――二月二十一日――

 目を覚ますと、微かな違和感があった。

 昨日と同じ朝。――でも、何かが違うような……?

 寝ぼけて頭がはっきりしないまま、紫杏は枕元の時計を見た。六時四十分。ようやく、昨夜あのまま眠ってしまったのだと気が付いた。

 そのあとだった――明堂のメールが脳裏に蘇ったのは。



『――明日にはきっと、元の世界に戻ってるよ――』



 紫杏はばっと布団をはね除けた。

 ――まさか。まさか、本当に?

 手早く制服に着替え、外に飛び出すと、前日とは打って変わっていい天気だった。眩しいほどの日の光が、積もった雪をきらきらと輝かせている。凍って滑りやすくなった道を、紫杏はひたすら走った。前にもこんなことがあったな――とふと思う。

 バス停の前に着いた時、ちょうど向こうからバスが近付いて来た。紫杏は立ち止まり、乱れた呼吸を整えた。

 バスが停車すると、大きな車体に遮られて、紫杏のいる位置からはバス停が見えなくなった。ドアの開く音――すぐまた閉まる音――やがて、バスはゆっくりと走り去り――。

 そこに、彼がいた。他には誰もいなかった。バスから降りて、ベンチの前に立っていたのは――彼だけだった。

「……林崎くん……」

 紫杏は上ずった声で呟いた。

 懐かしい光景。いつもと同じ。今までと同じ。――もしかしたら、まだ夢の中にいるのかもしれない。ううん、夢でもいい。夢でもいいから、消えないで。

 紫杏の漏らした呟きが耳に届いたのか、林崎はこちらを向いた。見つめ合うと、胸が苦しいくらいに高鳴る。

「お……」

 空気を壊さないように、紫杏は掠れた声でそっと言った。

「おはよう、林崎くん」

「おはよう、日野原さん」

 林崎が微笑んだ。

 紫杏は両手で口を覆った。涙が出そうだった。

 ――林崎くんの笑顔。ずっと、ずっと見たかった笑顔。ああ……戻って来たんだ。私、戻って来られたんだ。林崎くんのいる世界に。

「……あの、早いんだね、林崎くん」

「日野原さんこそ。どうしたの?」

「私……私は……林崎くんに話したいことがあって……」

 ――言わなくちゃ。また離れてしまう前に、私の思い、伝えて置かなくちゃ。

 紫杏は顔を上げた。

「あの、林崎くん」

「何?」

「わ、私……私ね――」

 ――言うんだ。早く。

「林崎く――」

「紫杏!」

 誰かが紫杏の腕を掴んだ。

「え……冷くん?」

 まるで邪魔をするかのようなタイミングで現れた冷一を、紫杏は恨めしげに見上げた。――どうしてここにいるの?

 冷一は紫杏の態度に構うことなく、ぐいと自分の方へ引き寄せた。

「何するの」

 抗議しようとした時、視界の隅に明堂の姿が映った。いつの間にか、林崎の横に立っていたのだ。深紅もいる。――どうして?

「お前、元の世界に帰れたんだって思ってるだろうけど」

 冷一が紫杏の耳元で囁いた。

「違うから」

「え?」

「きっといると思ってたよ」

 明堂が林崎を見据え、抑えた声音で言った。

「これ以上勝手は許さない。俺も本気で掛かるから、覚悟しとけ」

「……そう」

 林崎は僅かに眉を動かした。

「なるほど。クズばかりじゃなかったか」

 ――え?

 紫杏は耳を疑って林崎を見つめた。

 ――どうして? どうして林崎くんが、悪役みたいな台詞を口にするの?

「計算外だったな。そこまで力を持った人間が、この学校にいたなんて」

「もしいるなら俺だろうってことくらいは予想出来たよな?」

 にやりとした明堂に、林崎は微笑を返した――とても冷たい微笑を。

 ――どうして林崎くんが、悪役みたいな顔して笑うの? わからない。頭が付いて行かない。一体、何がどうなっちゃったの――?

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