――三月三日――

 ふと、冷一は顔を上げた。

 ――今、何か聞こえたような……。

 壁の時計を確認すると、六時になっていた。

「もうこんな時間か」

 本を閉じようとした時、玄関のインターホンが鳴った。親はまだ帰って来ないはずだが――。

 急かすように再びインターホンが鳴ったので、冷一は直接玄関に出て応対した。

「誰?」

「ドアを開けてから言うことじゃないと思うけど」

 呆れ顔で外に立っていたのは深紅だった。

「どうした?」

「どうしたじゃないよ、もう」

 今度は膨れっ面になって、深紅は言った。

「冷一、携帯の電源切ってるでしょ」

「携帯?」

 冷一は自分の部屋を見やってから、少し考えた。

「ああ……学校に忘れて来たかも」

「全く! あのね、紫杏がまだ帰って来ないの」

「……まだ心配するほどの時間じゃないだろ」

「でも、少しでも遅くなる時はいつも知らせて来るのに、変だよ。携帯も繋がらないし。で、冷一のとこには何か連絡なかったかなって」

「何で俺のところに?」

「だって二人は付き合ってるんでしょ。恋する乙女ってのは、困った時は真っ先に好きな人を頼るものなのよ」

「……」

 冷一はため息をついた。

「何度も言ってるけど、俺と紫杏はそういうんじゃない」

「照れることないのに。私は小さい頃から見てて、みんなわかってるんだから」

「違うよ。……少なくとも、紫杏は違う」

 だが、何かあったら相談しろと言ってあるから、連絡はして来たかもしれない。

 冷一は部屋に戻り、ハンガーからコートを外した。

「どこ行くの?」

「携帯、多分屋上だ。取りに行って来る」

「待って、私も行く。紫杏、まだ学校にいるかもしれないし。その前にちょっと、勇に電話させて」

 素早く携帯を操作した深紅が、表情を曇らせた。

「何で? 勇にも通じない……。ま、いいや、メールで……」

 靴を履きながら、冷一は聞いた。

「お前、学校まで一気に飛べる?」

 深紅は携帯に目を落としたまま答えた。

「瞬間移動でってこと? そんな長距離は無理。一度飛んだら時間空けないと次が出来ないし」

「じゃあ、先に行く」

「えっ、ずるい」

 深紅の抗議は聞こえなかったことにしてドアを閉め、冷一は意識を学校の屋上へ向けた。

 飛んだ先は、黒い雲の下だった。

 頭上に覆い被さる、巨大な暗雲。――何かおかしい、と思った。たった今、深紅の後ろに見えていた空は、こんなじゃなかったのに。それに、この空気……。

 ――誰かが、俺の魔法を解いた……?

 冷一は首を巡らした。フェンスの輪郭が辛うじて見て取れるものの、足下さえおぼつかない状態だ。

「こう暗くちゃ、携帯は探せないな――明かりを持って来ないと」

 踵を返し掛けた時、人の気配を感じた。フェンスの前に誰かがいる。

 誰だ? 紫杏か? ――いや、違う。闇に浮かんだシルエットは、紫杏より背が高かった。男子生徒のようだ。ぼんやりと佇む後ろ姿は存在感がなく、どこか途方に暮れているようでもあった。こんな時間にこんな場所で、一体何をしているんだ?

 近付いて問い質すべきかと迷っているうちに、相手が口を開いた。

「あなたが来るとは思わなかったよ」

 声を聞いた途端、誰だかわかった。落ち着き払った、感情の読めないその声は――。

「林崎……」

「やっぱり桔流の方が、明堂先輩より能力が上なんだね」

 林崎はゆっくりと振り返った。

「ひょっとしてこの魔法、あなたが掛けてるのか?」

「魔法?」

 冷一は首を傾げた。

「ここに掛けてあった魔法のことを言ってるなら、あれは害のある人間を寄せ付けないようにするだけのものだし……今はもう消えてるよ」

 林崎は頷いた。

「この屋上に掛けられていた魔法は完全に取り除いたし、明堂先輩の魔力も封じた。ずっと手放せなかった未練も捨てたのに、どうして僕は行けないんだろう」

「行くってどこへ?」

 林崎が答えないので、冷一は質問を変えた。

「紫杏がまだ家に帰ってないらしいんだけど――お前、心当たりある?」

「あると思ってここに来たんだろう」

「違うよ。ここに来たのは、昼間置き忘れた携帯を探すためだ。紫杏から連絡があったかもと思って」

 張り詰めていた空気が不意に緩んだ。

「何だ。全部わかってたんじゃないのか」

 冷一は少しむっとした。

「彼女のことなら心配しなくていいよ。明堂先輩も――僕の魔法がうまく行ったら、ちゃんと帰れるようにしてあるから」

「あのな、悪いけど何の話かさっぱりわからない。ばかな俺にもわかるように、一から説明してもらえないかな」

 林崎は答えず、フェンスにもたれて横を向いた。冷一も大分目が慣れて、相手の表情が窺えるようになった。心の内は全く窺い知れなかったが――。

「……桔流は、パラレルワールドってどう思う?」

「は?」

 いきなり何なんだ、と訝りながらも、冷一は真面目に考えた。

「存在するかしないか――ってことか? それとも、あると仮定して……?」

「もし行けるなら、どんな世界に行きたいと思う?」

「別に。俺はここでいいよ」

「……同じことを言うんだね」

「誰と?」

 これにも林崎は答えを返さなかった。

「僕はね、魔法なんかない世界へ行きたいと思ったんだ。そして、誰も僕を知らない世界――もしかしたら、僕を受け入れてくれる『誰か』が、いるかもしれない世界。そんな世界へ行きたいと願った。そうして辿り着いたのが、この世界だった」

 林崎は俯いていた顔を上げた。

「ちょうど一年前の今日、僕はこの世界に来た――こことは別の世界――パラレルワールドから」

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