イチャ飯〜社畜にふるまう愛情ごはん〜

雨宮いろり・浅木伊都

まぐろの漬け丼と燻製たまご

 矢野 一星(いっせい)、25歳。

 メーカーの営業マン。中肉中背。特技は電車での席取り、それから取引先への土下座。趣味は寝ることと寝ることと、寝ること。

 そんな社畜な俺ですが、とうとう疲れのあまり、幻覚が見えるようになりました――。


「どーしたんですか、そんな所で突っ立って! ほらほらあ、早く入って手洗って来てくださいよ」


 俺の汚い六畳半で、にこにこと笑っている美少女。長い金髪をきちんと結わえ、ぱっちりと大きな瞳には孔雀みたいなまつげが生えていた。

 座っていてもそのスタイルが抜群であることが分かる。ショートパンツから伸びる真っ白な足、白いVネックのTシャツから覗く、豊かな谷間。

 ちょっと派手だが、色白の小顔で、くりっとした目がかわいい。


 が。


 問題なのは。


 俺の知り合いにこんな美少女はいないということだ。


「……誰?」

「えーっ昨日話したでしょーっ!? 隣の岩手光です、ひ・か・り!」

「お隣さん……? え、何で、どうして、どっから」

「約束したのに! マジで覚えてない系ですか……? 昨日、私と会ったのも忘れました?」

「会ったっけ? てか、昨日は家に帰ってからの記憶がねえ。忙しすぎて着替えもせずに玄関でごめん寝してたからな……」


 そうぼやくと、ひかりはあちゃーと苦笑した。


「社畜極まってますねえ……。てか今も十二時回ってるし。ま、とりあえず靴脱いだらどうです? お腹も空いてるでしょうし」

「や、腹はそんなに……。コンビニ行ってもなんも食いたいもんなかったし」

「んっふっふー。これを嗅いでも、そう言えますかっ?」


 ひかりは、傍らの炊飯器をぱかっと開けた。数週間ぶりに嗅ぐ炊き立てのご飯のにおいに、俺の胃は素直に呻く。

 ぐぎゅるるるるぅう、と情けない音が響いて、ひかりはけらけら笑った。


「体は正直だぜ……? ってやつですね。準備するんでマジで早く手ェ洗って来てください」

「う、うん……?」


 何しろ昨晩徹夜している身だ。三徹に比べればコンディションはいいが、頭が働かないのは確かである。

 俺は言われるがまま、狭いユニットバスの洗面台に立ち、そして――。


「なんっじゃこらああ!?!?」


 絶叫した。

 俺の部屋は、自慢じゃないが、物がない。掃除する必要がないようにするためだ。そもそも部屋が狭すぎてスペースがないとも言うが。


 だというのに。

 鏡の横にはピンク色のラックが吊るされ、そこには大きなハンドソープのボトル、ホワイトニング歯磨き粉、何に使うか良く分からない黒い瓶、コットン、デンタルフロス、などなどの小物がパンデミックを起こしていた。


「薬局開けるくらい物があんだけど!? つーか色! ピンクか黒しかねえ! ギャルか!」

「あー……やっぱまずい、ですかね? だってだって、一星さんの洗面所なんにもないんですもん。石鹸くらいはちゃんと補充しましょうよ。オーラルケアだって、営業さんなら大事ですし……」


 ひかりは戸口でもごもごと言い訳している。

 俺が何か言おうとすると、


「や、講評は最後に聞かせて下さい。お腹空いてる状態でのジャッジじゃ、フェアじゃないし?」

「こ、講評……?」

「昨日あったことは、ご飯食べたら教えてあげますから。はい、手洗いうがいして!」


 ひかりは新品のうがい薬を取り出すと、カップに入れて俺に手渡してくれた。うがい薬の味に、あ、これ幻覚でも夢でもねえわ、と悟る。


「一回じゃダメ、ちゃんと三回はがらがらぺってして下さい!」

「へーい……」


 深く考えるのが面倒になって、俺はひかりの言われるがままにうがいをし、手を洗い、服を着替えた。

 洗濯カゴにぎゅうぎゅう詰めていた洗濯ものは姿を消し、代わりにベランダで夜風にはためいている。


「……もしかして、家事全部やってくれた系?」

「やってあげた系です」

「な、なんで……って、それも俺が昨日君とした約束とやらに関わってるのか」

「そーゆーこと。それじゃ、ビールも用意したんで、飲みながらちょっと待っててください」


 一人用のローテーブルには、グレーのマットに白い猫の箸置きが置かれていた。グリーンのプラスチックの箸は俺のだけど、その横にあるカフェで出てくるみたいな木のスプーンには見覚えがなかった。


 ひかりは狭いキッチンで何かやっている。真っ白な手足がきびきびと動いているのを、きんきんに冷えたビールを飲みながらぼんやりと眺めていた。てか、うちにビールってあったっけ。


