


 残り時間を使って、一点を取れるかどうかのゲームを選択したわけであるが、それは北央館学園側の都合である。

 佐原南には、大量得点が必要なのだ。

 そのための時間は、もうそれほど残されてはいない。


 悪いけど、付き合ってはいられないよ。

 最前線で張っていた里子は、そう心にとなえると、勢いよく駆け戻った。

 北央館学園のざわの背後から身体を突っ込ませて、ファールすれすれ、いや笛を吹かれてもおかしくないような強引なプレーでボールを奪い取っていた。


 ドリブルで駆け上がろうとする里子であるが、しかし焦るあまりちょっとタッチが大きくなってしまい、もたつく間にぎしと野沢香奈の二人に囲まれてしまった。


 空いたところを駆け上がる裕子が、パスを要求する仕草をしながらも、仕草と反対のことを大声で叫んでいた。


「いつもの里子で!」


 と。

 その声が鼓膜を震わせたか否かのうち、里子は突き動かされるように仕掛けていた。

 裕子へパス、と見せかけて、急遽方向転換、慌てる二人をさらに左右へのフェイクアクションで揺さぶると、一気に二人の間を突き抜けていた。


 この見事な個人技突破に、一番驚いたのは里子自身だった。


 でも、すぐに理由が分かり納得した。

 これまではバカの一つ覚えで相手を抜くことしか考えていなかったから、相手も対応しやすかったのだ。緩と急の、急しか自分にはなかったのだ。


 ベッキを遥か後方に置き去りにし、ゴレイロの谷野早苗と一対一になった。


 心に多少のゆとりが出来ていた里子は、ゴレイロの位置や姿勢を確かめると、冷静に、ゴールの中にボールを流し込んでいた。


 ゴールネットが揺れた。


 佐原南の選手たちは相手を突き放すこの一点に、そして、里子が得点したことに、どっと沸いた。


 一人、現実に入れずに、呆然としている里子。


 え……

 なに?

 みんな、なんかうるさいんだけど。

 抱き合って、喜んでいるんだけど。

 得点、したの?

 ゴール……決めたの?

 誰……って、あたし?

 あたしが、決めたの?

 そっか……


 里子はほっと息を吐くと、大きく、大きく、吸った。


 アシストもいいけどさあ、

 やっぱり、

 ゴールはゴールで、


「超気持ちいい!」


 里子は天高く両腕を突き上げ、絶叫した。


「里子、やったじゃんかよ」


 裕子や亜由美が寄って来て、背中をバンバンと叩いた。

 のみならず、なんと真砂茂美までが近づいてきて、里子のことを容赦なく叩きはじめた。もちろん無言のままであったが。


 公式戦初ゴールの、みんなからの、手荒い祝福。


 結構痛いけど、でも、嬉しい。けど、痛い。かなり。


 裕子は、里子の頭を抱え込んでヘッドロック。ぐいぐいと、ぎゅうぎゅうと、しめつけた。


「いてて! 痛い、ほんとに痛い! あの、いっときますけど、さっきのとこでパスを出すのが今後の『いつもの里子』ですからね。さっき先輩のいってたのは、昔の『いつもの里子』ですから」

