どこぞのドアと澄香とすみか 〜妹と同じくらい好きな彼女が出来たら神と喧嘩する羽目になったのは一体どういう了見だ〜
#1 The doors of perception 〜知覚の扉ならまだ良かったが近くの扉がアレだった
どこぞのドアと澄香とすみか 〜妹と同じくらい好きな彼女が出来たら神と喧嘩する羽目になったのは一体どういう了見だ〜
板坂佑顕
#1 The doors of perception 〜知覚の扉ならまだ良かったが近くの扉がアレだった
「ねえねえ。もしさ、環境がいきなり少しだけ変わったらどうする?ううん、戸籍をいじって別人になるとか、ステンレス製の車で若い頃のママに会うとか、そこまで面倒くさい違いじゃないの。例えばそうねえ…」
などと合コンで女子大生に興味を持たれるも、誤解という名の魔法が解けた瞬間、現実とのギャップでお互いもれなく気まずくなる、そこはかとない切なさにあふれたポジションであった。
「おーいタカアキー!ソロとちってんじゃねえよー、見せ場だろー」
12月3日、日曜日。赤羽のとある音楽スタジオで、貴明たちのバンド「Back Door Men」によるデモテープのレコーディングが行われていた。半笑いで怒声を浴びせたのはギターの
繊細なギターテクニックの評価もさることながら、華奢な長身で長髪の、少女漫画的美形キャラ。毎月違う女の子をはべらせる、実にイケスカナイ存在だ。理屈っぽく人を寄せ付けない目つきの貴明とは、まるで違う人種。だが2人は音楽面だけでなく、なぜか単純に気が合う悪友同士であった。
「あー悪い。お前がソロ引っ張りすぎでタイミング失ったわ。それに幼女の声が聴こえた気がしてさあ。環境がどうとか」
「大丈夫か変態、変なクスリとか勘弁しろよ⁉︎せめてスピリタスくらいにしとけ」
「阿呆か、そっちのがクスリよりよっぽどヤバいわ!」
遠慮のないやり取りは初見では喧嘩のようだが、メンバーはまたかと苦笑しながらスルーするのが日常だ。この日の出来は上々。3テイクで収録は終わり、貴明はマスター扱いのカセットテープ(もちろんメタルポジション)を受け取る。
地下の狭くて暗い穴倉のようなスタジオから這い出る頃、街にはイルミネーションが灯り、おなじみの歌がリフレインされていた。雪はなくともそれなりにクリスマスな演出の街を赤羽駅まで歩く道すがら、4人共通の話題は音楽だ。
「やっぱいま時季ったら
「いやここはジョン&ヨーコでしょ」
「俺はポールのがいいけどな。いや今ならバンドエイドかな」
「いやいやいや、どれもいいけど最高峰はダーレン・ラヴで決定済みですからね貴様ら。てかフィル・スペクターな」
この時代。1980年代終盤の東京というか日本は、バブル景気の終わりの始まりにしてバンドブームの真っ只中であった。音楽専門学校生としてバンドを組むのは、ブームに関わらず必須条件。
とはいえどんな経緯にしろ、バンドをやる動機の中に「モテたい」という欲求が皆無ということはあり得ない。ましてやブームのおかげでノーフューチャーな追っかけの女の子たちがライブハウスに押し寄せる、ざわついたご時世なのだから。
貴明のように内向きでモテない男子とて、音楽的才能があれば夢が見られるんじゃなかろうか…見られるかもしれないな…などと錯覚させてしまう空気感があった。
「にしても、ですよ。バンドブームでしかもクリスマスなのに、お兄ちゃんは相変わらずモテないよねー!あはー」
貴明の部屋。一緒にテレビを見ながらケラケラと笑い、憎まれ口を叩くのは
兄がひいき目に見ようが見まいが、澄香は相当な美少女であると評判だ。おまけに学業成績はまんべんなく優秀、身体能力激高でスポーツ万能の完璧人間。さらに活発で天真爛漫、誰にも分け隔てしない性格なのだから、学校では男女問わず高い人気があるのも当然であった。
