詭弁風の戯言

焼き芋とワカメ

口だけ達者は悪いことではない(のでそうは言わせたくない)

 「口だけ達者」とはよく言うが、何もないよりはマシなはずであり、何も言えず何の能もない人間は目立たないという話なだけである。何かしら能力がある方がそれを活かし何かを産み出したり、誰かの役に立つ可能性を秘めている。

 口だけが嫌われ者だとしても、口だけは簡単と蔑むと同時に、何も言えない奴にも駄目と言わないとおかしい。


 にもかかわらず、ことあるごとに「口で言うのは簡単」とか「口だけ達者」と蔑まされるのを各所で見聞きするが、果たしてそれは正しいことであろうか。


 結論から言ってしまえばそれは正しくない。私に言わせてみれば口で言うのを簡単と感じるということは、「私はなんら考えて発言しない」あるいは「私は口以外のことで何か達成するのはいつも非常に困難なのだ」と言っているのと変わりない。世の中に口で言う方が難しいという人間が、全く居ないということはないはずだからである。


 実際のところ当人はそんなつもりはないのだろうが、よく口は軽んじられがちである。これは権威主義に通ずるところがある。発言内容の是非によらない所が特にそうであるが、こういう輩は何か大業なことを成し遂げた人間の言うことしか聞きたくないというのだ。「口だけ」という言葉からは特にそれが感じられる。

 


 前置きはさて置き、本題へ。


 先ほども述べたが、口で言うことが難しいという人も居る。実際の現場でそういう人にそのような言葉をかけることは無いだろうが、匿名掲示板やSNS等ではあり得る話であり、発言するときは相手をよく考えて投稿しなければならない。ある投稿の登場人物や画面の向こうの人間が口のきけない人間だとか、あるいは言語能力が十分に発達していない人間だった場合、どれほど相手を傷つける危険があるか。(代筆の可能性は捨てきれない)

 あたかも口で言うのは簡単というのを普遍のことであるように言うと、差別主義者とも捉えられかねない。またそれらに当てはまらない人が相手だったとしても、彼らは彼らなりに考えて発言したはずであり、その努力を完全に切って捨てるというのはあまりに非道である。


 また言語能力があまりに卓越している人間は(理論上どうしても)自ずと口だけ(ということ)になりがちであり、そういう存在は無視してはならない。あまりに言語能力が卓越した彼らが口だけでなくなるには、他の能力も卓越しておらねばならないわけだが、そうなると超人的天才でもないかぎりどうしても口だけになってしまう。何しろ口だけ達者ということは何か他にも達者でないと「だけ」の部分は取れないからである。平凡では許されない。


 しかし考えなくてもわかる通り、超人的天才はこの世にごまんとおらず、天は大抵二物を与えない。つまり言語能力卓越者の多くは言語能力のみ達者である。であるから「口だけ」論者の言うことを聞いてしまうと、彼らは永久に発言権を失ってしまうのである。これは人権の侵害であり、許されざる行為だ。「口だけ」論者は自身の発言の意味を今一度深く理解し反省しなければならない。もし自身の発言の意味を解らずに発していた「口だけ」論者が居るなら、それは前置きで述べたように特に考えて発言していない人間にあたるわけである。


 そしてさらに付け加えるのなら例えばスポーツ選手などはスポーツだけ達者にあたるのではないか。だが多くの人はそうは言わないだろう。それが言葉だけに当てはめられ「口だけ」と平気で言うのであれば、それは差別にあたる可能性がある。スポーツに限らず何か能力があるのは素晴らしいことであるはずだ。だのに「口だけ」を使用するのはそれはもはや私怨か差別である。仮に人格的スポーツ選手をあなたが頭に思い浮かべたとして、所謂「口だけ」の人格者も理論上この世に確かに存在することを忘れてはならないのだ。


 また「口だけ」というが、口ではなくその考えを文字で表現する職種の人間も忘れてはならない。そうすると上記の差別があたるならこれは職業差別である。とんでもないことだ。




 ここまで書いてきて、しかし「でもあなたは上記のいずれも当てはまりませんよね?」と言われてしまったらどうするか。普遍的な大きなくくりや可能性ではなく、個人レベルの話になったらどうか。



