私と彼の茜色

雨森 雪

私と彼の茜色

 

                        

 二〇一九年五月一日。

日本は平成という一つの時代を終え、令和という新しい時代へと生まれ変わった。

それは日本という国において遥か昔から繰り返されてきた時代の変革。

国民ならば誰もがそれを認識し、十人十色。その時を生きる。


 しかし、それが出来ない者も数多くいる。

これは幻想に囚われ、逃れられぬ日々を生きる一人の男の物語だ。



 二〇三五年。

医学とは進歩するものだ。

令和になってから十六年。

この十六年で医学は飛躍的な進歩を遂げた。

地球から病気が淘汰されたとWHOが発表してから早五年。

交通事故による人体の損傷も発達した再生医療によって即死でなければ日常生活に戻る事が可能となった。


 しかし、そんな現代にも決して淘汰する事の出来ない病というものが存在する。


 その一つが心の病だ。


「今日も来たよ。もう夏だね。これで君と過ごす夏は三十四年目かぁ」

病気が淘汰された事によって宿主のいなくなったベッドに囲まれながら私は、眠り続ける部屋の主に語り掛けた。

「あれいつ頃だっけ?一緒に海に行ったよね。私達が中学生の頃だったかな。君はインドア派だから、絶対行きたくないって言い張ってたのに私がどうしても行きたいって言って一日中遊び回ったよね。あの時見た夕焼け綺麗だったなぁ」

薄っすらと目を細めて私は窓の外を見る。

その視線の先には茜色に染まった世界が映っていた。

「そう。ちょうどこんな感じの空だった」

彼女はゆっくりと瞼を下ろす。

瞼の裏にはあの日の光景が鮮明に浮かび上がる。

ふわふわと流れる雲。キラキラと乱反射する水面。オレンジ色のサングラスをかけているのかと錯覚するかのように一面に広がった茜色の世界。

幻想だ。

私は確かにそれが幻だと理解していた。

しかし、それでもあの頃に戻りたいと願ってしまう。

そんな夢想をブンブンと頭を振ってかき消し

「これ、お見舞いね。君の好きな新作ゲーム。病人にゲームっていうのも変な話だけど、いつも『俺はゲームをしたら熱が下がるんだ』って言って学校休んだ時にずっとゲームしてた君には丁度いいよね」

ふふっと微笑を浮かべながらゲームカセットを彼の枕元に置く。

ポシェットモンスターと書かれたそのパッケージには可愛らしいクマのような何かが描かれている。

「懐かしいなぁ」

そのパッケージを見た口からそんな言葉を漏れた。

自分達が夢中になってやっていた頃は額に金剛石が埋め込まれたライオンのような何かと背中に真珠が埋め込まれた魔法少女に勧誘してきそうな生き物だった。

「もう十五作品目かぁ~」

ハードも次々と移り変わり、現在はゲーム埋没型のDIVEという物が全盛期だ。

今ではDSなんてものは骨董品扱いである。

ポシェモンもいつかそうなるのだろうか?

コンテンツであろうと、物であろうとそれがこの世に存在する以上いつか廃れる。

盛者必衰という奴だ。

猛けき者も遂には滅びぬ。

平安時代から語られるこの世界絶対のルール。

ポシェモンも五年後にはもう影も形もなくなっているかもしれない。

そこまで考えて、眠り続ける彼を見る。

五年後に彼はどうなっているだろうか?

医学は進歩した。

そして、これから先もどんどん進歩するだろう。

人間とは探求する生き物だ。その探索に終わりはない。

しかし、その探求の成果によって彼が目覚めるまでどの位かかるのだろうか?

彼に残された時間はどのくらいあるのだろうか?


