EP16 未来へ

 【秘匿のメシア】摘発の翌日。駐在所の会議室には、第七中隊に所属する士官兵数名と、昨晩ジャックスが残業しながら仕上げた報告書を持つヴィクター、そして何故かすこぶる機嫌の悪いアルフレッドがいた。そしてこの場に、名目上の計画発案者であるストックの姿は無い。


「――誰かストックの行方を知ってる人、いたら正直に挙手」


 ヴィクターの声に、手を挙げる者はいない。更にアルフレッドの表情が険しくなるのを一早く察知した彼は、ジャックスに視線を向けるなり、右手人差し指でピッとドアの方を指差した。探しに行けということか。無言の指名を受けた少佐はこれまた無言で立ち上がり、そのまま何も言わずに退室する。


「……手間かけさせやがって」


 会議室のドアを閉め、ジャックスは廊下で小さく舌打ちをした。


 ストックときたら、今回の件で珍しくやる気を出したと思ったのに、終わってみればすぐに普段の不真面目な勤務態度に逆戻りだ。出勤しているのかすら怪しい上に、来ていても隙を見てはタバコをふかしている。そしてそんな彼を探すのは毎回ジャックスだ。

 ここ十年近く、ジャックスは不良同期のせいで面倒な役割を担われ続けていた。しかも何度もそのことはしつこいくらいに言っているのに、一向に改善の兆候すら見られないから、下手すれば五十五歳で互いが定年退役するまでこれが続くことになる。どうかそれだけは勘弁願いたい。


「そろそろ本当に殴ってやろうか」


 内心苛立ちながらも、彼は鉄仮面を保ったまま建物の裏へと向かう。

 そして案の定、そこには居た。


「ストック・ディラー。会議をすっぽ抜かすとは何事だお前」


 あたりに漂うタバコの煙特有の臭いに咳き込みながら、ジャックスはボーッと虚空を見つめていたストックの肩を叩く。


「……会議なんて聞いてないけど?」


 心底うざったらしそうに半ギレでそう言う彼だが、視線はいまだに同期の方へは向かない。


「点呼前にちゃんと連絡した。さては今日は遅刻か?」

「……てめえに関係ねえだろ」

「とにかく居るのなら来い。またレティバーグ大佐の雷を食らいたいのか?」


 ストックの紅と緑の瞳が深緑の双眸を睨みつける。


「来ても来なくても落ちるくせに。てかその会議、俺が出る必要ある?」

「作戦発案者がサボっていい理由は?」

「作戦なんてただの指針に過ぎない。それにあれは実質的には借り物な上に、殆ど活用されることはなかっただろ?」


 なるほど、あながち間違っていない。間違ってはいないが……とジャックスは内心思う。


「――それを俺に言ってどうする」

「実行責任者に言わずして誰に言う」

「お前、今俺に言ったことをフィルグランド中佐達の前で言えるのか? テーブルの下で爪先を杖で突かれるぞ」

「言う理由が分からん。というかそもそもその会議やる必要あんの? 報告書上げたんだろ?」

「それこそ俺に言うな。大佐に言え、直に」

「つーわけなんで、『彼は急性胃腸炎起こしてぶっ倒れたんで来れません』って言っといてくれ。はい解決」


 そう言うなりストックは視線を戻し、点火済の紙巻きタバコに口をつける。話は済んだからいいだろ、とでも言うかのように。


 しかし、そこで「はいそうですか」と引き下がるほど、ジャックスの懐は深くない。


「ところで、お前のあのやる気は一体何処に行ったんだろうな」


 相手の正面に回るなりそう言い、相手の軍靴の爪先をグリグリと踏み付けるジャックス。痛みでタバコから口を離したストックと漸く視線がかち合ったところで、彼は間髪入れずに言葉を続ける。


