明日さよならする君だった

水沢妃

明日さよならする君だった


 家の軽やかなチャイムと共に、元気な声が聞えてきた。


「こんにちわー。」

 ……知らない子の声。

 玄関の真上、二階の部屋にいても聞えた。音を立てないようにそろりと本を置いて、ぬき 足、さし足で階段を降りる。

 チャイムの音は止まらない。

 ぼくは家の中にいることを覚られないよう、そっと、玄関わきの窓から外を見る。

 玄関の前では同じ高校の女子制服を着ている子がインターホンのカメラを覗きこみ、首をかしげていた。

「おかしいなー。学校来てないってことは家にいるよね……?」

 まったくその通りというか。むしろ家に引きこもっているんだけど。

 なんの用だろう。

 プリントは先生が一週間分をまとめて持ってきてくれるし、クラスメイトが訪ねてくることなんて今まで一度もなかったし。

 なんせ、友達がいない。

 自分で思って、ふふっと笑う。我ながら悲しいやつだと思う。

 そのとき、窓の外に影がさした。はっとして顔を上げると、背伸びをしてこちらを覗きこむ人と目が合った。

「こんにちわ。」

 にっこりと笑った顔。その中で、目だけが獲物を見つけた猛獣みたいにまっすぐだった。


 どうしてこうなったんだろう。

 ぼくを見つけるなり家に入れてくれと騒ぐその子の声はどんどん大きくなっていったから、近所迷惑を考えてつい上げてしまったのだ。今は居間のソファに座ってぼーっとしている。

 友達が家に来たことなんてなかったから、どうしていいかわからない。とりあえずいつも飲んでいて場所がわかる紅茶を淹れる。

 ポットとカップにお湯を入れて温めている間に茶葉を計る。今のうちにティーコーゼも用意しなきゃ。

 まだ名前も聞いていないその子は、ぼくの手元を興味深そうに見ていた。

「……紅茶、好きなの?」

「え……はい。」

「いいよタメ口で。おんなじクラスなんだし。」

「でも……初対面……?」

「そうそう。今年になって一回も学校来てないっしょ? だからこれがはじめまして。」

 ヨロシクー、と軽いノリで言われても、戸惑う。

 こんなふうに喋ってくる人は、今までいなかったから。

 ティーポッドのお湯を捨てて、茶葉を入れる。別で沸かしていた熱湯をなるべく空気に触れるよう、高い位置から落とすように注ぐ。

 茶葉がポッドの中で踊っている。

「噂だけはいっぱい聞いてたんだー。根暗とかオタクとか。あ、クラスの女子が言ってたの。男子はふざけて席に花飾って先生に怒られてたっけ。」

 かちゃん、と手の中から茶こしが滑り落ちた。

「あ、気にしてた?」

「……別に。」

「そう。」

 その子は無邪気な顔でぼくの手元を見つめている。

 この子、絶対友達少ないな。

 この態度だし。今は平日の昼間だし。確実に学校さぼってる。ぼくも同じだから何も言えないけど。

 きっと学校でなにかあって、嫌になって帰ってきたんだろう。ついでに同じような境遇のぼくをバカにしに来たのかもしれない。

 蒸らす時間が終わる。カップのお湯を捨て、茶こしを置き、紅茶を注ぐ。ポッドを上下に二回動かして、最後にカップに丸を描くようにまわし入れた。透明度の高い液体が揺れる。

