第6話 殿上院様②

 作りは藤原道長の屋敷として有名な土御門殿によく似ている。ただ違うのは柱の色合いと海の上にあるという事実だけだろう。さながら厳島神社を彷彿とさせる場所取りの紅色の御殿は常に夕焼けに照らされ、幻想的な風景を作り出していた。


 宮殿みやどの、と呼ばれる寝殿造りの神殿は夕焼けを背後に抱え、桟橋に立つ詩音と淳平を出迎えた。


 四方を海で囲まれ、水平線上に遮蔽物は一切ない。まさに絶海の孤島とも形容すべきこの御殿は地上のどこにも存在せず、浮世のものではない。


 異界、と呼ばれるこの見渡す限りの海は関東圏の呪術師が長年の歳月をかけて形成したものだ。御堂法成大学地下の『解剖室』と在り方は同じだが、こちらの方が面積が広い。関東圏最大の異界と言っても過言ではないだろう。


 二人が桟橋を踏みしめるとギシギシと耳障りの悪い音が鳴る。桟橋の両脇には京風の建物が乱立し、五重塔や三重塔、貴族屋敷などが海上に浮かんでいた。これらはすべて宮殿の施設だ。呪術師に仕事を斡旋する部署や怪異の等級分けの部署など、様々な部署が建物内に収まっている。


 そしてその中央に位置しているのが土御門殿、によく似ている神殿だ。門前にはガタイのいい門番が立っており、詩音と淳平の二人を厳しくボディチェックする。ボディチェックを終え、二人は神殿内の正殿へと通された。


 正殿は文字通りその屋敷の中心に位置し、会議場としても酒宴会場としても使われる非常に使い勝手の良い広々とした空間だ。


 正殿内は上座に御簾、左右に大幕が垂れ下がっている。御簾と大幕のどちらにも認識阻害の呪術がかかっており、これは正しい声、顔を知られないことで呪い殺されるリスクを減らすためだ。当然、大幕の内は同じ大幕が垂れており、両脇に座る人間ですら互いを認識できないようになっている。


 ゆえに詩音も淳平もはたして何人の人間が大幕の向こうにいるのか、見当もつかない十人かもしれないし、二十人かもしれない。かろうじ声がどこから飛んで来るのかがわかるくらいだ。


 正殿に到着すると同時に二人は姿勢を正し、頭を下げる。御簾の奥の人間のことを考えれば当然の態度だ。


 上座の御簾の奥には殿上院がいる。関東圏の呪術師にとっては現人神と同義だ。御簾で顔を隠すのはもちろん、声ですら聞くのも罪だ。まして平伏せずにその醜い顔を見せろと言われていないのにも関わらずあけっぴろげにするのは無礼の極みと言える。


 「名乗れ」

 特に個性のない、男か女か、老人か若人わこうどかもわからない声が平服する二人の耳に飛んだ。


 「は、私めは矢野 淳平ともうします。宮殿より大輔たいふの官を賜っております」

 「私めは七夕 詩音ともうします。宮殿より少輔しょうの官を賜っております」


 二人の口にした大輔や少輔は呪術師の階級だ。上からけい、太輔、少輔、大丞たいじょう少丞しょうじょう大録たいろく少録しょうろくとされていて、呪術師の強さの基準にもなっている。


 基本的に呪術師は同階級の怪異と戦った場合、勝てるように階級調整がされている。これはただでさえ少ない呪術師の被害を抑えるための措置で、例えば怪異における大輔や少輔ではすけが当てはまる。


 「七夕の雑巾小僧か」「宮殿の御前に姿を現すとはなんとも豪胆よな」「それに相方も戒律破りの小僧ときておる」「お似合いではないですか?」「左様左様」「どちらも面汚しよ」「専属の医者はどなたでしたか?」「レノンの小娘だった気が……」「あの死体に魅入られた女か」「おお、臭い臭い」


 しかし、そんな階級など『彼ら』の前では飾り以外の価値は持たない。元より呪術師世界に血統主義に固執するお歴々ばかりだ。呪術師としての腕はかろうじて詩音と同程度、しかしいざ戦闘となれば全員が詩音1人にあしらわれる自信がある。


 戦闘では使い物にならないのが大幕の後ろのお歴々だが、彼らの真骨頂は呪術師世界の維持にある。――つまり現状維持こそが彼らの本懐なのだ。


 「して、矢野よ。貴様が昨晩よこした記録書に示したことはまことか」


 ひとしきり罵倒した後、先ほどと同じ声の誰かが淳平に話しかけた。淳平はただ、はい、とだけ応える。その声の裏には煮えくり返る怨嗟が込められており、理由のない罵倒に腹を据えていることが察せられた。


