第37話 私
繋いだ手が握り返されないことが、恐ろしい。
冷たくなったメリーの手を握って、あの夜、ハルメリオは呆然としていた。
砕け散ったメリーの心臓が、街灯に照らされてチカチカと光っている。砕けた魔法石から放出された魔力が、ハルメリオの枯渇していた魔力を今更になって潤す。今更光を使えるようになったとしても、救えるものは何もない。
「……メリーに、最期まで世話になりっぱなしだったな」
ハルメリオが呟けば、視界の隅で、シスルが僅かに肩を跳ねさせた。数秒後、彼の控えめな声がハルメリオに飛んでくる。
「プログラムへの反逆。魔法を使っても尚、彼女を止めることはできなかった。……メリーはよっぽど君のことが大事だったんだね」
「俺は何もしてやれなかったのにな」
「名前あげて、やることやったら褒めたんでしょ。アンドロイドにとっては、それが十分喜ぶべきことなんだよ」
シスルの冷静な言葉に、ハルメリオは肩を竦める。
魔法使いにとって都合の良い労働力であるアンドロイド達は、自己を持つことを良しとされない。一般的にアンドロイドに名前が与えられないのは、彼等が仕事を熟す以上の存在ではないからだ。魔法使い達は、どれだけ粗末に扱っても良い労働力を得たかった。そのためにアンドロイドが創られた。そうして漸く手に入れた命無き奴隷を、わざわざ人間扱いする者はいない。メリーはそれを知っていて、だからこそ、自分の名前にあれだけの執着を見せたのだ。
アンドロイドには一定数同じ型が存在する。容姿も音声も性格設定も、全てが同じ機体があることは、そう可笑しなことではない。
メリーは、自分の名前にしか自己がないことを知っていたのかもしれない。もし今後彼女と同じ機体が創られたとき、その機体と自分を分別ものは、己に与えられた名前だけだ。与えられた意味のある名前と、区別をするためだけに与えられる製造番号の間には、大きな差が存在する。
「メリーは、君に自分を貰ったんでしょ。名前と一緒に。だから、ハルメリオのメリーであることに固執したんだ。他のところじゃ、メリーは自己を貰えないから」
「……俺は自分の使用人すら守れない駄目な主人だ」
「もう、君ってば一回落ち込むと長いんだからやめてよ。普段の無駄なポジティブは、こういうときに発揮してほしいんだけど」
「もっと良い名前を付けてやればよかったな。プレゼントも、髪飾りだけじゃなくいろんなものをやればよかった。後悔しても、もう遅いんだが」
自嘲染みたハルメリオの声に、シスルは溜息を返す。しかし、呆れた顔をしたままのシスルは、それ以上ハルメリオを責めるような言葉を口にはしなかった。
メリーがハルメリオの贈り物に拘った理由も、名前に執着したのと同じ理由なのだろう。ボロボロになった使用人服とは裏腹に、ハルメリオが送った黒いリボンだけは、綺麗な状態を保っている。結び目を隠すように固定された魔法石が淡く輝くのを見て、ハルメリオは静かに手を伸ばした。
「メリーをメリーたらしめるのが俺の与えた名前なら、心臓も同じようにやれたらよかったのにな」
そう言って、ハルメリオはメリーのリボンをゆっくりと解く。メリーの長い髪の毛は拘束から解け、煉瓦の上に散らばった。こんな状況でもなければ、それを美しいと感じることがあったのかもしれない。
ハルメリオは、メリーの胸を貫いたままの剣を、静かに引き抜いた。宝石の欠片のようなものが、次々と零れ落ちる。ぱらぱらと地面に散らばっていくメリーの心臓は美しかったが、その光景で、ハルメリオの胸は張り裂けそうな気分になった。
リボンから魔法石を外して、メリーの胸元に押し付ける。最早無意識の行動であった。丁度魔法石はアンドロイドの心臓に成り得るようなサイズで、元々心臓が埋め込まれていた穴にしっかりと入った。しかし、メリーは動かない。
アンドロイドの稼働に魔法石を必要とするのは、それを動力とするから、という理由だけではない。アンドロイドのプログラムは、全て魔法石に繋がっているのだ。即ち、魔法石の破壊はプログラム全ての破壊である。どんなアンドロイドも、プログラムがない魔法石では、稼働することはできない。
ハルメリオの行動を、シスルは無言で眺めていた。夜に相応しい沈黙がその場を支配する。
魔法石の淡い輝きが、ハルメリオをどうしようもなく遣る瀬無い気持ちに追い込んだ。メリーはもう二度と目を覚まさない。突きつけられた事実に、ハルメリオは静かに目を伏せる。
