捨ててもなお。
近藤琢哉
捨ててもなお。
朝いつものように目覚めると、僕は自分が死んでいる事に気が付いた。
起きようと思っても、瞼は瞑ったままで開かないし、寝返りを打って起き上がろうとしても、身体はピクリとも動かなかった。最初は、
(あれ? 金縛りにあったのかな)
と、動かない身体とは反対にはっきりとしている頭の中で考えた。
そして、その答えに辿り着くのに時間はかからなかった。
(そうだ、僕は死んだのだった。それも、この手で命を断ったのだった)
状況が飲み込めるとなんだかホッとした。この状況が、成仏するまでの時間なのか何なのかは分からなかったが、それでも自分の望んだ通りこうして僕は死ねたんだ。
マネキンみたいに固まった身体を動かすのはどうやら無理だと分かったが、あれやこれやと色々試していると、身体が動かない代わりに僕は宙を舞う事が出来る事が分かった。
正確に言えば、真っ白な布団の中で僕の身体は横たえたまま、僕の魂は身体をすり抜けて宙を舞う事が出来るようだった。
(テレビで言ってた霊とかお化けって、今の僕みたいな状態の事を言ってるのかなぁ。それにしても、本当にこうなるんだ!)
フィクションだと思っていた事が実際に起きて少し興奮した。
枕元で僕の身体を俯瞰すると、布団の中の僕は穏やかな表情を浮かべていて、それこそ寝ているだけのように見えた。
(最期はそんなに苦しまずに死ねたんだ)
遠のいていく意識の中で最期の瞬間はあんまり覚えていなかったが、死ぬ間際までちゃんと死ねるかが心配で少しナーバスになっていたから、こうして無事に死ねた事が分かると安心した。
そして、慣れない魂で僕は部屋の中をぐるぐると飛び回っていると、ここが実家の僕の部屋であるとすぐに分かった。部屋は大学に進学する際に上京する事になった日から、何も変わっていなかった。
僕が大好きだった漫画は本棚に整然と並んでいるし、サッカー部の仲間が書いてくれた引退の時の寄せ書きも当時のまま壁に飾ってあった。大学を卒業してもそのまま東京で就職した僕は、実家に帰るのは年に1,2回程度だったが、それでも僕が帰って来る日の為に両親は部屋をそのままにしてくれていたのだ。
肉体を持たない僕は思い出の品々を手に取る事が出来ないので、一つ一つ見ながら懐かしさに浸っていると、部屋の扉がガチャリと鳴ってゆっくり戸が開いた。
僕は、慌てて僕の身体に戻った。そして、扉の向こうから母さんが部屋に入ってきた。久々に会った母さんは、憔悴しているのか、少し疲れている感じだった。
(それもそうか、息子に先立たれたのだから……)
こうして母さんの様子を見ていると、少しだけ胸が痛んだ。
母さんは、静かな足取りで僕の枕元に座ると、僕の顔を見てしばらくそのままでいた。すると、気持ちを抑え切れなくなったのか一筋の涙が白い頬を伝い、静かにすすり泣いた。
「ごめんね。隆弘。あなたが苦しんでいた事を少しでも分かってあげていたらこんな事には……」
母さんはそう言うと堰を切ったように、嗚咽を漏らしてむせび泣いた。部屋中に響く泣き声に気付いたのか、続いて父さんが部屋に入ってきた。母さんの背中にそっと手を置くと、ゆっくりと肩を貸して立ち上がるのを手伝った。母さんは父さんにその身体を委ねながらよろよろと立ち上がると、二人は部屋を後にした。
(やっぱり、周りの人からは僕の死って悲劇的に映ってしまったんだな……)
申し訳無い気持ちと、最期に書いた遺書をもうちょっとライトな内容にしておけばと少し後悔した。
実際、僕は死ぬには不足が無い程に状況は最悪だったし、悩んでもいたけれど、最期の1ヶ月は案外穏やかな心持ちで暮らしていた。
それもすべては“断捨離道場”との出会いがあったからに他ならない。
僕が断捨離道場に出会ったのは、職場で上司に「お前の顔を見ていると虫酸が走る」と言われ、同僚からは木偶坊(でくぼう)の“デッ君”と陰で呼ばれている事に気付き、夕飯用に買った弁当に箸が付いていなかった日の事だ。