常に元気で明るく、冬も短パンで過ごすことが多い澄香。いつものようにベッドにうつ伏せで寝そべり好物のポッキーを頬張りながら、しなやかな脚をパタパタとバタつかせている。
「そだね。誰かさんの地獄仕込みの毒舌と同じくらい、俺は地獄のように女子に縁がないですねえ」
「それが誰かは聞かないけど、お兄ちゃんは、見た目はまあ、無駄に目つきが悪いのを除けばギリギリ普通だよね。ポリポリッ」
「よし、今日も褒めてないな」
「見た目普通で音楽の才能もある。ポリポリ。なのにモテない理由って…」
「理由って?」
「そりゃあ旦那、邪悪な目つきと偉そうな態度と面倒くさい性格に決まってますなー。うしゃしゃしゃ」
「またニセ関西弁!お笑い見過ぎだっての。てか理由がそれなら未来永劫絶望的じゃねえか。どうしてくれる!」
「あはははー!絶望兄ー!」
ますます悪い顔になって楽しげな澄香。丁々発止のやり取りをしながら自分をネタに笑い転げる無邪気な妹だが、貴明はいつも愛しく感じている。
「何?こいつらがチャンプって俺は納得せん」
「良いじゃない。今週のチャンプはこのバンドだいっ!」
「似てねえし。もう寝ようぜ」
「はーい、お休みなさいお兄ちゃん」
月とスッポンのような兄妹だが、それなりに仲は良いようだ。
月曜日、代々木。とある音楽専門学校内にある練習スタジオ。Back Door Menの4人が、週末に行われる月1回の学内定例ライブに向けてリハを重ねていた。貴明と透矢はここの同級生でもあり、バンドは彼らを中心に結成された学内バンドだ。出会いは授業の一環だが、思いがけなくレベルが高く気の合うメンバーが揃ったため、今はインディーズ活動をしながらメジャーを目指している。
Back Door Men are
ギター&ヴォーカル=香取透矢(favorites:ランディ・ローズ、テレンス・トレント・ダービー)
キーボード&ヴォーカル=剣崎貴明(favorites:プリンス、レイ・マンザレク)
ベース=
ドラム=
スタジオ内にはメンバー4人のほか、透矢目当ての数人の女子学生がいるのが日常。中でもうっとりと透矢のギターに聴き入る、頭抜けて華のある女の子が
女子だけで構成されるこのバンドは、デビー・ハリーとパッツィ・ケンジットに心酔する紗英の際どい衣装…つまりは小悪魔的なエロさで注目の存在。さらにドラムの
「あんたたちー!紗英と一緒にいきたいでしょー!」
「ほーっほっほ!あたくしに跪きなさい愚民ども!」
とまあ、いろいろスレスレだが煽り上手なパフォーマンスで、バンドの人気は上昇中だ。元々紗英は、学内一の美人として絶大な人気を誇る存在。それが外部にも知られてきて、最近のライブには紗英と理恵を見るために、レコード会社のみならず芸能事務所の関係者が足を運ぶようになっていた。
「芸プロ邪魔くせえ。レコ社が来ないと意味ないのによー」
「まあそう言うな貴明。紗英ちゃんくらい可愛ければ周囲がほっとかないさ。それに同級生がアイドルになるのも嬉しいだろ」
「アイドル?いや紗英の歌はロックで上手すぎるから可愛くはないだろ。アイドル向きじゃないのわかってんのかねあいつらは」
「お前は全てが常にう音楽基準なんだなあ。てかちゃんと見てるのな、顔だけでなく」
「ったりめえだ、歌や楽器さえ上手ければ、顔なんてついてさえいりゃいいんだよ。ここを何の学校だと思ってるんだ達哉は?」
ベースの達哉が柔和な笑顔で貴明と談笑する。貴明と透矢のような我の強い天才肌のリーダー格を複数抱えるバンドでは、こういう穏やかな人物の存在が「かすがい」になるものだ。もちろんそれだけでなく、彼の堅実かつグルーヴ感あふれるベースプレイはバンドに不可欠なピースである。
無口なむっつりキャラで何を考えているかわからないが、細かいノリを余裕で叩き分けるテクニカルなドラマー・純一とともに、バンドの屋台骨を支えている。