「はいっ、お待たせしました! まぐろの漬け丼、燻製たまご添えでーっす!」

「おお……!」


 白い丼には、ぶつ切りにされたまぐろの切り身とアボカドが盛られていた。そしてその上には、燻製された半熟たまごが鎮座している。

 天井の明かりを受けててらてら光る、漬けにされたまぐろ。さっぱりとしたグリーンが目に優しいアボカド。

 そして魅惑の香りを放つ、燻製たまご。

 溢れ出た唾をごくりと飲み込む。


「お醤油はこれ、お塩はこれ、マヨかけたかったらここに辛子のと普通のがありますから」

「お、おお……?」

「あっ柚子こしょうとかもいりますか? とって来ましょうか?」

「いーから、だいじょうぶ。……俺食っていいのか、これ」


 そう尋ねると、ひかりは、もちろん! と破顔して頷いた。


「一星さんのために、作ったんですよ」


 その言葉が、じんわりと心に染み込んでゆく。


 俺のため。

 俺のために作られた、ご飯。

 そんなの、いつぶりだろう。


「……ありがとな。いただきます」


 両手を合わせてから、スプーンを手に取る。

 久しぶりの温かな、ちゃんとしたご飯。まぐろの切り身とお米をすくって、口に入れた。


「……うまい!」

「よかったぁ~!」


 胸を撫で下ろすひかり。安堵したような表情が、ちょっと幼くてかわいい。

 まぐろの漬け丼はめちゃくちゃ旨かった。

 醤油味のじゅんわり染みたまぐろと、燻製たまごの風味がかなり合う。ちょっと固めのアボカドも、控えめなクリーミーさがまぐろによく合う。


 燻製たまごの半熟部分を、お米とまぐろにとろっと搦めて口に入れると、もう、こたえられない美味しさだ。


「一星さん、ちゃんと噛んでます? ほら、二十回は噛んで下さい!」

「ング……分かった、分かったから顎無理やり動かすな! いや、でも、マジうめぇな」

「口に合ったみたいで何よりです。あ、一応お代わりもありますけど、夜中だからほどほどにしといた方がいいかも? 明日とろろと混ぜて朝ご飯にしたげますから」

「とろろなんてあるのか」

「ありますよ。今かけます? 味変えたいですよね」


 立ち上がろうとするひかりに、これで十分だ、と言おうとすると。


 ひかりが、んああっ! と大声で叫んだ。


「スープ忘れちゃった! 汁ものないと食べづらいですよねほんとごめんなさい私ったらいつもこうで! 今すぐ作りますんで待っててください」

「い、いらんいらん! いらんから座れ、落ち着け、これで十分だから!」

「でもでもでもっ! 丼ものにスープつけないとかっ、なくないですかっ! 喉乾いちゃいますよね! ご飯、喉に、詰まらせちゃいますよね~ッ!?」

「おーちーつーけー!」


 華奢な手首を掴んで無理やり座らせる。

 ひかりの瞳孔は開き切っていて、明らかに興奮していた。こうなるトリガーが分からんが、ひとまず、落ち着かせるしかない。


 俺は彼女の手をぎゅっと握る。

 柔らかくて、ちいさな、冷たい手だった。

 ……そう言や彼女、何歳なんだろ? 大学生くらいかな? 未成年だったら、なんかこう、まずい、よな?


 俺の考えをよそに、ひかりは俯いている。


「……約束、これなんです」

「んん?」

「昨日、一星さんにお願いしたのは――。私の病み具合を見て貰うことでした」

「病み、具合?」

「私、いっつも彼氏に「重い」とか「病んでる」とかって言われて、ふられるんです。昨日だって!」


 半ば涙ぐみながらひかりが話してくれたところによると。


 ーーどうやらひかりは、昨日彼氏にふられたらしかった。





「ひどくないですか? ちょっと部屋でおかず作ったり、掃除してあげたりしただけなのに!」

「そのくらいなら全然じゃね? むしろやってくれてありがたいけどな」


 それに、なんと言ってもひかりは顔がかわいい。ちょっとくらい性格に難があったって、別れるなんて大げさな気もする。


「……んで? 振られてショックで部屋の前で凹んでたら、俺が通りかかったと」

「はい! 自分もへとへとなのに、だいじょぶかーって声かけてくれて。で、私、一星さんに全部打ち明けたんです」

「愛が重くて振られることに悩んでる……って?」

「はいぃ……。私、ただ好きな人が幸せで健康であって欲しくて、動いてるだけなんです。自分じゃ重いなんて思わないから、分かんなくて。そしたら一星さん、言ってくれたんです」


