魔人と皆殺しと因果掌握

@i4niku

魔人と皆殺しと因果掌握

 例えば明日川さんは不幸だと思う。



 彼女はクラスメイトから面罵されて殴られて物を盗まれている。日本ではこれをいじめと言い張れば許されるから罪には問えない。彼女はただ傷ついていく。



 いじめっ子は神のような振る舞いをしていた。その矛先は僕にも向けられた。羽交い絞めにされてズボンを脱がされて写真を撮られた。そして殴られ蹴られた。



 殴られても守るばかりで抵抗しなかったのは相手が三人いたからだ。



 単純に物量で負けている。半端な抵抗が相手の加虐心に火を点けることを、僕は明日川さんを見て学んだ。僕はただ殴られ続けた。



 いや抵抗する勇気がなかった。



 だから死にたくなった。自殺をしようと思うのだ。毎日毎日いじめられても学校に来る明日川さんは凄いと思う。僕の場合はいじめは一回だけで、ターゲットは明日川さんに戻った。それでも劣等感は消えなかった。



 ぐるぐると後悔が頭の中にずっと残っている。なぜ抵抗しなかったのか。払拭するには復讐だろうができるビジョンが見えない。



 死ぬ勇気があれば何でもできる、などというが、死ぬ勇気があってもできるのは死ぬことくらいだ。僕にとっては。



 学校で自殺しようと思った。理由はない。けれど、もしかしたら、首を切るための包丁で、いじめっ子を刺してやろうという気持ちがあった、のかもしれない。いやない。そう思いたかっただけだ。



 そしてそれが起こった。



 いじめっ子が内臓を撒き散らして、物言わぬ肉片に変わったのだ。







 血臭が鼻をつく。



 何が起こったのかは分かる。数学の時間だ。教師に当てられたいじめっ子が前へ、黒板の問題文の答えを書いていた。チョークが擦れる。



 不意にヒューっと口笛のような音が響いた。同時に彼の頭から足にかけて細い光が往復した。まるで刃物の一閃のようだったが、それは鞭のように長く、だが細く、しなやかだった。



 次の瞬間にいじめっ子は崩壊した。全身を輪切りに変えて。血肉と内臓を床にぶちまけた。



 静寂が落ちた。



 クラスメイトは何が起こったのか分かっていないようだった。黒板の下に堆積した血肉と内臓が、まばたきの前には生きていたとは信じられないように。



 コツン、と音がした。硬い靴音だ。上履きの音とは違う。その方を見ると、ベランダから男が教室に入って来るところだった。二十代だろう。見たことのない顔だ。胡乱な眼つきをしている。



 ここは三階だ。



 その胡乱な男はボサボサの髪をしていた。左の口角をつり上げて三日月のように笑っている。彼が右手を振り上げると、何故か口笛の音色が響いた。同時に右手の先、窓側の机二列が木っ端微塵に砕け散った。そこに座っていた生徒も含めて。



 鮮血と肉片がスプリンクラーのように撒き散らされた。



 座ったまま分解された生徒から臓物が飛び散った。床に散乱した手足が魚のように痙攣している。放物線を描いて飛んだ眼球が床に落ちた時に、胡乱な男は振り上げた右手を軽く振った。



 まるで羽虫を払うような動作だった。



 砕け散った机、その隣の机二列に座っていた生徒、十人すべての首が飛んだ。断面から噴水のように鮮血が噴き出して天井を濡らした。吹っ飛んだ生首があちこちに転がって、ここで呆然と立っていた教師が、



「なん」



 と、何か言いかけて爆発した。いや正確には全身の肉が弾け飛んだのだ。まるでミキサーにかけられたように。胡乱な男が教師に向けて左手を、指揮者のように振るっていたのは覚えている。それから口笛が響いたのも。



 ここで生徒の悲鳴がようやく上がった。いじめっ子が死んで、三十秒ほど経ったころだ。それだけの時間で二十人以上が殺害された。



 彼はいったい何者なのだろう。僕も殺されるのだろうか。あの、手を動かすたびに口笛が響いて、細長い線のようなものが飛び交うのは何なのか。まるで……糸のような。



 ふと明日川さんはと思い、隣の席を見た。笑っていた。心の底から嬉しそうだった。



 ガバッと席を立った女子は扉へ向かおうとして、しかし急に呻いて、首筋を押さえながら奇妙なダンスを踊った。その指の隙間から鮮血がほとばしり出ている。頸動脈が切られたようだった。別の席の男子が扉をくぐったが、悲鳴と鮮血が教室に帰ってきた。



