〈7〉意固地

「モモちゃん。武道場へは行かなくていいんですか?」



 隣を歩く瑠璃が不安げに寄せた眉に、李桃は笑顔で「えへへ、まずはね」とだけ返した。

 今日はまだ、二人とも制服姿だ。振り返れば、黙々とミルクケーキを頬張る咲と、彼女のほっぺたをむにむにと弄っている翡翠がついてきている。



「何を隠そう、今日は最後の一人を勧誘しにいくのですっ!」


「なになに、モモっち、心当たりでもあるのー?」



 まるで新しいオモチャへと飛び付く子供のように、咲を解放した翡翠が首を伸ばす。



「うん。ヒメちゃんって言う二年生でね、あたしの中学でも先輩だった人なんだ」



 李桃はうっとりと頬に手を当てて、しなを作った。



「ヒメ……姫芽香?」


「咲ちゃん先輩、ヒメちゃん先輩のこと知ってるんですか!?」


「ん。クラスメイトで、マブダチ。ぶっちゃけ、ずっ友」



 爛々とサムズアップする咲に、件の人物像を把握したらしい興梠姉妹が顔を見合わせる。



「二年生で……」


「姫芽香さん、ですか……」



 その答え合わせは李桃の口からではなく、辿り着いた部屋にかかったプレートがしてくれた。


 生徒会室。特に恐れる理由もないが、どこか身構えてしまう響きである。


 背後に緊張が漂うのも気にせず、李桃は扉を開けた。

 室内には出口に向かってU字に机が並んでいる。壁は殆ど書類棚に埋められている中、窓からの陽だまりを頼りに書類仕事へ勤しんでいた黒髪の少女がいた。



「やっぱ、ちょー綺麗……」


 たまらず翡翠の口から洩れた声に、深窓の令嬢の意識がこちらを向いた。



「どちら様――って、モモちゃん? それに咲まで。もう、ノックくらいするのが常識よ」



 つんと頬を膨らませながらも、彼女はどこか嬉しそうにファイルごと書類を端へと押しやる。



「ええと、そちらの方は?」


「初めまして。一年生の興梠瑠璃と申します」


「同じく一年、興梠翡翠。瑠璃姉の妹でっす!」



 以前は茨城にいたという二人だが、やはり慣れていたのだろうか。訛りの少ない流暢な自己紹介を受けた姫芽香は、納得したように頷いた。



「私は鍋山姫芽香、二年生ですが、故あって生徒会長を務めています。あなたたちのことは聞いているわ。姉妹揃って入学試験で同点トップ、文武両道の素晴らしい新入生ですってね」


