――二月二十五日――

 あっと言う間に日が流れ、週の終わりになっていた。

 表面上はこれまでと同じように、和やかな学校生活が続いた。表面上は、林崎に変わったところはなかった。これまでと同じように優しく笑い、これまでと同じように親切にしてくれる。けれど紫杏には、どこか距離が出来てしまった気がしてならなかった。これまでと違う、見えない距離が。

 静香の話は、全部が本当ではないにしても、全部が嘘でもないはずだった。月曜の朝、林崎と明堂が互いに敵意を持っていたのは明らかだ。それに、静香のチョコレート……。

 ――私は何も知らなかった。自分のことばかり考えていて、何も気付かなかった。

 それでも紫杏は――林崎に対してはもちろんのこと、明堂や深紅にさえ――事実を確認出来ないでいた。確認するのが怖かったのだ。

 ――今日が終われば、二日間、林崎くんには会えない――。

 どうにかして話せないか、タイミングを探しているうちに、終業のチャイムが鳴った。林崎が机の上を片付け始める。

 ――待って、まだ帰らないで。

 声を掛けようと、僅かに腰を浮かした時だった。

「最近おとなしいじゃない」

 紫杏ははっとして動きを止めた。

 静香が、林崎の席の前に立っていた。

「痛い目見て、少しは懲りた?」

 林崎はちらっと目を上げてから鞄を閉じ、微笑んで静香を正視した。

「何のこと?」

「平静装っちゃって。自分が一番だと思ってたんだろうから、してやられて悔しいのはわかるけどさ」

 林崎は笑みを崩さなかった。

「……何のこと?」

「食べたんでしょ、私があげたチョコレート」

「ああ、あれか」

 紫杏は二人のやり取りを、固唾を呑んで見守っていた。

「あんなにあからさまな害意を感じる魔法は初めて見たよ。僕一人に向けられていたようだったけど、間違って誰か他の人に降り掛かると大変だから、受け取った時すぐに取り除いて置いた」

 林崎はそこで、ほんの一瞬、紫杏に視線を向けた。

「嘘。私が渡した時はそんな素振り見せなかったわ」

 静香が言い募る。

「そう……あなたは本当に、自分が魔法を掛けたものだと信じて持って来たんだね」

「何よ。どういう意味?」

 林崎はまた、紫杏を見た。紫杏は何も言えなかった。

「ちょっと聞いてるの?」

「外で話そう」

 林崎がそう口にした途端、二人の姿がぱっと消えた。

 紫杏は思わず立ち上がった。

 ――どこに行ったの? 外――外って言った。外のどこ?

 とりあえず、一階まで駆け降りる。

 昇降口を出てすぐの階段の下に、二人の姿はあった。

「負け惜しみ言うのはやめなさいよ。本当はダメージがあったんでしょ。魔力が足りなくて、それで仕返しも出来ないんだ」

 静香が興奮した様子でまくし立てている。林崎の方は冷静そのもので、まだ笑みを浮かべていた。

「バレンタインデーのお返しは、ホワイトデーにするものだろう? ……でも、せっかくだから今渡そうか」

 林崎が手を動かすと、空中に赤い紙バッグが現れた。紫杏はそれに見覚えがあった。バレンタインの日に拾った――静香の紙バッグだ。

「あなたが魔法をくれたから、僕もあなたに魔法をあげるよ。あなたの入れ物を再利用させてもらったけど、いいよね?」

 静香が後ずさった。紙バッグから魔力が溢れ出ているのが紫杏でもわかる。

 ――林崎くん、何をするつもりなの?

「受け取ってよ」

 林崎はあくまで笑顔だ。

「さあ」

 静香が前に出た。操り人形を思わせる、ぎこちない足取りで――本当は従いたくないのに、体が勝手に動くとでもいうように。

「やめて……」

 彼女は抵抗したが、無駄だった。伸ばされた指先が、林崎の差し出す紙バッグに触れる――。

「待て!」

 バシッという音がして、一筋の閃光が紙バッグを弾き飛ばした。

「――明堂先輩!」

 林崎から少し離れた位置に、明堂が立っていた。その後ろには深紅もいる。――四日前の朝と、そっくり同じ光景だった。

 林崎は首だけ動かして明堂を見た。

「どうして俺が来たか、知りたいなら教えてやるよ」

 明堂は不敵に笑った。

「お前が魔法を使うと反応する見えない探知機を、こっそり仕掛けといたのさ」

「面白いこと考えるね」

 面白いと言いながら、林崎に面白がっている様子はなかった。

 静香が悲鳴を上げた。見ると、地面に落ちた紙バッグから静香に向けて、青白い光が流れ出していた。彼女が追い払おうとして腕を振る度に、光の糸は増え、蛇のように絡み付いて行く。

