あやかしのやま

結城暁

【短編】あやかしのやま

 少女は必死に山を登っていく。草木で肌が傷ついてもお構いなしに。

 月は雲に隠れてしまったが、夜目には自信があった。けれど、か細い月明りは背の高い木々に遮られ、周囲の景色は濃淡の違いはあれど、黒一色だった。

 息を乱し、喉の奥が随分と痛んでいたが、休むことなく手足を動かし続けた。

 少女が登る山は名を嗚闇あくら山といった。

 近隣の村人には知らぬ者のないあやかしの住む山だった。

 果たして少女の行く手にいくつかの赤い光が出現した。

 息を切らせた少女が立ち止まり目を凝らしてみれば、木の上や幹には子どもほどの大きさをした蜘蛛がへばりついていた。

 キチキチ、と聞こえる音は牙を鳴らしているのだろうか。

 やせ細った少女は切れ切れの息で、肩を上下させ、体を木で支えながら、細く声をもらした。


「――山蜘蛛」


 その声が合図であったかのように、無数の影が少女に飛び掛かった。


***


 そのあやかしはナリヒラと名乗っていた。

 自分の名前であるのか、誰かに呼ばれたからなのか、わからなかったがとにかくナリヒラと名乗っていたし、手下たちにもそう呼ばれていた。

 元々は人であったので、そのころの習いで今も人型を取ることが多い。

 しかし本性は見事に妖となった。

 己の縄張りに迷いこんだ人間をいく人も食ってきたため、ナリヒラの庇護を求めて集まってきた配下を多く従え、鳴闇山に一大勢力を築いていた。

 つい先日食った旅人の持ち物であった書物から顔を上げる。外が騒がしい。

 穴だらけの障子が乱暴に開き、慌てた様子の配下が二人、転がり込んできた。


「ナリヒラさまあ! お頭あ! 助けてください!」

「人間が、人間が……!」


 ナリヒラに倣ってこの山の妖は人型を取ることが多い。転がりこんできた二人も蜘蛛の姿から人の姿へ変わると、涙ぐんで頭を下げた。

 並みの人間相手には後れを取らぬはずの配下のこの怯えようによほどの強者が調伏にきたか、とナリヒラは険しい顔で書物を置いた。


案内あないせよ」


***


「……何だこれは」


 急いで向かった先には血塗れの人間の子どもに組み付かれている配下たちの姿があった。


「だぁーかぁーらぁー! おまえら食うもん食ったんだからオレの言うこと聞けよ! じゃなきゃ食ったもん返せ! オラ! こっち来いってんだ!」

「ヒィィィィ! お、おかしらぁ゛!! オタスケ!!」


 ナリヒラに気付いた配下がその背に子どもを張り付けたまま近寄ってくる。


「逃げんな! 言うこと聞け!」


 貧相な見かけはともかく、中身はずいぶんと逞しい子どもだった。

 ナリヒラはとにかく子どもと配下を落ち着かせようとしたが、配下は子どもの勢いに押され混乱しきっていた。

 仕方なく子どものほうを宥めすかして落ち着かせ、配下の背中からおろしてやった。


「だからさー! オレは別に食われたっていいんだよ、ばあちゃんを助けてくれるならさ! でもこいつらオレの話を聞きもせずにかってに指を食いやがったんだぜ! ホラ!」


 目の前に突き出された子どもの指は確かに左手の小指が根元からその姿を消していた。器用に手当てをしてある。


「なのにこいつらばあちゃんを助けるのはイヤだとかムリだとか言うんだぜ! オレの小指食ったのに!」


 今日の一番槍を任されていたトクサが目を泳がせた。

 縄張りに入った人間をどうするのかはたいていの場合見つけた者に任されている。それがこんな事態を引き起こすとは。


「すみません、ナリヒラ様……」

「……いや……」

「ここは妖が住む山だって聞いてきたんだ。旅人がもう何人も行方知れずになってるって有名だからさ。強い妖がいると思ったんだよ。だからきたんだ。オレのばあちゃんを助けてほしくて!!」