疑問は尽きない。



「もう死ね」



気づいたら私はそんな言葉を口にしていた。

彼に対してではなく自分に対してそんな言葉を吐いた。

何も出来ない自分が不甲斐なかった。

どうせ何もしない癖に一丁前に彼を案じているその精神に吐き気がした。

全て中途半端でどっちつかずな自分が嫌いだった。

そして、

そんな事で思い悩んでいる心の弱さに虫唾が走る。

気づけば強く歯を噛みしめていた。

ギリッという鈍い音が無音の室内に響き、口内に鉄の味が満ちる。


考え始めると嫌な想像が濁流のように私の中に流れ込んでくる。

なぜあの時こうしなかった。

こうするのが最善だった。

どうしてあそこで提案を断った。

なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。

そんな想いが脳を支配し、血潮を駆け巡り、臓腑を犯し、身体を震わせる。


 私には彼が必要だった。

でも、彼に私は必要なかった。

彼はあの人が必要だった。

その事実を直接口で知らされるのではなく、今なお眠り続ける彼が無言で声高らかに主張しているのが辛かった。

でも、もうあの人はいない。


だから、彼は


 幻想に囚われている


口の端に一筋の赤が流れた。


「実はさ。俺、彼女出来たんだ」

彼がそう言ったのは、高二の冬だった。

寒さに打ち震える私の体は一瞬にして熱くなり、心臓がトクンと跳ねる。

「え? だれと?」

私はその現象を驚きによるものだと断じ問い詰めた。

「四組の透歌さん」

私は彼のその言葉に目をぱちくりとしてしまう。というのもそのお相手が学年一の美人と評判の子だったからだ。

「え、どうやって付き合ったの?接点ないでしょ?」

歩きながら私より十センチほど高い彼を見つめ、胸を躍らせる。

「一目ぼれして何回も告白したんだ。九十九回断られたけど百回目でオッケーしてくれたんだ」

「百回‼」

この幼馴染にそんな度胸があったとは!

十七年間共に生きてきたがこの男にそんな一面があったとは知らなかった。

「まあ頑張ってね。得た魚を逃さないように」

「勿論」

笑みで顔をしわくちゃにしながら胸を張り自信満々な彼に釣られて私も笑った。

「じゃあこれからは一緒に帰らない方がいいかな?」

首を傾げながら彼を見ると、彼は少し思い悩んだ様子で

「朱音との時間が減るのはなぁ」

「別に私は全然構わないけど」

「なんか今まで隣にいたのが急に隣にいなくなるのは違和感あんだよな」

彼はそんな風にボヤいていたけど私は別にどっちでも良かった。

男女の幼馴染なんてそんなものだろう。

「月曜日と水曜日は一緒に帰る事にしようか」

「ん。いいよ」

そんな会話をしながら帰り道笑っていた。


そしてあれから、三か月。

二人の関係は良好だ。先日も二人で映画を見に行ったらしい。散々自慢された。私にとってはそんな事は小指の先ほどの興味すらないのに、延々と惚気話をしてくる。いい迷惑だ。