 近付き掛けた深紅を、明堂が素早く押さえた。

「ばか、やめろ!」

「だって……加勢してやらないと」

「巻き添え食らいたいのか? お前の力でどうこう出来る代物じゃない――見ろ」

 静香を取り巻いていた光の帯がすうっと消えた。

「な、何で?」

 静香は両手を顔の前で広げ、わなわなと震えていた。

「魔法が……使えない……」

 林崎は紙バッグに目を落とした。

「こんなものに収まり切ってしまうのか。大した力はなかったんだね」

 赤い紙バッグは、煙のような黒い光で膨らんでいた。

「何したの? 何したのよ!」

 静香が金切り声で叫ぶ。

「あなたの魔力はこの中だよ。全部奪うつもりはなかったんだけど……まあいいや」

 相変わらず穏やかに微笑んだまま、林崎は言った。

「それ、いらないから、欲しい奴がいたら持って行きなよ。――もっとも、もう取り込むことは出来ないだろうけど」

 背を向けた林崎に、答える者はいなかった。明堂も深紅も、まるで金縛りに遭ったように硬直していた。

 ――みんな、動けないんだ。これも林崎くんの魔法?

 けれど、階段の上にいる紫杏にまでは、作用が及んでいなかった。紫杏には、林崎を追い掛けることが出来た。

「紫杏ちゃん、待て」

 明堂の制止も耳に入らなかった。どんどん歩いて行く林崎を追って、紫杏はどんどん走った。

「林崎くん!」

 いつものバス停まで来たところで、林崎は足を止めた。

「どうかした?」

 何事もなかったかのように、振り返って笑う。

「あの……」

 紫杏は口ごもった。

「……どうして、あんなことしたの?」

「あんなことって?」

「坂巻さんの魔力を、どうして……」

「どうしてだと思う?」

 林崎は朗らかに話していたが、そこにはいくらかよそよそしさが感じられた。悲しくて、紫杏はいつになく強い口調になっていた。

「坂巻さんの魔法には、みんなが迷惑してた。気に入らない相手を傷付けたり、呪いの掛かったチョコレートを作ったり、そういうことをさせないために、魔力を取り上げたんだよね」

「……」

「……だけど……だめだよ、林崎くん。あんまりやり過ぎると、明堂先輩が……」

「あの人に、そう言えって頼まれた?」

「え……」

「あなたこそ、あまり首を突っ込み過ぎると、ただでは済まなくなるよ」

 林崎が一歩、紫杏に近付いた。

「僕が彼女の魔力を取り上げたのは、自分の力を誇示するためだ――二度と逆らえないように」

 紫杏は一歩も引かなかった。

「林崎くんはそんな人じゃないって、私、知ってるよ」

「そう。でもそれは嘘だから、忘れた方がいいよ」

 ――どうして? どうしてそんな、突き放すような言い方をするの?

