いつもの関係

第1話

「ずいぶん腫れてるね。痛いでしょみやびちゃん」

 ミヤさんは私の腫れ上がった手首に湿布を貼りながら、優しい声で言った。

「思いきりグーで殴ってやったから」

 そう口にしながら私は、少し誇らしい気分になった自分に気づいた。なるほど、しょうもない暴力を振るったことを武勇伝みたいに偉そうに語るおっさんたちはこういう気分なのかもしれない。

「自慢するようなことじゃないでしょ」

 ミヤさんは少したしなめるような口調で小さく笑う。

「だってあいつ、顔殴ったんだもの。やり返しただけだよ」と私は唇を尖らせる。

 ミヤさんの背後にある姿見に映る自分の顔に目をやる。赤黒く変色した頬。あの野郎、思いきり殴りやがって。こんな顔で、明日会社に行ったらなんて言い訳すればいいのだろうかと考える。いっそのこと、休んでしまおうか。

 ミヤさんは冷蔵庫の冷凍室から氷を出すと手際よく氷嚢を作り、タオルで包んだそれを雅に差し出した。「ありがと」と短く礼を言い、受け取った氷嚢を頬に当てる。力加減を間違えてしまい初めは軽く痛みが走ったが、熱を持った皮膚が急速に冷やされるのは心地がよかった。

「それにしても、言い争う女の子の声が外から聞こえてきたのにも驚いたけど、助けに入ったらその子が雅ちゃんだったからびっくりしたよ」

 私も助けてくれたのがミヤさんで驚いた。

「ミヤさんと私ってご近所さんだったんだね」

「店でしか会ったことなかったからなあ」

 ミヤさんは飲み友達だった。元々独り飲みをよくする私は、自宅の最寄り駅にあるいろいろな飲食店をぶらりと訪れていたのだけれど、ある日、自分と同じように独りで飲んでいる男のことをこれまでにもよく見かけていたことに気づいた。それがミヤさんだった。

 互いの酒の趣味が合うことがわかって以降、独り飲みよりもミヤさんに声を掛けて一緒に飲む機会のほうが増えた。

 交わす会話はなんてことはない。仕事の愚痴や、好きな映画の話、最近ハマっているYouTuberのことなど、とりとめのないことをだらだらと喋るだけ。でもそれが私にとっては心が安らぐ一時になっていた。

 彼の名前がみやこであることを知ってから、私は彼を「ミヤさん」と呼ぶようになった。それに応じるように彼も私を下の名で呼んだ。それだけで、苗字で呼び合うよりもずっと親密になれた気がした。

 私はいつしか彼に心惹かれていた。ミヤさんも私の気持ちに勘づいているだろう予感はある。しかし彼が一線を踏み越えようとしてくることはなかった。

 その気がないのだと、私は知っている。

「逃げていったあの男は、新しい彼氏って訳じゃないよね?」

 確認するようにミヤさんが問いかけてくる。

「まさか」嫌悪感を隠さない声で否定した。「マッチングアプリで出会ったんだよ。今日が初対面」と言いつつ、デジタル時計に目をやる。零時を回っているからすでに昨日か、などとどうでもいいことを考えた。

「アプリかあ。雅ちゃん、そういうの使うんだね」

「ミヤさんも使ってみる?」

「物騒なことに巻き込まれそうだからやめとくよ」と笑うミヤさん。「それで、今日が初対面の男と何がどうして殴り合うようなことになったのかな」

「あいつ、人の優しさにつけ込むクソ野郎でさ」

 執拗に酒を勧めてきた辺りで怪しいとは思ったが、酒の強さには自信があった私は意に介さず飲みまくった。そして相手にも同様に酒を飲ませていたところ、男のほうが先に潰れてしまったのだった。

