5章

第28話 新月の夜、路地裏で

 今宵は新月。何処か物足りない夜空の下、ハルメリオは黒いマントを靡かせて歩いていた。

 取締部隊の本部から、ブライトネス家の屋敷までの家路である。普段人通りが多いはずのこの道も、深夜という時間帯のせいで酷く閑散としていた。

 冷え込んだ空気が肌の表面を撫でる。闇の中に浮かび上がるようにして、街灯が煉瓦造りの道を照らしだす。

今頃、屋敷では使用人達が戸締りなどをチェックしていることだろう。体内時計でそれを計ったハルメリオは、静かに周囲に視線を向けた。

 人影は見当たらない。静寂に支配された道が、何処か緊張感を煽る空気を漂わせている。

 視界の隅で、何かが光った。街灯の真下で光を反射した液体に、ハルメリオは視線を向ける。


「……血」


 まだ乾いていない新鮮な血が、大量に地面に付着していた。少し指を切った、程度では、この出血量にはならないだろう。第一、周囲に負傷をするような建築物及び不審物は見当たらない。何者かが意図して誰かを襲った、と考えるのが、一般的である。

 その血は、街灯の下から点々と道を作っていた。負傷者は、この場から血を流しながら移動したらしい。襲われた誰かから逃亡を図ったのか、それとも、何か別の理由があるのか。

 その血痕は、屋敷へと続く大通りから逸れて、少し細い路地へと続いている。

 暗黒が手招く路地裏の向こうから、突然不審な物音がたった。ハルメリオの聴覚を刺激するその音は、アンドロイドの作動音である。しかし、それだけではない。

 何か、非常に硬い物質を打ち付け合っているような音が響く。数秒前まで満ちていた静寂は、その轟音によって簡単に打ち破られた。

 ハルメリオは、地面の血痕と轟音に導かれるようにして、その路地へと踏み込んだ。自分の足音が異様に大きく聞こえた。

 歩を進めれば進めるほど、不審な音は強くなった。まるで何かを破壊しようとしているかのような意思を感じる。

 細い路地を抜けても、血痕は途絶えることはない。その割に、倒れている人物や悲鳴は存在せず、轟音だけが鳴り響く。気が付けば、ハルメリオはウォルラインで最も人通りが少ない路地裏まで移動していた。血痕は、漸くそこで途絶えた。依然として、負傷者どころか人影は見当たらない。轟音は、随分と近い位置にまで迫っていた。


「誰か、いるのか」


 警戒を滲ませた声がその場に響く。ハルメリオの声に反応したかのように、絶え間なく鳴っていた不審な音はピタリと止んだ。

 代わりに、先ほどまでの音とは決して似つかない繊細な音――否、声が、ハルメリオの元へと届いた。


「ハルメリオ様?」


 細やかな驚愕の声がする。大通りに比べて、この場所は街灯の数が少ない。月明かりもない今夜は、最低限の視界しか確保することができない。しかし、その声の主を特定するには、その最低限の視界で十分だった。

 暗闇の中、その人物は、地面に蹲っている。浮かび上がるように見える真白い肌。薄紫色の長い髪は、黒いリボンで一つに纏められている。その美麗な顔立ちは、声から悟れる驚愕の表情を浮かべ――やがて、絶望したように歪められた。

 アンドロイドとは思えぬ豊かな表情であった。ハルメリオは顔色一つ代えぬまま、彼女の名前を呼ぶ。


「……メリー」

「なんで、なんで貴方が、ここに!」


 声の主、メリーは、狼狽えたように声を上げた。鈴の音のような澄んだ声は、明らかな動揺を物語っている。

 ここ一週間、彼女はどんな生活をしていたのだろう。彼女が身に纏っていた使用人服は、乾いた血や砂埃に塗れている上、所々が破けて見るも無残な状態になっていた。

 彼女は、まるで激情した人間のように己の手を地面に叩き付けた。その瞬間、深夜には似合わない轟音が辺りに響き渡る。先ほどの異音の正体は、これだ。


「そんなに強くぶつけると、手が故障するぞ」


 ハルメリオは、極めて冷静に呟く。そして、メリーとの距離を一歩詰めた。その瞬間、稲妻のように鋭い声がメリーから飛ぶ。


「来ないでください!」

「メリー、俺はお前に言いたいことがある」

「来ないで、お願いします、やめてください!」

「メリー」

「私は、貴方まで殺したくないんです!」


 鬼気迫る叫び声は、悲痛な色を帯びている。今にも泣きだしそうなほど顔を歪めたメリーを、ハルメリオは静かに見下ろした。そして、そんな声を無視して、歩みを進める。

 ハルメリオが近づけば近づくほど、メリーが手を地面に叩き付ける行為は激しくなった。まるで己の身体の破損を望んでいるかのような、不自然な動作である。

 ハルメリオとメリーの距離は、あと三歩というところまで縮まった。その瞬間、メリーの身体は突然その不審な動きを止める。嫌だ、嫌だ、と子供のように叫び散らす態度とは裏腹に、メリーの体は緩慢な動作でその場に立ち上がった。そうして、ぎこちない動きでハルメリオと向かい合う。


