第9話 合わせ鏡

《ミラーラビリンス》は名前の通り、鏡の迷宮である。


 通路を除くおよそ四方を常に鏡で囲まれた状態でスタート地点からゴールを目指す、そういうタイプのアトラクションだ。


〝レムリア〟。

 海底都市をモチーフにしたこのアトラクションにおいて、鏡はただの鏡ではなく氷をした造りになっている。海底に沈んだ都市が長い年月を経て氷漬けになった――というのが、〝レムリア〟の設定のようだ。


「変な感じだね」

「鏡のせいで、色々と感覚が狂わされてるのかもな」


 ただ闇雲に進んでもゴール出来る可能性は低いという事で、右手を右側の壁に付いて進む。


 どうやら順路の選択は、完全に俺に一任されているらしい。


 というか、日高はこのアトラクションに入って以来、終始、俺の後ろに回ってしまい、ろくに周りを見ようとしていなかった。


「なぁ、日高ひだか

「何?」

「なんで入る前に言わなかったんだ?」


 こういう空間が苦手だって。


「だって、美穂みほが」

但馬たじまが?」

「こういう所は、入っておかないとダメだって」

「なんで?」

「……」


 よく分からないが、今の質問は日高にとって答えにくいものだったようだ。


「いいけどさ、苦手なら苦手って前もって言っとけよ。対処のしようはどうだが分からないが、善処くらいはするからさ」

「すみません、苦手です。善処して下さい」


 即答だった。むしろ、い気味だった。


 どうやら日高は、相当この空間が苦手らしい。でも、どうして?


「夜中の二時二十二分に合わせ鏡を見ると、っていう噂話? あるじゃない? あの話を幼い頃に聞いて以来、どうしても苦手なんだよね。合わせ鏡って」


 幼い頃の記憶は変質しやすい。時に美化され、時にその逆に、変化し記憶され――いや、記憶とされる。


「子供っぽいよね。もう高校生なのに」


 そう言って日高は、自嘲じちょう気味な笑みをその顔に浮かべた。


「そんな事ないって。俺だって、シャワー浴びてる時とかに、ふいに怖い話を思い出して怖くなる事は時たまあるし、別に日高だけ特別ってわけじゃないんじゃないかな」


 それに、子供っぽい=欠点とは限らないだろう。女の子の場合は特に……。


「ホントに? ホントにそう思う?」

「うん。だから、日高も――」


 振り返り、日高に声を掛けようとした俺の視界に、何やら気になる物が映る。


「アレじゃないか?」

「え? 何?」


 こういう空間だからか、俺の放った言葉に対し、日高が体をびくっと震わせ、次の瞬間、俺の服のそでを掴む。


「いや、さっきの女性が言ってたハートの染みって」


 指で日高に、目的の物を指し示す。


「あ、ホントだ。ちゃんとハートに見える」


 鏡で出来た壁の片隅にそれはあった。


 おそらくは人為的なものではなく、自然に出来ただろうその黒い染みは、前もってある事を知らなければ見落としてしまうくらいひっそりと、そこに存在していた。


 ――それを一緒に見たカップルは生涯末永く幸せになれるとかなれないとか。


 ふと頭によぎったのは、これの存在を教えてくれた女性の言葉。


 そして、それは日高も同じようで、彼女も気恥ずかしそうに俺から視線を外し、


「ひっ」


 何かを見つけたのか、俺の腕に抱き着くように自分の腕を絡めてくる。


「何、何、何?」


 近い距離、ほのかに香る甘い匂い、柔らかい感触……。最早もはやパニックだ。何がどうなって、どうしたらこんな状況になる? 分からない。ただ一つ言える事は、今の俺の状況がおそらく、とてつもなく幸せなのだろうという事だけだった。


「あ、あそこ」


 目をつむり、必死になって日高が指差す先には――


「何もいないけど……?」


 日高の取り見出しようを見て、ようやく頭が正常運転に近付き始めた俺の目に映るのは、鏡に映った二人の姿とハートの染みくらいなもので、特に日高が怖がりそうな物は何もないように思えた。


「え? 嘘?」


 恐る恐る目を開け、日高が自身の指差していた方向を確認する。


「いない……」

「ちなみに、何が見えたんだ?」

「女の子。小さな、着物を着た……」


 まさか。


 辺りを見渡す。


 周辺に俺達以外の人や人型をした何かの姿は見受けられず、俺の探す座敷ざしきの姿は少なくとも今は確認出来なかった。


「気のせい、だったのかな……?」

「アレじゃないか。怖い怖いと思ってると、やなぎも人に見えてくるっていう」

「そう、なのかな?」


 首をかしげながらも、日高はとりあえず俺の意見を採用してくれる風な感じだった。


 まぁ、というより、日高自身、そう思いたいのだろう。


「って、ごめん」


 落ち着きを取り戻し、改めて自分の取っている行動を認識したらしく、日高が慌てて俺から距離を取る。


「あ……」


 名残惜しさから、思わず声が漏れる。


 それだけ存在感というか、インパクトがあったのだろう。さっきまで密着していた何かに。


「行こうか」

「うん」


 お互い、阿吽あうんの呼吸で、今あった事には触れないという流れと相成あいなった。


 蒸し返した所で誰も特はしないだろうし、気まずくなるだけだ。




「――ごめん。ちょっとトイレ行ってきていい?」


〝レムリア〟を出てすぐ、トイレが見えたタイミングで、俺はそう日高に切り出す。


「うん。じゃあ、私も行っておこうかな」


 建物の前で別れ、それぞれの方に進む。


 別にそこまで行きたかったわけでなかったが、一応、小便器で事を済ませ、手を洗い、外に出る。トイレの出入り口が視界に収まる位置で、尚且なおかつ、周りに人があまりいない場所まで歩を進めると、視線は前方を向いたまま、ぼそりと声を漏らす。