「ねえねえトウくうん、私たちの曲だけど、ブリッジがいまいちしっくり来ないんだよね。どうすればいいー?」
一通り練習が終わり学生たちが歓談する中、紗英がどこから発声してるのかわからないほど甘ったるい声で透矢に話しかける。彼に理論的なことを聞いてもあまり意味はないのだが、案の定…
「ああ、紗英がいいようにやるのが一番いいと思うよ?」
「うんわかった、好きにやっちゃうね」
だから意味ないんだっての。で、困ったらどうせ次は俺のとこに来るんだよな…と貴明が明後日の方向を見ながらぼーっと考えていると、またしても案の定。
「ねえ貴明。こういう時はどうしてくれんのよこれ?」
透矢への態度とは180度違う、えらくぶっきらぼうで面倒くさそうな紗英が、貴明の眼前に仁王立ちしていた。
「ええと、今さらですけど、人にものを聞くにしては雑すぎませんか、紗英さん?」
「いいから考えてよ。せっかくトウくんが私にプレゼントしてくれた名曲なんだから。湖のやつ」
なぜに同じ男、しかも親友同士でこうまで扱いが違うのか。
「ちなみにあの曲、一応共作ってことにしてるけど、ほぼこの俺様が作ったんですがね」
「あーあーあー、聞こえなーい」
こんな一方的な関係ではあるが、貴明は入学以来、紗英に憧れている。他にもそんな男子生徒は多数いるものの、もちろん紗英が彼らをいちいち尊重する道理はない。
「ギターソロの後だし、ブリッジは雰囲気がガラッと変わるほうがいいよな。さっきのセセッションの2回目のパターンをベースにしていいと思う」
「へえ、あんた本当に音楽だけは的確よね。1回聴いただけでよくわかるもんだわ」
「音楽だけって失敬ですね。だいたい透矢に聞いたってムダなの知ってんだろ、あいつは全部フィーリングなんだから」
「だから天才なんでしょ。誰かさんみたいな頭でっかちよりぜんぜんカッコいいじゃない」
「あーあーそうかい、それじゃ俺も、紗英の好きなようにすればいいと思うよ!」
とびきりの爽やかスマイルで透矢のセリフを繰り返す貴明に対し、仏頂面レベルがMAXに達する紗英。
「うわあムカつく。あ、トウくんどこ行くのお?私喉乾いた、一緒に飲み物買おうよお」
相変わらず可愛い顔して可愛くねえ。環境なんか変わらなくても、女はこうやって簡単に別人になれるじゃないか。貴明はクサクサしながら考えつつも、
「あれ?環境とか何の話だっけ」
昨日の少女の空耳?が、どこかに引っかかっているようだ。
数日後、学校近くのホールで行われた定例ライブは大盛況のうちに終了。芸能事務所だけでなくレコード会社も来ており、貴明らは先日作ったデモテープを渡すことができた。
「いやあアレだね。今回は手応えアリじゃない?」と透矢。貴明は「まあ実力ですよ実力。やっと世間がついてきたってか?」と、いつもながら無意味に偉そうだ。
一方、紗英のバンドも上々の出来だったようで、メンバーの女の子たちがキャンキャンと盛り上がっている。
「見て見て理恵、私、2枚も名刺もらっちゃったー!」
「ちょ、それモデル事務所とアダr…ぜんぜん音楽関係ないじゃん。あは、あははー」
アダルtと聞いて貴明と透矢、純一は興味本位で名刺を覗き込むが、ここで達哉が割り込む。いつもながら無粋な奴だ。
「じゃあみなさん、打ち上げ、行っちゃいますかー!」と彼が宣言した十数分後、15人ほどの学生が、代々木駅近くの学生御用達の安居酒屋に集まった。
酔うと本性が出るとはよく言ったもの。日頃クールで通している透矢はまさかの絡み酒で、誰彼構わず甘え放題になる迷惑キャラに変貌していた。もっとも絡まれる側の女子はおおかた嬉しそうで、これがまた周囲の男のイライラを助長させる要因になる。
日頃から透矢にベッタリの紗英は、彼のこの酒癖を有効利用すべく、飲み会では強引にでも隣に座ることに決めている。今日もそれが的中。掘りごたつ席でゼロ距離のメリットを生かし、まるで恋人のようにイチャつく2人。軽い嫉妬も込めて貴明がからかう。