 「なんたること……」「なぜこんな男に」「関東の呪術師は少ない。致し方あるまい」「しかししくじったばかりか、見逃しているのですよ?」「あの男が相手では」「余計なことを」「早急にあの男を負わねばならぬな」「少ない呪術師を動員して、ですか?」「致し方ないでしょう」


 大幕の奥で同じ声が反響し合う現状に詩音と淳平は苛立ちを募らせていく。わざわざ呼びつけられたのに、自分達そっちのけで論争にうつつを抜かすとはどういう神経をしているのだろうか。


 しかも段々と自分達の責任へと話が誘導されている、という事実にさらに怒りの釜に薪がくべられていった。


 「矢野よ。これは厳命だ。必ず例の仮面男よりも先んじて逃げた怪異を発見し、速やかに処分せよ」「しくじれば貴様の責任ぞ」「宮殿の前で恥をかくとは、無粋無粋」「呪術師の風上にも置けない」「処分せよ、処分せよ。さすれば報われん」「いっそ卿の呪術師を1人付けてやろうか?」「ははは、こやつらに甘いことをおっしゃる」「左様左様。お甘いことをおっしゃられる」


 このクソじじぃ共が、と詩音と淳平は心の中でつぶやいた。ただ命令すればいいものを執拗なまでにこちらを罵倒して来る。しかもそれが互いのコンプレックスを刺激するものだから、余計に腹が立つ。


 「矢野さん、こいつら……殺してもいいですか?」

 「やめとけ。殿上院様の前だぞ」

 「でも……」


 「何を話しておるか!礼儀が成っておらん!」


 詩音が反論しようと淳平に視線を向けた矢先、怒号が飛んだ。


 「貴様らは宮殿の御前で私語にうつつを抜かすか!」「まったくもって無礼千万!」「まったくもってそのとおり」「怪異を逃すばかりか、宮殿の御前で無礼でを働くなど、臣の風上にも置けない輩ぞ」「貴様らはただ口をつぐみ、我らの命に従っておればよいのだ!」「誰ぞ、誰ぞおらんか!この者共を不敬の罪で捕らえよ!」


 「――Oui!」


 つばを飛ばして二人を叱咤する老人達の怒号に答え、一つの影が御簾と二人の間に割って入った。同時にむせ返るような血臭がただよい、詩音と淳平はいつでも備えられるよう臨戦態勢を取った。


 だが、影はいつまでも二人を襲うことなく、ただ呆然と立っていた。白いパーティーマスクをかぶり、フランス貴族然とした赤と青のフラックにキュロットを着込んでいる奇人はさも自分はこの場にいて当然、という様子で周囲をぐるりと一瞥した。


 それは詩音と淳平が昨日衝突した呪術師。圧倒的な実力をまざまざと彼らに見せつけた奇怪な仮面男だった。


 「おや、大幕の後ろにまだ引きこもっておられるのですか?それほど引き困るのがお好きでしたら私のマイホームにご招待しましょう。きっと、気に入っていただけるでしょう」


 大幕のせいで奇人が現れたのを気づくことができなかった老人達も明らかに自分達の知らない声に驚いたのか、口々につばを飛ばす。


 「誰だ貴様は!」「この声……まさか!」「いや、そもどうやってこの場に!」「誰ぞ!誰ぞおらんか!この不埒者をひっとらえよ!」「誰ぞ!」


 「誰ぞ、誰ぞとはこの人達のことでしょうか、御老共」


 ざわめく大幕の中に仮面男は血臭のもとを投げ入れた。大幕はに当たったボールはすんなりと大幕をのけて中へと転がり込む。その直後、ギャーギャーと奇声が木霊した。牛と豚が交尾している瞬間を目撃してしまったかのような阿鼻叫喚が蔓延する。


 詩音も淳平も目を見張り、今手元に武器がないことを悔やんだ。自分達を散々コケにしてきた老人共が慌てふためく様は見ていて嬉しい。しかし、それはあくまで余興の類であって、人死にを出してまでやるものじゃない。


 「プレゼントはいかが?ケーキを作ってみたんですよ。スポンジは脳みそ、クリームは溶かした皮、ソースは血液。飾りに目玉や唇はいかが?みんな楽しんでくれると、私は嬉しく思うよ」