――そして。
「いや待った、ハルメリオ、今君何した?」
シスルの食いつくような勢いのある一言で、ぎょっと顔を上げることになった。
「いや、分かってる。無意味なことは。ただ、メリーの心臓が空洞なのが耐えられなかったんだ。何か冒涜的なことだったか? すまない、謝罪する」
「アンドロイドに冒涜も何もないっていうのは君が一番知ってるんじゃないかな! そんなのあったらとっくにアンドロイドが軽視される時代は終わってるよね! そうじゃなくて、君、もしかして今、魔法石填めた? 持ってたの?」
「あ、ああ……以前メリーに髪留めをやったんだ。その飾りに使われていた魔法石をとって、填めた」
「サイズ合ったの?」
「ああ」
シスルはそれを聞くなり、やけに真剣な顔をした。直後、血を流し過ぎた身体で地面を這ってハルメリオの元までやってくる。地面に血をなすりつけるような行為にぎょっとしている間に、シスルは真っ直ぐにメリーのボディをチェックし始めた。その横顔は、ハルメリオも何度か見たことがある。これは、仕事を熟すときの表情だ。
「ハルメリオ、今魔力残量どのくらい?」
「メリーが心臓を砕いたからな。魔法石の性質上、ある程度回復している。……だが、今更魔法が使えるようになっても、肝心のメリーは、もう」
「動く。これなら動くよ、ハルメリオ」
「……何?」
「魔法石はある。メモリーは心臓と連動してないし、壊れたのはプログラムだけ。ボディは無傷とは言えないけど、ちゃんと調律し直せば修復できる範囲内。再設定さえすれば起動できる。メリー造ったの俺なんだから、プログラムくらい余裕だよ」
「お前、道具もないのに、どうやって」
「やるのは俺じゃない。君だ、ハルメリオ」
シスルの瞳に、強い意思が宿っていた。決して冗談を言っているようには見えない態度に、ハルメリオは瞬きを繰り返す。
「分かる? まず、俺がやったみたいに、魔法をメリーの身体に宿す。魔法石に魔力が根付いたってことは、そこに連結するプログラムにも作用できるってことだ。君の魔法でメリーをプログラムし直すんだよ。指示は俺が出すから」
「待ってくれ、俺はそんなことしたことがないぞ! 俺がやるよりもお前がやった方が」
「突然頭悪くならないでよ! 俺がお咎め無しだと思ってんの? 俺は確実に今回の犯人として牢獄に行く。そんな俺の魔力で動き続けるアンドロイドなんて、誰が残したがるのさ。言っておくけど、俺が改心したなんてこと信じるの、真っ直ぐで馬鹿な君くらいだから!」
「しかし」
「メリーがこのまま死ぬ方がいい? それとも、俺の魔力で動くようになって、その先で上層部の指示でスクラップにされる方がいい?」
「どちらもお断りだ! 俺はメリーに生きてほしいという話を」
「だったら君がやるしかないんだよ! それとも何、俺の指示が信じられない? それならそれでいいけどね!」
シスルはそこまで言い切ると、「どうするの」とハルメリオを睨み付けた。やるしかないんだよ、と何度も繰り返すシスルと、眠ったままのメリー。二人を交互に見つめて、ハルメリオは静かに息を吐く。
やるしかない。そう確信した後は、早かった。
「どうすればいい。教えてくれ」
ハルメリオが静かに呟くのを聞いて、シスルは漸くその口角を上げた。その不敵な表情は、不思議と安心感がある。
シスルは、静かにハルメリオの手を掴んだ。その手はそのまま、先ほどメリーに填めたばかりの新しい心臓、魔法石に触れるように動かされる。指先のつるりとした硬い感触に、ハルメリオの緊張感はますます高まった。
「魔法で文字を刻む感覚。魔法石砕かないように注意してよね。俺の指示通り、一言一句間違えないで言葉と数字を刻むんだ」
「分かった」
「集中してよ? この調律が、俺の最後の調律になるかもしれない。……まさか君は、友達の顔に泥塗るような失敗しないよね?」
挑発的な言葉を間近で投げかけられ、ハルメリオは静かに黙り込む。間近で見るシスルの瞳は、僅かに左右に揺れていた。強気な言葉に隠された不安は、何処から来ているのだろう。
彼も、難しい調律を行うことへの恐怖を覚えているのだろうか。それとも、単純に、あの件の後でハルメリオを友と呼ぶことに躊躇いがあるのだろうか。