「そこ!近いぞ!透矢は1人と付き合う気はないんだから無駄ですよ。離れなさい!」
「うっさいぞ、そこの貴明!ねえトウくうん」
やり取りにドラムの理恵が乗っかってくる。プレイもルックスもシーラEに傾倒中の理恵は、すなわち無駄にエロい。スタイルから服装からすべからくエロいことから、一部では代々木のデンジャラス・クイーンと呼ばれているとかいないとか。
「こらー紗英、バンド内恋愛は面倒くさいから禁止だぞー!離れなさーい!」
「ええー、でも紗英はあ、トウくんとはバンド違うもーん」
「理恵ちゃんいいこと言った!よし達哉、ズバッと禁止してやれ!」
「まあいいんじゃないか、紗英ちゃんと透矢ならお似合いだし」
それもそうだなと納得する貴明。何しろ、楽器を持たなければタダの人…であればまだマシ。タダの人どころか貴明は音楽以外は全くもってダメ人間であり、当然恋愛など縁のない暗黒の青春を過ごしていた(とはいえ半数以上の男子はそうだが…)。
特に、女子が絡むと劣等感からすぐに卑屈になるのは悪い癖で、それがますます女の子を遠ざける。妹の澄香がからかい半分、本気半分で心配するのもやむを得ないほどの不肖の兄なのであった。
勢いだけで無闇に盛り上がった2時間の飲み放題が終わる。グダグダと外に出て、ふらつく足どりでハタ迷惑に盛り上がる一行。残ったのは貴明、透矢、達哉、紗英、理恵の5人だ。二次会だー!と騒ぎながら無駄に表参道まで歩き続ける。若いそしてバカい。
表参道に到着し青山側から見上げると、多勢のカップルが街路樹のイルミネーションに照らされ、楽しそうに語らう光景が広がっていた。この頃、恋人の聖地として全国的にもてはやされていたのが、まさにここ表参道なのであった。
「釈然としないな」とつぶやく貴明に、達哉が律儀に反応する。
「うーん、羨ましいな確かに」
「違う。腹立たしいと言っているんだ」
「またあ、ホント性格悪いんだから、貴明は!」
紗英があきれた様子で、でも楽しそうに貴明の二の腕を軽く殴打する。酔いもあるのか、ちょっと意地悪な表情がまた可愛いなと、妄想が99個の風船のように膨らむ貴明。
彼は酔いを覚ますように頬を2、3回叩いた後、
「おーいみんな、二次会、ここなんかどうかな⁉︎」と皆に呼びかけ、通りがかった店の前で立ち止まった。
同潤会アパート近くに佇むその店のドアは、ピンク色なのに清楚でどこか現実感がなく、よく見るとそもそも飲み屋なのかも微妙な風情であった。だが貴明は酔いも手伝い、何かに吸い寄せられるように大仰なアンティーク調のドアノブに手をかける。
ノブに触った瞬間、頭がクラッとした。気がした。まあ酔ってるからなと気にもとめず、そのままノブをひねる。すると今度は膝がガクンと落ちて…いや実際はどうにもなっていなかったのかもしれないが。
少し開けたドアの前方には、まばゆい光の洪水。それにびびって後ろを振り返ると、後ろ側にはあまり光が届いていないようにも見える。暗闇にイルミネーションが輝いているだけなのはともかく、不可解なことに通行人はこの光にほとんど気づかないらしく、貴明のいるドアの前を何事もないように通り過ぎていくばかりだ。
ドアノブに手をかけたままの貴明は、頭と足元がぐらつき光束で目がくらむ。そのままもうヤケクソだとばかり、ピンクのドアを開けて一歩進んだ。
…進んだはずだが店がない。部屋がない。店に入るドアを開けたのに、どういうわけか眼前にはクリスマスの夜の繁華街が広がっていた。
しかも目の前にはデカくてうるさくてクッソ安い、通いなれた電器店…ビックカメラ本店か?加えてホテルに風俗…さっきまでの洗練されたイルミネーションとは丸っきり違う、雑多で猥雑な街並。こりゃ表参道じゃねえ、池袋北口だ。俺はいつ帰ってきたんだっけ?
