第3話

 タクシーは大輝の自宅を目指し、前へ前へ進み続けていた。時々車内には、美香の寝言が響いていた。大輝も窓に寄りかかり、いつしか眠ってしまっていた。最近は不思議と過去のことを夢に見ることが多くなっていた。

 今でこそ、経営者として一応の成功は収めたと自負する大輝であったが、当然ながら予め成功へのレールが敷かれていた訳ではなかった。

 成功を掴めた理由を問われると、「父親が用意していたレールから自分の意思で脱線し、道なき道を時には這ってでも進んできた。道を進むのではなく、自分が通った所が道になる」といったことを、いつも語っていた。毎回少し照れくささは感じてはいたが、これはどこからか適当に拾ってきた言葉ではなく、大輝自身の経験を基にした言葉だった。

 大輝が生まれ育ったのは、長崎県の離島であった。かつては漁業が盛んだった島で、大輝の父親は漁師だった。しかし、漁業で賑わっていたのは、遠い昔のことだった。父親からの話や写真などでその時のことを聴いたり見たりしたことはあったが、物心ついた大輝の目に映っていたのは、まるである時から時間が止まってしまったような、退屈で変わり映えしない島の姿だった。

 確かに、島には数え切れないくらいの漁船があった。ふらっと訪れた人がそれだけ見れば、「今でも漁業が盛んなんですね」と勘違いしてしまうくらいの。だが、大輝は気がついていた。その漁船たちのほとんどが、毎日漁港に繋がれたままで、ぷかぷか浮かんで飾られているだけということを。そう、それは歴史的建造物とかそういったものに近かった。

 それでも、父親はいつも言っていた。

 「大輝はじぇったい漁師にする。俺の代で終わらしぇれん」

 「俺の代で終わらしぇれん」これは父親の口癖で、漁師に限らずことあるごとに言っていた。

 だが、そういう父親のことを、大輝はそもそも漁師としては見ることができなかった。なぜなら、「漁に出ても釣れんで赤字になるから」と、漁へ出るのはたまに遊び程度で、それ以外は毎日汚れてもいない漁船を洗い、漁師仲間と酒を飲み博打をする、そんな父親の姿を見てきたからだった。決して父親だけでなく、島の漁師の男たちのほとんどがそうだった。大輝の家も、結局は母親が稼いだお金を頼りに生活をしていたのだった。

 それでも、男たちが漁師としての誇りのようなものを保つことができていたのは、たまに都会から来る観光客の存在があった。

 当時から、都会の人間からしたら、島の漁業は一種の伝統芸能のようなものだった。「失われた日本を探しに行こう」などの文句に乗り、同じ国の人間が同じ国の人間を好奇の目で見に島へよく来ていた。いや、少なくとも大輝にはそう思えた。

 だが、そういうとき、島の漁師たちは一言で言えば、ノリノリだった。もちろん大輝の父親も。いつも通り漁をするならまだしも、観光客を盛り上げるためとはいえ、よくわからない舞などを披露しながら漁をしていた。大輝も、袴のような服を着させられ、船で踊らされたり、太鼓を叩かされたりした。いうまでもなく、そんなの伝統でも何でもなかった。

 それでも、観光客にちやほやされることで、父親は伝統芸能の後継者にでもなったつもりでいるように、大輝には見えた。と同時に、きっとそうでも思わないとやっていられないんだなと、わずかではあったが同情もした。

 だが当然、大輝は後継者になるつもりは微塵もなかった。

 しかし、父親の意思は固かった。

 「中学卒業したら、漁と踊りの修行をさしぇる。高校は行かんでええ」

 大輝、そして母親がいくら説得しても、その考えは変わらなかった。大輝の思いはただ一つだった。

 ――逃げるしかない。

 父親はともかく、母親を放って出て行くことにためらいと心苦しさはあった。だが、この頃になると母親も、「逃げても良いから」と言うようになっていた。だからきっと理解してくれると大輝は思った。

 それ以上に気がかりだったのが、二歳下の妹のことだった。妹と別れなければならないことが、何よりも辛かった。島から逃げようとしたその日も、妹に気づかれ決心が揺らぎかけた。だが、自分が成功し、ゆくゆくは母親と妹を呼んで一緒に暮らす、そう自分に言い聞かせ、妹だけには島を出て行くことを伝えた。

 「少しだけお別れ。でも、すぐにまた会え    るからね」

 「少しだけ? わかった。あ、じゃあねぇその間、お兄ちゃんのご飯は私が食べるからね」

 大輝が優しく頭を撫でてやった時にはもう、すやすやと夢の続きを見ていた。

 妹は二歳年下とはいえ、少しだけ成長が遅いところがあった。そんな妹が愛おしかったし、何より自分が守ってやらないと、大輝はいつもそう思っていた。そのためにも、自分が島から出て成功しないと、決して永遠の別れじゃない、そう自分に言い聞かせた。

 大輝はその日の朝、島を出た。財布には、大輝が持っていたよりも多くのお金が入っていた。母親は言わなくても気がついていた。何倍、何十倍、何百倍にして母親に返す、そう何度も心の中で呟いたのは、必ず成功してやるという決意表明でもあった。

 あっという間に島は遠くなっていく。広い海の中にぽつんと浮いて動こうともしないその島の姿は、ある時から時間が止まってしまったような、退屈で変わり映えしない姿そのものだった。

 大輝は島とは反対方向に身体を向け、二度と振り返ることはしなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る