テンモウ・カイ・カイコ・ドク・ノ・シルベ

雪鼠

第1章 運命に導かれて

第1話 噛み合った歯車

 首都クッティカーナ。王城を中心として栄えたこの都市は、世界一の広さを誇る。城下町の賑わいは休みを知らず、毎日がお祭りであるかのように人々の交流が盛んだった。

 しかしそれは表の話。裏路地へと一歩踏み込めば様相は一変する。喧嘩なんて可愛いものは、うっかり道を間違えた観光客への挨拶程度。略奪、誘拐、殺人に闇商売。内容は不穏なものしかないが、こちらも世界一の密度と品質で繁栄していることに変わりはなかった。



「おい……生きてるか」


 発展の止まらない裏路地の道端で、一人の少年が息絶えようとしていた。その白い髪はこの国で珍しく、お抱え人として売れば高値が付くだろう。


「息はあるようだな」


 たまたま通りがかった男はその様子をじっと観察し、確実に意識が無いことを確かめてから少年を抱き上げた。少年に反応はなく、うめき声さえ聞こえない。深い傷と血に塗れたその姿から推測するに、少しの振動でも耐えがたい痛みを伴うはず。どうやら少年の状態は、想像よりはるかに危ういらしかった。


「間に合えばいいが——」


 ひとりごとを零す男はその歩みを速め、彼の現在の根城へと急いだ。



「起きたか」


 裏路地にしては小綺麗な小屋の、ほとんど物が置かれていない室内。目を覚ましたばかりの少年が、フラフラと壁に手をつきながら立ち上がった。


「あまり動かない方がいい。傷口が開くぞ」


 椅子に座っていた男は読んでいた本をテーブルに伏せ、少年に近づいた。

 少年は全身にいくつもの切り傷を作り、それが何重にも重なった腕や足の出血は特に酷かった。そして致命傷となり得たのが、腹に刺さったまま放置されていた短剣。その刃は内臓まで切り裂いていたが、幸運にもそのまま傷を塞いでくれていたため、どうにか命をつなげることができた。


 しかし、この場には痛み止めの薬さえなければ体力を維持する栄養剤もない。生きていること自体が不思議なほど重症だった傷が、たった数日で癒えるはずはなく、少年が動けるほどの余裕などそこにはないはずだった。

 男は少年に手を伸ばす。それを弾いて見上げられた目は、確実に獲物を捕らえようと隙を窺う獣の目そのものだった。


「『宵闇よいやみ銀狼ぎんろう』だろ。裏路地に住む銀髪のガキといやぁ、そいつしかねぇ」


 笑いかけた男に、少年が表情を崩すことはない。どんな状況であれ、路地裏に住む人間は敵か餌のどちらかしかいないことが、ここでの常識だ。徒党を組んだところで信用する人間などいない。それは容易に敵になり得る、一時的に保留した餌でしかなかった。


 そんな環境で生きてきた少年が、その男に助けられたという甘い認識を許すはずがなかった。


「ガキのくせに一丁前に名前を持ちやがって。しかも孤高とでも言いたいのか? 路地裏で一人で生きるのは、死に等しいぞ」


 名前を持つほどの腕を持っていても、路地裏の悪の進歩についていけなくなれば死は訪れる。長く生きていれば、それは自然と身に着く知識のはず。それでもこの少年は、一人で生きていくことを選んだというのだろう。


「俺はコガイだ。お前は?」


 コガイという名前の男は、裏路地に似つかわしくない清潔な服を着ていた。引き締まった体に傷だらけの腕。深い紫色の長髪を後ろで一つに縛るその佇まいからは、強者の風格がダダ洩れている。

 コガイの質問に答えようとしたのか、少年は喉に何かを詰まらせたかのように咳を一つした。その小さな生理現象でも、体は悲鳴を上げて少年をひざまずかせる。どんなに強く気を張ったところで、その姿は生まれたての小鹿のようにしか見えない。


「水と飯だ」


 コガイは少年に手を貸すことを止め、部屋の隅からそれを持ってきた。警戒されていようとも、生きるために必要なものは受け取ってくれるのではないだろうか。


「まずは体力を付けろ。お前に死なれても俺には得がないから、毒なんかは入れてねえぞ」


 少年が寝ていた、申し訳程度の薄さの毛布のそばに置く。小さな器に注がれた水と硬いパン。十分とは言えないものの、裏路地での食事としてはまともな方だろう。

 未だ鋭い視線に睨まれながらも、コガイは少年から離れて再び椅子に腰かけた。これ以上気にかけたところで、少年の警戒心が増すだけ。コガイは読書を再開し、残りの運命は少年に任せた。