「やめ、て、やめ……お願い、です、から、もう……」


 地面に打ち付けていた手は、表面に罅が入り、僅かに欠けている。そこから露出したケーブルや回路を見つめたハルメリオは、小さく息を吐いた。

 メリーは、そんな顔を見たくはない様だった。瞼を瞑った彼女は、首をぎこちなく横に振る。まるで何かに力強く逆らっているかのような様子のまま、メリーは小さく呟いた。


「こわし、て、お願い、しま、す」

「…………」

「これ以上は……き、らわれたく、ない」


 メリーは懇願しながら、ガタガタとボディを震わせた。ハルメリオに伸びそうになる腕を抑え込むように、メリーは身体を縮込める。

 ハルメリオは、己の腰に携えた剣を、ゆっくりと引き抜く。

 彼女の願望を叶えるのは簡単なことだ。彼女の胸部中央にある心臓――魔法石を、この剣で貫いてしまえばいい。そうすれば彼女の機能はすぐに停止する。

 ハルメリオは、今まで幾多のアンドロイドを破壊してきた。メリーを破壊することは、今更何も難しいことではないはずだ。

 しかし、ハルメリオは、彼女の懇願を裏切ってその剣を自分の後ろに投げ捨てる。路地裏に反響した落下音を聞いて、メリーは驚いたように目を見開いた。


「メリー、すまない」


 謝罪の言葉。それと共に、ハルメリオの両腕がメリーの背中に回る。

 少女を模したアンドロイドのボディは、非常に華奢だ。突然の抱擁に驚いたらしいメリーは、その肩を大きく跳ねさせる。それから、大きく首を横に振った。


「離して、くださ」

「お前を傷つけるようなことを言った」

「ハルメリオ様、そんなことより、離して……」

「俺にはお前が必要だ」


 メリーの細腕が、抵抗を示すように胸板を押す。しかし、ハルメリオの体はびくともしない。次々と言葉を紡ぐハルメリオの顔を見て、メリーは瞬きを繰り返した。その顔に浮かんだ困惑に、ハルメリオはゆっくりと微笑んだ。


「誰がお前を嫌うものか。俺にはお前が必要だ。すまない。今までの言葉を全て取り消す」

「……ハルメリオ、様……?」


 ハルメリオの言葉が続けば続くほど、メリーの表情は困惑を深めていった。彼女の瞬きの数が多くなる。それを見据えながら、ハルメリオはあくまで自分の言うべき言葉を継ぎ続けた。


「俺は、お前を」


 しかし、その言葉は最後まで続かない。


「馬鹿な男だなぁ」


 誰かの声が路地に落ちる。それと同時に、ハルメリオの足元に落ちていた影が蠢き、突如として形を変えた。質量を増し、まるで生き物のように蠢いたそれは、ハルメリオとメリーを素早く包み込む。視界は暗黒に包まれ、光は完璧に遮断された。

 夜よりも深い闇の中に閉ざされ、ハルメリオは瞬きをした。そんな姿を嘲笑するかのように、闇の向こう側から、誰かの声が響く。


「こんな遅くまでご苦労様。そんなにメリーに謝りたかった? それとも『友達』でも探してたのかな?」

「……闇の魔法。お前だな、今回の黒幕は」

「そうだけど。そんなの、わざわざ聞く必要あるかなぁ」


 クスクス、という笑い声が響く。どうにも、相手はこの状況が楽しくて仕方がないらしい。その声は、歌うような調子のまま言葉を続けた。


「光源がなければ魔法を使えない。武器も自分で投げ捨てた。君はメリーを倒せない。哀れだなぁ、馬鹿すぎて」

「俺はメリーを傷つけない。故に魔法も武器も不必要だ」

「あ、そう。あれだけ憎んで恨んで、挙句の果てに殺害予告までしてたアンドロイドにその手の平返しは面白いね。……これ皮肉って伝わるかな、大丈夫?」

「十分伝わっている。俺がメリーを傷つけない理由は簡単だ。兄上を刺したのはメリーの本意ではないと感じたからだ。コイツには元々攻撃プログラムは備わっていなかった。メリーは最初から嘘なんか吐いていない。あの日、お前がメリーにそうするように仕組んだんだ。……そうだろ、シスル」


 ハルメリオの低い声に、その声の主はカラカラと笑い声を零す。

 闇は路地の真ん中で球体を創り出している。それを見つめながら笑う人物――シスルは、ハルメリオの言葉に、ゆっくりと口角を上げた。

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