第23話 金曜の夜にラ・カンパネラを聴こう
ジュンたちは専攻科の有志で『金曜同盟』という芸術愛好のグループを作っている。
毎月最終週の金曜日に映画、演劇、美術館、歌舞伎、句会、日本舞踊、茶会、ありとあらゆる芸術・伝統文化・前衛芸術、そういうものに触れることを目的とする会だ。
『芸術は長く、人生は短し』
この合言葉とともに会は静かに、激情をもって魂にインプットし続ける。
すべては文学のために。
メンバーを紹介しよう。
ジュン
全員、女子。
そして今夜は、ジュンの住む街の、ということはつまり東京の端っこの片田舎の小さなホールで、やはり小さなコンサートが開催されるのだ。
出演するのは、ピアニスト。
まだ16歳、けれども既にプロのピアニストとして海外ツアーも行なっている現役の女子高生だ。
「あ。ごめんなさい」
「いいえ」
開場されたホールのロビーでジュンは高校の制服を着た女子とすれ違いざまに肩が触れた。
今日のコンサートを聴きに来たのだろうと思って見送ったが、可愛が興奮気味に言った。
「ちょ、ちょっと。今のが
「え!」
ジュンが驚いた理由は、あまりにも自然な高校生に見えたから。奥二重の目に面長、長身、脚は長いが細身というよりはしっかりとした肉をつけて、腰は決してゆるっとしているわけではないのだが、骨盤ががしっとしていて姿勢は美しい。
意思の強そうな女子、という印象はあったが、コンサートチケットのピアノを演奏しているその写真の少女とはまったく異なる風貌だった。
ところが。
「わあ・・・」
金曜同盟の五人はもちろん、300人しか入れない小ホールのけれども肩を寄せ合うその会場がシンクロして息を呑んだ。
美しい。
そして、礼して、す、と即座にピアノに向かい、鍵盤を叩いた。
ジャジャジャジャーン!!
『うおっ・・・!』
ジュンは思わず声を出しそうになって必死に喉を閉めて飲み込んだ。
ベートーベンの、運命。
自信家か。
中二病か。
鍵盤に玲沙の白く長い指がけれども垂直にくさびでも撃ち込むように突き立てられる。
音圧がまるでロック・コンサートのそれ。
紫のイヴニングドレス。
奥二重に、ねっとりと形どられたアイライン。
きわどさと可憐さの中間のようなショッキング・ピンクのリップ。
さっきはやや太く見えた脚は、イブニングドレスから伸びていくと驚く程細く真っ直ぐに近い曲線となっていた。
靴は、赤のヒールに黒のリボン。
『おおおおおおおー!』
ホールの8割を占める若年・老年の女子どもはココロの中で歓喜の声を上げ、残り2割の男子どもは、
『かわいい・・・』
とため息をもらした。
間違いなく玲沙のルックスは、ピアノの演奏と連動して完成していた。
一曲目のこの世で最もキャッチーな曲の叩き込みが終わると、どおっ、と歓声と拍手が上がる。
だが、玲沙は立ち上がって首から上だけ下げる礼をしたかと思うと、そのままずだっ、と椅子に座り、二曲目にすぐさま入る。
やはりまたベートーベン。悲愴。
ゆっくりとした盤上の指の動きの中に、フィル・インのような痙攣するような速弾きのフレーズが混じる曲。
美しい音符。
そして玲沙のトレードマークである、左手の人差し指に嵌められたシルバーの、ドクロのリング。
観る側からすると鍵盤のポインターとなるような、演奏のわかりやすさとなって曲の理解を手助けしてくれる。
静かな、美しい曲なのに、強引さを感じるのは、それは、玲沙の人格が鍵盤のタッチに滲み出るのだろう。
終わると彼女は客席に向かってではなく、鍵盤に額をつけるような感じでその場で礼をした。
無礼とも取らず、観客はただ感激の余りに惜しみない拍手を浴びせかける。
だが、玲沙はすごい。
その喝采すら既に過去のものにして、最後の曲に入る。
右の小指が最高音の鍵盤をピリリリ、と震わせ始めると堪えきれなくなった観客のアメリカ男性が、YES!と声を上げた。
ラ・カンパネラ。
超絶技巧を要するリストの最高難度の曲。
もちろん、激情も求められる。
病的な痙攣にすら見える小指まで物理学に抗うような動きで鍵盤を沈み込ませ同時にまるで吸い付けて引き上げるような
リストカットして固まりかけた左手首の赤いかさぶたを、カカカカ、と指でこそぐような、その高速連打に、不快感一歩手前の絶頂感に聴衆は引きずり込まれる。
今日はピアノで生きていくと誓っている小学生や場合によっては幼稚園児親同伴で観客席に混じっている。
この演奏は間違いなく芸術的ではあるが、決して教育的ではなかった。
大体にして演奏している玲沙の顔が、苦悶のような歓喜の顔に変わっていく。
苦痛に泣き、その泣いた表情の奥から、エロティックな笑顔がせり上がってくる。
どうやってまるでテレポーテーションのような不可思議光線のような指の動きを考えついたのか分からぬその作曲者にして演奏者であったリストのそれを、玲沙は遥かに凌駕するスピードで弾いた。
今まで観た誰の演奏よりも、玲沙のラ・カンパネラは速かった。
とうとう玲沙は椅子を蹴倒して立ち上がり、最後のフレーズを膝のバネを使い、腰を入れて叩きつけた。
「イエッ!」
感極まって絶叫する聴衆。
それを合図に全員がずだあっ、と立ち上がり、拍手喝采を送った。
だが、どもっ、どもっ、という礼をしながら玲沙は言った。
「ごめん、みんな。技術だけで魂がすっからかんだ」
そして最後にドレスの裾を両手で軽くつまみ上げておどけた。
「かならず完成させるから」
ジュンは、書かずにはいられなくなった。
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