 その前にこの話をしよう。今度は口は普通だが、体が並以下。例えば五体全て不満足だったとしよう。「口だけ」論者は身体に障害を持つ方にも口だけと言って何かをさせようというのか。なんと残酷な話か。だから決してそんなことは言えないはずである。



 だがまたこう言われてしまうだろう。「どうせお前は五体満足だろ」と。その通りである。またこうも言われるかもしれない。「障害者を出すのは卑怯だ」と。ごもっとも。

 しかし私がこう言ったらどうだろう。「ここで両手足を切り落とす覚悟がある」と。すると口しか残されていない人間の出来上がりだ。障害者は持ち出さない。こうして私にも「口だけ」とは言わせない。言える人間には道徳観が欠けているだろう。

 

 こうなると「今すぐやれ」と言われかねない。しかし私は今すぐ切り落とすことはない。すると「覚悟はない。嘘だ」と相手は言うに違いない。だがそれは誤りで私は嘘をついていない。


 例えば戦国時代等の戦場と将軍を思い浮かべて欲しい。彼はこの戦いで死ぬ覚悟は出来ているが、現存している兵力では勝つのは無理に等しく、彼は合理的判断によって撤退を決断した。後の勝てる機会をうかがう方が賢明だからだ。私のすぐに切り落とさない判断も全く同じである。私は今すぐ切り落とす覚悟はあるが、合理的判断によって切断しない。例えば両腕がないと愛するものも抱きしめられない。それは愛する者に対して悪い。だから私は切り落とさないのだ。この覚悟とこの切り落とさないという判断は、将軍の例えから分かる通り何ら矛盾しない。誰でも簡単にお分かりいただけることであろうが。


 もし私に切断を強要するのであれば、それは脅迫であるし、もしも無理やりにでも切断しようというのはあまりに暴力的である。(しかし、結局五体満足のままだから口だけと言われてしまう。ここで丸め込まれて欲しい)



また、こうとも言えるだろう。


 もしも手を出すよりまず話し合いという現場で「口だけ」と言えるか。それは暴力を望むことと他ならない。「口だけ」論者は口以外の解決方法を好む暴力主義者にも等しい。(さすがに状況が違い過ぎて無理があるか)


 だがそれが喧嘩の場面でなくても、例えば会議中で自分の案を通すために反対者を全員殴り飛ばしてしまうのは許されない事だろう。(だから口だけと言わず内容で判断すべきで、内容の説得力はその人間の今までの功績ではなく、あくまで内容にのみよるものであるはずだ)


 ――詭弁も無しの本心じゃないか……。




 結局口だけは悪くないというより、口だけと言う人間は悪いという論調になってしまったが以上である。内容は私の本心ではなく、あくまで思い付きであることを忘れないでいただきたい。 


 だが一つくらいは口だけでも良い例を挙げておかねばならんだろう。


 例えば何をやってもテンでダメで失敗ばかりだけれど、話し方は上手い男が居たとする。そんな男が久しぶりに友人と会い、酒の席で面白おかしく失敗談を披露することで友人を楽しませる。そんなことがあるかもしれない。(無論、失敗は確かな損失であるし、こういうパターンに口だけという表現を使う人間は居ないだろうが、こういう解釈が詭弁的である)



 また口が達者ということは、同時に頭の回転や語彙力にも優れる傾向にあるはずだ。何か話す前には必ずその内容を頭を使って考えなければならない。

 さらに言語を用いる生き物は人間のみであるから、言語能力は最も人間らしい能力、人間を人間たらしめる能力であると言えよう。そんな能力が優れているということは、もはや人間(という生物)として優れているとも言えるかもしれない。口だけでも問題ないのだ。



 以上で終わりである。




※追記


 ここで私が主に取り扱った『口だけ』は「俺なら出来た」ではなく「俺ならこうやった」くらいのもの、あるいは『演説家』を想定しています。「私なら出来るので任せてください」みたいなものとは違います。最初に具体的に示さないのはよくある手口です。


 また、口だけ達者な状況を作るために無理な設定を作るという、ギャグ的側面もあります。



※追記2


 「口だけ」の良さもほとんど書けていなかったので本文に付け足しました。その部分は◇で印をつけました。

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