貴明は東武東上線沿線に住んでおり、代々木に通学するには池袋乗り換えのため、池袋は半ばホームタウンだ。一緒にいた4人も池袋が乗り換え拠点なのでいつもこのメンツで残るのだが、この際それはいい。二次会の記憶がないのになぜ帰り道にいる?酔いすぎたかと混乱する貴明だったが、そのうち隣に誰かがいるのに気づいた。
紗英だ。憧れの紗英が1人で隣にいた。酔いのせいなのか、普段はありえないほど艶っぽい微笑みを浮かべている。敬愛するデビー・ハリーに寄せた軽いウェーブをかけた金髪が、貴明の頬を撫でつつ、吐息の温もりさえ感じられるほどの近距離にいた。
「やっと落ち着いたね」
好意的に自分に向けられたことは初めての、少しハスキーで舌足らずな声。いつもの吐き捨てるように乱暴な口調との違いに、貴明は逆に緊張を覚える。
「さ、紗英…みんなは?」
「もう解散したでしょ。トウくん達はまだ飲むってどっか行っちゃったから、私は貴明を追いかけてきたんだよ」
「お、俺を、どうして…理恵は?」
「いいの。今日はもういいの」
何かがおかしい何かが。でも今はそんなのどうでもいい。入学以来憧れ続けた、今や業界的にも注目の美女が自分を追いかけてきたというのだ。
「まじか…じゃ飲み直す?」
「それもいいけど…私ね、ちょっと疲れちゃったかな」
「あっ…」
ひょっとして、これは。妄想や寓話のエピソードであり、現実にはあり得ないと信じていた、「女の子からの誘い文句」ではないのか。そう、伝説の『私疲れちゃった』が、今まさに貴明の身に起きているのである。
「そうだね、少し休もうか…」
「うん、いいよ」
紗英の恥じらいに満ちた切なげな承諾に、貴明の心臓はバクバクと鼓動し放題。おあつらえ向きにここは池袋北口のホテル街だ。狭く暗い路地にある看板を見上げ、貴明は(何がカリフォルニアだよ、各所からいいだけ怒られろ)などと心の中で毒づきながら、最初に目についたそのホテルに吸い込まれていった。
そのホテル「モーテル・カリフォルニア」は、最近中途半端なリニューアルをしたのか、アレな外観から想像するよりも中はずっと綺麗だった。無人システムなど初めてでまごつく貴明をよそに、紗英はすいすいと空部屋を選ぶ。エレベーターに乗った途端、いそいそと貴明の手に指を絡めてきた。
「あー、今、慣れてるって思ったでしょ。でも私、噂ほど遊んでないよ」
「そんなこと思ってな…でも紗英、どうして?」
紗英は答えず寄り添ったまま、2人は433号室にたどり着いた。この手のホテルといえばショッキングピンクの回るウォーターベッドや、何に使うのか?というミラーボールが時代を超えて現役で残っているものだが、ここは比較的普通の部屋。引き出しを開ければ聖書さえありそうな雰囲気の、一見普通のシティホテルだ。だが風呂場の壁が擦りガラスなのは、昔ながらの「いかにも」なしつらえの名残なのだろう。
「私、先にお風呂入っていい?」
「ど、どうぞ」
何から何まで何もかもがわからない。自分には普段悪態しか見せないあの紗英が、今この瞬間、ほんの1枚の薄いすりガラスの向こうでシャワーを浴びている現実。
貴明はいぶしがる。でもたぶん考えるだけ無駄だ。本人がいいなら問題ない。ここは欲求に身を任せてよし!むしろそうすべきと、都合の良い方向へ気持ちを切り替えた。
ほどなくして紗英は風呂から上がる。濡れそぼりきらめく金髪がまぶしい。薄手のバスタオルをかぶせただけの細く華奢な体は、入浴で紅潮してますます色っぽい。紗英は抗しきれない魅力を全身から発散し、貴明の隣にちょこんと座った。
「なんだかさ、私いつもあなたに冷たいよね。自分でもどうしてかわからないんだ。照れ隠
しなのかも。私ね、きっと本当は、貴明のこと…」
心臓が破裂しそうだ。いや、この後もっと爆発する状況が待っているはずだ。こんなとこで破裂してどうする。
「私が酷い態度でも貴明は音楽のことはいつも真剣に教えてくれるし、一度だって本気で怒ったことないでしょ。顔は怖いしぶっきらぼうだし話は面倒くさいけど、勝手に受け入れてくれてると思ってるんだ。勝手だよね私」