「そろそろ一服盛られないように気をつけなきゃなーとか考えてたらダウンしちゃったもんだから拍子抜けしちゃってね」

「雅ちゃん、ウワバミだもんね」

「ミヤさんだって同じくらい飲めるでしょ」

「僕らを基準にするのが間違ってる」

「言えてる」

 私は思わず笑ってしまい、殴られた頬が痛んだ。

「それで、潰れた彼をどうしたの」とミヤさんが先を促す。ここから先は、私の失態が絡んでくるので少し話しづらかった。

「まず、放っておくわけにもいかないと思っちゃったんだよね」

「雅ちゃんは優しいから」

 穏やかな表情のミヤさんに褒められ、胸がときめいたのを誤魔化すように「わかってるじゃない」とわざとらしく鼻を高くした。

「あいつ、自分の家もわからないくらいに泥酔してて。捕まえたタクシーの運転手にも『この人だけ乗せられても困る』って言われちゃってね。それで、しょうがないから連れて帰るか、って考えちゃったんだよね。ばかだな私」

 適当なホテルにでも放り込んでおけばよかったのにと後悔している。自覚がなかっただけで、自分もずいぶんと酔っていたのだろう。

 ミヤさんは私を叱ることはしなかった。何も言わず、話を聞いている。

「これだけ酩酊してるなら手を出してくることもないだろう、万一手出しされてもどうとでもできるだろうって甘く考えちゃってたんだよね」

「見込み通り、彼は手を出してきた、と」

 私は頷きを返す。

「そもそも、酔ってなかったんだよ。泥酔した演技だったの」

 ミヤさんは不愉快そうに眉をひそめた。

 本当に卑怯だと私も思う。しかし一方で、どうしてあんな見え透いた演技にまんまと引っかかってしまったのかと、自身の不明を恥じ入ってもいた。

「初めは『連れ込んでおいてそれはないじゃん』とか『ここまできたんだからさ』とか言って、なんとかなし崩しに事を持っていこうとしてたみたいなんだけど、いやいやこっちは騙されてんだから万が一にも合意することなんてないわって突っぱねてたのね」

 口八丁ではとりつく島がないと思ったのか、男はついに力ずくで迫ってきた。だがそれでも私は抵抗した。男の身体を押し返したのだが、次の瞬間には顔を殴られていた。そして私も反射的に殴り返していた。

 ミヤさんに湿布を貼ってもらった手首をさする。湿布から立ち上るメンソールの爽やかな香りが鼻孔をくすぐった。

 殴られて目を白黒させていたあいつの顔が浮かび、少し愉快な気分になる。女に殴り返されるとは思っていなかったのだろう。いい気味だ。

 しかし、その表情がすぐに憤怒の感情に満ちたものへと豹変したことを思い出し、ぞっとした。部屋を逃げ出した私を追いかけ、腕を掴んで離さない男の力強い手。乱暴に握られた箇所はいまだに痛む。あそこでミヤさんが助けてくれなかったらどうなっていたのだろうと考えそうになって、慌てて思考を追い払った。

「大変だったね」

 声をかけてくれたミヤさんの表情や声音から、心から私を気の毒に思ってくれていることが伝わってくる。本当に、優しい人だと思う。

「でも」と、ミヤさんは口にした。彼は穏やかな表情で私を見ていた。

「暴力に暴力で返すのは危ないよ」

 ミヤさんの顔を真顔で見返す。眼鏡の奥にある、少し目尻が下がった優しい瞳が、本当に私のことを心配していることはわかっている。

 それでも、私は反論する。

「それは私が女だから?」

「性別は関係ないよ」とミヤさんは首を振った。「基本的には腕力の問題だ。でもそれ以前に」

「暴力は法律で禁止されている?」

 私の茶化すような問い返しに、ミヤさんは小さく笑って「やったらやり返される」とだけ言った。

 一瞬だけ、彼の目が冷たく光ったように見えた。

「ごめんね」とミヤさんはいつもの穏やかさで語りかけた。「雅ちゃんを責めるつもりはないんだ。そうするしかなかったんだとも思ってる。ただ、さっきの誇らしそうな口ぶりがちょっと気になっちゃって。説教臭いことを言ってしまって申し訳ない」

