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 吸血鬼という存在を知らない人間はきっといない。

 それくらい吸血鬼という存在はメジャーであり、その名を聞けば誰もがその姿形を想像することができる。

 赤い瞳、コウモリの羽、口元から覗く鋭い犬歯、日に当たらないために青白い肌。

 吸血鬼という単語を聞けば誰もがそれくらいのことはすぐに思い当たる。だがそれはあくまでもフィクション。物語の中だけの存在で、現実に存在することはないというのが誰しもの認識だろう。

 合人もそう。吸血鬼という単語も、その姿形も知っている。だが現実に実在するなんて信じていたわけじゃないし、こんなことを面と向かって告白されても普通なら相手にすることはない。

 だがしかし。

 目の前のエミリーと名乗った少女には、空想の中の吸血鬼と合致する部分が多々あった。

 赤い瞳、黒い羽、病的なまでの白い肌。犬歯については確認できないが、例えここで鋭く尖った犬歯が確認できなくても、瞳の色と背中の羽だけで十分すぎるくらいに彼女が異質な存在であることの証明にはなっている。

「・・・・・・本当に?」

 なんて馬鹿げた質問だと自分でも思った。

 でも色々な情報が頭の中で錯綜し、単純な言葉しか口から出ない。

「ホントだよ。信じられないかな。ほら、この目、この羽」

 人差し指で赤い瞳を指し、次いで背中を向けて羽をパタつかせる。髪の隙間から覗く小さく折りたたまれた羽が可愛らしく動いている。

「それに、ふぉのはも(この歯も)」

 エミリーは口元を指で広げて歯を見せた。そこには自分も含めた人間よりも鋭く尖った犬歯が存在している。

 ドクドクと心臓が鳴る。その音がやけに大きく聞こえる。額や掌には汗が滲み、喉が渇いて仕方がない。

(瞳はカラコン、羽はオモチャ、肌は体質、歯は生まれつき)

 エミリーの言葉を否定するための材料はいくらでもある。現に合人だってこれくらいのことはすぐに思い浮かんだ。

 でもエミリーは空を飛んだ。昨日の夜に助けてくれたときも、今日、外に足場なんてない窓際から入り込んできたときも、きっと彼女はあの羽で飛んでいた。人一人の体重を支えて空を飛べる羽型の道具なんて合人は知らないし、現実にそんなものは存在していないだろう。

 だとすればエミリーの言葉は本当で、少なくともあの羽は本物という可能性は残る。

「・・・・・・」

 でも、そんなことはどうでもよかった。

「・・・・・・僕は、中島合人」

 エミリーが人間か吸血鬼かなんてどうでもいい。

 いや、正確には人間ではなく、吸血鬼であってくれたほうがいいとさえ思っている。

 なぜなら彼女は異質だ。そして異質は、特別なのだ。

 妬み、羨み、焦がれた特別という存在。それが今、目の前にいる。

(特別なんて嫌いだ。でも僕は、それ以上に・・・・・・――)

 双子の兄が特別だったせいで、他の誰よりも特別なものを合人は求める。他の誰よりも強くその存在に惹かれる。

「合人・・・・・・。うん、合人、よろしくねっ」

 笑顔を輝かせながらエミリーは合人の前に立つとその手を握ってそう言った。

 吸血鬼を名乗る少女の手は、予想よりも遙かに冷たく冷え切っていた。

「エミリー、でいいのかな。一つお願いがあるんだ」

「ん? なに?」

 そしてその異常なまでの肌の冷たさも、彼女が吸血鬼である、つまり人間ではない異質な存在であるということを合人に信じさせる。エミリーの手の温度に反して、合人の体温はどんどん上がっていく。