紗英はとうとう距離−1cmにまで貴明にくっついた。小ぶりで綺麗な胸の感触が左腕にふわりと伝わる。頭の中に、熱された血液がぐるぐると廻り始めた。
「お、俺もずっと紗英が気になってた。でもこの見た目と性格だし、まともに相手にされてないなって。実際いつも冷たいしさ…」
「ごめんね。ごめんね。本当はあなたに会いたくて、いつもバンドの練習を見てたの。曲をもらった時も、嬉しくて泣いちゃったんだよ」
消え入りそうな声でそう言い、紗英は顔を赤らめながら、貴明にほんの軽いキスをした。初めて覚える柔らかさと、女の子特有の意味不明なほど甘ったるい芳香がテンションを上げる。ほてった脳を、さらにマーシャル並の絶妙な加減でオーバードライブさせる。
「ととととりあえずお俺もシャワー浴びてくる!」
ボフッ!と大袈裟な音を立ててベッドを叩き、すごい勢いで立ち上がる貴明。あまりに場違いで小っ恥ずかしい状況にいたたまれなくなった彼は、酔い具合以上の赤ら顔で一目散に浴室に向かった。それを見てくすくす笑う紗英が、いつにも増して愛らしい。
で・できる。しかもあの紗英と⁉︎
貴明は初めての高揚感に打ち震え、浴室に入ろうとする。だが頼りない建て付けのドアノブを握った瞬間、またもあのグラッとする感覚に襲われた…気がした。
その直後、突如視界が暗くなる。自分ではわからないが、あるいはマンガのように鼻血を噴いて倒れたのかもしれない。一生の不覚…
気がつくとまたも夜の街。二列に真っ直ぐ伸びる街路樹のイルミネーションが見える。ということは、さっきまでいたはずの表参道に戻ったか?不意に後ろから呼ぶ声が聞こえた。
「おーいタカアキー、こんなとこにいたのか!」
透矢だ。みんなもいる。「急にいなくなるから心配してたんだよ」と不必要に胸を揺らしながら駆け寄ったのは、ドラムの理恵だ。
俺が急にいなくなった?いや待て、じゃあ紗英は?
「なーにやってんのよあんた。これだから音楽オタクは…」
なぜか紗英もみんなと一緒だ。しかも平常運転の罵声を伴って。ついさっきまでの可愛い様子は、愉快なほどにみじんも感じられなかった。
「ど、どうなってんだーーー!!」
「おいおい珍しく酔ったな貴明。ほら透矢、近所なんだから送ってやれよ」
という達哉の言葉を最後に、貴明の記憶はプッツリと途絶えた。
貴明はその後、数時間なのか数日間なのかわからないほど深い眠りに落ちた。目が覚めたら朝のようで、今日が何日なのかも判然としなかったが、とりあえず学校に行けば何かわかるだろうと部屋を出た。
12月の埼玉県南地域には珍しく、ぼたん雪がちらつく鼠色の空。曇天の下、よく通うラーメン屋を左に曲がって駅に伸びるいつもの通学路に、1人で歩く5年生くらいの女の子が見える。子どもが学校に通ってるならここは日常だろうと妙に安心する。
だいたいあの人気者の紗英が、暗く偏屈で冴えない自分に対してあんなこと…ありえないんだ。例えば太陽と月が対等な立場で出会うことなどあるはずがないように。おおかた、酔って爆睡してる間の幸せな夢だったのだろう。
などと卑屈になりながら、理不尽な未遂体験を頭の中で常識的なセンに修正する。一つだけ、唇にハッキリと紗英の甘い香りが残っているのは不思議ではあったが。とにかくあの夜を全否定しないと自我が保てない気がしていた。
それよりも何よりも、今気になるのは前方にいる女の子だ。髪や肌の色から察するに欧米系の外国人であろう容姿に、やたらヒラヒラした、場違いなドレスみたいな悪目立ちする服装はこの際まあいい。でも近づくごとに感じる、なんとなく見覚えのある白い光を放つような異様な存在感は、一体なんだ?
貴明は女の子とすれ違う瞬間、ザラつく違和感を拭おうと、ついつい彼女の顔を覗き込む。果たしてその顔には、幼いながらも息を呑むほどに整った美しさがあった。
だが貴明が真に驚愕し、ある種の恐怖さえ覚えた理由はそこではない。彼女は悪戯っぽい笑顔を浮かべたまま、貴明の目を上目遣いで真っ直ぐ見据えながらこう言い放ったのだ。
「うふふふふ、やっぱりお前、『エクスペリエンスト』だったのね」
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