 叫びながら男子が椅子を投げつけた。口笛が響いて、胡乱な男の眼前に、が幾何学模様を展開した。それにぶつかった椅子が砂粒のように分解されて落ちる。投擲のフォームのまま男子は積み木のように崩れ落ちた。派手な水音が響く。



 隣の席の女子を抱きしめた男子が、丸ごと切り刻まれた。何十等分にもされた血肉が床に落ちて混ざり合う。二人は恋仲だった気がする。あの痙攣する肉はどちらの物なのだろう。



 前の席に座っている生徒が死に絶えた。いや一人残っている。椅子を投げつけた男子の隣の女子だ。頭を抱えて震えている。明日川さんも生きている。僕も。チラと後ろを見ると女子が生きている。隣の男子は、最初に殺されたいじめっ子だ。



 胡乱な男はただこちらを見ている。その周囲を赤黒い線が漂っている。まるでタコの触手のように。しかし数は十本で、まるで糸のように細く……いやあれは糸そのものだ。赤黒く見えるのは付着した血肉だ。



 それから彼は何もしてこない。まるでやるべきことはやった、というように突っ立っている。黒板の前で。左頬をつり上げた、三日月のような笑みを深くして。値踏みの視線を注いできている。



 ……この教室には教師を含めて三十一人がいて、二十七人が殺害された。多くは原型がなく、血肉の集合体になっている。四人の生徒が生き残った。なぜ僕たちが生き残っているのか。その関係性はいやでも思い浮かぶ。



 いじめっ子と、いじめられっ子だ。







 沈黙を破ったのは明日川さんだった。



「じゃあちょっと待っててね」



 と彼女は言って席を立った。まるで友達に対して「忘れ物を取りに戻る」という感じだった。誰に対して言ったのか分からなかったが、



「ああ」



 と胡乱な男が応じた。まるで知り合いのようだった。いや実際、知り合いなのだろう。僕の知らないだけだ。



 次に響いたのは悲鳴だった。振り返る。後ろの席の女子、いじめっ子が大きく椅子を引いた。そのまま立ち上がって、扉へ向かおうとして、急にたたらを踏み、側頭部を押さえて呻いた。血が滲んでいる。壁に左耳が張り付いている。弾け飛んで引っ付いたのだろう。



 いじめっ子のそばを赤黒い糸が漂っている。黒板の方を見る。胡乱な男は一歩も動いていないから、あの糸の長さは二十メートルを超えているはずだ。



 明日川さんが近づく。いじめっ子は悲鳴を高くした。その手に包丁が握られていたからだ。何が起ころうとしているのかは明白だった。



 復讐だ。



 尻もちをついたいじめっ子の横に明日川さんは立った。横顔しか見えないし、目元は髪で隠れていた。口元は笑っていた。



 ガバッと立ち上がったいじめっ子がすぐに転んだ。その場に脚が散らばっている。切り飛ばしたのだろう、あの糸が。僕の眼には何か残像が往復するのしか見えなかった。



 いじめっ子は悲鳴を上げながら謝罪の言葉を述べた。内容はありふれていて、心のこもっていないような気がしたが、死にたくないという一心は伝わった。いや実際それは心からの謝罪なのだろう。加害者が言っているから空虚に聞こえるだけだ。



 明日川さんがいじめっ子を蹴り飛ばした。衝撃のまま横倒れになる。明日川さんがそこへ座り込んだ。僕は立ち上がった。位置的に見えにくくなったからだ。馬乗りになった彼女を、いじめっ子が振りほどこうとしている。



 チラっと黒板を振り返ると、胡乱な男は片眉を上げた。確かに眼が合った。それから手のひらで明日川さんを示した。まるで執事が「どうぞ」という感じに。



 ひょっとしたら僕は殺されるかと思ったが杞憂だった。ならば、せっかくだから、僕は明日川さんへ近づいた。よく見える。



 逆手持ちにした包丁がいじめっ子の肩を刺し貫いた。血が散る。暴れるいじめっ子の顔面を何度も何度も殴打する。明日川さんが顔を歪めて喜悦の声を上げた。いじめっ子の歯が折れて歪んでいく。肩から流れる血が床に溜まっていく。



 無造作に包丁が引き抜かれる。糸を引くように鮮血が切っ先から伸び、しずくになって落ちたのと同時に、切っ先はいじめっ子の腹に沈んでいた。内臓を傷つけたのだろう、この世のものとは思えない苦鳴が響いた。



 明日川さんは包丁をそのまま引き下げた。腹からへその方へ。筋肉の抵抗があるのか、あるいは包丁の切れ味のためか、鈍い動きで腹は裂かれていく。中身の内臓もおそらく切られているのだろう。いじめっ子がその手を押さえつけるが、ほぼ無意味だった。真新しい血臭がのぼる。



