第7話 口ぶえふくのはもうやめた




 冬のニューヨークはハンパじゃなく寒い。

 そんな寒いニューヨークへの一人旅を、かつて一度だけ体験したことがある。英語もしゃべれないし、現地に友達がいるわけでもない。というよりその当時おれはパスポートすら持っていなかった。にもかかわらず銭湯にでも行くように「ニューヨークに行こう」と思い立ち、思い立ったその瞬間から面倒くさがりの自分にしては信じられぐらいの熱さで役所へ行き、写真を撮り、パスポート発行センターへ行った。


 いくらかの日本円をドルに換えたり、冷蔵庫をカラッポにしたり、申し訳程度の荷物をリュックサックに詰めている間にパスポートは無事発行され、その足で空港へ向かった。


 何がおれを駆り立てたのか。今はまだそれを言いたくない。


 やっすいホテルの空調がやばい部屋で、ベッドの横のテーブルに置いてあったラジオのスイッチをひねったら、聴いたことのある曲が流れてきた。「Let’s stay together」、あの人の好きなアル・グリーンだった。鉄砲玉みたいに飛び出してきたつもりだったけど、ノイズの向こうから聴こえるなじみのあるメロディーに、突っ張っていた気持ちがゆっくりと溶け落ちていくようだった。


 デリで注文したテイクアウトのサンドイッチができるのを待つ間、窓際の席に座って外を眺めていた。クリスマスかニューイヤーの名残りのようなイルミネーションが店の窓にぶら下がっていて、赤と青と緑、それに橙の灯が点滅している。


 その明かりの向こうは漆黒だった。その真っ暗な中に、大きな橋とその向こうに巨大なビルやマンションがいくつも並んでいる。温かそうな明かりが灯る部屋や、まだ絶賛仕事中なのかたくさんのフロアに煌々と電気がついたままのビル。


 おれ、本当にニューヨークにいるんだな、なんて思ったらカウンターの兄ちゃんがhey!と手を上げ、サンドイッチが入った紙袋を持ち上げた。




 ニューヨークに行って何がしたかったわけでもない。あまり認めたくないけど、おれだって思い立ったらこれぐらいできるんだぜって言いたかっただけなのかもしれない。

 誰に? 

 おれをフッたあの人に。

 この部屋で明日、目覚めたら何をしよう。追加料金を払ってもう一泊しようか。そう思った矢先にけたたましく着信音が鳴った。彼だった。


「お前、何してんだよ。一週間以上も無断欠勤するなんてタダじゃすまねぇからな」

「え……。だってもう二度と来るなって」


 そう答えるのが精いっぱいだった。彼は、おれをウエイターとして雇ってくれているバーのマスター。そしておれの恋人……だったはずの人。


 十日ほど前、閉店後の後片付けをしてる時に些細なことから口論になった。これまでにも何度かそういうことはあったけど翌日にはケロッとしてる人で、それなのに今回は次の日仕事に行ったら一言も口をきいてくれないどころか、目を合わせようともしない。その次の日も。それで……おれは、今ここにいる。


「ニューヨーク? ちっ。俺より先に海外行ってんじゃねーよ。そんなことよりどーせハンバーガーとかサンドイッチばっか食ってんだろ。とっとと帰って店に顔を出せ!」


 いつもの調子でガチャンと切られるのかと思ったら、さっきよりも落ち着いた声で、


「明後日、お前誕生日だろ? バカみたいにフラフラしてないでその前に絶対に帰ってこい。ちゃんとお前の顔見て謝るから」


 やばい空調のせいなのか、何故か急に鼻水が垂れてきた。ついでに涙も。電話の向こうの人には内緒だけど。


「ねぇ。マスター、知ってる? 夕暮れ時のセントラルパークから見える夕日がめちゃくちゃきれいなんだって。明日それを見てから、日本に帰ろうかな」


「わかった。じゃあその証拠に写真でも撮って帰って……なんて言うわけないだろ! バカヤロ! 俺の気が変わる前に明日朝イチで帰ってきやがれ!」



End



★お題「証拠」「夕暮れ」


彼氏とけんかして、勢いでニューヨークへ飛んだ男。

本文を書いた後でタイトルがどうしても思いつかず、またしても好きなバンドの曲名から拝借しました。Hi-Posiです。


♯一次創作BL版深夜の真剣60分一本勝負 2018年2月参加作

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