「座敷、いるんだろ」

「はいはーい。ここにいますよ」


 声と共に、着物姿の少女が俺の前に姿を現す。


「どういう意図か知らんが、日高の前に姿を現すのはやり過ぎだ。何とか誤魔化ごまかせたからいいようなものの、下手したらパニックだったぞ」

「姿? 何の話です?」

とぼけるなよ。さっき、アトラクション内で……」


 言いながら、違和感を覚える。座敷の受け答えはいたって自然で、嘘を言っているようには見えなかった。


「お前じゃないのか?」

「すみません。鏡が大量にあったせいか、さっきの建物の中での記憶が若干曖昧あいまいで……」

「そうか」


 なら、少なくとも、故意に姿を現したわけではない、と、そういうわけか。


「鏡、苦手なのか?」

「一応、鏡には古来から魔力や霊力が宿やどるとされていますし、現に呪術に用いたりそれを媒介ばいかい顕界げんかいしたりするあやかしもいますから、一つや二つならともかく、あまり大量にあられると、困ると言いますか霊力的なものが乱されると言いますか……」

「なるほど」


 妖怪も色々と大変なんだな。


「なので、私以外の妖怪が、あの建物内に潜んでいた可能性もなくはないかな、と。もちろん、私がぼんやりして、うっかり姿を現してしまった可能性も否定はしませんが」

左様さようか」


 どちらにしろ、俺の推測は見当違い、言い掛かりだったわけだ。


「悪かったな、疑って」

「いえ、私の不手際ふてぎわだったかもしれませんし、気になさらないで下さい」


 そう言って座敷は笑うが、俺の方はそう簡単に、気持ちを切り替える事は出来なかった。


 日高が着物を着た少女を見たと言った時、俺は一切の躊躇ためらいなく座敷の悪ふざけを疑った。他の選択肢を頭に思い浮かべる事すらしなかったのだ。

 それはさすがに、あんまりだろ。


遼一りょういちさんは本当にお優しい方ですね」

「は? 今の会話の流れのどこにそんな要素が?」


 むしろその逆、ひどい奴という評価の方がまだ分かるし、そう言われても今の俺には反論のしようがない。


「有り得ない場所で着物姿の女の子の姿を見たら、私以外の妖怪を見た事のない遼一さんが、その人物と私を結びつけるのは当然な事であり、至極しごく真っ当な事です」

「いや、そういう問題じゃ……」


 当然とか真っ当とかそういう話ではなく、俺は今、人としての在り方や精神性の話をしているのだ。


「分かっていますよ。でも、それも全部ひっくるめて私は、遼一さんはお優しい方だと言っているのです」


 ダメだ。本来なら責められてもおかしくないはずの相手から、笑顔でそんな台詞せりふを吐かれたら、これ以上自分の意見を押し通す事が、とてつもなく馬鹿ばからしい事のように思えてくる。


 いや、実際、馬鹿らしい事なのだろう。

 結局のところ、先程までの俺の行為はただの自己満足に過ぎず、座敷にとっては一ミリの特にもならない行為だったに違いない。


「悪い」

「仕方がない。許してあげますか。その代わり、ピシっとして下さい。日高さんの前でそんな顔していたら、何かあったのかと勘繰かんぐられますよ」


 言葉の途中、中盤辺りで座敷の姿は徐々に消え始め、言葉を言い終わる頃には完全に俺の目の前から消え去っていた。


 まったく、どいつもこいつも、俺の周りにいるやつは、いいやつばかりかよ。


 座敷の姿が消えてから程なくして、日高の姿が建物の前に現れる。


 少し辺りを見渡した後、俺を見つけ、小走りで日高が俺の元までやってくる。


「お待たせー」

「次どこ行く?」


 戻ってきたばかりの日高に、早速、次の行き先を尋ねる。


「うーんと、ティカップなんてどうかな?」


 いきなりの質問にも関わらず、日高はほぼノータイムでそう答えた。


「よし。じゃあ、そこで」


 日高を連れて、次の目的地に向かって歩き出す。


 ティカップは確か、ここからすぐ近くだったはずだ。


「なんかあった?」

「え? 何が?」

「うまく言えないけど、なんかうれしそう」

「そうかな?」

「そうだよ」


 理由は分かっている。けどそれを、日高に言うわけにはいかないから――


「きっとそれは、日高とこうして遊園地に来てるからじゃないかな」


 別の理由を即興そっきょうで口にする。


「え? 嘘? 止めてよ、もう」


 言いながら、真っ赤に染まった自身の顔を両手であおぐ日高。


 俺が口にした理由は確かに嘘だったけど、ある意味では決して嘘ではなかった。

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