Episode 8

「あー! 食べた、食べた! ありあり、食欲ない感じだったけど、少しは食べられたみたい?」


 事務所に向けて歩き出す道で、透が背伸びをしながら話す。丸5日何も食べずに寝るばかりの生活をしていたから、有の胃袋は久しぶりの食事に驚いているようだった。有は抑制剤が合わない体質なので、発情期になると何かを口に運ぶことが億劫になることがある。しかし、今回はそれとは違う何かを感じていた。それは有にも計り知れない、きっと有の内面で起こっていることであり、心配させないためにも透には言わないと決め込んでいた。


「うん……食欲がないのは抑制剤を飲んでるから……だと思う、たまにあるんだよ、それに比べると今日は食べられた方かも」


 透は考え込むような表情を見せる。


「ありありが元々、少食なのは何となく見て分かるけどさ、そんなことが続くようだと倒れちゃうよ」


 いつだって透は有のことを考えて話す。そんなところがずっと好きだったし、ずっと申し訳ないと思っていた。自分だって、透の役に立ってあげたいし、透を喜ばせてあげたい。

 だからこそ、まずは自分の体調を治すことが透にとって、そして2人にとって、重要なことなのだと思った。近いうちに医者に診てもらおうと心を決めた。

 事務所に着くと、エレベーターで7階まで上がる。いつも集まる会議室に向かうと、半透明のガラスから人が話しているのが見えた。シルエットを見る限り、もう既に ──


「お! 来たか!」


 こちらを見るや否や腕をガバッと上げる京本さん。その両脇には紀彦と藤嗣が座っている。大きな円形のテーブルに椅子が5つ並んでいる様子はまるで各国の首脳でも集まっているかのようだが、リアライズにとってはもう見慣れた光景だった。


「有はもう体調は大丈夫か?」


「あ、はい。落ち着きました」


 受け答えながらマフラーを取って椅子にかける。リアライズの会議はほとんど、雑談で構成されているようなものだ。それも、取り仕切るべき京本さんのおかげ ── せい、という言葉の方が正しいのだろうが ── である。


「しかしまァ、寒くてしゃあないわ。この時期にこんなんやとライブの頃はどうなっとるかなァ」


「それな! ありありと話してた! 入り時間が早ければ俺たちは歌えるだろうけど、ファンのみんな大丈夫かな?」


「西田にもそんな優しい心があったんだな」


「は? 京本さん酷くね?」


 笑い声が重なる。リアライズは、本当に心地よい居場所だ。有の人生を通して、こんなに身も心も暖かくなれるような場所はリアライズ以外に経験したことがなかった。だからこそ、絶対にこのグループを高みまで連れて行くんだ。僕が、リーダーだ。


「アリーナの開場を物販会場と同時にしましょう。動線が被らないようにすれば、可能なはずです。例えば……物販会場の列を少しだけ外に出して……並べる人数が限られてくるのでその代わりに時間を早めたり……それから……」


「中野ってやっぱり、こっちの仕事も向いてるよな。来る? 宝の持ち腐れだけど」


「京本さんの下に就かせるのはもったいないな」


 藤嗣がそう言うと、紀彦が「それは間違いないわ」と大きな声で笑う。京本さんはこめかみに皺を寄せながら、自分で話を逸らしておいて「お前ら真面目にやれよ」と頭を抱えていた。

 それからというもの、話し合いはスムーズに進んだ。セットリスト ── 歌う曲やその順番を示したもの、略してセトリ ── は既に紀彦と透によって決められていて、それに合わせた演出をみんなで考えた。会議をしている間も自分たちのライブにたくさんのスタッフが全力で関わってくれていることを感じて、胸が熱くなった。


