第三章 奇妙な成り行き
――――
あれはいつだったろう。
買い物帰りに、犬に追い掛けられたことがあった。大きな犬。逃げても逃げても、どこまでも付いて来て……。挙げ句に紫杏は転んでしまった。
その時助けてくれたのが――。
『こら。女の子をいじめちゃだめだよ』
――林崎だった。
『立てる?』
犬が行ってしまうと、林崎は紫杏に手を差し伸べた。
『う、うん』
『怪我はないね』
『うん。大丈夫』
紫杏は林崎に掴まって立ち上がった。
『犬、怖いの?』
『だって……追い掛けて来るから』
『あなたと遊んでいるつもりだったんだよ』
ふと、林崎は足下に目を落とした。
『靴……片方履いていないけど、どうしたの?』
『あ、多分階段を駆け降りた時に、脱げちゃったんだと思う』
『階段で――?』
林崎が突然笑い出したので、紫杏はびっくりした。
『な、何?』
『……ごめん。そんな童話があったなと思って』
『え……』
『誰かがあなたの靴を手に入れようと、階段に接着剤でも塗って置いたんじゃない? そのうち王子様が、靴の持ち主を探しに来るかもしれないよ』
紫杏は真っ赤になった。
『か、からかわないで。それに、探しに来たって無駄だよ。私の足には合わないもん。ぶかぶかなの。だから脱げちゃったの』
『ごめんごめん。靴、取って来てあげるから、機嫌を直して』
『え、いいよ』
自分で行く……と言おうとした時にはもう、林崎はさっと駆け出していた。
『林崎くん……』
胸が温かくなるのを感じながら、紫杏は彼の後ろ姿を見送った。
――私なんかに、こんなに親切にしてくれるなんて、林崎くんていい人だな……。
しばらく待っていると、林崎が戻って来た。
『階段にはなかったよ。近くもざっと探してみたけど……』
『さっきの犬がくわえて行っちゃったのかな』
『困ったね』
『もういいよ。私、このまま帰るから。ごめんね、林崎くん。本当にありがとう』
『待って』
紫杏を引き止め、林崎はにっこり微笑んだ。
『代わりの靴を用意するよ』
『そんな……私は裸足でも大丈夫……』
『いいから、そこに座って』
促され、紫杏は石段に腰を下ろした。
『サイズはどうかな』
そう言って、林崎は手品のように靴を取り出した。初めて林崎の魔法を目にした紫杏は、一瞬、彼が常に女性用の靴を持ち歩いているのかと思ってしまった。
『履いてみて』
『うん……』
『何とかなりそうだね。これなら脱げる心配もないだろう』
『ありがとう』
『どういたしまして』
林崎はとても優しい眼差しを、紫杏に向けた。
その時から、林崎は紫杏にとって『特別な人』になった。憧れはいつしか恋に変わった。ずっと、そばにいて欲しい――そう思うようになった。
そして、紫杏はバレンタインにチョコレートを渡す決心をした。
――気持ちが揺らがないように、朝一番で渡そう。学校のそばのバス停で、彼を待ち伏せして……。
林崎も冷一と同様、滅多に魔法を使わない人で、通学にはバスを利用している。朝、紫杏がそのバス停の前を通ると、ちょうどバスから降りた彼とばったり会えることがあった。林崎は紫杏を振り返り、「おはよう」と言って笑ってくれる。彼の笑顔を見られた朝は、その日がいい一日になるような気がして嬉しかった。
けれど、バレンタインの日は、良くないことばかり起こった。学校へ向かう途中、冷一と喧嘩になり、息を切らしてバス停まで走った。おまけに雨が降り出して――。バスを待つ間、紫杏は泣いていた。チョコレートを脇に置き、屋根の下で雨を避けながら。
『――どうしたの?』
林崎に声を掛けられた時はうろたえた。バスに乗って来るとばかり思っていたので不意打ちだった。心の準備が出来ていない上に、泣いているところまで見られてしまった。
そして、彼の口にした言葉は、紫杏に更なるショックを与えた。
『あなたみたいなか弱い女の子に優しく出来ないなんて、桔流は困った奴だね』
――林崎くんが私に優しくしてくれるのは、私がか弱いからなんだ。
――林崎くんは私のことなんて、何とも思ってない。
『泣かないで』
林崎は紫杏の頭をそっと撫でた。傘が斜めになって、彼の髪に雨粒が当たる。
『濡れちゃうよ、林崎くん』
『大丈夫。日野原さんの涙を止めることの方が大事だよ』
そんなことを言われたら、ますます涙が止まらなくなってしまう。
――林崎くんは私の気持ちを知らない。それどころか、私は冷くんが好きなんだと思い込んでる。だから、気付かない。自分の言葉が、私を泣かせているなんて、これっぽっちも。
勇気は完全に挫けていた。もう、告白することなんて出来なかった。
けれど、放課後。
紫杏は自分のチョコレートが、林崎の手に渡っていることを知った。
渡したのは静香だったが、カードを見れば紫杏のものだとわかってしまう。林崎は、紫杏が彼女に頼んで、代わりに渡してもらったのだと考えるかもしれない。それは嫌だった。渡すなら、自分で渡したかった。一度はそう決めたのだから。
校内を探し回り、やっと林崎を見つけた。彼は何も気付いていなかった。紫杏に笑い掛け、また見当違いなことを言った。
『ちゃんと桔流に渡さないとね』
ああ、やっぱりこのままじゃ嫌だ……と思った。このまま、誤解されたままなんて嫌だ。林崎くんに伝えよう。明日、一日遅れになっちゃうけど、このチョコレートを渡して。林崎くんに、私の気持ちを……。
――明日だなんて言わずに、その場で告白すれば良かったんだ。勇気が足りなかったから。心の準備がしたかったから、先延ばしにして。こんなに後悔する羽目になった。
帰りたいよ、元の世界に。林崎くんのいる世界に。帰れたら、今度こそ、今度こそ伝える。
でも、どうやったら帰れるの?
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