〈6〉足捌き

 李桃の検閲をクリアした三振りの竹刀が、檜の舞台に鎮座している。そこへ我先にと飛びかかった翡翠の手が、華麗に竹刀を掬い上げ――られなかった。


 先に回り込んでいた李桃によって、竹刀が取り上げられていたのだ。

 剣道初心者の指導において、十中八九通る道。想定通りである。



「ぶっぶー、駄目だよ翡翠ちゃん。ちゃんと片膝をついて拾わないと」



 李桃が正しい竹刀の拾い方を見せると、指先を合わせた瑠璃が頬を綻ばせた。



「まるで礼をしているようです。竹とはいえ、刀。ちゃんと道具にも敬意を払うんですね」


「うん。全剣連――全日本剣道連盟からも決められているほど、大切なことなんだよ」



 海外発の格闘技などでもファイト前に拳を突き合わせる挨拶はあるものの、日本の武道ほど、理念から礼儀が徹底されているものはない。

 古くからルーツが存在する武術の場合。例えばムエタイなどは『戦いの舞ワイクー』によって神に祈りを捧げるしきたりがあったりもするが、当の翡翠は、姉とは対照的な表情である。



「ちゃんと拾わなかったらどーなんの。反則とか?」


「竹刀を落とすこと自体が反則だから。心証は悪くなるくらいかな。その代わり……」


「その代わり……?」


「稽古だと、先生から叩き出されるよ。ボッコボコにされるかも」



 真顔で言ってのけると、翡翠は苦々しく首を引いた。冗談だよねと訴えてくる眼に、無言で首を振る。李桃自身、過去に経験があるからだ。


 竹刀の乱暴な扱いは勿論、防具・面のフェイスを覆う面金部分を床に落としたり、元立もとだちとして稽古をつけてくれる師に、やる気のない態度で掛かっていったり。百人が百人投げ飛ばしてくるわけではないが、剣道に対して真摯である人ほど厳しい傾向がある。



「ごめん、驚かせちゃったね。でも、ちゃんとやっていれば怒られることもないよ」



 陶磁器のような顔をさらに蒼白にさせている咲と、ぷるぷると涙目の瑠璃に笑いかける。


 緊張した面持ちから始まった初稽古は、礼法から始まり、竹刀の持ち方、構え方へと移行していく。道場の窓から夕陽が差し込む頃には、基本的な立ち姿はほぼ完成されていた。


 なかなかどうして、新米剣士たちの飲み込みは早い。構えた状態で、敵のどこに目をつければいいのか、剣先はどこを向いていればいいのか。対人での稽古を重ねなければ掴みづらい感覚も、それぞれの武術で培ってきたセンスが飛び越えていく。

 剣道初心者という先入観だけならば見誤っていたかもしれない、好敵手の予感。防具すら着けておらず、まだ動きのあるメニューでもないというのに、思わず汗が噴き出た。



「それじゃ、休憩を挟んだら足捌きの稽古をしよっか。構え、おさとうっ!」



 李桃の号令に合わせて、前半の稽古はつつがなく終了した。



「瑠璃姉、咲先輩。道場の中を探検しよーよ!」



 弾かれるように飛び出した翡翠が、二人を引き摺るように連れていく。道場内には珍しいものがないと踏んだのか、その足が目指す先は師範室のようだ。


 苦笑しながら見送った李桃は、試合のコートを模して床に張られた白テープの外へと出た。

 改めて入り直し、『九歩の間合い』と呼ばれる開始地点から立礼。竹刀を抜いて蹲踞。


 想像上の号令に合わせて立ち上がった彼女は、気声を発さないながらも、明確な『誰か』に向けて間合いを詰めた。多くの剣士が取り入れる、イメージトレーニングの一貫である。


 派手にコート内を駆けまわるようなことはしない。じりじりと剣先の攻防を繰り広げ、自分の間合いを奪われまいと、静かに、かつ小刻みな足捌きで相対する。


 三年間こうして追い続けた剣士は、空想の中でさえ成長していた。突き刺してくるような鋭い気に、翡翠たちへ抱いたものとは別種の悪寒を感じる。それは自分の中で作り出した恐怖なのだから、滑稽だと笑われるかもしれない。しかし、敵は確かにそこにいるのだ。


 額を滑った冷や汗がまつ毛を掠めて行く。それに一瞬でも顔を顰めたのがミスだった。


 ああ、また殺される。


 蛇のように牙を剥いた敵の竹刀が、文字通りの真剣であるかのように襲い来る。死の気配を悟った脳が活性化し、毒牙の切っ先が脳天に迫る映像が、まるで他人事のようにゆっくりと流れていく。しかし活性化したのは脳だけで、身体は当然無防備である。

