第27話 夕空の光

 久しぶりに、意図せず笑いが零れた。口角を不敵に上げたハルメリオに、リリィが潤んだ瞳を瞬かせる。その不思議そうな視線を向けられながら、ハルメリオは、迅速にレイの布団を剥ぎ取る。

 そのまま、衣服越しにレイの心臓に触れた。

 ハルメリオの手の平に、全神経が集中する。まだ周囲は明るい。それが、ハルメリオの最大の武器になる。

全身の魔力が一点に集まった。それに伴い、収束した魔力が一気に眩い光を放ち始める。


「ひゃっ」

 リリィが眩しそうに目を閉じた。それでも頑なにレイの手を離さない彼女を横目に、ハルメリオはさらに魔力を上乗せする。

 自分の魔法は自分を傷つけない。この光の中でも、ハルメリオの視界は不思議と保たれている。

 だからその光景も、しっかりと見えた。

 眩い光の中で、それまで固く閉ざされていたレイの瞼が、ゆっくりと持ち上がる。

 母を想わせるようなその美しい瞳が、ハルメリオの光を浴びて、美しく煌めいた。その瞳は、光の中でハルメリオを見つけた途端に細くなった。


「……おはよう」


 光の中で、目覚めたレイは微笑む。寝坊したことを恥じるように、また、起きた瞬間に誰かがいることの安心感を告げるように、穏やかな挨拶が零された。

 その優しい声は、ハルメリオの鼓膜を撫でた。その瞬間に込み上げそうになった涙を押しとどめ、ハルメリオも同じように笑ってみせる。


「おはよう、兄上。珍しく寝坊したな」

「ごめんね」


 簡単な謝罪を聞いて、ハルメリオは静かに魔法を収めた。部屋中を満たしていた光が、ゆっくりと消えていく。その中で、レイは周囲を簡単に見渡す。彼は直ぐに自分の手を握ったまま目を瞑っている少女を見つけ、可笑しそうに笑った。


「リリィ、おはよう」

「……え、あ……」

「目を開けてごらん。もう平気だから」


 レイの優しい言葉に促され、リリィはそっと目を開く。そして、そのまま丸くなった瞳からは、反射のように涙が零れ落ちた。


「れ、レイ様」

「おはよう。その様子じゃ大分心配させたみたいだね、ごめん。ハルメリオみたいな心配は絶対にかけまいと思ってたんだけど」

「レイ様、私、私、もうレイ様が死んじゃうかと。どうして、なんで、今……」

「もう大丈夫。僕の自慢の弟が助けてくれたから」


 レイの冗談っぽい言葉に、リリィは笑う余裕がないようだ。次々と大粒の涙を零して泣き始める彼女に、レイは柔らかく微笑みかける。最後に、「ね、ハルメリオ」なんて同意を求める兄の姿は、目覚める以前と変わらない。

 まるで眠っていた期間なのないかのような振る舞いに、ハルメリオは心底安心した。

 闇の魔法は、浴びた者をゆっくりと衰弱させていく効果があるらしい。しかし、レイの光魔法は、その効果を半減していたのだ。闇と光。相容れない二つの関係を考えれば、納得もいく。この二つの魔力が、レイの体内でずっと闘っていたのである。魔力不足になっていたのはそのせいだ。

 この一週間、ハルメリオは兄がいつ死んでしまうか分からないという恐怖に苛まれていた。それが、ついに解放されたのである。


「兄上、本当に、死ぬかと」

「僕はお前が腹に穴を開けたときにその気持ちを味わったよ」

「俺が心配を強いられた期間の方が長い。弟の愚痴くらい聞いてくれ、不安で不安で仕方がなかったんだぞ」

「ごめんって。聞くよ、一日でも二日でも三日でも。お前の気が済むまで」

「悪いがこれは一生気が済まない」

「じゃあ一生聞かせてもらうことにする。でも、今は他に話したいことあるんじゃない?」

「兄上は気が長い上に寛容で聡明で優しすぎるから話し甲斐がない」

「はいはい、有難う。……リリィ、泣いてるとこごめんね。寝起きだから少し喉乾いたみたい。水持ってきてくれるかな」


 ハルメリオの拗ねた口調も、レイは慣れたように宥める。そのまま、レイの心の内を悟らせないような穏やかな笑みが、リリィに向けられた。普段の彼であれば、誰であろうと泣いている使用人に何かを頼むだなんてことはしない。しかし、今回は、それをしなければならない理由があった。