 取られた小指の跡地を前面に押し出しながら子どもが言う。


「……妖である私達が人間おまえの言うことを呑めと?」

「そうだよ。これはあんたらにだって益がある話なんだぜ? 損はさせねえさ、ぜったい」


 ニヤリ、と子どもが笑う。


「益、とは?」


 子どもは目を光らせた。


「オレのばあちゃんは薬師なんだ。鬼のな」

「……詳しく話せ」

「いいぜ。でもその代わりぜったいにばあちゃんは助けてもらうぜ?」

「…………その代償がお前の肉体であってもか」

「おうとも。もちろんだ。こんな枯れ木みてえなガラで悪いが、あいにくこれ以外はもってないんでな」


 子どもはたしかに薄い胸をそらし、得意げに言った。

 見るからに食いではなさそうだ、とナリヒラは眉根を寄せた。


***


 ばあちゃんは山姥なんだ。

 オレの母ちゃんが子どものころに出会った縁でオレはばあちゃんに育ててもらってる。

 ばあちゃんはうんと昔に生まれて、そんで薬師をしてる山姥なんだってさ。

 ばあちゃんに教えてもらって母ちゃんも薬師をやってたんだ。オレの父ちゃんもそれを手伝っててさ、けっこう村のみんなには頼りにされてた。遠くからも母ちゃんたちを頼って人が訪ねてきたりさ。

 でも二人とも流行りで死んじまった。ばあちゃんはやさしいからな、みなしごになったオレを引き取って育ててくれてるのさ。

 ばあちゃんは草や木からも薬を作るけど、病で死んだ人間を食って自分の体を薬にすることもできるんだってさ。なんでかはわからねえけど、これがよく効くんだ。

 だから今回立ちよった村でもこっそり流行り病で死んだ人間を食ったんだ。食ったっていってもほんのひと口、肉をかじり取っただけなんだ。それを村のやつらに見られちまった。