 沈黙した二人の前に、バスがゆっくりと滑り込んで来た。

「それじゃ、日野原さん」

 ドアが開くと、林崎はステップに上がった。

「またね」



 林崎が行ってしまったあとも、紫杏はしばらくその場に佇んでいた。

 もっと、聞きたいことがあった。もっと、言うべきことがあった。けれど、口にする勇気がなかった――。

 ポケットの携帯電話が鳴った。――電源は切ってあるはずなのに、とぼんやり考える。

「紫杏ちゃん……紫杏ちゃん」

 着信音が、呼び掛ける声に変わった。明堂の声だ。紫杏は携帯を取り出し、耳に当てた。

「はい」

「ああ、紫杏ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫です」

「林崎と一緒なのか?」

「いいえ」

 電話越しに、明堂のほっとした様子が伝わって来た。

「本当に大丈夫なんだね。何もされてないね?」

「林崎くんが、何をするって言うんですか?」

「しただろう、たった今」

 紫杏は携帯を強く握り直した。

「あの……坂巻さんは」

「深紅が保健室に連れてったよ。大分取り乱してたから」

「坂巻さんの方が先に、林崎くんを傷付けようとしたんです。だから林崎くんは……」

「何かされたら、何をやり返してもいいのか?」

 明堂の語調が険しくなった。

「あの子だけじゃないんだ。三年の生徒も何人か、あいつに魔力を奪われた」

「林崎くんがテストで不正をしたって、疑ってた三年生ですか」

 数秒の間があった。

「……どうして知ってる?」

「坂巻さんに聞きました」

「そうか……。なるべく噂が広まらないように気を付けてたつもりなんだけどな。どこから漏れたんだろう」

 とぼけているのかと思い、紫杏は確認してみた。

「坂巻さんは仲間だから、全部話してあるんじゃないんですか?」

「仲間って? ――ああ。林崎を懲らしめるなら手を貸すとか、あの子がしつこく言って来たのは確かだけど、俺は取り合わなかったし、何も教えてないよ」

「そうなんですか……」

 それなら彼女は、どうして……。

「――あ、深紅が戻って来たから、そっちに行くよ。家まで送る」

「いえ、一人で帰れ――」

 言い終わる前に通話が切れた。

「――ます」

 言い終わった時には、明堂と深紅が通りの向こうに立っていた。

「紫杏、無事で良かった」

 深紅が駆け寄って来る。

「無茶しないでよね、全く。坂巻さんみたいなことになったらどうするの? ――まあ、彼女は自業自得だったかもしれないけど」

 紫杏は複雑な気持ちで、深紅から明堂へ視線を移動させた。

「あの……明堂先輩」

「何?」

「チョコレートのこと……明堂先輩が指示したんじゃないんですね」

「当たり前だろう。俺は林崎のしていることをやめさせたいだけだ。口で脅しただけで、手は出してない」

「でも、他の三年生は手を出したんですよね」

「ああ――まあね」

 明堂は苦り切って答えた。

「四、五人で囲んで、校内トップの実力を見せろと迫ったらしい。魔法で林崎を打ち負かせば、不正の事実が明らかになる――そういう狙いがあったんだろうが、結果は――」

「テストの成績に疑う余地はないって、証明されたわけね」

 深紅の言葉に頷いてから、明堂は続けた。

「そりゃ、三年生の方にも非はあるよ。言い掛かりを付けて、寄ってたかって下級生をいびったんだからな。だけど、それにしたって魔力を奪ってしまうのは度を越してる。林崎にそんな権利ないだろう。おまけに今度はみんなの記憶をいじったりして、めちゃくちゃだよ。調子に乗ってるとしか思えない。ほっといたらますますエスカレートするよ」

 やめて、と叫びたくなった。――林崎くんのことを、そんな風に言わないで。けれど、明堂は紫杏の心の叫びに気付かなかった。

「そうだ、紫杏ちゃん。君があいつの魔法に掛からなかったことだけど……あいつには、くれぐれも知られないようにするんだよ」

「どうしてですか?」

「もしそのことで、君が邪魔になると判断したら、林崎は何をするか……。俺もじき卒業して、今までみたいに目を光らせていられなくなるし」

「そんな言い方しないで下さい。まるで、林崎くんが悪者みたい……」

「だって、危険なんだよ。わかるだろう? あいつの力は尋常じゃない」

 紫杏にはわからなかった。明堂は自分も強い魔力を持っているから感じるのだろう。けれど、紫杏には……紫杏にとっては、林崎は普通の男の子だった。物静かで、目立たないけれど、優しくて……。

 ――どんなにすごい魔法が使えても、林崎くんは林崎くんだよ。

 それは以前、林崎が紫杏に言ってくれたことだった。

『魔法が上手か下手かなんて関係ない。あなたはあなただよ』

 能力が低いからといって、気にすることなどないんだ――彼はそう言ってくれた。彼は紫杏の心を温かくしてくれた。彼の隣にいられるだけで、紫杏は幸せだった。

 ――それなのに……どうしてこうなっちゃったんだろう。

 目に涙が滲んだ。

 あの、魔法の能力テストさえなかったら……。魔法さえなかったら……。魔法、魔法、何もかも魔法のせいだ。――魔法なんて、なければ良かったのに。

「……魔法が、存在しない世界」

「え?」

 明堂が紫杏の呟きに反応した。

「そんな世界が、もしあるなら、私、そこに行きたい……。もう、こんな世界嫌だ」

「紫杏ちゃん……」

 ――何も出来ないで泣いている、こんな自分はもっと嫌だ。

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