堅苦しい制服を床に放り投げ、ベッドに勢いよく飛び込み

「はぁぁぁぁぁぁ」

大きなため息を吐く。

「どうして私はこうなんだろう」

自宅のベッドにゴロンと寝転がり、純白の天井を見上げながらポツリと呟いた。

「はぁ」

再びため息。

心臓に胸を当てる。

そこではトクントクンという確かな物が息づいている。

ふぅ

深く息を吸う。

胸が膨らみ

はぁぁ

萎んでいく。

ゆっくりとした深呼吸。

その緩慢な動作とは裏腹に鼓動はどんどん加速する。

「明日かぁ」

明日は金曜日。

彼と一緒に帰る約束をした日だ。

あの時は彼と一緒に帰る事の価値を理解していなかった。

彼との時間がプライスレスである事を知らなかった。

私の日々の幸せは彼という一本の線がなくなった事によって辛さへと変貌した。

二人を見ていると口から何かが出そうになる。

嫉妬であるとか羨望であるとか後悔であるとかそういった物がないまぜになった物が息を吐く度に嘔吐のようにして零れそうになる。

そしてそれは鋭利な刃へと形を変え、私を攻め立てる。


自分の心と向き合う事を忘れた己への罰として。


「だれかたすけて…………」


目が潤み、頬を涙がつたった。

それを拭うようにして私は目元を腕で隠す。

分かってるよ分かってるんだ。

口の中で繰り返す。

また誰かに縋っている。

自分の問題を人に押し付けようとしている。

助けてくれた彼はもう私の側にはいない。

あの人の隣で今笑っている頃だろう。


「もう死ね」


ポツリと呟いた。

同時に私の全身は糸が切れた人形のように脱力し、グラリと揺れた。







「ハハハハハハハハ」

私は哄笑していた。

彼とあの人はGWのデートの最中に事故に遭ったらしい。

二〇一九年四月三十日。

それがあの人の命日になった。


 神は残酷だ。

気まぐれで人から全てを奪う。

彼とあの人の大切な日々も。

私と彼との笑い合った思い出も。

その全てを奪い去っていった。

その行為にはきっと何の感慨も感情もないのだろう。

それを人は運命と呼ぶ。


 運命を目の前にした時、私たちは無力だ。

彼は幸い無傷だったけれど、あの人が死んだと聞いて精神的に病み、昏睡状態に陥ってしまった。

「ハハハ」

もう笑うしかない。

大きな悲しみを前にした時、私は一滴の涙も出なかった。

現実が見えていないのかもしれない。

私は私の事はそう分析していた。

どこか冷めきった頭でそんな事を考えて、

「ハッ」

自嘲するように鼻で笑った。

自分の心を直視しろと頭の中で何者かが囁いてくる。

彼が助かって良かったと思うでもなく、昏睡状態になって悲しむでもなく、私が死んだとしたら彼はここまで悲しんでくれただろうか?という疑問。

あまりにも醜い私の本性。

自分でも知らなかった一面。

薄汚くて、卑賎で、姑息な私。

その醜さを直視したくない。

だから、現実が見えていないなんて言い訳をしているのだと頭の隅で本当の私が囁いてくる。

そんな訳ない

内心で私は必死に主張した。

悲しい。辛い。苦しい。

それこそ息が出来ないくらいに。

食事が喉を通らないくらいに。

言葉の代わりに口から胃液を吐き出すくらいに。

「いいや違うね。お前はその疑問に執着してるんだ。その症状も全部それが理由さ。お前はその答えが知りたいだけなんだ」

内に潜む悪魔が私にそう囁いてくる。

その言葉に反論しようと私が口を開こうとしたその時、

「もう死ね」

己に幾度となく放った言葉が心臓に突き刺さった。



 「またくるね」

私は眠り続ける彼にそう声をかけ、病室を出る。

後ろ手で扉を閉め、グルリと長く伸びた廊下を見渡す。

かつて看護師や医師が慌ただしく駆け回っていたそこはいまや見る影もなく、沈黙に包まれている。

コツコツと静寂を破り、そこを歩いていく。

「あっ」

階段を降りようとしたその先には彼の母親がいた。

「こんにちは」

私が声を掛けると、年配の女性はびっくりとした様子で

「こんにちは朱音ちゃん」

肩を叩いてそう言った。

「おかげ様で」

軽く頭を下げ、その言葉に答える。

「もう十六年になるのにあの子のためにありがとね」

目を伏せ、寂し気に語る女性に「いえいえそんな」と月並みな返事をして世間話をしたりする。

「ところで朱音ちゃんは良さそうな人とかいないの?」

「いやぁそれが中々いないんですよね」

あははと頭を掻きながら笑ってごまかす。

「そろそろいい年なんだから頑張らなきゃだめよ」

「そうですね」

話の行く先が不穏になってきた。私はわざとらしく腕時計を覗き

「そろそろ時間なのでお暇させていただきます」

互いに「また」と言い合って階段を足早に降りた。

彼の両親と顔を合わせるのは気まずい。

