第27話 たまには何もせずにのんびりしよう
「あれ?」
日曜の朝、ジュンが目を覚ましてキッチンに行くと、母親も父親もいなかった。
テーブルの上にメモが置いてあった。
『夫婦水入らずで天満宮に参拝してきます。外で食べるから調理作業も今日はいいのでジュンもゆっくりしてください・・・母より』
「なるほど」
いつもは週末に時間を取って台所に立ち、母親の負担を少しでも助けようと料理をするジュンだったが、思いがけず予定無しとなったので、却って拍子抜けした。
だがせっかくの母親の言葉だ。たまにはのんびり過ごすのもありかもしれない。
なので朝食もトーストにすらしないそのままの食パンに蜂蜜を垂らして、ちょん、にした。
もしゃもしゃと咀嚼しながら普段そんなに観ないテレビをつける。ああそういえばと思い出して1ヶ月ほど前から溜まっている録画しておいた深夜アニメを数話、スキャンしながらまとめて観る。
食パンはこれも横着のために皿にラップを敷いて食べたので食器洗いの必要もない。
「散歩でも行くかな」
ジュンは食が細くて特に太りやすい体質でもないのでわざわざ運動をする習慣はなかったのだが、天気がよくて暖かなので、のーんびりと歩くのもいいかと思ったのだ。
そして散歩の行先も街中ではなくて、近くを流れる川の土手にした。
ジュンは下流に向かって土手のサイクリングロードを歩く。
上流に向かって犬を連れて歩いてくる女性がいた。
「こんにちは」
「こんにちは」
女性から挨拶されてジュンも返した。犬は柴犬だった。今度はジュンの方から愛想を振る。
「かわいいですね」
「え?え?あ、ありがとうございます」
女性の反応がややおかしかったので、もしかしたら犬ではなく自分を褒められたと勘違いしたのだろうか。行っても30歳ぐらいと見えるその女性はほんとうに可愛らしい容姿の人だったので、別にそっちに取られてもいいかなとジュンは思った。
女性とすれ違った後はしばらく人とは会わなかった。
代わりに普段余り意識していない動物たちに出会った。
「あ。とんびだ」
随分と外れとは言え、一応は東京都と住所につく街で普通にとんびが見られるのはなんだか幸運なような気分になった。
実際は、とんび、アオサギ、キジ、タヌキなどが結構河川敷の中洲や広い草むらに潜んでいたりするのだ。
ぼう、と、とんびが上空で丸く飛行しているのを、どっこらしょ、とサイクリングロードにあるベンチに腰掛けて眺めていた。
ふと、とんびが急降下してくる。
「うわ」
ジュンが軽く驚いて身構えると、下から鳩がまっすぐとんび目掛けて急上昇して行った。
「え?え?鳩ってとんびに突っかかるんだっけ?」
最初は一羽。
それから二羽目が違う角度からとんびに向かって上昇していく。
キョン!キョン!
これがとんびの鳴き声なのか鳩の鳴き声なのかジュンには判別できなかったけれども、緊迫した状況であることは十二分に伝わってくる。
「ツガイなんだね・・・」
多分地上に鳩が卵を温めているか、あるいは孵化したヒナたちが住まう巣があるのだろう。親鳥たちは果敢にもこの河川敷という生態系の最上位に位置する猛禽に戦いを挑んでいる訳だ。
ただ、ジュンは手に汗握るわけではなく、ごく冷静に成り行きを見つめていた。仮に鳩の夫婦が敗北して鳩の子たちがとんびにさらわれたとしても、自然の摂理だと納得できるだけの成熟した精神状態にあった。
鳩のツガイが二羽同時にとんびにアタックする。
すると、とんびは、文字として表現し切れない高いオクターブの声を上げながら、空中でひっくり返った。
羽の
「わ・・・屈辱だ・・・」
ジュンがそう分析した通り、このザマを晒してはとんびの側の恥辱なのだろう。態勢を立て直して再度攻撃するという選択肢もあったろうが、とんびはもう一度くるん、とひっくり返って通常の飛行体制になると、恥をかき捨てるようにして、ばさあ、ばさあ、と羽ばたきで上昇し、下流の方へと飛行して行った。
鳩のツガイも高揚感など示さずにそのまままた日常に戻る。
