御伽噺

穂波

竜と賢者


 深淵の森には賢者が住まうと聞く。


 それは悪魔と契約を交わした魔導師でありながら、エリクシルの石を精製した偉大な錬金術士でさえある。そういった噂話の種として、近隣の町々にあまねく知れ渡る存在であった。


 名もなき彼の姿は語りの中で次第に肥大な脂をたくわえ、彼の捏造ねつぞう的な伝承は、あるときは幼い子供を諭す虚言そらごとに火を吹く邪悪な獣として顕現し、またある時は悪魔崇拝者達の姿なき覆面の教祖として扱われつつあった。空疎な尾ひれを得た彼の姿形は濁流する河川をも遡り、いつしか泉を抜けて滝の上にまで流れ、やがて雨へと転変し、東の海面で漂いながら泳ぎ始める。すべては時の悪戯である。

 

 一つ、奇妙な風聞が人口に膾炙かいしゃし始めたのは黄砂が降る乾燥した時節のことであった。


 賢者は竜を従えている。


 故事に記された先例に漏れず竜は人語を自在に操ることを可能とし、鋭い牙を生やした口先から炎を吐く、恐ろしい怪物であった。長い尾と広い翼を折りたたみ、背の高い書棚を見下ろして、巨体を縮ませながらも、獰猛で血に飢えた瞳を黒々と輝かすそうだ。竜は賢者の言葉を飲み込み、彼が一言命じれば人間を丸呑みさえしてしまうと聞く。


 噂を信じた人々は竜を畏れた。やがて、森に近づく狩人は姿を消し、獣は静かに息を潜め、そして深淵の森に生けるものはなくなった。




 人里から遠く離れた森の奥地で、賢者と竜は無言の日々を貪った。静寂を好む賢者は町の喧騒を憂いて、魔導の研究に没頭した。


 賢者は時折、秘術を用いて魔物を生み出してみせた。


 歪に尖った鼻の蝙蝠。三つの首をかしげる魔犬。美しい歌声を持つ人魚。次々と産まれる奇怪な生き物は、七日ばかり森を彷徨うと泥のように溶解し、たちまち崩れて土に還った。その度に賢者は重い溜息を吐き、書庫に篭って理論の構築に精を出す。

 竜は賢者が創出した生命であった。永遠に近いほどの寿命を持つ稀代の傑作。賢者は竜をただ傍に置き、時に広大な森を徘徊させて遊ばせた。


 ある時、竜は賢者に懇願した。


――主さま、主さま。わたくしに魔法をおしえてください。


 賢者は皺の寄った顔に、驚きをいくつも刻んで竜の言葉を聞いていた。そして、竜の赤く丸い瞳をじっと見つめると、厳格な顔つきで、ならぬ、とだけ言った。

 竜は瞳を揺らしながら賢者に尋ねた。


――なぜでしょう、我が主さま。わたくしは人ならざる身ながらも、分別のある竜です。誓って、あなたに背くことをしません。


 しかし、賢者は、ならぬ、と再び拒絶を示し、竜へと向き合った。そして、凜然りんぜんと言った。


――おぬしは既に、生まれながらにして、魔術を持っている。


 竜は驚きに小さな目を見張った。

 賢者の起こす様々な奇跡を、竜は知っていた。生物の創造だけではない。重い物体を浮遊させ、闇を切り裂く光をつくり、世界の理を捻じ曲げる。

 しかし、そのどれも竜にとっては自らの力のみで起こすのは不可能な現象であった。その素晴らしさを承知したからこそ、竜は魔法を望んだのだ。賢者にのみ許された魔性の所業を竜が持てるはずがない。


――わかりません、主さま。わたくしの魔法とはいったい、何のことでしょう。


 賢者は口をつぐんだまま、悲痛な竜の嘆きにどちらの耳も貸さなかった。竜は悲しみに暮れると、とうとう諦念を抱き、そして次の要求を口にした。


――では、主さま。わたくしは魔法を諦めます。代わりに言葉を教えてください。ご存知のように、わたしの鋭く尖った爪は樹皮を切り裂き、わたしの炎は羊皮紙を焦がし、わたくしは文字を知りません。どうかこのわたくしに文字を与え、そしてあなたの声で、壁一面に並ぶ書物を朗読しては頂けないでしょうか。