そんな最悪な一日の終わりに、一人とぼとぼ新宿の外れを歩いていると中年の男に声を掛けられた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん! ちょっとどうしたの?」
小太りのその男は馴れ馴れしく僕の肩を叩いて話かけてきた。
「え、なんですか急に」
面食らった僕は警戒しながら言った。
「いやいや、若いのにそんな下向いて歩いていたら気になるでしょ」
「そんなに気になりますか……?」
「気になるよ。若いんだから、もっとシャキッとしなきゃ」
確かに立て続けに起こる最悪な出来事を経て、覇気なんて物はどこかに消え失せていた。だからと言ってそれだけでこの男は話かけてきたというのだから、こちらとしては、“胡散臭い男に絡まれる”という最悪な出来事が一個追加になった形だ。
「お兄ちゃん、なんか悩み事でもあるなら聞くよ?」
「……まぁ仕事が上手くいかないとかですかね」
「それだけ?」
「え、あとは……人付き合いも上手くないというか煩わしいし、ツキにも見放されちゃっていると言うか。とにかく何をやっても上手くいかないんですから、下を向くのも無理ないですよ」
見ず知らずのこの男にぺらぺらと悩みを語っているのが不思議に思えた。でも、きっとそれだけ心が弱っている証拠なのだろう。
男は黙って腕を組みながら僕の話を聞いていたが、おもむろに口を開いた。
「そういう時は誰にでもあるよ」
(うわぁ、やっぱり話して損した。薄っぺらいアドバイスだなぁ)
男はお構い無しに続けた。
「そういう時どうすればいいか分かる?」
「……わかりません」
「ま、そうだよな。それが分からないから悩んでんだもんね。まあ、口で言っても分からないだろうし、ちょっとついて来なさい」
(いよいよ怪しい展開になってしまったぞ……)
と思いつつ、半ばやけっぱちになっていた僕は黙って男の後について行った。
少し歩くと、雑居ビルが立ち並ぶ細い路地の中の一棟に男は入って行った。古びたエレベーターに乗ると、モーターの潤滑油が足りていないのか、ガコンと大きく上下に揺れた後に3階で止まった。男はエレベーターを降りてスタスタと歩いて行くと、一部屋そしてまた一部屋と過ぎて、突き当たりの部屋の前で止まった。
部屋の表札には“断捨離道場”とテプラで貼ってあった。
(これは本当にカルトかなんかに捕まってしまったかもしれない……)
そう思った時にはもう遅かった。
「ここで靴を脱いで」
そう言うと、男は一足先に部屋に入った。もう後戻り出来ないところまで来てしまったと観念して室内に入ると、部屋にはパイプ椅子が並べられて数人が座っていた。禿げ上がった老人、制服姿の女子高生、小太りの中年女性の計3人。年齢も性別もバラバラだったが、共通して皆一様にどこか覇気が無かった。
「はい、どーもどーも。皆さんお揃いかな?」
男はパイプ椅子が並ぶ列の先頭に立ち、室内を見回しながら言った。
誰も返事をしなかったが、男は全く意に介さない様子で続けた。
「今日は新しい仲間がやって来ましたので紹介します。あ、そういえばまだ名前も聞いていなかったね。丁度いいから、自己紹介しちゃって」
仲間になったつもりは毛頭なかったけれど、皆の視線が僕に集まると逃れようがなかった。
「……木嶋隆弘です」
「はい、木嶋君ね?よろしくー。じゃ、そこ座って」
指差された席に座った。恐らく男はこの断捨離道場とやらの講師か、あるいは教祖か何かのようだが、とにかく僕は何から何までこの男に言われるがままだった。