ジュンは巣がどこにあるか着いて行って、ヒナの顔でも見たいなと思ったが、鳩も野生である以上そんな間抜けな真似はしないようだった。
その代わりジュンは急激に書きたくなった。
短編を。
スマホを取り出してアプリで小説投稿サイトと立ち上げる。
通常は自宅のPCで執筆するのだが、今観た光景をそのままの臨場感で書いて投稿したいと思った。
「でもなあ・・・タップで5,000文字入力するのはきついなあ・・・」
一旦背伸びしようと上体を起こすと、向こう岸にショッピングモールの建物が見えた。
「あ。そっか」
ジュンは立ち上がって200mほど下流の橋を目指す。歩いて向こう岸まで渡り、ショッピングモールへ行こうと思った。
ワイヤレスのコンパクト・キーボードを買うために。
もともと散歩が目的だったので歩き出せばすいすいと河川敷を横断する全長100mほどの幹線道路が通る橋の歩道部分を歩き、向こう岸にたどり着いた。
ただ、そこからショッピングモールまでは意外と距離があった。直線だと目視通りの近さなのだろうが、うねうねと建物の影を見上げながら紆余曲折でたどり着いた。
モールの敷地内にある別棟となっている家電量販店に入る。
「久しぶりだな、電気屋さん。秋葉原の電気屋ビルに行った以来かな」
スマホのアクセサリのエリアで男性スタッフに訊く。
「このキーボードって今わたしが持ってるスマホにペアリングできますか?」
「ええと・・・はい、大丈夫ですね。適応してますのでキーを読み替えて入力しなくても大丈夫ですよ」
なるほど、海外仕様の製品だと日本語に一対一でキーを当てはめるのも困難なのかもしれない。ちょうどいい感じのがあってよかった、とジュンはリーズナブルなそのタイプを購入した。
家電量販店を出て横長になったモールの一番近い入り口から建物の中に入る。
本当はとんびと鳩が戦闘行為をしていた向こう岸の現場に戻った方がよりリアルに書けるのだろうが、わざわざ戻るのも疲れるし、そろそろお昼にもかかるので、フード・コートに移動して軽食でも食べながら書くことにした。
「うどんうどん」
ジュンはフード・コートではうどんを食べる頻度がかなり高く、多分7割がた暖かいうどん。
今日はなんとなく出汁をかけない、温玉乗せで醤油をかけて混ぜるだけのシンプル・プランにした。
なんだか刑務所の食堂を思わせる、テーブルがただ並べられた広いエリアの少し端にジュンはうどんを乗せたトレイを置く。
行儀が悪いと自分でも思ったが、買ったばかりのコンパクト・キーボードをトレイの横に置き、スマホはテーブルに水平に置くと画面が天井の照明の照り返しで見えないので、ペンケースを枕にして角度をつける。
早速ペアリングし、小説サイトの下書きの画面を立ち上げる。
「おおっ・・・」
キーボードでスマホに入力するのが、とてもスムースな作業だと感じた。
「楽ちんだ」
更に御行儀悪く、すすっ、とうどんをひとすすりするごとに箸を椀の上に置いて、タイピングする。
タイトル:ブースト
作者 :ジュン
河川敷はおそらく上昇気流に満ちたエリアだ。三羽の大小の鳥たちは自分の肉体のみを稼働させるのではなく、どうしてだか上へ上へと流れていく空気の層にあおられて、あおられた瞬間は自分の意思によるコントロールではなく、上昇気流を外れる瞬間と乗る瞬間とをスイッチを入れたり消したりするように交互に繰り返し、それでもって我が身を操縦しているのだ。
とんびがまずは仕掛ける。
落下するように急降下した。
そして弱いはずの鳩が、いくら上昇気流の力を借りるとはいえ重力に抗って上空へと向かっていくその様子はどう考えても猛禽の、この河川敷という限定されたエリアでの食物連鎖のトップであるとんびに到底敵わないとわたしは思ったのだが。
果たして鳩は二羽のコンビネーション・アタックを敢行した。
勝った、のだ。
とんびにみすぼらしい服従のポーズすら取らせて・・・・
「ねえ、聞いてる?」
「はっ」
話しかけられてジュンがスマホの画面から顔を上げると、向かいの椅子に男が座っていた。同じ年齢ぐらいに見えるのにジュンよりもコーディネートされた服装で身を包んでいるのがまずジュンの気に食わなかった。