なぜなら彼等は殆ど彼の事を諦めてしまっているからだ。

医療費も払っているしお見舞いにも時々来ているけれど、その双眸は暗く虹彩は輝きを失っている。

私はそれに納得していた。

もうあれから十六年。

色々ともう限界なのだという事がありありと伝わってくる。

目を伏せながら、階段を駆け下りる。

昔と比べて随分と皺が増えたなぁ。

失礼にも私はそんな事を考えていた。

彼の母が言ったようにもう十六年だ。

花の女子高生だった私はアラサーになり、あの頃と比べて随分と年老いた。

階段を降り切り出口が顔を出してきた。

明日も仕事だ。

鬱屈とした感情を抱えながら病院を出る。

茜色の世界は完全に消え失せ、代わりに闇夜が広がっていた。

ぶぅぅぅんという音を立て私の前を車が駆ける。

あれが全てを壊したんだ。

私の人生を。

彼の心を。

あの人の体を。

ヘッドライトが闇夜に一筋の光を生み出す。

私はあの光の中に生まれたかった。

私達は暗闇に包まれている。

途中までは光に照らされ、真っ直ぐとその中を歩んできた。

でも、あの日、二〇一九年四月三十日。

全てが変わった。

あの日から私も彼も彼の両親もみんな闇の中を彷徨っている。

何が正しいかも、何が必要なのかも全部見失って、ただひたすらに歩いている。

どこに向かっているのかも分からずに。


二台目の車が私に近づいてくる。

ハイビームが私を明るく照らした。

眩しかった。

けれどその光は私には酷く魅力的に映った。

灯りに引き付けられる蛾のように私はその光に吸い寄せられ、気づけば車の前に飛び出していた。


という夢想をした。

「ハハハッ」

乾いた笑いが漏れる。

私の前を音を立てて一台の車が通り過ぎた。


生きる勇気もなければ死ぬ勇気もない。

こんな私に価値なんてない。

「もう死ね」

幾度となく繰り返した言葉を己に吐く。

私はもう生きたくない。

死にたい訳じゃないけれどそれ以上に生きるのが辛い。


だから、だれか……


ころしてください


また誰かに縋っている。

心のどこかで私はポツリと呟いた。



それから更に五年経ち、私は三十九歳になっていた。

仕事も順調。

私生活も順風満帆。

ただその毎日をしこりのように残った彼への想いを募らせながら過ごす。

そんな漫然とした日々。

そんな中、彼を助けるための治療法が見つかったという一報が彼の母親から届いた。

それを目にした瞬間、私の足は急ピッチで彼の眠る病院へと向かっていた。

その治療法とは昏睡状態の人の精神世界に入り込み、治療対象になんらかの刺激を与えて長い夢から覚めさせようというあまりにもアバウトで確実性の低いものだった。

その上、入り込む人物の安全は保障されていない。こんなものは治療法でも何でもない。ただのギャンブルだ。

クリア条件の分からないゲームと全く変わらない。

にもかかわらず私は医者からその話を聞いた瞬間「やります」と口にしていた。

驚いた。

今まであらゆる物から逃げ、助けを求めるばかりだった私にそんな勇気があったなんて。

「本当にいいの?」

彼の両親が私に恐る恐る尋ねる。

それに

「はい」

と力強く頷き、有無を言わさぬ断固たる口調で答えた。


準備は直ぐに整った。

死んでも構わないというお決まりの書類を書き、服を着替えるだけで私のやる事は終わった。

「ではこちらに寝てください」

医師が彼の隣に空いた寝台を指し示す。

寝台の横には心電図装置であるとかが物々しく置かれている。

その中に異彩を放つ最新ゲーム機であるAGITOが含まれているのを見咎め思わず首を捻る。

そんな私に気づいたのか医師は

「彼の意識に入り込むのにAGITOの仮想現実に入り込む機能を使うのですよ。彼の脳をゲームディスクと捉え、それをロードする。大体こんな感じのシステムでこの治療法は行われます」

「なるほど」

実際何もわかっていないが適当に相槌を打つ。

医者も私に理解など求めていないだろう。

彼等はこの方法で昏睡状態からの回復が見込めるかが知りたいだけ。

私は彼を目覚めさせる事が出来ればいいだけ。

そう、それだけでいい。

己に言い聞かせ、私は軽く拳を握る。

決意を固め、私はゆったりと寝台に横たわった。

「では始めます」

医師はそう言うと私の頭にAGITOを被せる。

視界が闇に覆われ、その影響で自身の心臓の鼓動が鮮明に分かる。

「準備はいいですか?」

「はい」

即答。

「始めます」

私のすぐ側で機械音が響く。

いよいよだ。

私の視界が漆黒から白色へと変わる。

白色の中ではGAME STARTというポップな文字が躍っている。

手を軽く握り私は彼の夢の世界へと飛び立った。



そこは美しい部屋だった。

ここはどこだろうか?