「私はここで講師をしているサイトウと言います。改めて木嶋君、断捨離道場にようこそ。まぁ、既に木嶋君はこの部屋に入って何かを感じているだろうけれど、ここに居る皆は少し心が疲れてしまっている人ばかりでね。君のように仕事で悩みを抱えている人や、恋愛で上手くいっていない人、遺産相続を巡って家族と仲違いしてしまった人。皆どこかに悩みを抱える人が集まって、力を合わせて、少しずつ問題を解決していく道場です」
ある程度想定はしていた展開だったので、サイトウの説明はすんなり受け入れる事が出来た。
「木嶋君、まずは安心してくれていいよ。ここは怪しい宗教団体でもなければ、何か高い物を買わせるネズミ講とかの類でも無いからね。実際、僕はこの人達からビタ一文お金は貰ってないしね。ねえ?」
サイトウは部屋の中の面々に同意を求めたが、相変わらず芳しい反応は無かった。それにサイトウが怪しくないと言えば言うほど、逆に信用が薄れていくようだった。
「じゃあ、早速本題に入るね。まず先に言っておくけれど、悩みの種を一気に解決するのは無理です。これはあまり過度な期待をして欲しくないから、予め正直に言っておきます。ただ、解決する為にする事は至ってシンプル。何か分かるかな?」
サイトウは僕を見て問いかけて来たが、自信を持って答えられなかった僕は黙り込んでしまった。
「……まあ、突然言われても困っちゃうか。正解は、“捨てる”事です」
(なーんだ、なんのひねりも無い。断捨離道場の名前の通りじゃないか)
サイトウの答えにがっかりした。しかし、そんな僕の考えを見透かしたかのように言った。
「捨てるというのは、巷(ちまた)で話題になっているような物を捨てるだけの断捨離とはワケが違うよ。物を捨てるというのはあくまできっかけでしかなくて、本当に捨てたいのは悩みの種そのものなの。でもこの種は心に根を張っちゃっていて中々捨てられないから、捨てられる物から徐々に捨てて行きましょうというワケ。どう? 簡単でしょ」
「ええ…… まあ、捨てる物に依るというか……」
「そう! まずは何を捨てようかってのが大事なのよ。じゃあ、平田さんから今週は何を捨てた?」
急に老人がもぞもぞと焦り出したので、恐らくこの老人が平田で、相続でゴタゴタしてしまったのもきっとこの老人なのだろう。
「えっと、今週は……飼い犬を捨てました」
「犬? 平田さん、それは思い切ったねえ」
「ええ、もう私は先が短いと医者から言われているし、家族からも疎まれるている存在ですから。犬だけ残して、後々家族に虐められちゃっても可愛そうだから……」
「平田さん一歩前進! 少し気が楽になったでしょ」
「ええ。可愛がってくれる新たな飼い主に引き取ってもらえたら良いなって思います」
(これはとんでもないところに来てしまった……)
老人の突飛な回答を前にして、やっと自分の置かれた状況を察した。
「じゃあどんどん、聞いていこう。鈴木さんは?」
「私は、お菓子です。家中のお菓子を捨てました」
鈴木と呼ばれた中年太りの女性が言った。
「鈴木さんは、始めたばっかりだからまずは簡単な物からね。皆さんにも一つ気を付けて貰いたいのが、焦って無理をしちゃいけないという事です。無理しない程度に、今まで中々踏ん切りがつかずに残していた物を捨てる。これがコツだからね」
サイトウの言葉が響いたのか、さっきまでは今ひとつの反応だった面々がそれぞれ小さく頷いていた。
「じゃあ、最後はユミちゃん。今週は何を捨てたのかな?」
最後に残された制服姿の女子高生が口を開いた。
「私は、小学校の時の卒業アルバムです」
「卒業アルバムね。中々良い物を捨てたね。捨てた時にどんな感じだった?」
「私は小学校の時に虐(いじ)められていて、今も街で時々当時のいじめっ子に会うと胸がドキドキして隠れちゃうんです……。でも、アルバムを捨てたらそんな思い出もいじめっ子たちも、まとめて消し去ったような気がしてスッキリしました」
「ユミちゃん、ナイス! その調子で少しずつ捨てていこう」
サイトウは、陽気に答えた。