 ひかりにぱっと笑う。


「『その愛とやらを自分にぶつけてみろ。俺が重いか軽いか判断してやる!』って!」

「……いや俺何様だよ!?」

「もーすっごく感動して! なんって男気ある人なんだろうって思ったんです。だから、こうしてご飯を作ってお部屋を掃除して、私の精一杯の愛情表現をして待ってたんですけど……」


 探るようにこちらを見てくるひかり。色素の薄い茶色の目が、不安を帯びて揺れている。


「結果は、どうですか? 私の愛……重いですか?」


 俺は箸を置いて考える。


 部屋を掃除してくれたのはありがたい。けど洗面所をあんなに魔改造して、うがいの回数まで見張られるのは、確かにちょっと大げさな気もした。


 だけど。

 この美味しそうなご飯を、俺のために作ってくれたという。

 それを重いと言うのは、あまりにもーー。


「重くは、ないよ」

「え……」

「帰ってきて家が綺麗だとすっきりするし、手洗いうがいしなさい! って言ってくれるのも新鮮だ。それに、俺のために作ってくれたご飯……美味しかった」

「一星、さん……」


 うるる、と目を潤ませたひかりが、がばっと抱きついてくる。甘いシャンプーの匂いの奥に、微かに花みたいなにおいがした。

 柔らかな体を、さらにむぎゅうと押し付けてひかりはいう。


「良かったあ……嬉しいです、一星さん!」


 そうして彼女はとんでもないことを口にした。


「じゃあじゃあ、これで私の彼氏になってくれますね!」

「どうしてそうなった!?」

「私の愛、重くないんですよね? じゃあいいじゃないですか、お隣さんのよしみですし」

「い、いや、俺きみの年齢も仕事も知らないし」

「岩手ひかり十九歳! 大学一年生の法学部でっす! これで良いですよね良いですね良いってことにしましょ!」

「いやだめだろ未成年はさすがに!」


 いやこれはまじで。

 俺の抵抗を見て、ひかりは攻め口を変えてきた。


「悪い話じゃないと思いますよ? 私掃除も料理も得意です。毎日、一星さんのために好物作ります。マッサージだってしてあげますし、何なら残業とか手伝っちゃいますし」

「んぐ……そ、それは魅力的だけど、でも、それじゃ、家政婦みたいになっちゃうだろ」

「それでもいいです! 私の気持ちを受け止めてくれるんなら、家政婦だって……!」


 ひかりの懸命な眼差しに、疲弊しきった俺は抗うことができない。


「ん……その件は、保留にさせてくれ。ひとまず今はどけ、残り食べるから」

「私っ! 食べさせてあげます!」

「いい、いらん! 自分で食う!」

「じゃあじゃあ、ちゃんと右と左均等に噛んでくださいね!? 私、見てますから!」


 そうしてひかりは本当に、夕飯を終えるまで、俺の咀嚼を監視していた。

 文句はいっぱいあったし、愛の重さというものを遅まきながら悟りつつあったけどーー。


 真剣な、それでいて満足げなひかりの顔を見ていると、なんだか、このままでもいいか、なんて思うのだった。


「彼氏云々は置いといて、だな。夕飯旨かった。俺まぐろの漬け丼好きなんだよな」

「知ってますよ? よくとき屋で598円のまぐろのぶつ切り丼食べてますもんね!」

「……なんで知ってんの」


 ひかりは満面の笑みを浮かべた。


「レシート、ゴミ箱に捨ててありましたし。あと交通ICカードの履歴で頻繁にとき屋に通ってるのも分かったので、そこから考えました」

「れ、れ、レシート、漁ったのか!? てか交通ICカードの履歴ってなに!? どうやってログインしたの!?」

「必要なことです。苦手なもの、食べたくないでしょう?」


 だいじょうぶ、とひかりは笑う。その笑みが怖い。


「ICカードとクレカの履歴は私でも見れるようにしましたし、SNSも裏垢含めて見てます。それにねそれにね、あそことあそこにカメラもつけましたから!」


 クローゼットとテレビの上辺りを指差すひかり、

 ……カメラ?

 いま、カメラていいました?


「おまっ……おま、お前っ! 正真正銘由緒正しいストーカーじゃねえか!?!?」

「え、でも、一星さんにとっては重くないんですよね?」

「いや重いわ! カメラ設置されて、それも一つの愛の形だよね、なーんて言えるほど人生悟り開けてねーわ!」

「だいじょぶですよう、ただ一星さんの好みを探るためですから。決して、その、えっちなことには使わないですしぃ……」

「使われても困る!」


 誰だ、このままでもいいなんて思ったのは! 三分前の俺だ! 馬鹿なやつ!


「明日も美味しいご飯作って待ってますね、一星さん! だから、私の愛……受け止めてくださいね!」


 ああ、明日からどんな日が待っているのだろう。

 俺の心を占めるのは、八割恐怖、一割不安で、残りの一割はーー。


 明日の朝俺を待っているだろう、まぐろととろろの朝食への期待だった。

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