「何かあの娘に思い入れでもあるのか?」

「……何だ突然」


 珍しく論理が飛躍している同期に、中尉は怪訝そうな表情を向ける。


「今考えてみると、お前はやけにこの件に対して積極的だった」


 そう言って、少佐は数々の中尉の行動を列挙していった。

 チリエと初めて会ったあの晩、リーアへの保護命令と信者の足止めを自らの判断で行ったこと。

 リーアの突撃作戦を貰うと言ってのけ、実際にその作戦を上層部に提案したこと。

 事前に計画していた作戦が使えないと分かるなり、自らチリエと教祖の居場所を探し始めたこと。

 ジャックスの記憶の限りで、ストックがここまで自己の判断で動いたことは今までない。いや、士官学校を出てすぐの頃に少しだけ身勝手な行動をしてたことはあったが、あれはそれとは比べ物にならない行動力だった。

 彼にはどうもそれが引っかかるらしい。


「お前、突撃後に俺に言ったよな。『この件に関して無頓着にも程がある』って。……あれは俺が無頓着だったんじゃない、お前がやけに執着していたんだ」


 一瞬驚いた表情を浮かべたストックだったが、すぐに真顔に戻って相手に食いつく。


「何を根拠に」

「あの娘を保護する前のお前と、リーアから計画を貰い受ける時のお前とは、別人かと思うレベルで違っていた」

「意味分かんねえ。つーか足を踏むな、やめろ、痛え」

「本当に無自覚か?」


 双方の舌打ちの音が重なる。一方は望む答えを出してくれない相手に苛立って。もう一方は自分の足をグリグリと踏まれる痛みに耐えかねて。

 そして二人は暫くお互い睨み合っていたが、やがてストックが意を決したように口を開いた。


「……あの晩のことはただの気まぐれ」


 グリグリとストックの足を踏み付けていたジャックスの足の動きが止まる。ストックはまだジンジン来る痛みに頬を引きつらせながらも、こう言った。


「つーか、あんなギャーギャー騒いでたら気にもなるっての。結果的に面倒な事態にはなったけど、正直言うと面白かったぞ、今回の事件」

「――面白い?」

「大きな事件が最近無くて、正直つまんなかったからちょうど良かった。それに、今回の件であの小娘を救ってやれた。教団に囚われてたガキどもも、今後は孤児院か養家に引き取られて太陽の下で暮らせるんだろ? 達成感も一入ひとしおってことよ」


 なるほど、そういうことか。


「……つまり今のこの状態はただの反動ってことか?」

「そゆことー。なんだかんだてめえも分かってんじゃん」


 何故だろう、この話になった途端にやけにストックが上機嫌だ。ここまで陽気な彼を見るのも久々だなと、ジャックスは表情をミリとも変えずに思う。ふっと彼の足が離れ、地面に再び付けられた。


「納得した?」

「あぁ」

「んじゃ、俺はここで――」

「逃げんなアホ」


 その場をしれっと立ち去りかけたストックの腕をジャックスは掴む。そして打たれた舌打ちもちゃんと聞いた。

 そのまま、中尉は少佐に引っ張られるような感じで会議室まで連行されるのだった。



 その頃、リーアは何処にいたかというと――会議室とは反対側にある取り調べ室。机を挟んで彼女の向かい側に座っているのは、白いブラウスに黒いスカート姿のチリエ。教団の服を頑なに拒んだ為にリーアの私服を貸し出しているのだが、やはりぶかぶかだ。スカートに至ってはベルトで締め上げないと緩々な程に。