 口から血を吐き出しながら、いじめっ子が罵詈雑言を吐いた。その喉を彼女が掴んだ。電撃のような速さだった。明日川さんは鼻息を荒くしている。そのまま両手で締め上げていく。口の端から怒気を漏らしながら。やや過剰な反応に思えたが、何か心にくるものがあったのだろう。



 見る見る顔の赤くなるいじめっ子と眼が合った。口を動かすが締め付けられる喉からは空気すら漏れなかった。しかし何を言ったのかは分かる。「助けて」だ。



 いじめっ子は死んだ。







 明日川さんはしばらく死体に腰を下ろしたままだった。上気した表情で瞳をとろんとさせている。達成感に満ち満ちているようだった。辞書にはない感情に包まれているのだろう。喜びや充足が近い言葉だろうか。



 不意に明日川さんは、腹に刺さったままの包丁で死体を切り裂き始めた。血飛沫が散る。何をしているのかと思っていたら、彼女は手を死体の胸に突っ込んだ。切り開かれた胸から肉の千切れる音を響かせて、心臓が取り出された。



 いじめっ子の心臓を掲げて、見上げ、それを両手で握りつぶした。血が降る。



 明日川さんは血塗れの顔で満足げに頷いた。制服にも血が滲んでいく。これに意味を求めるべきなのだろうか。分からない。鮮血に塗れた彼女は視線を僕に移して、



「はい」



 と、包丁を差し出した。僕は意図が分からず首を傾げた。彼女とはそれほど仲良くない。隣の席という縁はあるが、挨拶をされたら僕が返す程度の関係だ。よく分からないまま包丁は受け取った。



 明日川さんは立ち上がった。それから僕の手を引いて、椅子に座って頭を抱えて震えるいじめっ子まで移動した。



「殺していいよ」



 と彼女は言った。いじめっ子は無反応だ。よく見ると耳を塞いでいる。ぎゅっと眼をつむっている。まるで嵐が通り過ぎるのを待つ子犬のようだった。



 僕はただ突っ立っていた。



 そのまま十分は経った。明日川さんは何も言わない。胡乱な男も、黒板の前でジッとしている。



 さらに十分が経った。



 いじめっ子がそっと眼を開けた。その表情は心なしか明るかった。嵐が過ぎたと思ったのだろうか。僕を見た。瞳に見下しを含んだ安心感が宿る。それから目線を下げて、悲鳴を上げた。



 いじめっ子は僕の持っている包丁を見て恐怖したのだ。



「殺さないの?」



 明日川さんが問うた。まるで餌を与えたペットに尋ねるような優しい声音だった。



 ああ、そうか。



 僕は今、復讐のお膳立てをされているのだ。



 いじめっ子が椅子から転げ落ちる。見下しを含んで僕を見て、恐怖を含んで明日川さんを見た。そして体育座りをして耳を塞いだ。眼を固く閉じている。現実逃避そのものだ。まるで眼を背ければすべてが解決すると思っているように。



「それは駄目だ」



 不意に声が飛んだ。見ると胡乱な男が――?



 なんだ、あれ。



 眼つきがおかしい。いや胡乱な眼差しは変わっていないのだが、その方向性とでも言おうか、とにかく眼つきがおかしい。まるで別人だ。ある種の情熱を感じる。嘲りがない。それに笑っていない。



「見るんだ。一度見たものは眼を閉じてもシュレ猫にはならない」



 そう言って彼は右手のスナップを利かせた。ひゅっと虚空が赤く閃いて鮮血が散った。いじめっ子の手の甲が軽く抉られていた。チラっと明日川さんを見ると困惑しているようだった。



「ああっ」



 といじめっ子は呻き、耳から手を放して眼を開けた。



「現実を観測するんだ。そして意思を行使するんだ。いいか」



 彼は淡々と述べる。その瞳には狂気にも似た情熱が灯っている。信仰も混じっているようだ。彼自身の哲学なのだろうか。しかしそれにしても別人にしか見えない。



「死ぬ気になれば死ぬことができるんだ。分かるか」



 いじめっ子は泣いている。あの意気揚々と明日川さんをいじめていた彼女からは掛け離れた、なんとも惨めな姿だった。鼻水が口に入って唾液と混じって滴る。胡乱な男の方を向いている。話を聞いている。



ということだ。成功するかは別として。これは因果の基本構造なんだ」



 彼は淡々と述べる。瞳を狂信者のように輝かせて、しかしほとんど抑揚をつけず、論文でも読み上げるように。いじめっ子はうんうんと頷いている。まるで今、生まれたばかりのひな鳥のようだった。



