第9話 シチュー
夕飯である。監視をするハルメリオを左、補佐をするリリィを右に置いたメリーは、ぎこちなく二人分のシチューを作り上げた。一週間のチャレンジの内、初めてまともに形となった料理だった。
「おお……焦げてない……」
上層部の打ち合わせから帰宅したレイが、小声で感動したように呟く。母譲りの彼の碧眼は、大広間のテーブルの上に並べられた料理を食い入るように凝視していた。
まともに皿を洗えないメリーは、当然のように料理も上手く作ることができなかった。料理を作りたいという提案をしだした彼女に、ハルメリオは最初、毒を盛るつもりかと疑いをかけたのだが、それ以前の問題であった。
記念すべき初料理は黒炭。全てが黒焦げになった、見事な漆黒。その次はちょっとまともな黒炭、その次は生肉。様々な失敗を繰り返し、メリーの料理は一週間目で漸く完成品と呼ぶに相応しいものとなった。ちなみに、料理中、彼女が毒を混入する素振りは一切見せなかった。毒に等しい品を食することにはなったが。
その度に聖母を思わせる微笑みを浮かべていたレイも、流石に彼女の腕が壊滅的であることは認識していたらしい。感動したような声がいつまでも絶えない辺りが、完璧超人であるレイもある程度メリーの料理に堪えていたのだという現実を物語る。何を出されても笑顔を保ち続ける兄の姿を見て、ハルメリオは「彼の舌がどうにかなってしまったのではないか」と不安を抱いていた頃合いだったので、酷く安心した。余談だが、レイはメリーの凄惨な家事手伝いを見て表情を崩したことはない。ただし、レイの苦手な野菜をメリーが大量に購入してきた日だけは、その笑顔が引きつっていた。
「兄上見てくれ、黒炭でも生でもない料理だ。メリーの料理が進歩したんだ。見てくれ」
「見てるよ、ハルメリオ。すごいね、素晴らしい進歩だよメリー」
「お褒めいただき光栄です」
席に座るや否や、二人から賞賛の声が上がる。メリーはそれを、微笑みを浮かべて受け取った。レイから学んだ微笑みがいつにも増して柔らかく見えたのは、ハルメリオの気分の問題だろうか。
通常の使用人から提供されるシチューに比べれば、具材がやたらと大きかったり、味が微妙に薄かったりといった感覚はある。しかし、それまでが酷すぎた反動で、このシチューが素晴らしい至高の一品に見えた。これを手伝ったリリィが感涙で瞳を潤ませていた姿は、今でも鮮明に思い出すことができる。
生活補助型のアンドロイドが主人と使用人に手伝われながら料理を完成させるなど前代未聞の出来事である。それも手伝って、ハルメリオにとってはこのシチューは特に思い入れのある一品となっていた。胸の内に多少の誇らしさがあるのは、そのせいである。
「メリーが一人でこれを……いや、誰か手伝ったのかな。誰?」
「リリィと俺だ」
「ハルメリオも?」
「横から少しだけ。手元から目は離さなかったから安心してくれ」
「そこはあんまり心配してない。そう、手伝ったの。ハルメリオが」
意外そうな顔をしたレイは、ハルメリオとメリーの顔を見比べた。料理を食べるのを躊躇していると解釈したのだろう。メリーは静かにレイに視線を向けている。あれは、何故レイは料理を食べないのだろうかと思考している顔だ。
レイはその視線に従うようにスプーンを手に取る。一点の曇りもない銀のスプーンも、メリーが磨き抜いた一本である。
第一部隊の隊長を務めているだけあって、レイは多忙だ。上層部に呼び出されれば問答無用で向かわねばならないし、他の部隊の隊長とも交流を行わなければならない。重要な情報も飛び交うために、基本的にレイの傍にメリーを置いておくわけにはいかないのだ。結果として、ハルメリオとメリーはこの一週間、ほとんどの時間を共にすることとなった。まだ理解できないことは多々あるものの、彼女がしてきたことと残した功績、失敗は把握している。
だからこそ、報告することは数多あるのだ。ハルメリオは、レイに明るく声を掛けた。
「兄上、そのスプーンをよく見てくれ」
「……少し曲がってるね?」
「メリーが初めて綺麗に磨けたスプーンだ」
「折らなかったんだね」
「折らなかった」
適切な力加減を覚えてきた、ということだろう。レイが持っているものよりも僅かに曲がっているスプーンを手に持ちながら、ハルメリオは満足げに頷く。尚、勘違いしてはいけないが、これだけ成長しても彼女は生活補助型のアンドロイドとしてのスタートラインには未だ立てていない。
シチューを掬って食べ始めるハルメリオを、レイは暫し無言で見つめていた。冷めるぞ、と言葉を掛ければ、レイは小さく笑顔を零した。
「何だか、仲良くなった? メリーと」
予想していない言葉に、ハルメリオのスプーンからシチューが零れる。折角掬ったシチューが器に戻るのも気にしないまま、ハルメリオはレイの顔を見つめた。何を言っているのだ、という顔を分かりやすくしていたのかもしれない。レイは優しく微笑みを浮かべ、言葉を継ぐ。
「僕にメリーの色んなことを報告してくるから。スプーンも料理も、お前の成功ではないのに、自分のことのように喜んでいるように見える。いいことだよ、ハルメリオ」
「……いや、違うぞ兄上。スプーンも料理も駄目にならなくて得をするのは俺だし、成功に導いたという点では俺の成功だ。喜ぶのは自然な流れだ」
「少し前のお前だったら、きっとメリーに手は貸さなかったよ。成功にも、きっと言及はしなかった。失敗は口に出していたかもしれないけれど」
何かを見透かしたような眼差しを受けて、ハルメリオは一瞬言葉を詰まらせる。その通りだった。メリーと出会った初日のハルメリオは、彼女がどれだけ失敗を重ねても手を貸すことはなかったのだ。無論、あそこでメリーが家事を成功させていても、レイに報告することはなかっただろう。アンドロイドは、成功させることが当然だからである。
メリーが失敗を繰り返す不完全なアンドロイドだからこそ、成功が特別なものに思えてしまう。兄にそれを看破され、ハルメリオは絶妙に顔を顰めた。
「……現場にいなかった兄上に、報告をしただけだ」
「そういうことにしてもいいよ。うん、美味しい。メリー、君は学習が早いね」
「お褒めいただき光栄です。おかわりもあります」
「有難う。あとで頂くよ」
人の心情をかき乱すだけかき乱しておいて、レイは平然と食事を開始する。上品な食事風景を横目に、不服な気持ちを抱いたままのハルメリオは、静かにシチューで満たされた器を見つめ続ける。
味が薄くて、具がやたらと大きいシチュー。それを一瞬でも誇らしく思いながら兄に報告した事実に気が付いて、ハルメリオは言葉を失った。
「ハルメリオ様?」
冷めますよ、と声を掛けるメリーは、僅かに小首を傾げてハルメリオの様子を窺い続ける。その硝子製の瞳を見つめれば、いつものようにあの日の記憶が蘇る。揺らめく炎と向けられた殺意を思い出して、ハルメリオは背筋を伸ばした。
忘れてはならない。アンドロイドは両親と屋敷を奪った存在である。他と多少違うだけで、メリーも例外なくアンドロイドだ。今まで憎んできた存在と、何ら変わりはない。
気を引き締めなければならない。嚥下したシチューのぼやけた味を噛みしめながら、ハルメリオはスプーンを握りしめる。アンドロイドが作った料理を、どうしても美味しいと感じてしまう舌が、少しだけ憎らしかった。
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