 賢者はしばらく考えてから、よかろう、と告げ、竜の願いを承諾した。

 

 竜は人語を解し、操ることができたが、人の言葉の真髄をあまりに知らなかった。

 人が手にするものの名前、先人が編み出した数多の概念をほとんど無知のまま過ごしてきたのである。賢者が読み上げる書物の文面に並ぶ言葉の羅列は、未知なる単語が幾つも浮き出し、理解不能な音の隊列が何度も頭の中で崩れ、その度に竜は賢者にその意味を問うた。


 主さま、主さま、と賢者を呼ぶ鳴き声は、まるで人間の幼子が食事をねだるかのような、ひたむきさをたたえていた。

 竜はめざましく言葉を覚え、みるみるうちに記憶に刻んだ語彙を肥やしていった。そのうち、竜は賢者が床に転がした羊皮紙に書いた文面を、するすると読み上げるほどに成長し、口ぶりもいくらか知性を感じさせる魔物へと進化した。


 言葉を覚えれば覚えるほど、竜は頭の中が豊かに研ぎ澄まされていくようであった。

 一つ言葉を得るたび、いままで感知し得なかった精神のはたらきが、風のような無形の衝撃をともなって具象化されてゆき、その度に空の球体に一陣の革命をもたらした。


 空想の青年の慟哭に、竜は涙を流して、悲しみを知った。

 物語の少女の恋に、竜は心を震わし、愛情を知った。

 科学者の知見に、竜は世界を分析的に見つめた。

 哲学者の命題に、竜は人の生を思索した。

 文学者の懊悩に、竜は人間の葛藤を噛み締めた。


 そして、いつしか竜は、覚えた単語を頭の中で自由に組み立て、自身の思索を語り始めた。

 初めは口には出さず、静かに思惟するのみであったが、いつしか思考の渦は竜の口から溢れだすと同時に、舌の上で音となり言葉に変幻し、やがて思想に転変した。

 知者となった竜は識者の賢者に助言を与え、彼を補佐し、時に過ちさえ正す有能な従臣となった。


 竜の世界は言葉で溢れていた。彼は覚えた言葉を操り、それを賢者が手ずから文字に起こす作業を通じて、竜の思想は紙の上を滑る染みとなり、賢者の書庫を肥やしていった。その量は膨大であり、いつしか賢者の蔵書のそれを凌ぐものになりつつあった。

 されども竜は賢者を急かした。


――どうか、どうか、わたくしの言葉を書き留めください。

 そう哀願し続けた。


 そうして、幾許いくばくの年月を過ごしたのだろうか。

 森の深緑は枯れ果て、木立には淡い雪が覆い被さり、世界が白銀に輝く地平線を描いた頃、竜は息を引きとった。永遠に近いはずの生命は、天寿を全うすることなく黒い土に埋もれたのでる。


 死す時まで語り続けた竜は、最後に主に告げたという。


――わたしは言葉を知り、頭を知の元素に犯されたのやもしれません。いつ、如何なる時も、頭の中を巡り思考の渦は留まるところを知らず、わたしの渚には嵐が呼んだ黒い高浪が迫るのです。


――やがてそれは空白を是とせず、全ての時間を暴食しようとさえし始め、わたしという存在の隙間をすっかり塗り潰そうとします。


――思えばあなたの言ったとおりです。わたくしは魔法を知っていた。人の言葉という原初の魔術を極めたがために、この身は早くも尽きてしまうでしょう。


――どうか、哀れなこのわたくしをお救いください。


――留まることを知らない文字から逃げられぬ定めを、誰のものとも分からぬ言葉にわたしを奪われる寂寥せきりょうを、どうか全て絶って、この苦しみから解放してくださいませ。


 賢者は竜の心臓に銀の刃を突き立て、彼を殺したという。

 竜は幸福だった。

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御伽噺 穂波 @harumahil

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