 ソーサーに乗っけたカップを二つ、机の上に置く。ポッドもティーコーゼをかぶせて脇に置いた。

「……どうぞ。」

「ありがとう!」

「ミルクか檸檬……。」

「あー、いいや。猫舌でもないし。」

 カップを持ち上げて、その子は紅茶を飲んだ。一口飲んで、ほ、と温かい息を吐く。

 その表情はすぐに元気いっぱいの調子に戻ったけど。一瞬、息を吐いたときだけ素に戻ったような、空っぽの顔になった。

 そっちの方が普通だなあ。

 飾らない、虚無のような目。なにを映しているのか謎な、ミステリアスな雰囲気。きっと窓辺でアンニュイに座っていたら見惚れてしまうような。

 元気いっぱいな時のほうが気を張っているんだとわかって。なぜかぼくまで気が緩んで、いつも通りにミルクをまわし入れる余裕ができた。


 お茶請けも何にもないまま紅茶を飲んで、二杯目を飲み下したその子がやっと口を開く。

「私、ユイ。」

「ユイ?」

「そ、名前。ユイって呼んで。」

 そういえばまだ名乗ってなかったっけ。

「ぼくは――」

「知ってる。秋――」

「秋でいい。呼ぶなら、秋だけで。」

 思わず早口になってから、はっとする。

 ユイは、相変わらずニコニコしていた。

「わかったよ、秋。」

「……うん。」

「それで要件なんだけど。」

 その言葉にはっとする。用事があってきたんだろうとは思っていたけど、自分から言ってくれるとは思っていなかったから。

「私ね。」


「今日、死ぬから。だからちょっと、本当に今日だけ付き合ってほしい。」


「……は?」

 元々口下手でなにかを表現するって苦手だけど、その時は絶対に誰から見ても詐欺師を見るような顔をしていただろう。

と、思っている。

 言葉の意味が、脈絡が理解できなくて。おもわず聞き返す。

「……病気、じゃないよね。」

「あはは、ある意味そうかもしれないけどそのせいで死ぬわけじゃない……と、思う。うん。体はどこも悪くない。」

「……じゃあ……なんで。」

「そんなの、決まってるじゃん。自分でそうするって決めただけ。」

 いや。ぼくが聞きたかったのは理由のほうだったんだけど。

 聞いても答えてくれなさそうだな、とは思った。ユイの笑顔はまるで仮面のようだったから。

「なんで、ぼくなの。」

「えーっとね。ユイの事を知らないけど、ユイの身近にいて、後になってユイの事をふっと思い出してくれそうな人だから?」

「疑問形だし……。」

「えへへ。深い理由はないんだけどね。」

 確かに条件には当てはまっているだろう。ぼくは普段のユイを知らない。そんなクラスメイトがいるなんてことも知らなかったし、今日初めて見た。ユイの事なんて、何も知らない。

 思い出すかどうかは……自信ないけど。

「友達とか、家族じゃダメなの?」

「だーめ。あいつらユイに同情しかしないもん。」

 ユイは勝手にポッドを手に取った。

「同情票? とかいらないの。ただ一人でいいから。誰か一人でいいから、かわいそうでもなんでもない、『ユイ』を覚えててほしかったの。」

「は、あ……。」

 そのまま紅茶を注ごうとするユイのカップの上に、静かに茶こしを置く。首をかしげていたユイはぼくに促されるまま紅茶を注いで、一緒に出てきた茶葉が茶こしに引っかかるのを見て「あー、なるほど!」と嬉しそうに言っている。

「でも、ぼくでいいの?」

「うん。……本当の私なんて、知らなくていいんだ。今日の私が、秋の中でのユイになってくれれば、それで。」

「……ふうん。」

 ユイは注いだ紅茶を一気に飲み干すと、「濃い!」と文句を言った。増し湯すればよかったか。

 カップを置いて「ごちそうさま!」と元気に告げる。そうして勢いよく立ち上がる。

「じゃあ行こっか。」

「……え?」

 どこに、と聞く間もなく腕をひかれた。そのまま玄関まで連れて行かれる。

「ちょ、ちょっと!」

「あ、もしかして外怖い?」

「そ……、れは。」

 ひっぱる力に抗えない。見下ろすといつも視界に入っている長い前髪ごしに黒のスエット上下が見える。

「せめて……上着! あと財布とスマホ!」

「あー、ごめん。それは持ってたほうがいいわ。」

 ユイの手が離れる。ぼくは階段をかけ上がった。

 自分の部屋に入って、ほっとする。このまま布団にもぐってしまいたい……けど。

 震える手でクローゼットを開ける。中にはしばらく着ていなかった上着がある。ついでにズボンをジーパンに変えて、上着をひっかける。帽子もかぶった。

 財布とスマホは小さいリュックに入れた。

 姿見で自分の格好を確認する。正解なんてわからないし、どこが悪いのかもわからない。これでいいのかな、と考えこんでいるうちに、下で待っているユイのことが気になった。

 ……どんなふうでも、いっか。どうせユイだし。

 そう考えるとなぜか心が軽くなった。


 半年ぶりの外は、拍子抜けするくらい何も変わりなかった。

 潰れかけているコンビニはまだあるし、その隣にひっそりとある駄菓子屋さんもなぜかまだある。やたら赤の長い信号、運転の荒い車の通る細い道。通学路のよく吠える犬。橋の下のおじさんと猫。

 なにか変わったことがあったのかさえ、あいまい。

 ユイはスクールバックを肩にひっかけて、ぼくの横を歩く。ぼくはなるべくうつむいて歩いた。ご近所さんに発見されれば話しかけられて放してもらえなさそうだから。

 ローファーをはいたユイの足音が住宅街にカツカツと響いている。

「……で、どこに行くの?」

「うーんとねえ。」

 ユイは鞄から手帳を出した。

 ちらりとのぞきこむ。「やりたいこと」、と書かれたページにはごく短い言葉が描かれている。

「遺書を飛ばそうと思って。」

「……書くんじゃないの?」

「えっと、書いて、紙飛行機かなんかにして飛ばしちゃおうかなって。ああいうの、人に見られるのって嫌じゃない?」

 いや。そのための遺書じゃないの?