「……中佐遅いね」

「今日は中佐は会議だから来ないかな」

「そっか」


 少し寂しそうな表情を浮かべるチリエだったが、それもほんの一瞬のことで、すぐに口元に微笑みを浮かべた。リーアの真似だ。


「気を取り直して、今日の事情聴取の内容は二つ。一つは貴女のお父さん……オーランガム・マクウォールに関して覚えていること。もう一つは今後について」

「今後……」

「こっちはあくまで報告かな」


 リーアは鉛筆を指で弄ぶ。そしてそのまま、少女二人だけの事情聴取が始まった。


 開口一番、右サイドテールを揺らしながらチリエは衝撃発言を言ってのける。


「一応言っておくけど、あたしはクスリは打たれてないよ」

「……え?」


 鉛筆の動きが止まる。


「部屋で発狂したのも、リーア達を地下室に連れて行ったのも、全部演技だよ」

「――はぁ⁇」

「正直疲れたけど」

「でしょうね。……え、本当に演技だったの? 嘘ついてない?」

「事情聴取で嘘ついてどうするの?」


 確かにそれはそうだ。でもそれだと、少女の左手首にあったあの痣の説明がつかない。そのことをリーアが言うと、チリエはこう即答した。


「リーアの部屋の窓ガラスが破られた時にビックリして、持ってたペンの先が当たっちゃったんだと思う。多分その痕」


 つまりあの色はペンのインクの色だったのか。想像以上に深刻さに欠けた事情に、リーアは拍子抜けした。同時に、無駄に深刻に考えて心を削っていた自分が馬鹿馬鹿しく思えても来たが、まぁいい。あの時はそんなことなど知らなかったのだから。


「――それじゃあ気を取り直して」

 話題はマクウォール家の過去に移った。


**


 マクウォール家は、ほんの三年前までは歴史に名を残すこともない、ごく一般的な家庭だった。


 レフターで気弱な所もありながら、家族のことを第一に愛していた、銀行員の父親。

 気が強くて怒らせると怖かったが、歌声や笑顔は優しかった、元舞台女優の母親。

 そんな母親に似て、快活な可愛らしい少女に育った娘。

 住宅街の片隅の小さな戸建てで、その家族は平穏な時を過ごしていた。


 そんな暮らしが続くと思っていた。

 愛と温もりに満ちた暮らしが続くと。家族の誰もがそう思っていた。


 けれどその暮らしは、三年前の夏に瓦解した。


 ある晩突然家に押し入って来た強盗が、マクウォール家の平穏をぶち壊したのだ。

 勇気を振り絞って追い払いにかかった父親は、強盗の拳で両眼を潰された。そしてそのまま暴れ始めた強盗に、母親は首を絞められて殺された。


 しかし唯一、母親の手によってクローゼットに押し込められていたチリエだけは、無傷で済んだ。

 そして見ていた。自分の両親が酷い目に遭うところを、クローゼットの扉の隙間から。声を上げることも、動くことも出来ないまま。ただ、見届けることしか出来なかった。


「あんただけは生きて。お願い」


 それが、クローゼットに押し込まれる前に言われた、母親の言葉だった。そしてそれが結局、最期の言葉となってしまった。


 その後、犯人は軍に捕らえられ、実刑判決を受けた。


 それはいい。問題は、被害者側に立たされた父子。二人の未来はとにかく悲惨だった。

 最愛の人と視力を失った父親は仕事を辞め、家に籠るようになってしまった。そして、どういうわけか一人娘を拒絶するようになった。


 温もりに満ちていたはずの家には、やがて冷たい空気だけが立ち込めるようになった。二人の顔から笑顔も消えた。


 父親が妄言を吐き始めたのは、喪に服す期間が終わった後くらいからだ。チリエが言うには、その頃から変なクスリも飲み始めたのだとか。


 彼女は怖かった。自分の父親が、父親でなくなっていくその光景が。オーランガムでなく、メシアを騙る男と化していく様子が。

 だから、「もうやめて」「目を覚まして」と何度も懇願した。毎日毎日、彼が神託という名の妄言を吐く度に、縋って、泣きついた。

 けれど、既に彼は壊れていた。もしかしたら一人娘の言葉など、もう彼には聞こえていなかったのかもしれない。


 そしてその年の秋。何処からか集まって来た信者達と共に、二人は住んでいたトルプの西側の住宅街から、プレチナヒルズのあの集会所へと移った。【秘匿のメシア】の成立である。


 それからの三年、チリエは外の世界から隔離され、信者達と暮らしを共にするようになる。

 最初は教祖である父親しか摂取していなかった変な薬は、やがて幹部、そして成人信者達の手にも広がっていった。

 子供の信者達は学校にも行かせてもらえず、ただ教祖の言葉を信じればいいと教えられた。


 年々規模が大きくなっていく組織。その中で二番目に位の高い【メシアの娘】という立場に置かれた彼女は、しかし、立場に反して教祖への反逆心を抱き続けていた。


 そしてその反逆心の片隅には、微かに残った父親への希望がいた。昔のような、気弱でも心優しく頼りがいのある、大好きな父親に、パパに戻って欲しいという、ほんの一欠片の願いが。