「よし、これでまぁ、粗方は大丈夫だな。お前らも数ヶ月前からレッスンで歌にダンスに明け暮れてるし、俺は何も言うことないよ。……よく頑張ってるな」


 なんだろう、この感じ。幼稚園の時に先生に褒められた時の ── いや、いつの話をしてるんだ、僕は ── 少し白くぼやけた記憶がふわりと舞い込んで、涙が零れた。

 京本さんはいきなり泣き出した有を見て少し仰け反った。それに気付いて紀彦が慌てる。有は咄嗟に押さえ込んだ嗚咽の反動で少し咳き込むと、紀彦が席を立った。


「ちょ、有、どないした」


 真っ先に駆け寄って有の背中を擦る。紀彦は大学時代からよくこうして有を慰めてくれたが、最近はこんなことはなかった。それは単にノリとの接触が少なくなったのではなく、有がこうして情緒不安定に泣き出すことがなくなったという意味だ。


「ごほっ……大丈夫だよ……ごめんノリ」


 透が少し離れた隣でこちらを心配そうに見ているのが分かる。心配して来てくれた紀彦には申し訳ないが、すぐに透が来てくれなかったことが少し寂しかった。どうして見ているだけなんだろう。なんてそんなこと ── 思う方がおかしいのに。


「有はホンマに泣き虫やわァ」


 場の空気を取り持つように笑いながら、紀彦が有の背中をパシンと叩く。しっかりしろ、ということだろう。


「ごめんね」


 そう言って紀彦を見ると、紀彦は少し有の目線より下を見て、何か驚いたような顔を見せた。でも京本さんの「心配させるんじゃねぇよ」という声と共に、何事もなかったかのように笑いながら自席へと戻っていった。何か付いているのかと思ってシャツの襟をさり気なく見てみたが、特におかしいところはない。なんだか、不安だ。

 それから少し、京本さんが話を続けた。


「立派に俳優業をしたり、バラエティ番組に呼ばれたらその場で機転を利かせて話したり……そんなのお前らにできると思ってなかった。リアライズには書き物ができる奴もいれば、アナウンスをする奴もいる。ダンスやらモデルやら多才な奴もだし、それに最高の歌を歌ってくれる奴もな。お前らは支え合って生きてる。それを改めて実感したよ……よくもまぁ、こんなに大きなグループのマネージャーをやらせやがって」


 京本さんの言葉に、みんなが少し笑う。いつもは寡黙な藤嗣だが、「頑張ろうな」と感慨深いような表情を見せた。

 こんなに感動するのは ── 初めてだ。リアライズのみんなと、たくさんの初めてを経験していく。少し怖いと思うこともある。でも ── やっぱりすごく嬉しい。


「頑張りましょう!」


 今度全員で集まるのは、ライブのリハーサルの日だ。その前に、みんなでこうして話し合いができたことを嬉しく思った。



 ── 僕が迷っちゃいけない、僕が悩んでる場合じゃない。メンバーみんなを連れていくつもりで……しっかりしないと!



 京本さんと別れて、メンバーみんなでエレベーターを待った。どこかソワソワしていた透が、まるで思い出したかのように口火を切った。


「そうだった、俺……藤嗣に謝ることがあるんだ。この前の……」


「あぁ、それはもう気にするな。透」


 有から見ても分かるくらい、ずっとそれを言おうとしていたであろう透は、藤嗣の言葉に面食らったように黙ってしまった。


「もう解決したんだろう? な、有」


「う、うん。ごめんね」


「気にするな」


 そこまで聞いて紀彦がブッと吹き出した。


「それでか! お前ら! ようやっとくっついたんか! 透も難儀やなァ……こんなまでせんと所有欲が満たされんか?」


「……へ!?」


 頭が真っ白になった。唐突に発された紀彦の言葉に、ぐるぐると思考が回る。なんで紀彦がそれを知って……?

 慌てて透を見ると、まるで当たり前のような顔をしている。むしろ誇らしげ ── といったところだろうか。


「ど、どういう……なん……え!?」


「ありありが先頭なんて歩くからだよ」


 透はそう言って悪戯に笑った。それから「会議室に俺のマフラー忘れてるよ」と付け足す。ハッとして手で首を抑えると、急に首元に涼しさを感じた。


「そ……! それ先に言ってよ……!」


 自分だけが何も分かっていないような、みんなに笑われているようなこの状況が嫌で、会議室まで駆け出した。



 ── みんな意地悪じゃないか!?

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