 明日川さんの表情に恐怖がかげった。話と違う、とでも言いたげな顔だ。それからいじめっ子を見、後ずさっていく。



 そして彼は言った。その一瞬、その瞳に捕食者のような鋭い光が見えた。



「そして因果を掌握する最もシンプルな方法なんだ。運命論など霧散させ、決定論でさえ途中で捻じ曲げられるんだ」



 洗脳という単語が脳裏をよぎった。



 彼は急に微笑みを浮かべて、優しい声音で次のように言った。今までの機械的な読み上げではなく、情緒すら感じる言い方だった。



「今キミは苦しいだろう。悔しいだろう。するべきことは分かっているが、怖くて動けないんだろう」



 一息ついて二の句を継ぐ。



「大丈夫だ。意思があるだろう。心があるだろう。それを行使する肉体があるだろう。因果掌握にはそれだけで十分なんだ。死ぬ気になれば、死ぬことができるんだ」



 空気が変わった気がした。



 血肉と内臓の匂いでよどんでいた教室に、餓えた獣のような鋭い生命力の風がふいた。そんな気がした。同時にいじめっ子が勢いよく立ち上がって突進した。後ずさる明日川さんの方へ。僕には見向きもしなかった。



 明日川さんが構えた。瞳に殺意を湛えて。細く息を吐き切るともう拳の間合いだ。明日川さんの右ストレートがいじめっ子の顔面をしたたかに打ち、いじめっ子の突進の勢いを乗せた右ストレートが同じように顔面を打った。



 双方鮮やかに決まった。クロスカウンター、という言葉がよぎった。いじめっ子の身体は突進の惰性で前へ、そのまま明日川さんを押し倒した。ぶつかった机が派手な音を立てて倒れる。



 馬乗りになったいじめっ子が両手を握り込んだ。ハンマーのようにした両手を振り上げた刹那、明日川さんが口から血を吹き付けた。毒霧めいて血の量が多い。歯でも折れたのだろうか。いじめっ子が眼を抑えて呻く。その隙に腹を殴りつけると、馬乗りの拘束が緩んだのだろう、明日川さんが立ち上がった。



 バックステップで距離を取り、助走を付けて前蹴りを繰り出した。いじめっ子は眼前に片腕をかざして防いだ。衝撃のまま倒れる身体を逆の手で受け身して横に転がった。すぐ机にぶつかるが、それでも押すようにして転がる。明日川さんの踵落としが空ぶって床を強く叩いた。



 いじめっ子が立ち上がる。その際に掴み上げていた椅子を薙いだ。サッと屈んだ明日川さんの頭上を通り過ぎて、すっぽ抜けた椅子が机にぶつかって派手に響く。立ち上がろうとした彼女の顎をいじめっ子の爪先がとらえた。痛烈な蹴り上げが決まった。



 口の端から血の混じった唾を飛ばし、よろめきながらも、明日川さんは左拳を横殴りに振るった。それが顔面に迫る右ストレート、その手首を弾いて軌道を変えた。がら空きのいじめっ子の鼻っ柱に、右拳が貫くように打ち込まれた。



 いじめっ子はたたらを踏み、しかしそれでも一歩前へ踏み込んだ。引いた右手を固く握りしめながら。



 だが明日川さんの方が速かった。



 踏み出したいじめっ子、その顔面に手の平を押し当てて、その脚に外側から脚をかけて払った。柔道でいう大外刈りに近い動きだ。柔道と違うのは、明日川さんが相手の顔面を押し込むようにして倒したという点だ。



 すなわち、いじめっ子は後頭部から床に突っ込むことになる。



 受け身は意味をなさない。自由な両手は確かに先に床に付いて、身体への衝撃を軽減させたが、強引に後頭部を床に叩きつけられたからだ。明日川さんは自身を押し付けるように動いていた。同年代の体重を受けきれるほど、その細腕は強くなかった。



 嫌な音が響いた。



 仰向けのいじめっ子が大きく震えた。まるで心臓の鼓動に全身が揺れるように。その上にのしかかった明日川さんが荒い呼吸を響かせる。だらしなく開いた口から血が垂れる。前歯が折れていた。



 やがて止まった。



 いじめっ子は死んだ。彼女は復讐に抗ったが成功しなかった。その死に顔はしかし満足そうに笑っていた。



 沈黙が落ちる。



 僕と明日川さんだけが生き残っている。







「大丈夫?」



 明日川さんが言った。



 胡乱な男が答える。



「僕は……何か言っていたか」



 顔色が悪い。冷や汗が浮かんでいる。黒板に背中を押し付けて、辛うじて立っているようだった。それでも笑っている。左の口角をつり上げて、三日月のように笑っている。初めて見た時と同じだ。