 少年は体を壁に預けて立ち上がると、そのまま小屋を出ていった。コガイにはその後ろ姿を引き留めることができない。誰にも慣れ合わない態度は裏路地で生きてきた証。少年自身が変わらない限り、コガイにできることはただ一人でため息をつくことだけだった。



「もういい加減にしたらどうだ?」


 コガイの腕前はその風体に見合ったものだった。十数人を相手にしたところで隙を見せることはなく、その全員の息の根を確実に止めた。どこか気品の残る姿は、血に濡れた後も美しい。


「また気を失ったか」


 新たな傷を増やした少年を、コガイは懲りることなく根城に連れ帰った。繰り返すこと十回目。匿った少年が満足に休むこともなく、何度逃げ出そうともコガイは一度も引き留めなかった。



「おはよう」


 少年が根城で起きたのも十回目。最初の傷は塞がったが、次々に新しいものができてしまえば動ける状態になることはない。


「水と飯だ。そう死に急がなくても良いだろう」


 これまでろくに手を付けてくれなかった食料を、いつものように少年の傍らに置いた。たとえ手に付けてもらわなくとも、その習慣は欠かさない。また出ていかれたとして、死にかけたところを連れ戻すだけ。この連鎖が繰り返されれば、いつか少年の命は失われるだろうが、それは運命として受け入れるのみ。

 コガイはまた椅子に腰かけて本を手に取った。


「テン」


 その内容に集中する前に、コガイの耳に声が届いた。目を上げれば、空になった器を手にした少年がこちらを向いている。


「僕はテン。コガイはどうしてここまでするの?」


「……その髪色、珍しいな」


 コガイの言葉は少年の質問に答えてはいない。自分で願っておきながら返事をされることは予想外だったようで、その言葉が口を出ただけだった。


「僕にとってはこれが普通。昔は真っ黒だったそうだけど、病気かもしれないから誰にも伝えないようにって。話す相手だっていないのにね……」


 そう語るテンという少年はまだあどけない。『宵闇の銀狼』という通り名がつくほどの残酷さも感じられない。これはコガイが救い続けた成果とでもいうのだろうか。もしテンが表の世界で生きる子供だったのならば、まだ社会の仕組みも知らず両親に甘えて、お昼には友達と無邪気に遊んでいたのではないだろうか。


「昔は誰かと一緒だったんだな」


「赤ん坊の頃に捨てられたからね。一人じゃ生きていけない」


 現実を理解しすぎている子供を見ると、どうしてこんなにも心が苦しくなるのだろうか。


「どうして別れたんだ? ここで生きるなら数が多い方が有利だろ?」


「有利だとは限らない。それに、別れたくて別れたわけでもない」


「……死んだのか」


 それは裏路地の世界では毎日のように起きていることだ。いつ誰が消えてもおかしくない。それは子どもだからといって容赦されることでもない。


「僕を逃がすためにね。お兄ちゃんとお姉ちゃんは、僕の唯一の家族だ」


 家族という言葉を口に出すとき、ほんの少しだけテンの表情が緩くなった。テンは幸福な時間を知っている。ここでは貴重なその体験をしていたことに、コガイは少しだけ嬉しくなっていた。


「兄弟も同じ髪色なのか?」


「違うよ。血は繋がっていないからね」


「親は?」


「知らない」


「今年で何歳になる?」


「考えたこともない」


 テンが言葉に詰まることはなかった。それでも知らないことは多く、本当に生きるための知識だけを蓄えていっていたようだった。


「どうして今更話す気になった?」


 コガイの質問に答えることは、テンが自身の弱点を晒しているようなもの。力で勝てばそこに問題はないのかもしれないが、大きな怪我を負っているテンが今、コガイに勝つことはあり得ない。


「僕にはここまで助けてもらえる意味が分からない」


「自分も話すから教えてほしいと?」


「…………」


 テンは何も言わず、まっすぐコガイを見つめていた。情報を交換するにも、その価値は人によって変わる。ましてや信用できない相手からでは、その価値さえも疑わしい。

 そんな駆け引きの難しい交換の中で、テンは自ら先に情報を与えた。それが計画からなのか無知からなのか。どちらにしてもその無邪気そうな子供を放ってはおけない。


「その髪色に興味を持ったからだ」


「それだけ?」


「それだけだ」


 コガイの答えは単純明快。しかし明らかに言葉が足りていなかった。テンもコガイが何かを隠していると気付いたものの、それを追及する術はなかった。


「お前はまだ若くて、名を冠するほどには腕がある。……どうだ、俺の相棒にならないか?」


「僕をテンと呼んでくれるのなら。ただし信用はしない」


「それくらい構わない」



 とある男が少年と出会い、消えかけの命が救われた。しかしそれは既に張られた運命の糸を手繰り寄せているだけ。絡まった糸を解くことも、新たに糸を張ることもできない。噛み合った歯車は回り、糸を絡め取る動きが止まることはない。

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