 仮面男が大幕の中に投げ込んだのは人間の頭サイズのケーキ。雑に処理されたオールメイドイン人間のケーキだった。血臭は言ったとおり、腐臭も凄まじい。思わず鼻を覆ってしまう不快な匂いが正殿内に充満した。


 「さて、それじゃぁアペタイトも食べたことだし、次はスープと行こうか」


 仮面男は二丁のカスタムガンを取り出すと、装着されたナイフでマントを切り裂いた。崩れ落ちたマントの中から現れたのは老若男女、と基準のない呪術師の顔ぶれ。皆一様に恐怖で怯え、肩を小刻みに震わせていた。中には失禁しかけているのまでいる。


 「ああ、かぐわしい恐怖の匂いだ。そう思わないか、七夕君?」

 「てめぇ……」


 「そちらの彼のことも調べさせてもらったよ。矢野 淳平君ね。の加害者に会える幸運に感謝せねばね」


 直後、淳平が床を蹴った。武器など一切持たない、まったくの手ぶらだがそんなことは今の淳平にとって些事だ。大きく振りかぶった彼は呪術で身体能力を強化し、仮面男の顔面めがけて渾身の一撃を放った。


 しかし仮面男は肘を突き出して、その一撃を受け止める。どころか、突き出された肘は強力なスパイクとなって淳平の拳に鈍い痛みを与えた。


 「格闘戦をお望みなら武器を持ち給え。私と君とでは自力が違うんだから」

 「ざっけろ!」


 骨が折れた手を抑えながら淳平は蹴りを放つ。仮面男は蹴りを鮮やかにかわすとナイフで淳平の足の肉を布ごと削ぎ落とす。鮮血が舞った。ことここに至って詩音もただ傍観に徹することはできなかった。


 ミサイルのように詩音の体が仮面男へ向かって飛ぶ。身体能力を呪術で強化し、強烈な回し蹴りを仮面男へ向かって放った。仮面男は悠々とその一撃を受け止めようとする。だが、すんでで彼は大きく体をのけ反らせて、蹴りをかわした。


 ちぃ、と詩音は舌打ちをする。彼が今放った蹴りは『七夕式斬術一の型十番脚式、砂上線』だ。当たれば生身の人間の腕くらいは吹っ飛ぶはずだが、まさに紙一重で気づいた仮面男は驚異的な反射神経で詩音の攻撃をかわした。


 詩音の攻撃はそれで済むことはない。左手を手刀の形にし、彼は『七夕式斬術一の型十二番手式、砂尽・紡』を放つ。大きく体勢を崩した後の最速の一撃を仮面男はマカロフカスタムで受け止める。ガチン、と本来肌と鉄がぶつかっても鳴らない音が木霊した。


 「やるね。だが……チェックメイトだ」


 仮面男はマカロフカスタムを手放すと詩音の手を握りしめる。そして余った方のカスタムガンを詩音の額に突きつけた。動こうとすれば、ナイフか弾丸のどちらかで命が散る、と素人でもわかる光景が出来上がった。


 淳平はもちろん、この場の誰もが静寂の中に落ちた。ただ1人、仮面男だけがこの場で動く権利を持っていた。


 「荒っぽいことになってしまったが、そろそろ話を進めようじゃないか、殿上院様?」


 銃口だけ詩音に向け、仮面男は御簾へと視線を向ける。無視しているのか、はたまだどうでもいいと思っているのか、御簾の向こうからの反応はない。御簾の前で起こっている惨状などお構いなしだ、と言っているようだった。


 「いつまでもそこで引きこもっていられる、と思わないことだ。すぐにその御簾の奥から出してあげるよ」


 何も返答はない。


 「だんまり、か。まぁいいさ。どちらにせよ、君達が確保しそこねた『崇峻の瞳』は私が貰い受ける」


 チリーン、と鈴の音が鳴った。ただそれだけのことに仮面男は肩を震わせる。その反応を訝しんで、そして少しでも情報を引き出そうと詩音はなんだそれは、と言いたげな目で仮面男を睨んだ。


 「おや、知らないのかい?日本にいくつもある指定封印遺物の一つ、それが『崇峻の瞳』だよ。私はそれを手に入れる」


 また鈴の音が鳴った。同時に絶対に自然と波紋一つ立てない海面が荒ぶり始める。黒い風も吹き始めた。黒雲が異界内すべてに広がり、夕暮れの赤い空を染めていく。


 「ここから先は競争だ。頑張って私よりも早く『瞳』を手に入れることだな」


 仮面男は言いたいことだけ言うと、詩音から手を離し邪魔だと言わんばかりに彼を海面目掛けて蹴り飛ばした。突然のことに詩音は反応することなく、大きな水しぶきを立てて海面へ叩きつけられた。