「ねえ、それ、何書いてるの?」
「いえ、特に」
「小説でしょ」
ジュンは警戒する。
「ちらっ、と見えたんだよね。ほら、ラノベとか小説が原作のアニメとか映画とか作ってるでっかい出版社のやつでしょ?」
「いえ、特に」
まさか、自分のペンネームやら、入力画面以外の他の投稿小説のタイトルを見られていないだろうかと気にかかった。
そもそも人のスマホを覗き込もうという神経からして、関わってはいけない相手だと強く思った。
「失礼します」
ジュンはトレイにスマホもキーボードも無造作に乗せて席を立とうとした。
男が言う。
「少し話そうよ。俺、キミのこと気に入っちゃった」
マズった、とジュンはオープンなスペースで執筆したことを後悔した。だが、まだ間に合う、と思いもう一度言った。
「失礼します」
「バラすよ、キミの小説のタイトルとか」
「・・・・・・・何がしたいんですか?」
「別に。ほんとにキミのこと気に入っただけだから。少し話そうよ」
「・・・真正面に座らないでください」
「お?心得てるねー」
何を言ってるんだ、とジュンは思ったが、男はスラスラとセリフを並べ立てた。
「真正面じゃなくて斜め向かいの席に座るのはカウンセリングの基本らしいから。正面じゃなくて斜めの角度で向き合うと警戒心が溶けて話が弾むってよ」
ジュンは話を弾ませる気持ちなどなかった。だから、聞かれたことで差し障りのないものは答え、それ以外は黙秘することにした。
「大学生?」
「はい」
「どこの大学?」
「・・・・・・・」
「文系?理系?」
「文系です」
「何学部?」
「・・・・・・」
「好きなタイプは?」
「真摯なひと」
「嫌いなタイプは?」
「人の弱みにつけ込むひと」
「俺って真摯だろ?」
「・・・・・・・」
男も、約10秒間黙った。
「舐めてんのか!」
大きな声を出して、テーブルの下で足を蹴り上げ、ガシャ、とテーブルが5cmほど浮き上がってまた床に落ちる。
「ええおい!?オマエの態度は無礼千万だろうが?人としてダメだろうが!」
「ご、ごめんなさい・・・」
「ごめんじゃないだろが!」
「す・・・すみませんでした・・・」
ジュンは泣くことすらできなかった。
ただただショックを受けて、顔面が蒼白になってしまっている。
成人した、あるいは老年の男女の客たちが何人もジュンのテーブルの周囲に居たが、誰も立ち上がろうとも、ジュンの方を見ようともしなかった。
ジュンは、どんどんと絶望感を深めていった。
「やめてあげたらどうですか」
聞き取れないほどの小さな、けれどもそれは上ずったりしておらず落ち着いた静かな声が、ジュンの斜め上から聞こえた。
高校の制服を着た男子が立っていた。
「やめる?何を?」
「あなたはその女の人に怒鳴っていたじゃないですか」
「私はこの女性に人としての道を教えていただけだですが」
「・・・・・さっきまであなたは自分のことを『俺』と呼んで、敬語なんかも使っていなかったじゃないですか」
「はい?証拠は?」
「録画してました」
男子がスマホを見せる。
「な、なんですか?盗撮してたんですか?」
「盗撮って・・・・10m向こうでも耐えられないぐらいに大きな声でしたけど」
「そ、そのスマホをどうするんですか・・・」
「警察に提示しますけど」
さっきまでジュンを恫喝していた男は、さっきのとんびのように消えて行った。
「あ、あの・・・」
「大丈夫でした?」
「え、ええ・・・ありがとうございました」
「いえ。じゃあ」
えっ、とジュンは男子の余りにも淡白な様子に思わず言った。
「あ、あの!お礼がしたいんです。もしよろしかったら連絡先を・・・」
「いえ。だめですよ。そんなことしたらさっきの人とおんなじですから。それでは、失礼します」
高校生は首だけ下げるようなお辞儀をして、やっぱり行ってしまった。
ジュンは鳥たちよりも、男子のことを書きたくなった。
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