私は辺りを見回す。

テーブルの上は綺麗に整頓されていて端の方に調味料が置かれている。

二脚の椅子に大きめのソファ。

薄ピンク色のカーテンに塵一つないフローリング。

窓からは柔らかな光が差している。

妙に生活感のある桃源郷だなと私は首を捻る。

この夢の中で彼はずっと過ごしてきたのだろうか?

それにしては彼の姿が見えない。

そんな事を考えていると鍵の開く音が聞こえた。

「ただいま」

彼の声だ。

二十一年ぶりの彼の声に涙が零れそうになる。

それを必死に堪え私は音のした方に駆けた。

扉を勢いよく開ける。

するとそこには記憶にあるあの時から少し老けた彼がいた。

その姿を見た瞬間に私は叫んでいた。

会いたかった

ごめんなさい

迎えに来たよ

一緒に帰ろう

そんなような事を夢中になって叫んだ。


しかし私はある事に気づいた。

気づいてしまった。


彼に私の言葉が一切届いていない事に。


彼は笑っている。

顔をしわくちゃにしながら。

傍らに立つ透歌さんを見つめながら。

彼女は美しかった。

浮世離れした、それこそ天使であるとか神様であるとかそういった現世に存在しない類いの美しさを湛えていた。

それがこの世界が彼の夢である事を私にありありと語り掛けてくる。

「今日行った所は中々良かったね」

「そうね。あそこならスーパーにも学校にも近いし、あなたの職場にもちょうどいいわ」

「値段も三千万なら予算の範囲内だし、君の欲しがってたシステムキッチンもついてる。完璧だ」

「本命決まったね」

コロコロと透歌さんが笑う。

それに釣られて彼も笑っている。


その光景を見て私は逃げ出したくなった。


だってあまりにも虚しい。


「じゃあ夕ご飯の準備をするわね」

透歌さんが私の目の前をスッと通り過ぎ、キッチンの方へ向かい、調理器具を取りだした。

それに続いて彼も私の眼前を通り過ぎようとする。

「待って私と一緒に帰ろう!」

気づいたら私は彼の腕をぎゅっと握り、嗚咽交じりの声でそう言っていた。

しかし、彼は何の反応も示さず行ってしまう。

握った腕は何の抵抗もなく振りほどかれてすり抜けていく。

そして悟った。

この世界での私は空気だという事を。

確かにそこにいるのに認知される事は決してない。

物に干渉したりすることは出来れど、それ以外は何も出来ない。

声が届かない事がつらい。

触れない事がつらい。

透歌さんといるのを見る事がつらい。

でも、進むしかない。


パッと頭に浮かんだその結論に私は思わずたじろいだ。


そんな強さが自分にあったとは到底思えなかったからだ。


ここで逃げ出さないなんて私じゃない。

どうしてこんな考えをしているの?

己にそんな疑問を投げかける。

その答えは直ぐに出た。

答えに辿りついた私は両手を強く握りしめる。

爪が肉を破り、血が流れた。

埃一つないフローリングに赤褐色の不純物が滴り落ち、完璧な世界を破壊する。

この血液も彼等は認識していないだろう。

だとしても

「私はやるぞ」

キッと眦を吊り上げ、笑顔で料理をしている透歌を睨めつける。

「お前から絶対に取り戻してやる」

そうだ。

今ここで彼を幻想から取り戻すために私はいる。

爪が肉を食い破る感触も。

滴り落ちる血液も。

興奮に脈動する心臓も。

全ては彼を救うためにある。

彼はこの世界からの救いなんて望んでいないかもしれない。

それでもいい。

これはただの独り善がりだ。

私は彼を善意とか好意で救いたい訳じゃない。ただここから前に進むために助けたい。

あの頃の何でも人任せにして中途半端な自分はもう死んだ。

私が殺した。

何度も何度も言葉という刃で切り付けてバラバラになって消え去った。

私を心底嫌いな奴が死んだから私はまだ生きている。

嫉妬を生きがいにしてた奴が死んだから彼の目覚めを素直に願える。

そして、勇気のない奴が死んだから私はこの治療に参加できた。

嫌悪は力だ。

数多くの後悔と自己否定に塗れた私の二十一年は伊達じゃない。

自己否定に溢れたあの日も。

己の醜さに吐き気がしたあの日も。

死にたくなったあの日も。

全ては彼を救うためにあったんだ。

あの日々があったから、あの嫌悪があったから私は私の望む自分に近づけた。

その事に今やっと気づけたんだ。


透歌。

お前が美しい夢を持って彼を誘惑するのなら、私が醜い現実でもって立ち向かおう。

そして私が彼を現実れいわに連れ戻す。


机上に置かれたカレンダーの平成四十三年の文字。


そう彼は未だに


幻想へいせいに囚われている。






あれからどれだけの時が経ったのだろう?