 あの村のやつら、あんなにばあちゃん世話になった恩も忘れて山姥だ! 妖だ! って騒ぎやがってよ。しまいには流行り病までばあちゃんのせいにされちまって。

 ばあちゃんはオレに逃げろって言った。自分はおとなしく捕まってさ、オレには手を出さないでくれ、この子はただの人間です、って。

 ばあちゃんはなんも悪くねえのに、なんの抵抗もしてないのにさ、縄をかけられて、木でめったうちにされてたよ。死ね、化物って。

 オレはばあちゃんを助けたい。だからこの山にきたんだ。


***


「あいつら全員殺してやる」


 らんらんと目を光らせながら、月の光さえ届かぬ暗闇のなかで少女ははっきりと断言した。その目にははっきりと憎悪の炎が燃えていた。


「……なんというか、考えなしにもほどがあるな。丸呑みされていたらどうする気だったんだ」

「へへん、そんときゃ腹を食い破って出てきてやるさ!」


 子どもは本気だ。

 実際、この子どもならばやり遂げるのだろう。配下のいく人かがさらに子どもから距離を取った。震えている者も、腹を押さえている者もいる。

 ナリヒラは懐かしいものを見る思いで子どもを見下ろした。


「わかった。お前の祖母を助けよう」

「恩に着るぜナリヒラの大将! オレははぎってんだ、よろしくな」

「ああ」


 トクサが腹に収めた小指分の働きくらいはしよう、とナリヒラは重い腰を上げた。


 件の村へはナリヒラとトクサとヨシキリの配下二人と、それからついて来ると言ってきかなかった萩が向かうことになった。

 嫌がるトクサの背中へ無理矢理乗りこみ、


「ぎゃあぎゃあうるせえな、それでも蜘蛛かよ。関節逆向きにしてやろうかあ?!」


 と脅すさまは控えめにいって子どものそれではなかった。


「なあ、村っていってもクワとかカマとか持った大人が十人いじょういたけど、これだけで行くのか? オレをいれても四人じゃねえか。少なくねえ?」

「人間相手ならこの程度で十分だ」

「ふーん。じゃあはやくいこうぜ!」

「ヤメロオ! 毛ヲ引ッパルンジャネエ!」

「うるせえ! マルハゲにしてほしいのかあ?!」

「ヒィッ!」

「………萩。降りろ。こちらに乗れ」

「わかった!」


 ぶちぶちと嫌な音をさせて萩がトクサの背中から降りる。配下は悶絶していた。わずかに禿げてしまったトクサの背中からナリヒラは目をそらしてやった。

 ナリヒラは下半身だけを蜘蛛の胴と足にして、萩に上半身の着物を掴ませる。人型を取るのが得意で良かったと今ほど思ったことはない。


「行くぞ」

「ヒャッホー、はええ! こいつは最高だー!」

「コ、コイツ……! 人間ノ分際デ……!」

「オ頭ニ乗セテモラエルナンテ、ナンテ羨マシイ……!」

「………」


 ざあざあと風を切って走るナリヒラの耳元で萩がはしゃぐ。その煩さにナリヒラの眉間に皺が寄った。


***


 村はしんと静まり返っていたが、重苦しい空気が垂れこめていた。萩の祖母が捕まっているという村の隅にある小屋の周りには火がたかれ、見張りが四方に置かれていた。

 萩は拳を握りしめ、歯をぎりぎりと食いしばった。


「気を静めろ。平静を保たねば体もうまく動かせん」

「………わかった」


 ナリヒラの言葉に案外素直にうなずき、萩は深く呼吸を繰り返した。ナリヒラはトクサとヨシキリに頷き、ナリヒラの意を汲んだ二匹は闇の中へ姿を消す。


「いくぞ」

「おう」


 ぎゅう、とナリヒラの着物を萩が掴んだ。


***


「ばあちゃん、やだよう、死なないでよう」


 ぼろぼろと涙をこぼす萩の腕の中で萩の祖母――柳は今にも事切れんとしていた。

 柳は小屋の中で手酷い扱いを受けたのがよくわかる程度に痛めつけられていた。

 歩けないよう足の腱を切られ、動かせないよう手は地面に木杭で縫い留められ、背中には夥しい数の打撲痕が残され、流れ出る血が止まらぬ有様だった。

 人間ひとであればすでに死んでいる致命傷だ。そしていかな妖であれ、ここまで血を流し、弱っていればあと幾ばくももたない。


「泣くのはおよし、萩……。おまえはもうひとりで十分……やっていけるだろう……?」

「やだ、やだ!! ばあちゃんが死ぬのは嫌だ! おいてかないでよう! ひとりにしないでよう!」

「我がまま……言うもんじゃないよ……」


 薄く笑う柳の、枯れ枝のごとく細い指が持ち上がり、かすかに萩の目元をする。


「わたしはもう……十分生きた。おまえのようなかわいい孫と……いられて……幸せだった」

「やだ……やだ……ばあちゃんが死ぬならオレに生きてる価値がない」

「なに、を……」


 どろりと濁った萩の目から涙が流れる。すう、と淀みのない動作で萩は柳の手を取り、柳の――山姥の鋭い爪で己の首を掻き切った。勢いよく血が吹き出し、萩の体が柳に倒れ込む。


「ばあちゃ……、オレの血……、飲んで……」

「このバカ孫!」


 怒鳴られたというのに、萩は笑う。血の気のない顔のまま、口から血を吐きこぼしながら。


「オレの肉も……、食べて」

「黙りな!」


 萩の血を被った柳の傷はみるみるうちに塞がり、しわがれた老婆の姿ではなく、艶のある女の姿になっていた。その口元には萩の血がべったりとついている。

 羨ましいことだ、とナリヒラは萩と柳を見ていた。みすぼらしくはあったが、萩は子どもだ。その血肉は人食いの妖にとって妙薬そのものといってもいい。まして生き血ともなればその効果は計り知れないものになるだろう。柳を助ければ丸々ナリヒラの腹の中に収まるはずだったのが。

 柳はどこに隠し持っていたのか、薬を取り出し、萩の首に塗りたくる。傷口を丁寧に縫合し、気管を締め付けない程度に止血をした。加えて、自分の指先を食い破り、滴る血を萩に飲ませた。心音を確認しては何がしかの薬を飲ませ、呼吸を確認しては薬を飲ませ、どれほどの時間が経っただろうか。夜明け近くなったころ、ようやく萩の血は止まったようだった。