どちらでも良かった。ハルメリオは静かに頷いて、静かに指先に魔力を集中させる。
「当然だ。成功させるぞ、シスル。俺はこう見えて、友人を大切にする質なんだ。無論、使用人もな」
「……あ、そ。じゃ、行くよ」
力強いハルメリオの言葉に、シスルは素っ気ない返事をした。しかし、その表情が僅かに柔らかい。
シスルの冷静な指示が次々と飛ぶ。ハルメリオには全く理解できない小難しい文字の羅列は、メリーを動かすための、いわば血液である。
ハルメリオは、それを一文字一文字、丁寧にメリーの心臓に流し込んだ。魔法石がハルメリオの魔力を吸い上げ、同時に、光で形成されるプログラムが刻まれていく。
ハルメリオの光は、メリーの命を繋ぐための命綱だ。
シスルの唇がふと言葉を紡ぐことを止めた。もうどれだけ長い文字列を言い切ったかは分からない。つらつらと文字列を並べていたシスルの声が、後半掠れていたことが微かに記憶に残っている。小さく息を吐いたシスルは、メリーの経過を見守っている。それは、明らかに、メリーを心配している表情だった。
「シスル」
「何」
「お前はどうして俺を助けてくれたんだ?」
「……はあ?」
「メリーは俺を殺すためのアンドロイドだったんだろう。今更復活させても、お前にメリットはない」
どうしてだ、と重ねて問いかければ、シスルは心底うんざりとした顔をした。シスルの手がハルメリオから離れる。その手はひらひらとハルメリオを追い払うような仕草をして、鬱陶しいと言わんばかりに目の前のあどけない顔が歪んだ。
「言わないと分かんないの? やっぱ頭悪いよハルメリオ」
「悪いな」
「友達とか言い出したの君じゃん。ほんっとに面倒くさい男」
苛々する、と刺々しい声がハルメリオの鼓膜を指す。そんな態度とは裏腹に、シスルはしっかりとメリーの様子を確認している。今まで積み重ねてきた恨みはそう簡単に覆せるものではない。けれど、シスルは確かにハルメリオのことを友人と呼んでくれた。それが、ハルメリオにとっては何より価値のあるものに思える。
「……それに、俺、アンドロイド好きだし。アンドロイドに救われたのは本当だよ」
「……そうか。有難う」
「何で君が言うの、腹立つ」
「助かった。お前がいなかったら俺は何もできなかっただろう」
「そういうところだよもう!」
不機嫌そうな顔をしたシスルは、照れ隠しのように強い言葉を投げかける。いつも無邪気な笑顔を絶やさず上機嫌の仮面を被っていた彼とは、また少し違う姿だった。恐らくは、これが本当の彼の姿なのだろう。友人の本当の人格に触れて、ハルメリオは僅かに微笑む。
「メリー。……聞こえるか、メリー」
そのまま、なるべく穏やかな声で、眠ったままのメリーに声を掛けた。心臓に触れた手は動かさないまま、ハルメリオは静かに魔力を注ぎ続ける。メリーの心臓はハルメリオの魔力を受けて、静謐な青い光を放っていた。
「俺のアンドロイドが最初に言っていたな。俺にはお前が必要だ、と。別に俺がそう言うように指示をした訳ではないんだがな。……驚いた。本当にその通りだ、メリー」
「…………」
「俺にはお前が必要だ。お前が俺の名前で自己を確立するのと同じくらい、俺はお前に大切なものを貰った。お前と出会ったことで、俺の色んなことが変わった」
「…………」
「兄上の言葉の真意が分かるようになった。俺の本当にするべきことが分かるようになった。友人の本当の顔が分かるようになった。お前と出会わなければ成し得なかった」
「…………」
「メリー。起きてくれ、メリー。また一緒に話をしよう。今度は俺も、少しは素直な言葉を投げられる気がする。お前が否定されたとき、今度は俺がお前の分まで怒ろう。お前にとっての脅威は俺が退ける。プレゼントもいくらでもくれてやる。その度に素直な感想だって言う。……メリー、起きてくれ。頼む」
懇願の言葉は、ぽつぽつと続いた。ハルメリオらしからぬ弱弱しい言葉は確かに空気を振動させたが、メリーは瞼を上げない。
ぴくりとも動かない身体は、冷たいまま。彼女を覗き込んでいたハルメリオの視界が僅かに歪んだ。目の奥が痛い。魔力不足の初期症状だろうか。そのまま、不思議と何かが瞳から零れ落ちそうになる感覚に、ハルメリオは静かに俯く。
ぽたりと落ちた涙が、メリーの心臓に落ちる。刹那、ハルメリオの鼓膜を、アンドロイドの稼働音が揺らした。