こちら側では四ヵ月の時が経ったが、夢の中では現実と時の流れが違うらしい。

私の過ごした二十一年はこの世界ではたったの十二年。

もうあちら側では何日経ったのかなんて分からない。

彼を救うと決意したあの日から私は彼等の日常を見続けてきた。

この世界は幸福だ。

真綿で首を絞めるかのような終末へと向かう幸福。

そんな中彼等は笑みを浮かべて生きている。

猫も犬も虫も花も全てが整然としていて不純物を許さない。

あまりに美しすぎてそれ故に息が詰まりそうになる。


「結局はじめに言ってた所になりそうだな」

「そうね」

茜色に染まった世界を彼と透歌さんは二人で歩いている。

それに一歩引く形で私もその後を歩いていく。

透歌さんの長い髪が光を反射しキラキラと輝き、美しい茶髪がオレンジ色に染まっている。

「綺麗だ」

彼がその光景を眺め、ぽつりと呟いた。

全く同意見だ。私は内心で深く頷いた。この死神は鎌も魂を入れる袋も持っていないけれど、途方もない美しさと優しさでもって彼の命を刈り取ろうとしている。

「茜がすごく」

彼がぽつりと呟いたその言葉にドキンと心臓が跳ねた。

私の名前。

朱音。

それが呼ばれたのかと思ってしまった。

そんなはずはないのだけれど。そう自嘲しながら反射的に心拍数の上がった心臓を宥める。

何も行動せずに奇跡が起こる訳がない。

なんとなく声を出して彼の名前を呼んでみた。

反応はない。

分かっていても気分は沈む。

「そういえば朱音どうしてるかな?」

そんな私の耳に思わぬ言葉が飛び込んできた。

「誰それ?」

「ああ俺の幼馴染。朱音って名前でさ。今夕焼けだからちょっと思い出しただけだ」

「そっか」

何事もなかったかのように二人は自宅に向け歩いていく。

その後ろ姿に

「私はここにいるよ!ずっと側にいたよ!」

絞り出すかのような声で呼びかけていた。

「あれ」

「どうしたの?」

「いや、朱音に呼ばれた気がして」

「気のせいじゃない?」

「まぁそうだろうな」

他愛もない話をしながら二人は私の遥か前を行く。

後を追っていた私の足だけが止まっていた。

彼は私を覚えていた。

そして今この時私の声はほんの僅かだけれど彼に届いていた。

まだ隙間はある。

入る余地がある。

希望と呼ぶにはあまりに細い糸。

でも、もはやそれに頼るしかない。

空気のような存在だとしても意識して呼吸する事はある。

酸素が確かにそこにあると意識する事は出来る。

四ヵ月ぶりに呼ばれた私の名前。

朱音という響きに胸が躍った。

何の変哲もない普通の名前。

その名前に初めて感謝した。

お陰でこの世界を灰燼に帰し、彼の心に巣食う透歌を殺す算段がついた。


行動を起こそう。

まだ私が覚えられているうちに。

終末から彼を救い出すために。

家に着いたら早速準備に取り掛かった。