「ばあちゃん、なんで」

「喋るんじゃない。傷口が開く。おとなしく寝てな」

「だって、オレにつかった薬、すげえきちょうだって、いってたじゃないか。なんで、オレなんかに」

「こンの馬鹿孫! 命を粗末にするのもいい加減にしな! いいから黙って寝ろ!」

「でも、ばあちゃんへぶ」


 柳が萩の顔に粉薬をぶちまけた。それでもびゃあびゃあと何事かをわめきたてていた萩の口が閉じられ、じきに寝息を立て始める。

 あまりにも柳の剣幕が険しく、遠巻きにしていた蜘蛛達は自分達を振り返った柳の目から逃れるためいっせいに雑木の中へ姿を消した。

 ただ一人隠れなかったナリヒラに柳が頭を深く下げた。そろそろとトクサとヨシキリが出てきてナリヒラの後ろに隠れる。


「この度は孫がご迷惑をおかけいたしました」

「イヤマア、ワリト……迷惑ダッタナ……」

「オウ……。ダナ……」

「……」

「勝手な事とは存じますが、未だ孫の傷は塞がりきっておりません。どこか安全な場所にて療養させたく、貴殿の住まいへご案内願えませぬか」

「……」


 トクサ達のソワソワとした気配は伝わってきていたが、ナリヒラは首肯した。契約は契約だ。


「よかろう」


***



 わたくしは京の都で人を襲い、食ろうておりましたが、さる陰陽師に調伏ちょうぶくされ、式神として仕えておりました山姥でございます。その陰陽師に仕えております間、医術を教えていただき、式としての契約が切れた今でも薬師を名乗っておりまする。

 御師様おしさまは病人の血肉を食らっても死なぬ我が身を不思議に思うたそうです。それでわざわざ生かして式になさったのですな。何やら理由はわからぬが、病人の死体を食ってその身が薬になるのだから文字通り粉骨砕身せよ、と仰せになられて。ええ、とても変わったお方でございました。

 御師様が亡くなったあとはあちらへこちらへと放浪しながら薬師の真似事をしておりました。人の中に紛れては老いる早さが違うと悟られますので、山々に分け入り、たまに人里へ訪れるといった具合でした。

 萩の母親のひさぎとは山の中で会ったのです。まだ楸が子どもの時分でございました。泣いていたようで、目元が赤く腫れておりましたので、哀れに思い少しばかり話し相手をしましたら懐かれてしまい。せがまれる通りに薬草のことを教えてやり。そのうちに楸は小助という男と夫婦めおととなり、萩が生まれました。

 変わった子たちでしたよ。わたくしを山姥だと知っても怖がりもせず、ずいぶんお人好しで、やさしい子たちでした。

 萩が三つになった年の、ある日のことでございました。なんといえばよいのでしょう。山はいつも通りであるはずなのにどこか空気が不穏で、嫌な感じのする、そんな日のことでございます。なにやら胸騒ぎがしまして、山を下りてみたのでございます。

 その途中で小助に会いました。


***


 あの時のことは今でもありありと脳裏に描くことができた。

 小助の人の好さそうな顔はあちこちが腫れて、額から血が流れていた。服も薄汚れ、襤褸切れのようだった。服の切れ目から見える体には赤く腫れあがった傷の数々が見てとれ、折れた腕の中にはこれまた薄汚れた萩が大事に大事に抱えられていた。

 小助は泣いて萩を柳に託した。


「村に病が蔓延して、おれたちは治そうとしたんです。けど、ちっとも治せなくて、死人がどんどん出て、しまいにはみんな狂ったようになってしまったんです。おれたちの言葉はなにも聞いてもらえなかった。なぜおまえらは病にかからないと、言いがかりを……」