 永遠へと化けた一瞬という地獄が、ついに頭の薄皮を喰らおうと大顎を開いた。



「――モモっち!」



 はっとする。その原因が呼び声だと気づいた頃には、殺意の幻影は消えていた。



「ど、どうしたの?」


「見て見て。ウチら、師範室で剣道の教習本を見つけたんだー」



 そう言って翡翠が差し出したのは、数冊の本。もっともそれだけではないようで、後からやってきた咲と瑠璃も二宮金次郎状態だ。



「図解、解りやすい」


「足を運ぶ順序まで、丁寧に書かれているんですね」


「モモっちの指導とこの本があれば、足捌きはばっちりだよねー!」



 借りて帰ってもいいかなー、などと興奮気味の三人に、李桃は安堵するとともに頭を抱えた。

 こればかりは想定していなかったが、最も軽視できない問題である。



「みんなごめん。足捌きの時だけは、本の内容は無視してもらっていいかな?」



 瑠璃が読んでいたものを受け取って頭を下げると、他の二人も戸惑いながら従ってくれる。

 本自体を否定するわけではない。教習本の執筆者が『大先生』と呼んで畏れなければならないから、というわけでもなかった。どうしても誤解が発生しやすいのだ。



「まずは基本の足捌き。摺り足とか送り足と呼ばれるものを説明するね」



 李桃は先ほどの本を広げて見せた。足捌きを解説しているページには、足跡のようなマークがいくつも並び、それぞれに番号が振られている。足捌きについて調べればよく見かける図だ。

 曰く、前に出る時には右足を出すことが「①」。出した右足に左足を引きつけることが「②」。後退する際にはその足と方向が入れ替わるだけで、同じである。



「これが間違いなんですよぉっ」



 剣道の初心者育成において、この足捌きこそが難しいと言われている。しかし李桃は――正確には祖母ナツの受け売りだが――こうした指導法こそが足を引っ張っていると考えていた。

 誰が始めたのかは知る由もないが、この番号制こそが現代剣道の大きな負債だろう。宮本武蔵が五輪の書で示した『常に歩むが如し』という、剣道とその他スポーツで蹴り足の感覚が違うことを示唆しているのかもしれないが、果たして何人が、そう教えてくれるだろうか。



「他の人が足捌きを見れば『右足を出して左足を引きつける』で合ってると思うよ? でもね、これだとどれだけ小さく早く移動しても、どれだけ滑らかに足を運んでも、遅いの」



 きっぱりと言い切った『遅い』の一言に、誰からともなく息を呑む音がした。

 李桃は自分の竹刀をとり、瑠璃たちの列に対して平行に向いて構える。



「本の通りだと、『右足を出して』『左足を引きつける』の二挙動なんだよ。どこまで行っても。そうじゃなくて、足捌きは常に一挙動。番号を付けるなら、左足に『①』になるの」



 スルスルと流れるような足捌きのテンポを変える。スッスッという、瞬間的な動きだ。それでいて留まることはなく、前後左右に線から円に。変幻自在である。



「左足を蹴るから、右足が前に出る。右足が出た後は、蹴った左足が自然とついてくる。これで一つの動作なんだ。後ろに下がる時や踏み込みだって同じ。蹴るから出る」



 図に示された番号順では、打ち込む際の踏み込みができない。遠い場所にいる敵の懐へ飛び込むのに、右足を出してから左足が移動するようでは、腰が残り、不十分な姿勢になるだろう。


 だからこそ、移動時と攻撃時で重心の切り替えを行わなければならなくなり、継ぎ足をしたり、相手に技の起こりを読まれたりしてしまうのだ。足捌きが正しくないことで勝てず、勝てなければやる気も出ない。こうした悪循環の積み重ねが、少年剣道の人口減少に繋がっているのかもしれないと、ナツから聞かされたことがある。



「だから本を無視してって言ってみたんだけど……どう、かな?」



 足を止め、休めの構えでおそるおそる尋ねると、



「なーるなる。ムエタイの膝蹴りと似たような感じだねー」


「ん、解りやすい。ステップと同じ」


「慣れない歩法ほほうで気後れしていましたが、わたしも頑張ってみますね!」



 予想外に明るい笑顔を返してもらえた。

 よっしゃやるぞーと息巻いた翡翠がさっそく躓いて転んだり。足に気を取られすぎて、咲の竹刀が明後日を向いていたり。おっかなびっくりと、瑠璃が中々前に進めずにいたり。


 そんなぎこちなくも賑やかな光景が眩しくて、李桃は宙を仰いだ。



「……あと一人来てくれればかんっぺきだよ、ヒメちゃん」



 壁越しに本校舎の方角を見つめる。胸の高鳴りのおかげで、今夜は寝付けそうになかった。

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