 しかしその願いは、結局叶わなかった。

 壊れた――自己嫌悪に苛まれ、自ら壊したともいえるだろうか、そんな――心のまま、チリエの父親もといクソ親父は、軍に捕らえられたのだった。


**


 ……全てを話し終えたチリエは、いつの間にか机に突っ伏して泣いていた。最初は何とか嗚咽を殺せていたのだが、やがてわんわん大声を上げて泣き出してしまった。メモを取り終えたリーアは鉛筆を置き、彼女の横に行ってそっと背中をさすってあげる。


 実はリーアも、話を聞いている最中にもらい泣きしかけていた。何とか堪えきれたが、下手に声をかけると涙腺が崩壊しそうだったので、背中をさすってあげることしか、今の彼女には出来そうもなかった。

 リーアには両親がいない。父親は物心つく前に亡くなっていたし、母親の顔も覚えていない。だから彼女には、家族の温もりというものがどういったものなのか、正直ピンと来ていなかったりする。


 それでも、今目の前で泣き崩れている少女の境遇を聞いて、もらい泣きしかけた。自分が彼女だったらと考えると、とてもじゃないが平気でいられる気がしない。

 泣き続ける少女の背中をさすり続けながら、スラム街で少女時代を過ごした少女兵は漸く、言葉を紡ぐ。


「チリエ……よく頑張ったね。偉いね、いい子だね。……気付けなくて、ごめんね」


 カリトは表面上は平和だ。大型兵器が必要だった大陸戦争の時と比べれば確かにそうだ。

 けれど、平穏無事な大通りの隅で、ボロ切れを纏って籠を片手に物乞いをする人がいる。活気ある商店街の路地裏で、身の純潔を侵されている少女がいる。発展した都市の路地を一本外れれば、バラック小屋が並ぶ無法地帯が存在する。

 平和という上っ面に囚われて気付けないが、必ずその下には満身創痍になっている人がいる。

 彼女はまさしく、その満身創痍になっている人だった。そして、かつての自分も。


「チリエは強いよ。とても強い。でももう、我慢しなくていいんだよ。もう……」


 十八歳の少女兵のその言葉は、声は、泣きそうに揺れる。そして言い切るよりも前に、彼女のシアンブルーの瞳から涙が溢れて来た。


「……リーア……」


 泣き腫らし、目尻を赤くしたチリエが、リーアの方にシトリンの瞳を向ける。


「あたし、あの夜にリーアに逢えてよかった。リーアに『助けて』って言えて、よかった。だから……何で泣くの? リーアは悪くないよ?」


 リーアは顔を上げない。紺色の上着の袖で目元を押さえている。彼女は弱々しく首を横に振ると、そのまま嗚咽を殺して泣き続けた。

 暫く泣き続け、そしてやがて泣き止んだリーアは、深呼吸をすると再び椅子に腰掛け、話題を変えた。


「……それで、チリエのこれからなんだけど――養子に行ってもらうことになったの」

「養子?」

「他の家の人に世話してもらうの」

「何で?」

「本来軍は子供の保護はやってないの。チリエはある意味特例というか、特別というか、そんな感じだったけど、事が終わった以上軍の保護下に置き続けることは出来ないの。何より学校に行けないしね」

「――そっか」


 チリエは不安げな表情を浮かべた。それはそうだ、誰だって見知らぬ第三者に身を預けるのには抵抗がある。そのことはリーアだって分かっている。

 だから敢えて意地悪なことを言ってみる。


「それに、孤児院に預けると元信者の子達と同居することになるし」

「絶対嫌!」

「だろうと思ってね」


 想定どおりの反応にニコッと笑ってみせると、リーアは折り畳まれた一枚の紙を胸ポケットから出すと開き、チリエに見せた。そこに書かれていたのは、住所と郵便番号、そして[クリス・マゼンタ][アンナ・マゼンタ]という名前。