 彼が浮き上がってくる頃にはすでに仮面男の姿はなく、荒れ果てた正殿の光景が瞳いっぱいに広がっていた。


 大幕を裂いて止血する淳平に始まり、隅で怯える老若男女の使えないお偉方など見るに堪えない代物だ。何よりホールケーキにされた人達を直視することが詩音にはできなかった。


 おそらくは宮殿の守りについていた呪術師なのだろう。仮面男を止めようとして今の形にされた。どんな人間だったのか、詩音は知らない。しかしなぜか腹の奥底からたぎる憎悪が湧き上がってくる。


 「あの野郎……」


 詩音は自分の体温が上がっていくのを感じた。それは純粋な殺意であり、憎しみの感情を顕著にあらわしていた。

 その彼の怒りを感じてか、鈴の音が御簾の奥より鳴った。


 「七夕 詩音、そこにおるか?」


 御簾の奥から、銀嶺を思わせる冷えた声が聞こえてきた。それは一生に一度聞けば幸運、とされる声。関東圏の呪術師にしてみればアイドルと一夜の夢を過ごすレベルに貴重な体験だった。


 「其処許に下知を下す。かの男、柩間 影瑯よりも先んじて、指定封印遺産『崇峻の瞳』を手に入れよ。これは厳命である」


 「ふ……ふざけるな!無理も休み休み言ってくれ!そもそもこれは卿以上の呪術師が当たる任務だろうが!俺はペアも怪我して、1人でどうやってあの怪物と渡り合えって言うんだ!」


 「卿以上の官を冠すものはそもそも数が少ない。また、なるべくこの件は内々で済ませてしまいたい。しかるにそこの老害共よりも貴様の方が動ける、と判断したまでのこと。ペアがいない、とほざくがなれば別の呪術師と即席のペアを組めば良かろう。


 貴様と相性の良い呪術師がいくらいるかは知らんが、1人か2人くらいはおるだろう」


 無責任なことを言う殿上院に詩音は苛立ちのあまり敬語を忘れて吠えた。しかし、殿上院は感情の機微を表に出さず彼に応じる。それは彼女が詩音を評価しているから、と詩音は思わない。


 元より殿上院という存在が自分達と同等の価値観を持っているとも思っていない。彼女にとってこの世のすべてがどうでもいい、泡沫のことだと直接言葉を交わして理解できた。


 「無理だ。無理なことを言うな!あの男に俺じゃかなわない!」


 「であればどうする。『崇峻の瞳』は東京を地獄へと変えるぞ?怪異は荒ぶり、すぐさま平将門公をはるかに超える脅威となるであろう。その時、貴様はどう思うのだろうな。地獄を作ってしまった、と嘆くか。あるいは知らぬ存ぜぬと死にゆく者共に弁明するか」


 「あんた……自分はここに引きこもっておいて……!」


 「向き不向きがある。貴様は外で怪異を殺し、こちらはこの場にとどまり未だ消えぬ将門公の怨霊を慰めねばならぬ。――怪異を殺せ、呪術師。それが貴様の本懐であり、運命だ。なればやらねばならぬことはわかるだろう?」


 決して殿上院の声は揺れない。彼女は常に冷静、いや冷徹だ。人を愛さず、自分を愛さず、ただのシステムとしての存在の在り方がそこにはあった。歴代の殿上院と同じく、自分の運命だから、の一言で責務を全うする。


 転じて詩音の中では仮面男、柩間 影瑯に対する恐怖が渦巻いていた。彼の持てるすべての技、能力、知識をもってして勝てるか?


 ノー、と本能が訴えている。


 二度戦って一度は見逃し、二度目は武器がなかったとはいえ一方的にやられた。武器がなかった、なんてただの言い訳だ。武器があっても影瑯と互角に戦えたかどうかすら怪しい。


 ペアの淳平とならあるいは、と思ったが淳平は足をやられ、全快するのに一週間はかかるだろう。手詰まりだ。


 でも。でも、と彼の脳裏で13年前の記憶が蘇る。


 それは彼の人生の転機であり、呪術師としての気概を明らかにした出来事。ただの言葉だった。言った人間からすればただの言葉。でも、彼にとってはそれは億の賛美に勝る、力強い言葉だった。


 だから……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る