私の実家にあったアルバムを手に彼の家に向かう。

これは彼の心の隙間に取り入るための武器。

茜色の空と同様に私を想起させる最たるもの。

私と彼の十七年。

それが私を認識させるための最後の手段。

きっとこれで失敗したら次こそ私は認識されなくなるだろう。

だからこそ、

「これで決めるんだ」

持ってきたアルバムを机の上に放り投げた。

コイツで透歌さんを殺す。

私は机の側に置かれていたマイホーム購入のための契約書をビリビリに裂いてアルバムの横に置いた。

幻想の世界の偽りの宿なんて必要ない。

私がここから連れ出して見せる。

息を大きく吸って吐く。

さあ勝負の時だ。

私は包丁を握りしめ口の中で小さく呟いた。


準備を終えた時には夕方を迎えていた。窓から心地よい風が流れ、薄ピンク色のカーテンを揺らす。

昨日同様鮮やかなオレンジが世界を染める。

美しい光景だ。

それを今から私はぶち壊す。

ここを地獄に変える。

このオレンジを真紅に染め上げる。


ガチャリ

玄関でドアが開く音がした。

二人の談笑が静かな空間に響く。

リビングのドアが開き、彼等がテーブル上に置かれたアルバムと引き裂かれた契約書に気づいた。

泥棒かと慌てふためく二人を無視して私はアルバムを開く。

始めのページは保育園の入学式。幼き日の私と彼が満面の笑みを浮かべて映っている。

「どういうこと!」

勝手に開かれたアルバムに透歌が悲鳴交じりに叫んだ。

彼女に私は見えていない。見える必要はない。

私は次のページを開く。

小学校の入学式。

彼は何も言わない。

小学校の卒業式。

「なんなのこれ!」

中学校の入学式。

彼はただ無言で目を見開いている。

駄目だっただろうか?

一抹の不安が私の脳裏をよぎる。

でも、もうやるしかない。

次が私の想いの最後だ。

ページを繰る。

それは私と彼が二人で行った海の写真。

乱反射する水面、ふわふわと流れる雲。その全てがオレンジ色の夕日に包まれた光景。

茜が支配する世界。

朱音わたしの世界。

ここに勝るとも劣らない美しい光景。

少なくとも私はそう思っている。

「ねぇ私と一緒に帰ろう。現実に」

呼びかける。声が届いているかは分からない。もしかしたら届いていないかもしれない。けれど、彼の中に刻みつけられた私を呼び起こす材料はこれ以上存在しない。

だから何度でも呼びかける。

喉が枯れそうになるくらいに。

大きく、高く、ありったけの想いを込めて。

「それはできない」

彼が答えた。

「どうして!」

声が届いた驚きだとか思惑が成功した喜びだとか全部を無視して私は問うていた。

「俺はここで生きるのが幸せなんだ。自分が死ぬ事は分かっている。でも、どうせいつか死ぬなら夢の中で死のうが現実世界で死のうが一緒の事じゃないか。俺はここで透歌と二人で暮らしたい」