「エミリー。僕の血を、吸ってくれないか」


 合人のそんな言葉を予想すらしていなかったのだろう。エミリーは目を丸くして言葉を失った。その瞳を真っ直ぐに見つめ、合人は続ける。

「吸血鬼は血を吸った人間を同族にするんだろう? だったら僕の血を吸ってほしい。僕を、吸血鬼にしてほしい」

 吸血鬼になりたいわけでは決してない。

 でも吸血鬼は異質だ。そして特別な存在だ。

 天才の兄に絵では勝てない。いや、絵だけじゃない。完璧を絵に描いたような兄にはきっと、なにをしても敵うことはない。勉強も、スポーツも、人望も、もちろん絵も。自分が中島合人である限り、なにかで中島景司を上回る日は永遠にこない。

 なら景司を超えるにはどうすればいいのか。景司を上回る特別になるにはどうすればいいのか。簡単な答えが目の前にある。

 即ち、人間という枠から脱却すればいい。

 異質な、そして特別なものに存在そのものからしてなればいい。

 それはとても安易で、子供っぽくて、なんとも愚かしい選択だ。でも合人にとってはどうでもいいことだ。この選択について誰かにいくら罵られようと、笑われようと、そんなことは関係ない。兄を、景司を超える特別ななにかになれるのなら、周囲の罵倒や嘲笑など気にはならない。

 誰が、ではない。自分がそれで満足できるのだから、それでいい――。

 他の誰かのことなんて、知ったことではない。

「エミリー!」

 いつの間にかエミリーが握っていたはずの手を合人のほうから握り返していた。手には力が入り、そして力強く真っ直ぐに彼女の瞳を見つめる。

 だがエミリーは痛がる素振りも驚く素振りもなく、なぜか困ったような表情を浮かべて言った。

「えっと・・・・・・ごめん、合人。血を吸わせてくれるのは嬉しいんだけど、合人を吸血鬼にするのは無理なんだ」

「え・・・・・・」

「あのね、吸血鬼に噛まれた人間が吸血鬼になるっていうのは、あくまでも物語の中だけのお話。設定なんだよ」

 と、物語の中にしかいないはずの異質な存在が言う。

「吸血鬼はずっと昔から確かに存在していたの。昔、たぶんどこかで別の吸血鬼が今のわたしみたいに人間と出会ったことがあったんだと思う。ううん、絶対に会ってる。そうしたときに、人間とは違う吸血鬼を見て怖くなった人間が作り上げた恐怖の象徴としての吸血鬼。それが、人間の口にする吸血鬼なんだよ」

「それって、どういう・・・・・・?」

「合人は吸血鬼ってどういうものだと思う?」

 問われ、頭の中にある吸血鬼のイメージを口にする。

「赤い瞳、コウモリの羽、白い肌、鋭い牙」

 ここまではエミリーの外見と一致する。

「後は・・・・・・太陽の光とニンニクが苦手で、朝日を浴びると灰になって、鏡に映らなくて、魔法が使えて、不老不死で・・・・・・」

 思い浮かんだ『吸血鬼』という存在をエミリーに伝える。全て伝え終わるとエミリーは「えっと」と前置きし、

「やっぱり、色々間違ってるよ。確かに吸血鬼は太陽の光が苦手だけど、太陽の光を浴びて灰にはならないよ。酷い火傷は負うけどね。まあ、再生能力が人間とは比べものにならないからすぐに治るよ。チョー痛いけどっ」

 他にも、と言ってエミリーは続ける。

「鏡にはちゃんと映るよ。魔法・・・・・・は使えないけど、簡単な暗示くらいはかけることができるかな。あと不老不死っていうのも嘘。吸血鬼だってちゃんと死ぬ」

「それは心臓に杭を打たれたり、銀の弾丸で撃たれたり・・・・・・?」

「そんなことないよー。そんなことしなくても死ぬときは死ぬよ。てか、それ言うのやめてよー。なんか人ごとじゃないし、自分がされるの想像すると鳥肌立つから」

 自分の二の腕を擦りながらエミリーはジットリとした目を向けてくる。

「とにかく、わたしたち吸血鬼は確かにあなたたち人間とは違うけど、でも人間が思ってるほど化け物じみてもいないってこと。だから吸血鬼に血を吸われた人間が吸血鬼になるっていうのも嘘。作り話。設定」

(そんな・・・・・・)