「い、今すぐに!」

「ゆっくりでいいよ。零すといけないからね」


 リリィは乱雑に涙を拭いとると、すぐに部屋の扉まで駆けていった。扉から飛び出した直後、廊下で激しく転倒したような音が聞こえたのは気のせいではないだろう。直ぐに遠のいていく少女の足音を聞きながら、ハルメリオとレイは、どちらともなく視線を合わせた。

 既にレイの顔は、兄でも主でもなく、第一部隊隊長としての表情を浮かべていた。


「状況は?」

「兄上が目覚めるまで一週間。あの後メリーは闇魔法で転移され、その後の目撃情報はない。今日はシスルが医務室から浚われた、というリベアルの報告を受けている。現場には血痕が残っていた。また、医務室にいた四人が兄上と同じ魔法を浴びて、現在本部の医務室で治療中。兄上と違って光魔法を持たない彼等は症状の悪化が速いらしい。話に出てきた魔法は何れも同種類、共通して同じ犯人だと思われる」


 その後、ハルメリオはここ一週間で起きたこと、聞いた話をレイに報告した。無論、リリィが自分達のことを兄のように思ってくれている、という話から、自分の不祥事やリベアルの推理まで、様々なことを含めている。決して世間話ではなく、それが上司に対する報告に必要だと判断したからだ。

 レイは真剣な表情を崩さないまま、その一通りの話を無言で聞いていた。


「大体こんな感じだ。兄上、何か気になることは?」

「特に。犯人の予測はついてるみたいだし、僕から言うことはないんじゃない? 強いていえば、リベアルさんの推理を聞いて早まらなかったことは褒めたいかなって。リベアルさんはお前に認めてほしくて今更戻れないだろうし。ハルメリオがラトの疑いを晴らすっていうのはいい提案だね、決断できて偉いよ」

「俺をなんだと……」

「僕がいなくなったとき、ハルメリオは冷静さを欠く。僕をこんな目に遭わせた犯人を、一刻も早く捕まえて復讐を果たそうとする。……それがお前の正義だったでしょ、ハルメリオ」