僕の理解を超えたところで交されるこの会話に、全く付いていく事がで出来なかった。
「さてと、木嶋君は何を捨てようかね」
再びサイトウが話を僕に振ってきた。
「え、えっと……」
「大丈夫、大丈夫。ゆっくりでいいから、捨てられそうで捨てられなかったモノを思い浮かべてごらん」
(ゆっくりって言ったって、こんなのわからないよ。もう、適当に何か答えとこう)
「じゃあ、僕はカバンを捨てます」
「なるほど。木嶋君は今週カバンを捨てると」
最近、新しく会社用のカバンを買ったので、使わなくなった前のカバンを捨てる事にした。
「では、皆さんも今週捨てるモノを思い浮かべてみてください」
それぞれ、何を捨てようか考えている様子だった。皆が何を捨てるか決めた様子を見計らって、サイトウが言った。
「じゃあ、最後に大きな声で捨てるモノを言って今日はお終(しま)いにしましょう。せーのっ!」
一同はサイトウの音頭に合わせて、捨てる物を口々に唱えた。
平田さんは犬小屋、鈴木さんは通販で買ったダイエット器具、ユミちゃんは友達とお揃いで買ったキーホルダーだそうだ。
結局、カバンを捨てたのは断捨離道場に行ってから数日経った週末の昼下がりだった。
道場に行った直後は、目の前で起きた事の整理がつかずにぼーっと過ごしてしまったが、数日経っても頭の片隅に捨てると宣言したカバンの事がちらついて、どうにも落ち着かなかったのだ。
意を決して、カバンを捨てようと押入れの中身を掘り返すと、全く片付けをしてこなかった割にはお目当てのカバンはすぐに見つかった。そして、そのカバンを手に取り、新しいゴミ袋の中に突っ込んだ。
(なんて事はない。こんなんで物事が好転するなんて、くだらない)
拍子抜けした僕は、面倒だけど掘り起こした押入れの中身を再び元あった場所にしまう事にした。散らかした押入れの中身をいざ仕舞おうと手に取ると、長年片付けをしてこなかったせいで要らない物だらけになっている事に気が付いた。
どうせ、予定も無い週末だ。いっそ一気に捨ててしまおうと思った。
一回その気になれば、あれよあれよと作業は捗った。溜め込んでいた書類やら、インクの出ないペン、誰かが行った海外旅行のお土産など、とにかく知らず識らずのうちに僕の家は要らない物で溢れ返っていた。
それらを一つ一つ捨て終わった頃には夕方過ぎになっていた。要らない物を一杯に詰め込んだゴミ袋の束と、少しだけスッキリした部屋を見回すと、重労働の疲れよりもやり切った達成感の方がやや上回っていた。
悔しいけれどサイトウが言っていたように、この捨てるという行為がゆくゆくは悩みの種を取り除く事に繋がっていくような、そんな気分になってしまっていた。
そして一週間後、僕は再び断捨離道場に居た。
「いやぁ木嶋君、正直もう来ないと思っていたよ!」
サイトウは相変わらず陽気に僕の肩を叩いて言った。
「じゃあ、早速そんな木嶋君から今週は何を捨てたか発表していきましょうかね。どーぞ」
無茶振りも相変わらずだ。
「今週は、前回宣言した通りカバンを捨てました。あとは家の中の要らない物もちょっと整理しました」
「スタートから飛ばすねぇ! 皆さん、木嶋君の記念すべき第一歩に拍手!」
パラパラとまばらに拍手が起きた。正直全く嬉しく無かったし、先週犬を捨てた平田さんなんかは死んだ目をして手を叩いていた。
そして、前回同様に順番に捨てた物をそれぞれ発表した後、来週までに何を捨てるかそれぞれ考えた。一気に家中の要らない物を捨ててしまった僕は、何を捨てようか考えあぐねていると、そんな様子を見ていたサイトウが話し掛けてきた。
「木嶋君にちょっとアドバイス。捨てるというのは、何も物に限った話では無いからね。形の無い物だって、捨てる事は出来るんだよ。例えば、ついつい続けてしまっている無駄な習慣を止めるとかね。これも立派な捨てるという行為さ」
