傾国の乙女
冬至 春化
第一部【表層編】
帝都陥落 1
ほうぼうで火の手が上がる。
至るところから悲鳴が響き、未明の宮殿は混乱の渦に叩き落とされていた。
侵入者どもに踏み荒らされた裏庭で、ウォルテールは地面に膝をつき、衝撃に打ち震える。
「お久しぶりです、ウォルテール将軍」と、若い声が告げた。
しばらく、声も出なかった。
「カナン、お前……!」
やっとの思いで絞り出した声は、情けなく震えていた。ウォルテールの動揺を見抜いてか、青年は目を細める。
彼を初めて見たとき、不安になるほど小柄な少年だと思ったのを、今でも覚えている。
それが今、背後に多くの兵を携え、自分の首筋に剣を突きつけている。
新ドルト帝国最大の都である帝都は、二つの大河が交わり南へ流れていく合流点に位置する。
二つの大河と、両者を結ぶように作られた運河によって囲まれた三角形の土地である。帝都へゆくには大きな跳ね橋を渡らねばならず、跳ね橋は全て帝国軍が管理している。
他国の軍が大挙して帝都に押し寄せたとて、川を渡らねば皇帝の首は取れない。帝都へ渡る手立てを探すうちに、帝国中の軍が一斉に背後から急襲を仕掛けるだろう。
中央にある宮殿へ侵入するなど夢のまた夢、敗北は有り得なかった。
帝都は鉄壁の防御を誇る、無敵の都市であったはずだ。
――それなのにこれは、どういうことか。
「帝国が誇るロウダン・ウォルテール将軍とあろう人が、奇襲にも気付かず、こんなに易々と捕らえられてしまって」
嘲笑う口調に、ウォルテールは耳の裏が沸騰するような怒りを覚えた。
噛みつかんばかりの視線を向けられる一方で、青年は夜風に吹かれて涼しげに微笑んでいる。
「どういうことだ、カナン」
「見ての通りです。俺はこの城を攻め落とし、帝国を我が物にする」
唸り声を発すると、青年は飄々とした態度で片手を上げた。当然のように征服を語る青年の姿が、一年前の別れ際の姿と重ならない。……こいつは、こんなにも冷たく、取り付く島もない男だっただろうか?
「王族を皆殺しにするつもりか」
そのつもりはなかったが、声音は媚びるような響きを帯びていた。カナンはしばらくの間、無言でこちらを見下ろした。
「……貴方がそれを望まないなら、俺は応じるつもりです。貴方には沢山目をかけて頂いたし、恩もある。貴方が俺たちを殺さなかったように、俺も王族を見逃したって構いません」
ウォルテールが安堵の息を漏らした直後、青年は「ただし」と剣を握り直した。
「条件があります」
「……何だ。俺に果たせるものなら何だって飲む、だから、」
ウォルテールが必死に頷くのを見て、カナンは目を眇めた。
「それなら」と、カナンが剣を収める動作が、やけにゆっくりと見えた。
「――俺のもとに下れ、ウォルテール」
ウォルテールは息を飲んだ。見上げた先で、彼は挑戦的にこちらを睨んでいる。ウォルテールは喉を鳴らして呼吸をした。口の中が乾いていた。
自分は、彼の成長をすぐ近くで見守ってきた。様々な面倒を見たし、剣も教えたし、彼からも慕われているのではないかと思っていた。その自負があった。
そういうつもりでいた。
食いしばった奥歯の隙間から、ウォルテールは血を吐く思いで告げた。
「……ご随意に、閣下」
頭を垂れると、カナンは満足げに微笑んだ。
ウォルテールは地面を睨みつけながら、ひと晩のうちに帝都内で勃発したこの反乱を、苦々しく回顧する。
(……まさか、ジェスタが来るとは)
かつて、ウォルテールが自らの手で征服した、北東の小国。一体誰が想像しただろう? 小規模で、大した武器も持たない、辺境の軍隊が、ひと晩のうちに帝都を滅ぼさんとしているなんて!
ゼス=カナン・ジェスタ。
ウォルテールは目の前の青年の名を口の中で転がした。
かの王国は、一度は失った末王子に軍を与えたらしい。
「カナン……」
声が漏れたが、彼は答えなかった。
「このやり方は、五年前の、復讐か」
言い終わる前に、彼は弾かれたように振り返った。聞こえていたんじゃないか、とウォルテールは内心で苦笑する。
「気安く呼びかけるのは遠慮いただきたいな」
反応こそ早かったが、その後の返事はごくごく冷ややかだった。にらみ合いが数秒続く。……先に目を逸らしたのはウォルテールだった。
顔を伏せると、夜露に膝が濡れるのが目に映る。
尖った草の先に、丸く結んだ雫が、揺れている。松明の炎を写して、ゆらゆらと妖しく、危なっかしく震えている。
目を離したいのに離せない、不思議な引力を持った少女のことを思い出した。
(カナン)
睨まれぬように、胸の内だけでまた呼んだ。
今は亡きエウラリカ王女の、ただひとりの奴隷の名である。
(エウラリカ様が今のお前を見たら、いったいどう思うだろう?)
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