 どこまでも優しい声だった。しかし、その言葉には含みがある。

 ハルメリオは、レイを見つめた。レイは眉尻を下げたまま、微笑んでいる。何処か悲しそうで、物言いたげな顔。ハルメリオは、何度もそんなレイの顔を見ていた。

 ブライトネス家の悪口を言われたとき。仕事で疲労しているとき。ハルメリオや部下が何か失敗を犯したとき――否、そんな場面でも、彼はこんな風には笑わない。

 レイがこんな顔をするのは、決まって、ハルメリオがアンドロイドと対峙しているときであった。


「あの日から、お前はずっとアンドロイドを憎んでいたね」

「……当然だ」

「今でも?」

「当たり前だろう、兄上。やめてくれ。父様と母様を殺した相手だぞ」

「メリーも憎い?」


 ハルメリオが嫌悪を露わに呟けば、レイはそんなことを聞いた。思いがけない名だった。レイがその名前を躊躇いもなく呼ぶことは、予想外だった。

 ぎょっと目を見開くハルメリオを、レイの諭すような視線が刺す。言葉を詰まらせて無言になってしまうハルメリオに、レイはそのまま、言い聞かせるような口調を続けた。


「僕は、僕とお前が生きるためにアンドロイド取締部隊に入隊した。父上と母上の仕事場だったし、知り合いも沢山いたし。他に働かせてくれるところはなかったからね」

「……そうだな」

「でも、他に僕達を迎え入れてくれる場所があったら、僕は迷わずそっちに行ってたよ」

「何故だ、兄上」

「お前にアンドロイドの相手をしてほしくなかったから」


 レイは、やけに明瞭な声でそう答えた。まるで長年積もらせていた想いを吐露するように、レイの静かな言葉は途切れない。


「僕だって、アンドロイドが憎くなかったわけじゃない。当時の僕だって、父上と母上、そして僕達の家を奪われて、平然とはしていられなかった」

「なら、尚更じゃないか。この世のアンドロイドを始末するなら、取締部隊にいた方が」

「でも、アンドロイドを憎むことなんて、無意味だ。ハルメリオ」


 レイの声は、そう呟くことを躊躇わなかった。

 この十年間、ハルメリオはアンドロイドへの憎悪を蓄積していた。自分の両親を殺した相手が憎くて、憎くて、憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて、堪らない。アンドロイドによって不幸になった人々も、仕事で沢山見てきた。そのアンドロイドを始末することは、明らかに正義だった。

 しかし、兄の目にはそうは映っていなかったらしい。

 レイは簡単に、ハルメリオの十年を無駄だと一蹴してみせる。


「……何を言ってるんだ。父上と母上を殺した相手が憎くないのか」

「逆に聞くけど、憎んだら二人は戻ってくるの?」

「それとこれとは別だ。戻ってこなくても憎い。親を殺されたんだ、当然だろう」

「その憎しみを消化するために誰かを殺して、今度は僕達が誰かに恨まれる。そして僕達は殺され、僕達が殺されたことに誰かが激怒して、また人が死ぬ。お前は、それを一生繰り返していくのかな」


 責めるような口調だった。……否、そう聞こえるのは、レイの顔がゆっくりと微笑むのを止めているからだろう。少しずつ笑みの気配を消していく兄は、ハルメリオが狼狽える様子を見つめている。


「僕達は神様じゃないんだよ、ハルメリオ。ただの人間だ」

「……そんなの知ってる」

「魔法が使えたら、僕達は無魔力者よりも偉い? 僕達は無魔力者を虐げて、踏み台にして、そうして毎日笑っているべき?」

「そんなことはない! 魔法なんか使えなくても、彼等は虐げられるべき存在なんかじゃない!」

「じゃあ、父上と母上を殺した犯人が無魔力者だったら、お前はどうしてた?」


 レイは先ほどから質問ばかりを投げかける。兄の瞳をここまで恐ろしいと思ったことは無かった。

 もしも両親を殺したのが無魔力者であったら。そんな想像をして、ハルメリオはゆっくりと呼吸を吐き出す。

 炎の中に立っているのは人間だ。人間は、その手に持っているナイフで両親の背中を何度も刺す。血飛沫が舞って、自分達の大切なものはすべて炎に吞まれていく。狂気じみた高笑いをした人間と目が合って、突如とした殺意の言葉を向けられる。

――もしもそんな未来が、待っていたのなら。


「お前は無魔力者を皆殺しにして、両親が殺された恨みを果たしていたのかな」

「……そんな想定、無意味だ。あそこにいたのはアンドロイドだろう、兄上。アンドロイドを取り締まって感謝されたことは沢山あるはずだ。俺は何も間違ったことをしていない」

「別に皆、僕達にアンドロイドを壊してほしいわけじゃない。そのアンドロイドが悪さをするから止めてほしいというだけだよ。でも、忘れちゃいけない。アンドロイドに犯罪を指示しているのは、僕達と同じ人間だ。僕達の両親を殺すよう仕向けたのもね」