「さっぱり意味分かんねえ、もっかいプリーズ」

「いいです、面倒くさい。それより離して、痛い! 泣く! 髪の毛こすれてて痛い!」


 さて、加点し突き放した佐原南。

 北央館学園のキックオフで試合再開である。


 二点差をつけられ引き分けも難しくなったたことにより、北央館学園の戦い方がまた変わった。

 引いて守るのをやめてガムシャラに攻めてくるようになった。

 このままでは負けである以上、何点取られてもいいからせめて一矢は報いたいし、あわよくば追い付きたい、というところだろう。


 悪いけどね、そうはさせないよ。


 里子は心の中で呟いた。


 佐原南にとっても、一点でも多くのゴールが必要なのだから。

 わたしにとっても、サジ先輩と共に戦うために絶対に落とせない試合なのだから。


 相手は相当前掛かりに攻めて来ているが、最後の最後でベッキの真砂茂美が、鉄壁の如く、冷静に処理をして跳ね返している。

 茂美は個人技にそれほど優れているわけではないが、集中力とその持続力が並外れて優れている選手である。


 無言実行、ちょっと不気味なところもあるけど、本当に凄い先輩だよなあ。


 いつの間にか里子は、人の良いところを素直に認めるようになっていた。


 とにかく守備は大丈夫だ。

 守りは鉄壁、相手は前掛かり、ならば佐原南の進む先にはゴールしかない。


 里子は駆け出した。


 亜由美が北央館学園の山田栄美と競って、ボールがぽーんと跳ね上がった。


 里子は、二人の間を駆け抜けながら、落下するボールを頭で受けた。


 腿で軽く蹴り上げて、身体を反転、足元へ落下してくるボールを蹴りながらそのままドリブルに入り、再び二人の間を駆け抜けた。

 山田栄美はびっくりしながらも反射的に足を伸ばしたが、里子はボールをちょんと浮かせて難なくかわしていた。


「みんなは守ってればいい!」


 自分勝手な無謀な策とは思わない。相手が攻撃攻撃で、組織的な守備が失われているいまだからこそ、個人技での強引な突破は有効なはずだ。


 相手のアラざわと向き合う。が、それは一瞬。右に左に揺さぶって、一気に抜けていた。


 里子は、ゴールまでの長い距離を、ドリブルでぐんぐんと上がっていく。


 北央館学園の陣地には、ゴレイロの谷野早苗と、ベッキの根岸奈美江の二人だけだ。

 みんな、なんとか点を取ろうと攻め上がっていたからである。


 根岸奈美江は失点の危機をさとるや、里子へとは向かわず、むしろゴレイロと二人体勢でゴール前を固めた。


 ゴールが近づくと、里子はドリブルの速度を緩めた。


 ちらりと振り返ると、背後から、北央館学園の選手たちが全力で駆け戻ってくる。


 ゴール前に張り付いていたベッキの根岸奈美江は、援軍が間近まで駆けつけたことと、里子の気が背後へと逸れたことに、突如、前へと飛び出した。


 その行動、里子には読めていた。

 読めていたから、仕掛けるゆとりがあった。


 サジ先輩の真似じゃあないけど、ヒールリフト。


 ふくらはぎに沿ってを滑らすようにボールを浮かせて、かかとで蹴り上げ、自身の頭上を通す高度なフェイント技だ。

 里子はその通りに、ボールを蹴り上げていた。


 そして頭上を通って落ちてくるボールを見上げ……いや、ボールは目の前には落ちてこなかった。


 後方へとすっ飛んでいたのである。


 落下してくるボールを奪おうと、山野裕子は、北央館学園のざわやまえいの二人と激しく競り合った。

 勝ったのは裕子であった。

 タイミングよく高く跳躍すると、ヘディングで前方へと送ったのである。


 里子は頭上を越えていくボールを追いかけ、身体を横に倒すようにしながらボレーシュートを放っていた。


 ゴレイロの谷野早苗はパンチングで防ごうとしたが、ボールは指先をかすめてゴールネットに突き刺さった。


 里子は倒れたままの姿勢で首を動かし、ゴールを決めたことを確認すると小さくガッツポーズを作った。

 満足気な笑みを浮かべ、ゆっくりと、立ち上がった。


「里子ォォォ!」


 両手を大きく広げて、山野裕子が走り寄って来る。

 どどどど、とけたたましい足音で。


 里子もゆっくりと、両手を広げた。


 こういう喜び方も……悪くないかもね。

 ちょっと暑苦しいけどさ。


 と思ったのもつかの間、

 バシーーッ! っと、裕子に情け容赦のないモンゴリアンチョップを食らった里子は、もんどり打って床に倒れていた。


「ヒールリフトなんて出来るわけねーだろ、バーカ! うまく繋げられたからいいけど、失点してもおかしくなかったんだぞ。バーカ! バカ里子! バカ山バカ子!」

「バカにバカバカいわれたくないです!」


 里子は立ち上がると、裕子を睨み付けた。

 点を取った喜びも忘れてしまうくらい、首に凄まじく強烈な打撃を受けたのだ。


 ほんと腹立たしい、この部長! バカ王子!


あきらみたいなこといってんじゃねえ。それに、『みんな守ってろ』じゃねえよこの一年坊主が、何様だ、てめえ、このバカ! かあちゃんデベソ!」

「うるさいな、点取ったんだからいいでしょ!」


 なんで点を決めて、バカバカいわれたり、殴られなきゃならないんだよ。


     17

 北央館学園のキックオフで試合再開。

 しかしそれから数秒後に、長い笛の音が鳴った。


 試合終了。


 佐原南が、4-1で勝利である。


 隣のコートでも笛。やはり試合が終了したようだ。

 佐原南の選手たちはそれぞれに、おそるおそるといった表情で、電光掲示板の表示に視線を向けた。

 不安そうなその顔が、一斉に、蕾から花が咲くように変化していった。


 印西木下 2-0 成田不動岡


 得失点1の差で、佐原南は千葉県決勝大会進出の権利を手に入れたのである。


「やったあ!」


 それを確認した瞬間、裕子と里子は抱き合って喜んでいた。


「決勝大会だあっ!」


 亜由美、春奈、花香らも、裕子のもとへと喜び駆け寄ってきた。


「ほら茂美、咲! 和を乱すんじゃないよ!」


 と、亜由美は残った二人を手招きした。

 片や無表情、片や(嬉しいくせに)仏頂面の二人を交えて佐原南の選手たちは、全員で輪になり手を繋ぐと、誰からともなく楽しげにぐるぐると回り出した。


 奇声を上げたり、急ブレーキかけて逆回転になったり、みんなでおおはしゃぎ。


 中でも一番子供のように無邪気な笑顔で叫んでいるのが、生山里子であった。


 その様子を、山野裕子はなんとも微笑ましげな表情で見ていたが、やがて、自身も感情を抑え切れなくなったようで、うおおおおと会場内に轟き渡るような雄叫びを張りあげた。


「うおっしゃあ! 決勝大会なんか余裕で突破して、目指すは! 関サル優勝だーーっ!」

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