 そう思ったけど、「そうか、なあ。」と返事をする。反論するのは苦手だ。

「なによう。何かあるならはっきり言って。」

「……無理。」

「なんで?」

「……嫌だから。」

 ふうん、とそっけない返事が返ってくる。

 理由を聞かれなくてほっとしている自分がいる。

 誰だって、なにか言うたびにぶってくる父親がいるからなんて聞きたくないだろう。

 寒くもないのに、体が震えた。

 ユイは本当にどうでもいいみたいで、にこにことぼくの手を引っ張った。

「とりあえず雑貨屋に行こうと思うんだ。可愛い便箋とかあるでしょ?」

「……かわいい便箋に書いた遺書なら、見られたくないかも。」

「見られないからいーの!」

 途中からぼくの手首をつかんでぶんぶん振りながら、ユイは旅行の計画でも話すみたいにうきうきと歩いている。

 ぼくはその隣で、震えた体が腕から徐々にほぐされていくのがわかって、途中から一緒に手を振って歩いた。


 当然だけど、平日の昼間にお店に出入りするような学生はいない。

 ……と、思ってたんだけど。違う制服の子とか、同じ学校の先輩っぽい人たちとか、意外と学生もいる。

 ちらほらとこちらを見る学生と目が合って、慌てて反らす。ユイを見れば大量にある便箋の前でうーん、と唸っている。

 メールやLINEばっかりで手紙なんてほとんど書かないのに、なんで便箋っていっぱいあるんだろう。小学生なんかはまだ授業中に手紙をまわしているのかもしれないけど、中学からはスマホ持ってる子いるし、そっちの方が早い。

「……みんな、さぼりかな。」

「そうなんじゃない?」

 ユイは興味なさそうだ。見慣れてるんだろうか。

「ユイも、さぼるの?」

「ううん。無断欠席は今日が初めてだよ。それまで皆勤賞だったし。」

「……それ、なんか悔しくない?」

「どうせ達成できないから、別に。」

 さすがにもう手はつないでいないけど、今ユイの手をとったら冷たくなってるんじゃないかと思う。

「ねえ、どれがいいと思う?」

「え、」

 突然ユイがこっちを向く。そんなことを言われても、よくわかんない。

 ぼくも、便箋が壁のように並んだラックとにらめっこしてみた。キャラクターやパステルな色調の、ごてごてした便箋たち。遺書を書くならもっとシンプルなやつがいいんじゃないか?

 もんもんと考えてから、えいやっ、となるべくシンプルなセットを引き抜いた。

 淡いクリーム色の便箋。模様がないと思っていたら、見えていなかった下のほうに羽ばたく鳥の絵があった。

「……飛ばすんでしょ?」

 半ば無理やり、ユイに渡す。

 ユイはじっと便箋を見る。イラストの鳥が涙目になっちゃうんじゃないかと心配になるくらい見つめ合ってから、カバンに手をのばす。

「ま、いいんじゃない。」

 ガサガサと財布を出して、そのままレジに向かって歩いて行ってしまった。

 ぼくは何も言えずにその後姿を追った。


「遺書って、なにを書けばいいと思う?」

「えっと……死ぬ理由、とか?」

「とかって、具体的には?」

「……自分が残したい言葉、」

「とか?」

「家族に言っておきたかったこと?」

「とか?」

「……まだあるかな。」

「ま、ぶっちゃけ私もわかんないけど。」

 つい、ユイをにらんでしまった。おどけたように「ごめんごめん。」と謝るユイに、気が抜ける。

 ユイはぼくのアドバイスを受け取って、参考にするかはわからないけど便箋にシャーペンで文字を書き始めた。どこか角ばった武骨な字。それを隣で見守りながら、川べりの冷たい空気に震えた。