サイトウにそう言われると、確かにぐっと選択肢が広がったような気がした。
頃合いを見てサイトウは先週のように音頭を取った。
「いいかな? じゃあ大きな声で、せーの!」
僕は、残業するのを捨てる事にした。
実際、する事も無いのに周りの上司や同僚が中々帰らないから帰りづらくて、なんとなく会社に居るだけの残業が多かったのは事実だ。それらの一切を捨てる事にした。その結果、職場での僕を取り巻く環境は最悪になってしまった。今までは陰口で済んでいた通称”デッ君”は、はっきりと僕に向けて言われるようになったし、上司からは、
「仕事は遅いけど、帰るのは誰よりも早いね」
なんて嫌味を言われる事もしばしばだった。
しかし、来週はこの上司や同僚との関係も捨ててしまおうと決めると、前向きな気分になれた。
それに、今までには無かった自分の時間を多く得る事が出来たし、残業を捨てた事で永遠に上司の説教と武勇伝を有難がる飲み会も捨てられたので、悪くないように思えた。
こうして自分なりに納得出来るとそこからは早いもので、上司や同僚との関係は当然捨てたし、そもそも出社する事も捨てた。その事を道場で発表すると、
「おいおい、前にも言ったけれど性急過ぎるのもそれはそれで良くないよ。地道に身近なモノからね」
と、サイトウからは諌(いさ)められたが、それ以上に周りの面々が「おー」と驚くのが気持ち良かったし、次に何を捨てようかと考えるとワクワクした。
僕は悩みの種を取り除きつつある実感を確かに得ていた。
出社しなくなった僕の身を案じてか、はたまた叱りつけようと思ったのか、上司からの電話が連日ひっきりなしに掛かってきた。一度も応答はしなかったけれど、あまりにうるさいものだから、僕は携帯電話も捨てた。
長年、肌身離さず持っていた携帯電話を捨ててしまうと、僕は世界から分断された存在になった。もっと言えば、僕が世界と思っていた物は小さな携帯の中に広がる世界の話であって、それを捨ててみると実際にはもっと広大な世界が広がっていた。
テレビもとうの昔に捨てたし、伽藍堂(がらんどう)となった部屋の中でする事が無くなった僕は、もっと広い世界を知りたいと思った。そして僕は、家を捨てて少しばかりの貯金を軍資金に旅に出た。
見たい物や行きたいところが決まっているわけではなかったので、各駅列車を乗り継いで、全国津々浦々を巡った。
人から見れば退屈で仕方ないこの旅は、何も持たざる僕にとって、見聞きする物すべてが新鮮に映った。
今まで知識を預け切っていたスマホが無い今、レストランや喫茶店に入ろうにも誰かが付けた星の数を知る事は出来ないし、ホテルからホテルへと渡り歩いてその日の寝床を確保していた僕は、沢山の物を持ち運ぶ事が出来ず、本当に要る物しか持てなかった。
そもそも自分が今どこに居て、どこへ向かっているのかさえわからなかった僕は、自分の直観と道行く人に尋ねる以外に情報を得る術が無かった。
こんな非効率で遠回りな事を繰り返していると、普段は見逃してしまうような些細な事でも大きな発見のように感じられた。
美味い飯屋にありつけば僕しか知らない隠れた名店を見つけられたように思い、街中の変な看板を見付けては思わずクスッとしたりもした。つまり僕は、この遠回りという贅沢を目一杯楽しんでいたのだ。
しかし、そんな幸せな時間も長くは続かなかった。持ち金が底をついてしまったのだ。いずれこの時がやって来るのは分かっていたけれど、実際にこうして問題に直面してみると事態は思った以上に深刻だった。ロクにご飯を食べられてなかった僕は、
「すみません、ちょっと何日もご飯食べてなくてお金貸して頂けませんか?」
と物乞いした事もあった。しかし、あれだけ優しかった街中の人たちは、僕を冷たく変質者扱いし、かつて会社の中で感じた疎外感を久しぶりに感じた。
(とにかく、お金が無いというこの悩みの種を取り除かなくては!)