 レイは、緩慢な動作で上半身を起こす。思わず逃げるように後ずさったハルメリオは、自分の指先が震えていることを自覚した。


「僕はずっと、怖かったよ。この十年、ハルメリオが憎悪と殺意で歪んでしまわないか」

「……兄上……でも、俺は」

「忘れるな、ハルメリオ。僕達がしてるのは、アンドロイド殺しの仕事じゃない」


 レイの言葉が矢となって、ハルメリオの心臓を貫く。そんな幻覚が見えた気がして、ハルメリオはその場でふらついた。

 アンドロイド殺し、という言葉に、どこか聞き覚えがあった。

アンドロイドは生きてなどいないし、隊員がアンドロイドを壊すのは、必要に応じて認められた行為である。

けれど、ハルメリオが抱いていたものは間違いなく憎悪と殺意で、アンドロイド達への行為は、間違いなく、殺害を目的としていた。

 両親の仇をとるために、ハルメリオはこの十年間、毎日アンドロイドを殺していたのだ。

 それはきっと、レイの目には、負の感情で歪み始めていた弟の姿に見えていたはずだ。


「僕はメリーが来てくれて嬉しかった。本当に嬉しかった。十年間、僕の声が届かなかった弟が少しずつ変わって、殺意や憎悪じゃない感情を見せてくれた。怒ったり呆れたり、嬉しそうに笑ったり、誇らしそうにしたり。僕の弟が、この世でたった一人の家族が、ようやくそんな顔を見せてくれた」


 気が付くと、レイの瞳は少し潤んでいるように見えた。決して涙を流さないまま、レイは再び微笑を浮かべる。母に似た優しい表情を見て、ハルメリオは漸く気付く。

 レイはこの十年、ずっと、今にも死んでしまいそうな自分の弟の姿を見ていたのだと。彼が望むことは、両親の仇をとることや、アンドロイドを大量に破壊することではなく、ただ一人の弟が――ハルメリオが、何にも囚われずに笑うことであったのだと。

 彼はまた、昔のように二人で笑い合いたかったのだと、今更になって気が付いた。


「ねえ、ハルメリオ。お前はメリーのことが憎い?」

「…………」

「僕はね、彼女のことが好きだよ。リリィも、他の使用人も。……お前はどう思う?」


 兄の問いかけに、ハルメリオはそれ以上言葉を返すことができなかった。数分にも数時間にも感じられる沈黙の中で、ハルメリオはメリーの姿を思い出す。

 レイの視線に射られ、それに押し出されるようにして、ハルメリオは静かに踵を返す。丁度水を持って帰ってきたリリィとすれ違う形で、ハルメリオはレイの部屋から出ようとした。


「は、ハルメリオ様? どちらに向かわれるのですか?」

「まだ仕事があるんだ。本部に兄上と同じ症状を訴えてる患者がいるんでな。それの見舞いと、それから、リベアル殿に借りるものができた。リリィ、兄上のことを頼んだぞ」


 リリィの困惑した問いに、ハルメリオは淀みのない返答をした。曖昧に頷いたリリィは、その細腕に抱えたティーカップと水差しを落とさないようにしながら、器用に見送りのお辞儀をしてみせた。彼女のぎこちないお辞儀は、今にも水を零しそうで危なっかしい。

 一瞬振り向くと、兄がベッドの上で微笑んでいるのが見えた。ハルメリオがどんな決断を下したのか、彼は聞かずとも分かるらしい。行ってらっしゃい、と見送られ、ハルメリオは頷く。

 脳裏には、黒いリボンで髪をくくった彼女が、兄のように微笑んでいる姿が浮かんでいた。

 ハルメリオがいなくなった部屋で、リリィとレイが目を見合わせる。リリィに差し出されるまま水を受け取って、レイは静かに呟いた。


「よかった」

「え?」

「ずっと言いたかったことが言えて」

「……どうかなさったんですか?」

「ううん、なんでも。ハルメリオが帰ってきたら、お説教されちゃうな。リリィや使用人達に心配かけるなって」

「そ、そんな、滅相もございません! 私はただ、本当に、お二人が無事でいてくださればそれでいいんです!」


 委縮するリリィを横目に、レイはゆっくりと口端を持ち上げる。ティーカップに並々と注がれた水に、丁度赤くなり始めた夕空が映りこんでいた。


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