「……ううん。私こそ、ごめんなさい。ミヤさんの言う通り、やり返してやったことをちょっと自慢に思ってたかもしれない」

 会話が途切れる。若干の気まずさが漂う空気を強引に断ち切るようにミヤさんが立ち上がって伸びをした。

「今日、泊めてくれない?」と口にしていた。ミヤさんに「送っていくから帰ろう」と言われるような気がして、それが嫌だった。仕事はどうする、と理性的な内心の声が聞こえる。うるさい。どうせこんな顔なのだ。明日の仕事は休んでしまえばいい。

「このまま家で一人になるのは少し怖くて」

「……わかった。いいよ」

 そう応じてくれたミヤさんは、どこか少し困っているように見えた。

「布団が一つしかないから」と床で寝ようとするミヤさんを説得して、私と彼は同じベッドの中で横になった。ミヤさんは私に背中を向け、私も同じように外側を向く姿勢を取った。静かな室内に二人分の呼吸があるのを感じるのはいつぶりだろう。

 私は寝返りを打ち、ミヤさんのほうへ向き直った。彼のうなじと細い首が目の前にあった。

「ミヤさんさあ」

 囁くように声をかけた。

「んー」と語尾を上げて応じるミヤさん。

「彼女、いないんだっけ」

 これまではっきりと聞いたことはなかった質問をぶつける。

「いないねー」

 ミヤさんが答えてくれたことにほっとしつつ、「作んないの?」と私は重ねて訊ねた。

「んーどうだろね……」

 言葉を濁すミヤさん。私は布団の下で、彼の身体に腕を絡めるように回した。ミヤさんがぴくりと身動みじろぎしたのが伝わる。

「そういうのは、今はいいかなって」

 ミヤさんが口にした台詞に、私は身体を強張らせる。

「そういうの、って?」

 聞くのが怖いと思いつつ、訊ねずにいられなかった。

 ミヤさんが身体の向きを変えて私に向き直る。彼の顔が目の前にあって、同じ布団を被っている。その事実に年甲斐もなく切ない想いを抱いている。眼鏡のないミヤさんの顔を見るのは初めてだった。奥二重で、睫毛が長い、優しい目だと思った。

「彼女を作ること」

 ミヤさんの言葉に安堵したのも束の間、彼の手が自分の身体に回されていた私の腕に優しく触れ、その腕を持ち上げると、二人の間の布団上にゆっくりと置いた。

「やめとこうよ」と言うミヤさんは困ったように微笑んでいた。

「なんで?」と口にしていた。急に恥ずかしくなって、まるでそうすれば自分のしたことがなかったことになるみたいな気分で、彼に質問した。「したくないの?」

「そういうわけじゃないけど」

 言葉を濁すミヤさんに「だったらいいじゃん」と半ば自棄気味に言った。自分でも制御がつかなかった。

「ミヤさんはしたくないわけじゃなくて、私はミヤさんとしたい。何の問題があるわけ」

 何を言っているんだろう、と冷静に状況を見ている自分がいることを感じていた。ムードの欠片もない。こんなつもりじゃなかったのに。

 少しの間、ミヤさんは何も言わなかった。お互いに見つめ合ったり、視線を逸らしたりしながら、時間だけが過ぎてゆく。

「後悔するから」とミヤさんが言った時、私はどんな顔をしたんだろう。私から見る限り、ミヤさんの様子はいつもと変わらなかった。いつも通りの、穏やかで、優しいミヤさんだった。

「今まで通りの関係じゃいられなくなる」

 それを言うなら既に手遅れだと私は思った。私が彼の身体に触れた瞬間から、私たちの関係は変化してしまっていた。

「ごめん。やっぱり私、帰るね」

 ミヤさんが止める間もなく、私は彼の家を飛び出していた。

 夜道を歩く間、後悔と、恥ずかしさと、悲しさで私はいっぱいになっていた。

 どうしてあんなことしちゃったんだろう。どうしてあんなこと言っちゃったんだろう。そればかり考えていた。時間を戻して、過去の言動をなかったものにしたかった。

 ずっとそのことを考えていたせいで、帰宅して扉を開けた時、そこにあいつがいると気づくのが遅れた。

 強い力で腕を引かれて部屋の中に連れ込まれ、我に返るより先に顔を何度か殴られた。

 引きずられるようにして部屋の真ん中に倒されて、衣服を引きちぎるようにしながら無理矢理剥がれていく。暗くてよく見えないことに苛ついたのか、舌打ちをしながら男が明かりをつけたので不意の眩しさに目を細めた。鼻の奥がじんじんして息苦しい。相手の鼻息やぬめぬめした舌、ひげのざらざらした感触をお腹に感じて気持ち悪くて仕方がなかったけれど、抵抗しようにも身体に力が入らなかった。気力がないのか、恐怖で竦んでいるのか、判別がつかない。