私の瞳を見つめて、彼は言い切った。

「そう……」

それ以外の言葉が出てこなかった。彼は現状を正しく認識して言っている。説得が不可能な事は直ぐに分かった。

「じゃあ仕方ないか」

私は彼の隣に立っている透歌の方を見る。

彼女はすっかり慌てふためき、なに?どうしたの?と壊れたロボットのように繰り返している。

「心はすっかり掴まれてしまいましたね。流石です」

私は手に持っていた包丁を腰で構え彼女に狙いをつけた。

彼が慌てて透歌の前に出ようとする。

でも、それより私のナイフが彼女の心臓を貫く方が速い。

「でも私は決めたんです。彼をこの世界から救い出すって」

感触は軽かった。

空を斬ったのかと思った。

しかし間違いなくナイフは透歌の胸に突き刺さっていた。

彼女の体がグラリと揺れる。

その体を彼は咄嗟に支え、私を彼女から突き放した。

彼女の胸からは鮮血が零れ、フローリングを濡らす。

「もう遅いよ。透歌さんは助からない」

コプコプと湧き出る血液を止める事に躍起になっている彼を見下ろしそう告げる。

「あかねっ」

今まで向けられたこともない憎悪の籠った目で睨みつけてくる彼。

「私の事が憎い?」

口角を上げ、精一杯の侮蔑を込めて彼を見る。

頬が引き攣りそうだった。

こんな目で彼を見るのも、憎悪の籠った目で見られるのも嫌だった。

でもやるしかなかった。

「ああ」

声を震わせながら彼は答える。

「今ここでお前をぶち殺してやりたいくらいに」

「ここじゃ私は殺せないよ。本当に私を殺したかったら現実でやってみな」

そう言い残し私は彼に背を向けた。

溢れ出そうになる涙を堪えるのに必死だった。

崩れ落ちそうになる足を叱咤する事に夢中だった。

彼が私の背後でゆらりと立ち上がる気配がする。

早く戻らなくては。

私は手にしたナイフで自分の首を掻き切った。

意識が遠のき、走馬灯のように彼とともに過ごした日々が流れていく。

喧嘩した日。

なんとなく気まずかった日。

笑いあった日。

そして、彼が私に彼女が出来たと伝えてきた日。

もうこの時には戻れない。

もしかしたらもっといい選択肢があったかもしれない。

これから先ずっとそんな事で悩むのだろう。

けれどこれが私の選んだ道だ。


気づけば私はベッドの上で横たわっていた。

あの方法で戻れる確証は全くなかったけれど無事に成功したようだ。

ゆっくりと体を起こし、隣のベッドに横たわる彼を見つめる。

目を覚ましただろうか?

成功したのだろうか?

期待を込めて見つめる。

「………ぅ……う……」

本当に小さい声が耳に飛び込んできた。

「目を覚ましたの!」

「あ……か……ね」

二十一年ぶりに出す声は酷く掠れていて殆ど聞き取れなかった。でも確かに彼がそう言ったのが分かった。

そして何度も体を起こそうとしてはそれが出来ずベッドに体を沈めている。

私はその光景を見てすぐさまナースコールをした。

バタバタと物音を立て看護師が続々と病室に入ってくる。

私はその光景をじっと見つめていた。

看護師に囲まれて様々な検査をされている彼の姿。

その姿が目を瞑っても容易く脳裏に思い浮かべられるくらいに。

彼と正面切って会う事が出来るのはきっと今日が最後だ。

だからその姿を。

掠れて殆ど聞こえない声を。

魂に焼きつけるのだ。

たとえそれがすっかり筋肉が落ち棒切れのような姿だったとしても。

その声が私への怨嗟だったとしても。

その全てを抱えて私は前に進む。

そう決めたから。

気づけば私の両頬には熱いものが伝っていた。それは私の意識とは無関係に滔々と溢れだし純白のシーツを染める。

「おかしいな」

幾度拭えど止まる事はない涙。

「覚悟したはずなのに」

双眸を強く擦る。けれど、それは止まる兆しすら見せない。

「憎まれても助けるって決めたのに」

「これは私のエゴから始めた戦いなのに」

「どうしてこんなに胸が苦しいの?」

これから私は憎悪を一身に浴びて生きる。

それが酷く苦しかった。

彼を失った今、私の手の中に残ったものは何もない。

ここから先の未来図は私にはない。

この感情は喪失感だ。

最悪に近い形で生きる目標を失った私にその感情が重くのしかかる。

でもそれに押し潰される事はない。

そんな私はもう殺してしまった

でも今日はもう前に進めそうにない。

明日からにしよう。

だからせめて今日だけは

「ないてもいいですか?」

私が殺した私へ許可を求める。

強い私から、弱い私への最後のSOS。


私は喉も涙も全てを涸らして泣いた。




あれから三ヵ月が経った。

私は遠く離れた場所で一人、朝焼けに包まれた街を彷徨っていた。

彼はまだリハビリの真最中だそうだ。

一週間に一度彼の母親からメールが届く。

そこには彼の現状と私への感謝の言葉が毎回綴られている。

でも、彼が私をどう思っているのか殆ど書かれていない。

未だに私の事を恨んでいるだろうか?

それとも一夜の夢のようにあの世界の事は殆ど忘れてしまっただろうか?

遠く離れた場所にいる私にその問いの答えは出てこない。

それでもよかった。

私の役目はここで終わりだ。

彼を幻想の世界から救う。目覚めさせるという願いは果たし終えた。

これで私も彼の両親も行く末を定めることが出来る。

闇の中を行く当てもなく彷徨う日々は終焉を告げた。

夜に、闇に縛られる事はない。


だって彼が目覚めたから


「深夜。いままでありがとね」

ここから始めよう。

夜は明けた。

彼はこれから令和いまを生きる。

指針を失った私も同様に令和これからを生きていくんだ。

「なにをしようか?」

私は朝焼けに包まれた街を駆けた。

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私と彼の茜色 雨森 雪 @m119221t

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