エピローグ
紫杏はマンションの前で、冷一を待っていた。
もうすぐ出て来るはずだ。自動ドアが開いて、本で半ば顔を隠した彼の姿が――。
――来た……。
「冷くん、おはよう」
出来る限り明るく声を掛けたのに、冷一は顔も上げず、無愛想に返事だけ寄越した。
「……おはよう」
――相変わらずだな、もう……。
「……」
「……」
他に誰もいない通学路を、二人はしばらく無言で歩いた。いつもと同じ朝。いつもと何も変わらない。
並んだ冷一の横顔を、そっと観察してみる。――眼鏡、全然似合ってないのに、どうして変えないんだろう……。
……いけない。そんなこと考えてる場合じゃなかった。
「あのね、冷くん」
紫杏は沈黙を破って切り出した。
「――今日、バレンタインでしょ……」
冷一は紫杏の提げている紙バッグをちらりと見て、ため息をつきながら本を下ろした。
「お前な。いちいち俺に相談に来るなよ」
「は?」
「俺は協力しないからな。バレンタインのチョコくらい、自分で好きな相手に渡せ」
「な、何言ってるの。そうじゃなくて、これは」
「小学校の頃とは違うんだ。もうすぐ中三だぞ。いつまでも俺に頼りっぱなしでどうするんだよ」
紫杏は立ち止まり、紙バッグを持つ手に力を込めた。
「――代わりに渡してくれなんて、誰が頼んだの? 私は……このチョコは……」
涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「冷くんのばか!」
捨て台詞を残し、紫杏は冷一の前から走り去った。
――冷くんのばかばか。何であんな意地悪なの。人の話を聞こうともしないで。もう、知らない。
途中でつまずき、靴が片方脱げてしまったが、気にしなかった。走って、走って、走って――。
『日野原さん』
――ふと、誰かの声を聞いた。
『逃げちゃだめだよ』
「え?」
紫杏は辺りを見回した。
学校前のバス停。バスはまだ来ていない。人の気配もない。ただ、風がそよいでいるだけだ。なぜか懐かしいような、優しい風。――その風が、声を運んで来た。
『ちゃんと、伝えなきゃ。後悔しないように』
胸が温かくなり、紫杏は自然に頷いていた。
「……うん」
風が笑った気がした。
「誰――?」
紫杏はもう一度、辺りを見回した。
風は答えなかった。代わりに、別の声が呼んだ。
「紫杏」
振り向くと、すぐそばに冷一が立っていた。紫杏の靴――さっき落とした片方の靴を手にして。
「あ……」
「まるでシンデレラだな」
「……わざとじゃないもん」
「こんなぶかぶかの靴履いてるから悪いんだ」
紫杏は冷一を見上げた。見下ろす冷一と、視線が絡み合う。
――逃げちゃだめだ。ちゃんと伝えなきゃ。後悔しないように――。
「じゃあ、ホワイトデーには靴をちょうだい。私の足にぴったり合う靴」
返事を待たず、紫杏はチョコレートを冷一の方へ差し出した。
「……え?」
風が二人の間を通り過ぎ、遙か彼方へと遠ざかって行った。
あなたをとりこにする魔法 波野留央 @yumeyuki
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