 小助が咳き込む。生い茂る葉に赤い飛沫が飛ぶ。


「お義母かあさん。萩といっしょに逃げてください。追っ手がきます」


 小助がさらに咳き込む。柳は小助の背をさすってやったが、楽になる訳もなかった。


「どうか、お願いです。おれはもう、助からない」


 ひゅう、ひゅう、と小助の喉から隙間風のような息がもれた。ああ、死ぬ人間の臭いがする。

 柳は断腸の思いでその場を離れた。柳の耳には小助を追ってくる人間たちの恐ろしい声が聞こえる。萩の耳を塞いでどうか聞こえていませんようにと祈った。

 柳は疾風はやてのように走り、住処にしていた小屋ではなく、さらにその奥の洞窟へと身を隠した。人の足では到底辿り着けない場所だ。

 ここなら追っ手はやってこない。そして万が一、萩が病にかかっていたとしても他の人間に感染うつすことはない。念の為、萩が寝ているうちに自分の血を一滴、白湯に混ぜて飲ませておいた。

 洞窟には萩の傷が癒えるまでひと月ほどいたが、萩は病を発症しなかった。柳は胸をなでおろし、それから萩を連れて人里を転々としながら生活していた。


***


「あの子は両親おやを人に殺され、知っている妖がわたくしだけでしたので、人間嫌いで、どうにも妖は人の好い者が多いのだと思っているようでして。本当にご迷惑をおかけいたしました」

「思イ込ミ激シイナ」

「ソレナ」

「あの子は自分の体を差し出すと言ったそうですが、どうかおやめ下さいますよう、伏してお願い申し上げまする。その代わりにわたくしの肉を差し上げます。どうか、どうか、あの子を食い殺すのだけはご勘弁願います」


 平伏する柳を見やり、ナリヒラはぽつり、と言葉を投げた。


「昔。母親恋しさに夜の山を越えようと、護衛に殺され妖に食われた子どもがいた」


 柳は顔を上げ、ナリヒラの顔を見た。ナリヒラは続ける。


「その子どもは死してなお母に会いたいという一心で妖の腹を食い破り、妖と成った。子が母を是が非でも救いたいという気持ちはわかる。その逆も」

「ありがとうございまする」


 柳は再び深く頭を下げる。それに、とナリヒラは頬杖をついた。


「対価はすでにもらっている」

「ああ、小指……」


 トクサが身を固くし、そろそろと住処としている廃寺を出て行こうとする。そのトクサの頭をがしり、と柳が掴んだ。筋肉が盛り上がり、爪が赤々と伸びていく。


「………」

「………」


 ナリヒラから見える柳は笑顔のように見えた。だがトクサは歯の根が合わぬぐらい震えていた。

 トクサはこの老獪な山姥にどのような仕打ちを受けるのだろう。ナリヒラはそっと目を伏せた。


 その後、目覚めた萩は元気いっぱいナリヒラの配下たちと遊び、心配をかけた罰だと柳に尻をしこたま叩かれ泣いて謝った。

 柳に逆らう者はいなくなった。


***


「おや、旅人さん。ウチに泊まっていきなよ。ボロい宿だけどさ、夜にあの山を超えようとしないほうがいいぜ」


 見た目のかわいらしさとは違い、男のような口調で山の麓の小さな宿屋の女将が言う。

 急いでいるから、と旅人はかぶりを振るが、何かあるのかい、と女将に問うた。


「あの山はな、嗚闇あくら山っていって、夜になると妖が出るんだよ。そりゃもう恐ろしい蜘蛛の妖でさあ。夜にあの山に入って無事だったやつはいないって話さ。命を取られるか、さもなくば腕や足の一本二本は取られちまうってよ。

 この間も山向こうの村から用事があるってんでうちに来たやつがいたんだけどな、見事に腕を取られてたよ。いやあ、血を止めるのが大変だった。

 悪い事は言わねえ、旅人さん。やめときな。ウチに泊まっていきなよ」


 旅人は笑って、そうやって売り上げを伸ばしているのだな、と夕陽になりかけた太陽を仰ぐ。急げば夜までに山を越えられるだろう。


「あーあ、知らねえぞ。うちじゃ弔いはやってねえからな。ほれほれ、さっさと行っちまえ」


 女将がしっしと手を払う。その手の指が――小指が欠けていることに気付き、旅人は小指はどうしたんだい、と尋ねた。

 にたり、と悪戯小僧のような顔で女将は笑った。


「ああ、これかい? むかぁし、蜘蛛に食べられちまったのさ」

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あやかしのやま 結城暁 @Satoru_Yuki

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