「因果掌握とかなんとか」



「そうか……ならいい。アザミちゃん、ここはもう終わりでいいんだよね」



「うん」



 明日川さんが頷く。その寸前に僕の方を見たのはなぜだろう。分からない。というか分からないことだらけだ。彼は誰だ。明日川さんは何をしようとしているのか。僕はなぜ生かされているのか。



「じゃあ次だ」



「そうだね」



 二人は教室から出ようとした。それを僕の声がさえぎった。



「その人は誰なの」



 明日川さんは立ち止まって、胡乱な男の方を見た。彼はただ笑みを返した。



「知らない。なんか出会った」



 明日川さんは素の表情で、記憶をそのまま話すように言った。これ以上の情報は胡乱な男に聞くしかないだろうが、きっと答えないだろう。実際、



「あなたは……人間なんですか」



 と尋ねたが、微笑みだけを返された。僕は視線を明日川さんに戻して、



「何をやろうとしているの」



「皆殺し」



 明日川さんが笑った。血塗れの彼女の笑顔は美しかった。



「どうして」



「うーん。……分かんない。みんな死んじゃえって思ってるの」



「僕も?」



「君は違うよ。私と同じだからね。あ、ごめんね、私のせいでいじめられたことがあったでしょう」



「えっ」



「あの子たちが言ってたの。『明日川の隣の席だという理由でいじめてやったぞ、お前は申し訳ないと思わないのか』って。ごめんね。何をされたのかは分からないけれど、辛かったでしょう」



 明日川さんは様々なしぐさを使いながら喋っていた。こんなにも情緒豊かだったのかと驚く。その動作のすべてを美しいと思った。血に塗れているが関係ない。



 鮮血にはすべてが映える。



 そう思う。いや、もしかしたら、この感情は……。



「狂ってると思うでしょう。でも、それをしたいと思ったの」



「僕はこれから自殺するよ」



 明日川さんは眼を見開いた。それから少し悲しそうな瞳をして、しかし力強い眼差しを向けて、



「頑張ってね」



 と言って微笑んだ。僕はそれがたまらなく嬉しかった。なぜ彼女に伝えたくなったのか、自分でもよく分からない。いや分かる。きっとこれは、告白の代償行動なのだろう。



 僕は明日川さんが好きになったのだ。それが叶わないのは明白だ。彼女は人間のことわりから外れることを選んだのだから。それでも、せめて彼女の記憶に残りたいという僕の気持ちが口をついて出た。



 それだけだ。頭の中ではいまだに劣等感が消えない。確かにいじめっ子は死んだ。だがそれだけだ。植え付けられた劣等感は消えない。ただ死にたい。僕の心がそれを望んでいる。



「じゃあね」



 明日川さんが手を振った。



 僕も返す。



「じゃあね」



 教室から誰もいなくなった。



 僕の右手には包丁がある。明日川さんがいじめっ子を刺し、その胸を切り開いて心臓を取り出した物だ。それを捨てる。いじめっ子の血と混じりたくないと思ったからだ。



 自分の学生カバンから包丁を取り出す。



 大きく深呼吸をして、教室を見渡す。



 血肉と内臓と死体の空間だ。僕もこの一部になる。



 包丁を喉に突き付ける。皮膚の弾力が切っ先を受け止めているのが分かる。そのまま一息に差し込んだ。喉を裂いて気道を通り抜け、冷たい刃の温度を感じた。次の瞬間に喉が熱を帯びる。急速にこみ上げた吐き気のままに吐き出す。



 口から鮮血がほとばしり出た。刹那ありえないほどの立ちくらみを食らって床に膝をついた。包丁を握る両手が震えている。強いて力を込め引き抜くと、決壊したように鮮血が噴出した。吸い取られるように体温が消え失せていく。



 支える糸が切れたようにうつ伏せに倒れた。僕の血溜りが飛沫を上げる。力が入らない。視界から色が消えていく。



 自分の身体の所有権が消滅していく。そんな気がする。



 血溜りにつけた耳が床越しの悲鳴を聞いた。下の教室で何か起こったのだろう。あの胡乱な男の糸が閃いて、生徒の身体を切り刻んだのだろう。そのそばには明日川さんがいる。



 最後に見た明日川さんの笑顔を思い出す。全身に一瞬、熱が灯った。



 熱はすぐに消え失せたが、何も怖くない、僕は僕の意思を、心を行使したのだ。確かな充足がある。死ぬ気になれば死ぬことができる。



 そして自殺が成功する。

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