「――メモリーに、しっかりと記憶しました。ハルメリオ様、今のお言葉、お忘れなく」
少女の声がした。桜桃の唇が僅かに動くのを見て、ハルメリオは目を見開く。
ノイズ混じりのその声は、それまでで一番美しい声に聞こえた。
ゆっくりと、閉ざされたままだった瞼が開く。そこに隠れていた硝子製の薄紫の瞳は、真っ直ぐにハルメリオを見つめた。その瞳は、ハルメリオの光魔法を浴びて一際輝いている。
「メリー……」
「はい、メリーです。メリーというのは、貴方がくださった、『素敵なお名前』です。……私だけの、大切な宝物です」
メリーはそう言って、微かに表情を緩める。僅かに持ちあがった口角は穏やかな笑みを描き、少女は一際幸せそうな顔をしてみせた。彼女はそのまま、ゆっくりと上半身を起こす。立ち上がることは敵わないようだ。彼女は座り込んだまま、頭を下げて簡易的な礼をする。
「私の主は、アンドロイド取締第一部隊、副隊長の、ハルメリオ・ブライトネス様です。お間違え、ありませんね?」
「……ああ、何も間違ってない」
「名前も、洋服も、リボンも、心臓も。これらは、貴方がくださった『私』です。似合って、いますか?」
メリーは一言一言、確かめるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。ノイズ混じりの声がクリアに聞こえる。透き通った鈴の音のような声に、ハルメリオは堪らない気持ちになって、静かに笑った。
不思議な衝動だった。その衝動が疼くままに、ハルメリオはメリーの背中に手を回す。彼女は思うよりずっと簡単に腕の中に納まった。華奢な少女の身体は、驚いたように肩を跳ねさせた。腕の中でメリーが動くと、彼女が死ななかったという事実が鮮明に伝わってくる。それを確かめるように、ハルメリオは只管にメリーを抱き寄せていた。
「お前以上にその名前が似合うアンドロイドはいないな」
「……はい」
「洋服も、似合っている。帰ったらすぐに新しいものと取り換えよう。今度はちゃんと褒めてやる」
「はい」
「リボンは、お前に似合うと思って渡した。想像以上に似合っていた。このリボンが世の中に出回ったのは、恐らくお前のためだと思う。本当に似合う。驚いた」
「そうかもしれません。このリボンが無ければ、私の心臓は二度と動かなかったでしょうから」
「ああ、本当に。……本当に、お前に良く似合っている」
率直なハルメリオの言葉に、メリーは機嫌の良さそうな声を出した。自分らしからぬ返答である自覚はある。それが気にならない程に、ハルメリオは彼女の目が覚めたことが嬉しかったのだ。
程なくして、ハルメリオの背中にメリーの手が回された。力が入らないのか、力加減に気を遣っているのか、殆ど力が入っていない。それでも抱きしめ返してくる腕があることに心底安心して、ハルメリオは静かに息を吐く。涙がそれ以上零れないようにするのは、至難の業であった。
そんな光景を見て、シスルは呆れたように笑う。それから、くつくつと悪戯っぽい笑い声を零して、わざとらしい揶揄いの言葉を紡いでみせた。
「ハルメリオ?」
「何だ、シスル」
「ハルメリオアンドロイドの挙動について、『俺はあんなこと言わない』とか言いつつ、それ以上にすごいこと言ったけど、その辺りどう考えてる?」
「……そうだな……」
ハルメリオは静かに俯く。首に触れたメリーの髪がくすぐったい。或いは、その感覚は、横から友人に投げかけられる揶揄うような視線のせいかもしれない。
数秒の沈黙の後、ハルメリオは遠慮がちにシスルに視線を向ける。そこにいる友人は、今まで見たことが無いほど、晴れやかな笑顔を浮かべていた。
「……流石は俺の友だ。俺のことを、俺以上に理解していたんだな。シスル」
「そうみたい」
「敵わない、本当に」
「それはこっちの台詞だよ。ばぁか」
小馬鹿にするような笑顔を浮かべて、シスルはそう言った。それが、最後の会話になるかもしれない。それを予感しつつ、ハルメリオは静かに眉尻を下げる。
ハルメリオの剣は、確かに憎悪を断ち切った。今後、例えシスルと会えなくなったとしても、その確かな感覚を忘れることはないだろう。
それは、ハルメリオの新たな信念を決める、重要な記憶の一つだった。
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