第5話 朦朧
その後私は、胸の奥が騒つく様な感覚に悩まされ、なかなか動き出す事が出来ずに居た。
頭の中で何度も地下室の情景が浮かび上がり、あの、獣の唸る様な声を思い出す。
何度も思い返すうち、記憶が段々と、想像に塗り替えられていく…
灯りの漏れたあの扉の先、覗き見た階段の下から、唸り声を響かせながら、人の様な、獣の様な、大きな影が近づいて来る…
その影があまりに恐ろしく、私はその場にへたり込んでしまう…
…ふと気が付くと、どうやら私はあのままドアの前でいつの間にか眠ったらしく、身体を起こすと、外はもう空が白み始めた頃だった。
硬い床の上で夜を明かしたせいで、全身がギシギシとして痛い。
真冬にも関わらず毛布も掛けずに眠ったおかげで、身体は芯まで冷え切っていた。
何だか頭が重く、寒気も治まらない。病に罹ったかも知れない。
けれど今日は旦那様との約束の日だ。絵を完成させなくてはいけない。
もしも、昨夜の事が知れたら…
旦那様の言い付けを破り、屋敷の中を勝手に歩き回った事を、旦那様が知ったら…
私は恐らく殺されてしまうだろう。
けれど絵は、この絵だけでも。私は完成させなくてはいけない。
言い付けを破ったばかりか、旦那様との約束まで守れないなど、決してあってはならない事なのだから。
私は寒気と身体の痛みを堪えながら、必死に、慎重に筆を運んだ。
キャンバスに向かい没頭し続け、一体どれほど経ったのか、ようやく絵が完成した頃には、もう陽が傾き始めていた。
ー…コン、コン
「…っ!」
今まで物音一つ聞こえなくなる程集中していたのだろうか、突然響いたノックの音がやけに大きく聴こえて驚いた。
「旦那様がお呼びです。…ギルバート…」
扉の向こうから聞こえたのはスミスの声だった。
「…今…伺います。」
「では、旦那様は書斎でお待ちです。」
私はゴクリと唾を飲み込んだ。
この屋敷は古く、屋根裏へ上がって来る階段は人が踏むと少し軋む様な音をたてるのだ、けれどスミスがノックをする迄、私は何も聴いていない。
今しがた返事を返した後に階段を降りていく足音は聴こえるのに。
自分がそれ程までに没頭していたと言う事だろうか…?
私は仕上げた絵を手に、階段を降りた。
足元がフラつく。
階段を降りながら、ぼんやりと痛む頭で考えた。
昨夜の恐ろしい出来事は実は全てが悪夢で、床で眠りこけて病に罹った事で、あれ程うなされたのではないだろうか…
そんな事を考えながら階段を降りていると、だんだんと思考がボヤけて、偏って…
何が本当で、何が妄想なのか…理解が追いつかなくなって来た。
階段を下りきった所で、私は視界が揺らいだ。
ドアノブに手を掛けるとそのままバランスを保てなくなり、身体ごとドアにもたれてしまった。
ーバタンッ…
私はそのまま気を失った。
ー絵を…旦那様に…絵を……
気を失う間際、視界の端に、誰かの足元が見えた気がした。
黒いズボンの…
男の…… 裸足が…
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