必要に駆られた僕は、あれやこれやともがいてみたけれど、日に日に増す空腹によって次第に気力は萎えていった。
そんな僕にふと名案が舞い降りてきたのは、空腹が限界を迎えた時の事だった。
(そうだ、この命を捨てれば良いんだ)
こんな簡単な事、もっと早く気が付けば良かったなんて思ったけれど、とにかく善は急げだ。僕は、薬局に向かった。
首を吊ったり、ビルから飛び降りたり、死ぬ方法はきっとゴマンと有る筈だけど、出来る限りキレイな死に姿でいたかった僕は薬を大量に飲んで命を捨てる事にした。テレビでは睡眠薬を一気に飲んでぽっくり逝くのが定番だけど、何をどれくらい飲めば死ねるのか実際のところわからなかった。
「すみません、これ何錠飲めば死ねますか?」
なんて店員さんに聞く事も出来ず、最後の最後に残していたありったけのお金で、しこたま薬を買った。
ホテルに戻った僕は、箱から薬を出して机の上に並べた。
そして、端から順番に1錠口に入れて水を飲む、そしてまた1錠……と、目の前の薬を飲み続けた。
最初は何てこと無かったが、徐々に心拍数が上がり、身体中をぐるぐると血液が高速で巡るのを感じた。
それでも僕は手を止めなかった。
視界は白んでくるし、嘔吐もした。幸いにも胃袋が空っぽなせいで、透明で苦いだけの胃液を吐くのみで済んだ。
(あっぶねぇ、キレイに死のうと思ったのに台無しにするところだった)
はっきりと覚えているのはだいたいこの辺までで、そこからは意識も混濁していたし、最期をどのように迎えたのかを僕は知らない。
久々の実家を散策しながら、僕が命を捨てるまでのアレコレについて、順を追って思い出していた。一方で家族は肉体を持たない僕の存在に気づく事も無く、通夜に向けた準備が粛々と進められた。
葬儀屋がやって来ると、広間に大きな棺が設置され、死装束を着せられた僕はその棺の中に丁重に納められた。
母さんは泣きながら、僕の身体の周りに花を添えた。花だけではなく、僕が好きだったマンガや、サッカー部の時のユニホームなども一緒に棺の中に納めた。
(あんなのよく捨てずにとっておいてたなぁ)
と思いながら部屋の隅でじっと見ていると、改めて自分が命を捨てた実感が湧いてきた。
ひとしきりの儀式が終わり、近所のお寺に移動されると、いよいよ通夜が始まり僕は弔われた。意外だったのは、
(こんな仰々しく通夜なんかしたってどうせ誰も来ないよ……)
と始めは思っていたけれど、予想に反して沢山の人が集まった事だ。
高校のサッカー部で毎日一緒に過ごした澤田や、バイトの先輩だったナベさん。
そして、小学校の時に一緒に校庭の端っこを花火で爆破したタケも居る。すっかり変わっちゃって始めは分からなかったが、昔好きだったカナちゃんも居る。
神妙な面持ちで参列を済ませた後、皆は隣室に設けられた通夜振る舞いの寿司をつまみながら僕との思い出話を語り合っていた。
小学校の友達や部活の友達等、それぞれのコミュニティごとに小集団が形成されるとまるで同窓会のような雰囲気で、お酒も入っていたせいか時には感慨深そうに、そして時には涙ぐみながら皆は感情を発露させていた。
それぞれのテーブルを廻りながら、僕は皆の思い出話を横で聞く事にした。
「小学校の時に木嶋とよく遊んでて、いつだったか遅くまで学校にいて下田先生にめちゃめちゃ怒られてさ。こんな事になるなんて…」
タケは涙ながらに僕との思い出を語った。
しかし、当時の担任である下田先生が激怒したのは遊んでて下校が遅くなったからではなく、校庭にある花壇をロケット花火で爆破したからだ。
微妙に違うタケの記憶に違和感を覚えながらも、隣のサッカー部の仲間が集まっているテーブルに行って話を聞いた。
「あの引退試合の時さ、最後PKだったじゃん。あの時、木嶋が外しちゃって負けたんだったよなぁ」
「違うよー、平田が外したんだよ」
「えー? 絶対、木嶋だったよー」
仲間の話を横で聞いていたが、あの引退試合でPKを外したのは僕でも無ければ平田でもなく岡田だ。
(おいおい、あんなに負けて泣いたのに皆忘れちゃったのかよ! てか、皆どんだけ適当なんだよ!)
と愕然すると同時にがっかりしてしまった。
しかし、しばらくしてから僕はふふふと笑いがこみ上げてくるのを抑えられなくなった。僕があんなに必死になって捨てようとしていた友情は、こんなにも曖昧な記憶と緩やかな関係の上に成り立っていたのだ。それでも、こうして皆は繋がっていて僕が死ねば涙するのだから、きっとそれでいいんだ。
僕はいつの間にか自分の葬式で大笑いをしてしまっていたが、その事に気付く人は当然誰も居ない。こんなに笑ったのはいつ以来だっけ。思いっきり笑ってスッキリすると、不思議な事にさっきまで賑やかだった皆の声はスーッと遠くに消え、自分の存在も段々に薄れていくような感覚がした。
きっと僕がこうして居られる時間ももうそろそろって事なのだろう。でも僕は、晴れやかな気持ちだった。
だって、僕は沢山の物を捨てて、沢山の物を得たのだから。
捨ててもなお。 近藤琢哉 @gregorio093
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