 ふわっと、昨日、落下したときの浮遊感に似たものが全身を包んだ。

 エミリーの言葉はつまり、特別な存在をもってしても合人は特別ななにかになることはできないということ。どんな方向でも構わなかったのに、兄を超える特別ななにかを身につけることができないということ。

 一度芽生えた希望が音をたてて崩れていく。

 今立っている足下が、この倒壊しかかっている団地が、音をたてて崩れていく錯覚を覚える。そしてそれは、合人が中学生になってから描き続けてきた絵も団地と一緒に崩れていくということで、決して景司には及ばない、合人の描く絵なんて景司と比べるまでもない――そう言われているような気さえしてしまった。

「合人?」

 その合人の変化にエミリーも気づき、一歩距離をとって様子を窺う。

(勝てない。僕は、景司には絶対に・・・・・・っ。特別には、なれない・・・・・・っ)

「あ、あ~・・・・・・。えっと、そだっ。それならせっかくだし、血を吸わせてもらおうかな~。昨日助けたお礼も兼ねて。・・・・・・なんて」

 合人の様子の変化に気づいたエミリーが場の空気を変えようと冗談っぽくそんなことを言う。

「・・・・・・血。・・・・・・ああ、どうぞ」

 正直、もう血を吸われることすらどうでもよかった。

 だっていくら血を吸われても自分は吸血鬼になることがない。普通の人間のまま。今まで通りの中島合人のままなのだから。

 だったら――。

「えっ、首筋出すの早っ!? え、ホントに吸っていいの? そりゃわたしもしばらく吸ってないし、血、吸いたいけども! でも」

「別にいいよ。命を救われたのは事実だし、そのお礼はしたいと思ってたし。それに」

 だったら、せめて――。

「――死ぬくらい、血を吸ってくれてもいい」

 死ぬときくらい特別ななにかに手を下されて死にたい――。

 そんなことを、合人は思ってしまったのだ。

「・・・・・・・・・・・・っ。ホントに、いいの? ホントに、吸うよ?」

「うん」

 ジリジリとエミリーが近づいてくる。合人は目を閉じ、その瞬間を待った。

 エミリーの手が肩に触れる。吐息が首筋を撫でる。そして、犬歯が肌を刺す痛みが僅かに走る。

 血液は命の源だと誰かが言ったことを思い出す。吸血鬼に血を吸われるというのはつまり、命を吸われているのと同じで、どれくらいの血を吸われているのかはわからないがそれでも全身の力が抜け、肌を刺した痛みは薄れ、気分が良いとさえ感じるようになる。

(ああ、こんな気分の中で死ぬのなら、悪くない・・・・・・)

 自暴自棄になっていたというのもある。なんだか全てどうでもよくなってしまったというのもある。だからこのまま、吸血鬼に血を全て吸われて死ぬのならそれでいい。

 ――と、そんなことを思ったときだった。

「――え、ええっ!?」

 突然の声に驚き目を開ける。するといつの間にか合人から離れたエミリーが自分の手を見つめて固まっていた。

「・・・・・・どうかした、エミリー?」

 その様子が気になり声をかけ一歩踏み出すが、その足がそれ以上前に進むことはなかった。

 なぜなら、合人もまた、驚きに身を固くしたからだ。

 それは明らかな変化だった。誰が見てもひと目でわかる、彼女の変化。

「合人・・・・・・わたし・・・・・・っ」

 顔を上げたエミリーと目が合う。

 彼女は、変わっていた。

 特徴的だった赤い瞳、そして黒い羽。

 それが、なくなっている。

 赤い瞳は黒くなり、黒い羽はその痕跡すらなく消えている。

 その姿はエミリーの事情を知らなければ誰も彼女を吸血鬼だとは思わないだろう。無数にいる人間の一人。そんな風に思うだろう。

 目の前にいるエミリーからは外見的な吸血鬼の特徴がきれいさっぱり消えている。

 そこに立つのは一人の少女だ。

 金色の髪を靡かせる、少し色白の異国の少女。

 外見だけはどこからどう見ても普通の人間。

 そんな少女が一人、合人の目の前には立っていた。

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