「そんな、恐縮です」


「ありがとうございまーす!」


「うえぇっ、瑠璃ちゃんも翡翠ちゃんも、そんなに頭良かったの!?」


「何を言っているのよ、入学式ではお姉さんが代表挨拶をしたでしょう」



 眉間に指を当てた姫芽香に、ゲスなにたり顔と揉み手の翡翠が迫る。



「ちなみに、モモっちは何番なんですか?」


「三番よ。実質、あなたたち姉妹の次点ね」



 信じられないことに、と白い眼を向けられた李桃は、褒められているのか貶されているのか判らない居心地の悪さに首を竦めた。



「それで、あなたたちはどうして生徒会室まで?」


「その、わたしたちは剣道部に入ったのですが。モモちゃんが、最後の一人を勧誘すると……」



 瑠璃の説明が尻切れになったのは、姫芽香の長嘆息に立ち竦んだからだ。



「もしかして、咲。あなたもなの?」



 両手のブイサインを曲げた咲に、姫芽香は机に肘をついて、手のひらに頭を埋めてしまう。



「……ごめんなさい。モモちゃんには言ったはずよ、剣道部に戻るつもりはないって」


「でもっ、最後の一人は、ヒメちゃん先輩しか考えられないもん!」



 食い下がろうとする李桃だったが、その叫びだけでは、姫芽香の顔を覆った両の手は、剥がれてくれる気配もない。



「私には……もう、できないのよ」



 指の間から零れるように。いや、零れる何かを必死に押し留めようしているのかもしれない。

 しかし、吐露してしまったたった一滴が、饒舌という水車を回してしまう。



「ねぇ、モモちゃん。私がここにいる理由を知ってる?」


「えっ? う、ううん。どうして?」


「私はね、他薦で生徒会長になったの――」






 * * * * * *






 一年前。入学当初の姫芽香は、李桃と同じく剣道部に入ることを決めていた。

 しかし、彼女が目の当たりにしたものは、剣道初心者と呼ぶことすらおこがましい、木刀を振りたいだけの不良生徒チンピラと、その彼女たちが屯するお遊び部だった。


 真っ当な活動をするよう、姫芽香と、同年に転勤してきた柳沼とで訴える日々。しかし、願いも虚しく、興醒めした不良たちは一人、また一人と辞めていった。


 一人になってしまっては、ろくな活動もできない。

 さらに柳沼は、自身が剣を握ることに消極的だったため、大会に出ずとも顧問と生徒で稽古だけを積む、という選択さえできなかった。そこで姫芽香は、幼いころから剣道と共に嗜んでいた居合道だけを続けながら、持て余した時間を生徒会の書記として費やすことにしたのだ。


 転機が訪れたのは十月。惰性で生徒会に潜り込んだ身としては、その内部でのポストなどに興味はなかった。そんな思惑とは裏腹に、当時の生徒会長が後釜に指名したのは姫芽香だった。


 耳を疑った。副会長をすっ飛ばして、まして一年生が生徒会長になるなど聞いたことがない。

 当然断った。しかし、鍋山姫芽香が次期会長という噂は、あっというまに校内へと拡がっていた。他の役員や顧問にまで頼まれては、それ以上首を横に振ることはできなかった。


 来たる選挙の結果は、悪戯の票以外はほぼ満場一致だったことも、今となっては忌まわしい。


 生徒会長として着任してからしばらくして。姫芽香は生徒たちの声の真実を知った。自分が担ぎ上げられた理由の大半が、成績以外の理由だったのだ。

 自分とて女子である。顔やスタイルの話だけなら嬉しかったかもしれない。しかし、伊氏波高校に進学してからというもの、剣士としての顔など見せたことがなかったのが災いしたのか。



『生徒会長が汗臭いところとか想像できないよな。いつもクールだし』


『勉強ができて、綺麗で。同じ女子としても憧れちゃうなぁ』



 そんな言葉が耳に入った時には、素直に笑えていない武道家じぶんがいた。






 * * * * * *






「みんなが生徒会長としての私を空想している。でも、その期待に応えなければならないの。だから剣道を辞めたし、私一人だけだった剣道部解散申請書にも、自分で判を押したわ」



 話している間中、ずっと上げられることのなかった姫芽香の顔が、李桃に縋る。



「剣道部を潰した張本人は私なのよ! どの面を下げて戻れるっていうの!?」



 憧れの女子会長像を思い描いていた生徒たちは、今の彼女の顔を想像していただろうか。目は真っ赤に腫れ、瑞々しかった頬を涙でくしゃくしゃに歪め、髪を振り乱している彼女を。


 誰も、何も言えなかった。関係ないと伝えることは簡単だが、それはいかに無責任だろうか。


 下唇を噛んで懺悔を聞いていた李桃は、歯の隙間から漏らすような声で問う。



「剣道を、嫌いになったわけじゃないんでしょ。あたし、部室で見たよ。竹刀も防具もきちんとお手入れされてた。あれ、やってくれたのはヒメちゃんだよね」


「それは……まだ廃部にする前にやったことよ。ずっと昔のことだわ」


「うそ。あたしが弦の張り具合を見間違えると思う?」



 さすがに誤魔化せないと悟ったのだろう。姫芽香の視線が、逃げるように伏せられた。



「あたしね。大好きって気持ちを隠してる、今のヒメちゃんを素敵だとは思わないよ」



 乾いた微笑みで踵を返し、ドアノブに手をかけた。



「また、誘いに来るね」

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