 他人事みたいに、あー、ヤラれる、と考えていた。本当に、どうしようもないな、と自己嫌悪に陥る。勝手に盛り上がって、テンパって、自爆して、逃げ出して、そしてこの結果か。笑える。笑えないけど。

 男の手が私のパンツにかかった瞬間、ふっと身体にのしかかっていた相手の重さが消えた。視線を身体の下方へ向ける。

 ミヤさんがいた。彼に髪を掴まれた男が、その手を引き剥がそうともがいていた。私は何が起きているのかわからず、呆然とその様子を眺めながら、両腕を使って後ろに下がった。

 ミヤさんは男の頭を床に叩きつけ、脱ぎ捨てられたシャツを相手の口に無理矢理突っ込むと、自分の腕を掴んでいた相手の指の一本をあらぬ方向へねじ曲げた。くぐもった悲鳴が男の口から漏れる。

 ミヤさんは男の髪を再度掴み上げて自分の顔をまっすぐに見させると、「おい」と声を発した。それは私が今まで聞いたことのない、低く冷たい声だった。

「今度、彼女に近づいてみろ。こんなものじゃ済ませないぞ」

 男は逃げ出し、後には私とミヤさんだけが残された。

「大丈夫?」

 声をかけられた瞬間、私は身体を縮こまらせてしまった。ミヤさんは気にする様子もなく、いつもの穏やかな表情で半裸にされていた私にタオルをかけてくれる。

「助けてくれて、ありがとう」

 私はなんとかそれだけを口にした。

「助けてないよ」

 ミヤさんが口にした意外な台詞に、「え?」と私は問い返していた。

「僕がやったのは、あの男に暴力を振るったこと。ただそれだけだ」

 そう言って私にティッシュを手渡したミヤさん。それをありがたく受け取り、鼻の下を拭うと血がべったりついていた。意識すると急に鼻が痛くなってきた気がする。あいつ、人の顔をぼこすか殴りやがって。無性に腹が立ってきた。

「でも、それで私は助かったんだよ」

「結果論としてはね」

「何それ。哲学?」

 ミヤさんが何を言いたいのか私にはよくわからなかった。鼻を拭ったティッシュをゴミ箱に投げ入れる。

「理由はどうあれ、暴力を振るう奴にろくな人間はいないってことさ」

 とぼけたようにそう言ったミヤさんは本当にいつも通りのミヤさんで、私はなんだかほっとして笑ってしまった。

「ねえミヤさん」

「はい」

 妙にかしこまったように返事をする彼が可笑しくて、私はまたしても笑ってしまう。ああ、やっぱりいいな、と思わされる。いいな、この人は。

 でも。

「今日はここで一緒に寝てくれないかな」

 色気が出ないよう、なるべくいつもの私らしい口調になるように、そう口にした。拒絶されることが、ちょっと怖かった。

 少しだけ間があってから、「いいよ」と、彼は静かに口にした。

 その時のミヤさんは、優しく笑っていた。

 そうして私とミヤさんは、狭いシングルベッドで二人、身体を寄せ合うようにして横になった。

 ああ、いいな、としみじみ思う。彼の温もりを隣に感じる。呼吸が聞こえる。

 私はこの先も、ミヤさんと寝ることはないのかもしれない。男女の関係になることなく、気づけば会わなくなっていつの間にか関係が消滅しているような時がくるのかもしれない。

 それでも。今日、この時に、彼と一緒にただ横になって、ああ、いいなと感じた私のことは、忘れたくないな。

 そんなことを考えながら、私は目を閉じた。

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