「これからチリエがお世話になる家の情報よ」


 マゼンタ家の家主であるクリスは、今年の三月をもって定年退役を迎えた元軍人だ。軍が持つツテとなるとこういうのしかない為、昨日の晩に一か八かで打診したところ、喜んで快諾してくれたのだ。子宝に恵まれなかったマゼンタ夫妻にとったら、この話はまさに青天の霹靂だろう。嬉しくないわけがない。


 紙を暫くの間じっと見ていたチリエは、やがてリーアに視線を向けた。その目はキラキラと輝いているが、紙にある情報の中にそんなに興味を引くような内容があったのだろうか。


「……何かあったの?」


 リーアがそう訊くと、チリエは目を輝かせたままこんなことを言った。


「ここ、前の家に近い!」


 いやはやなんとまぁ、ここまで出来た偶然があるだろうか。リーアは一瞬、目を見開いた。


「またノーブルと遊べる〜」


 机の下で脚をパタパタ動かすチリエ。実に子供らしい喜び方だ。


 ちなみにノーブルというのは、彼女の幼馴染みの少女の名前だという。強盗襲撃事件以降疎遠になっていたらしいが、今回の偶然(というか奇跡)のおかげで再会出来るのがよっぽど嬉しいらしい。


「――マゼンタさんの家に引き取られても大丈夫?」

「うん!」


 チリエは笑いながら頷く。本人がその気なら、大丈夫だろう。事が丸く収まったことに、リーアは安堵した。


 チリエがマゼンタ家に引き取られるのは明日。


 そしてその日、彼女の父親の運命もまた、裁判によって決まる。



 翌日。裁判の結果が号外一面で街に出回り、軍内外がその話題で持ちきりの中、詰襟姿のリーアとグレーのAラインワンピース姿のチリエは、トルプの西側の住宅街の一角にあるマゼンタ家の前にいた。


 裁判の結果は、ほぼほぼリーア含む軍人達の予想通りだった。

 教祖であるオーランガムと、武器と薬物の不法入手をしていた教団幹部二名は即死刑。残りの幹部数名はクスリが抜け次第終身刑に、信者達も全員重刑を科せられた。

 一方で無罪放免なのは、法律上罪に問われない上にクスリを投与されなかった、チリエと未成年の信者のみ。まだ幼い彼らは孤児院に一旦預けられるというが、果たして引き取り先は決まるのか、疑問の余地は残る。

 従って、チリエはどこまでも特例扱いを受けていた。


 さて、閑話休題。


「あら、いらっしゃい」


 二人の来訪に気づき、マゼンタ夫人ことアンナがドアを開けた。アーモンド色の瞳が、華奢な薄ピンク髪の少女を捉えるなり、三日月を形作る。


「あなたがチリエちゃんね」


 その場でしゃがみ、チリエに笑いかけるアンナ。対してチリエの表情は少し強張っていた。


「ふふ、緊張するわよね。でも大丈夫よ」


 チリエの頬を撫でるその手は白く綺麗だ。確か夫の二つ下の歳のはずだが、その見た目はかなり若々しい。本当に専業主婦なのか疑いたくなる。


「わたしはアンナ。お母さんって呼んでほしいけど、無理ならアンナさんでもいいからね」


 反応はない。というのも、さっきからチリエは石像みたいに固まっているのだ。必要最低限のものを詰め込んだ鞄も全く動かない。緊張しているとはいえ本当に大丈夫なのだろうか。リーアは一歩引いた場所からハラハラしながら見守っている。


「それじゃあ、お家に入りましょうか」


 そう言ってアンナがチリエの肩に触れた、その時。


「待って」


 初めてチリエが口を開いた。そして、自分の背後にいるリーアの方を向く。


「リーア。また会えるよね?」

「――チリエ?」

「会えたら、その時は話しかけてもいい?」

 自分を見つめる黄色の左目を見ながら、リーアは頷いた。

「勿論」


 そしてニコッと笑ってみせる。その笑顔を見たチリエは――。


「じゃあまたね、リーア!」


 寒風の中、可憐にわらった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る