 冬を迎える少し前。そろそろコートが必要になる。

 短くなってきた陽に合わせるように、下校時間が早まったらしい学生服の集団が自転車で土手を駆け抜けていった。

「……こんなもんかなあ。」

 三十分くらいして、ユイがシャーペンを置く。

「できた?」

「うーん。たぶん。」

 ぼくが内容を見るより先に、ユイは便箋を紙飛行機にしてしまった。

「見直したり、いいの……?」

「うん。……漢字間違えてはない、はず。」

 明後日の方向を見て笑って、さっと立ち上がって、ぼくの手をとる。

「飛ばしに行くよー。」

「……うん。」

 うつむきがちに、歩き出す。

 てっきり勘違いしていた。一日一緒にいて、仲良くなった気になっていたから。

 遺書の内容を教えてくれるくらいには、仲良くなったつもりでいた。

 でも結局、ぼくはユイの事を何も知らない他人なんだ。


橋の半ば、川の中心を臨む場所に立つと、ユイはすぐに紙飛行機を持った。

 ひゅ、と音を立てて、紙飛行機が飛んでいく。そのとき、後ろから強い風が吹いてきた。

「あー!」

紙飛行機は、一旦急降下したと思ったら、追い風をうけて舞い上がる。そのまま遠く、見えないところまできれいにまっすぐ飛んでいった。

 ぼくは、ちょっと笑ってしまった。

「今日までの私は、これでおしまい。」

 ユイは今日一番のすっきりした顔で、どこかへと消えた遺書を見ているようだった。

 自分に、さよならするためだったのか。

「付き合わせてごめんね。」

「……別に、いいよ。」 

「……本当に、いいの?」

「ユイこそいいの?」

 ぼくの言葉に、ユイはきょとんとした目をした。

 わざとらしく、ため息を一つ。

「今のままだと勝手に人の家にあがってぼくを連れ出した挙句、平日に二人して学校さぼって遊んだ悪い子ってイメージしかないよ?」

 憮然として言うと、ユイは目の前でけらけらと笑い出した。お腹を抱えて、スカートを履いているくせにばたばたと足を動かして。

「……なんでそんなに笑うの。」

「だ、だって。」

 ひーひー、とユイの口から声が漏れる。

「秋がそんなに喋るなんてっ……あいたっ。」

 まったく。人を何だと思っているんだろう。


 夕方の駅前で、ぼくらは別れた。

 じゃあねー、とユイはぶんぶんと手を振ってくれた。さすがに同じことをやるのは恥ずかしくて、軽く手を振って、ユイが人混みの中へ消えていくのを見送った。

 それから、片手に持った荷物を落とさないように気をつけながら、重い足取りで家のほうへ歩く。

 ぼくはまっすぐ家に帰った。親はまだ帰ってきていなくて、ユイと飲んだ紅茶のカップがテーブルに残されていた。


 ユイは、そのまま家に帰ることはなかったらしい。


 ぼくは最後の目撃者として何度も学校の先生や警察の人に話を聞かれて、ユイのお母さんに泣きつかれたり怒鳴られたりして精神が不安定になる日もあった。それでも、ユイと別れた次の日から、学校には行くようになった。保健室登校だけど。

 ユイのことは一時ニュースにもなって話題になって、その後何も言われなくなって。それだけの時間が経ったころ、ぼく宛に一通の手紙が届いた。種類は違うけど、鳥の便箋だった。

 消印はなかった。

 ぼくは内容を見るまでもなく、ほっと胸をなでおろしていた。

 あの日、ユイと最後にした会話はよく覚えている。


「最初にも言ったんだけどさ。聞いたの、秋の噂。みんな好き勝手に言ってて。」

「……うん。」

「でも、その話聴いてたらどうしても気になっちゃって。気になっちゃって気になっちゃって、一個思いついたから、これ渡そうと思ってさ。」

 そう言ってユイは鞄から袋をがさがさと出した。スクールバックはそれでぺちゃんこになった。

「もう私には必要ないからさ。秋にあげる。」

「……ありがとう?」

 ぼくは中身を覗きこんで、ユイの顔を見た。

 ユイは満足そうに笑っていた。

「それ着てみてさ。で、本当に自分が男になりたいのか試してみるといいよ。」


 ユイのおさがりの制服はぶかぶかで、ところどころ直さなくちゃいけなかったし、ワイシャツは一枚だけだったから買い足さなくちゃいけなかったけど。二か月くらい着てみて、わかった。

 ぼくは別に、男の子になりたいわけじゃなかった。

 ただ、スカートを履くのはどうしてもだめだった。嫌悪感、といえばいいだろうか。とにかくあれを着るって考えただけで吐き気がする。

 保健室の先生は、折衷案でスラックスもあるよと提案してくれたから、今はそれで登校している。

 ぼくがわからないことを、わからせてくれたユイ。どうしてユイがああいう選択をしたのか、いまだによくわからないけど。今はユイにお礼を言いたい。


 ぼくだけが知っている、新しく生まれ変わったユイに。

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